期待以上
目が覚めたのは、朝日の光線が目を照らしたからだ。寝ないつもりで、夜遅くまで窓辺に座り続ける私に、ジルは少しでも休むよう言った。何かあれば必ず起こして連れて行くと約束させると、私はほんの少し眠るつもりで簡素なソファに横になった。しかし、自分でも思っていた以上に疲弊していたようで、夢も見ずにすやすやと眠っていた。
水平線から顔を出した太陽が海を煌めかせていた。海鳥は早起きで、もう飛び回っている。眠っている間、何もなかっただろうか。私はドアをそっと開けた。部屋のドアはすっかり古く、鍵も壊れているらしい。扉の向こうにはジルが立っていた。彼の顔には疲れが滲んでいたが、私の顔を見ると「少しは寝られた?」と優しく聞いてくれた。
「他の皆は?」
「親分たちは一階を張ってる。異常はないって」
無事に一夜明けたことにホッとする。一歩間違えればどこの誰とも知れない輩に売られていたかもしれないのだ。なのに、今は自分の家族がここを見つけるのを恐れている。中々おかしなことになっているなと自分でも思った。
気が多少緩んだせいか、私のお腹は『ぐう』と小さく鳴った。私は慌てて腹部を押さえる。は、恥ずかしい。聞こえただろうか。ちらとジルの様子を窺うと、彼は申し訳なさそうに私を見つめていた。
「そうだよねお腹空いたよね…ごめんね、ここにはもうろくな食べ物が無くて…ちょっと待ってて、どこかで何か」
どこかに行こうとするジルの腕を慌てて掴んだ。そしてショックを受けた。もともとやせ型の人であったとしても、細すぎる。人間の骨がどう走っているのか、触って分かってしまうくらい皮膚が薄かった。驚いている私の手をジルは優しく剥がす。バツが悪そうな顔をしていた。私は「大丈夫よ。私のことはお構いなく」と言うのがやっとだった。ジルもそれ以上何も言わなかった。きっと、皆ジルと同じように食べるのも厳しいのだろう。考えたら、鼻がツンとした。
日がわずかに空に浮いてきた頃。私たちは港の外れの沿岸部に身を潜めていた。明け方、ここで身代金の受け渡しを要求したのだ。私たちは指定した通りにランジット家が動いているかどうか確認するために、少し離れたところで注意深く辺りを調べていた。
こそこそと、偵察に行っていた子分のひとりが戻ってきた。様子はどうだったかと尋ねると、要求した通りに、船が一艘用意されていたと報告した。彼らの逃走用の船だ。身代金を受け取った後、彼らは船に乗り込み海に逃げる。私は違う場所に監禁されていることになっており、彼らが十分沖に出た頃に父たちの前にふらふらと出て行く算段だ。
「来ました!」
遠くに複数の影が見えた。全員に緊張が走った。私を含め、七人。ここからが正念場だと互いに目で合図しあった。親分は子分を二人連れて岩陰から出て行った。ここには私とジルと、あと二人の子分が残る。どうか上手く行きますようにと強く祈った。
ランジット家からは父の兄弟が勢ぞろいしていた。そして、ヴァン君とユリアン。こちらの要求通り、兵は連れていないようだった。息が詰まるような緊張が走った。指定された時間になり、父は大きなトランクを指示通りの場所に置き、周りの様子を窺いながらトランクから離れた。未だ犯人は姿を見せなかった。父は大声で呼びかけた。
「約束の金と船を用意した!!!サレナを解放してもらいたい!!どこに監禁している!!」
いつも穏やかな父が、大声を上げている。それだけで胸がいっぱいになった。私はぎゅっと目を瞑った。
ジャリ、ジャリと地面を歩く音がした。誰かが前に出たのだ。ドキドキする。
「五千万イール…これだけあれば十分立て直せるな…」
親方の声がした。ジルが横からいきなり私の肩を抱き、すぐに離した。どうしたのかと驚いて目を開けたが、彼は、いや…彼らは、親方たちの元に走り出していた。
(な、なんで…!?待って!昨日説明したのと違うわ!!!)
いきなりぞろぞろと出てきた犯人たちにランジット家の警戒は一層高まった。スジェット伯父さんやカリム叔父さんはいつでも飛び出せるぞというように、腰を落とした。
親方と子分たちはひとところに集まると、全員が両手を挙げ、降伏の意を表した。ランジット家は皆怪訝な顔になる。警戒しながらも、どうしたらよいかと動かない領主たちに向かって、親方は「大事なお嬢さんはあそこの岩陰にいる」とあっさりと教えてしまった。
私は気が動転していた。なぜ、そんなことをしているのか。どんな目にあってしまうか分からないのに。攫ってしまったのが領主の娘だったからというだけで、他より重い罪を負わせられてしまうかもしれないのに。彼らだけが悪いのではない。私だけでも逃げるべきだろうか。そうすれば、彼らはその間だけは無事でいられるかもしれない。
「サレナ」
名前を呼ばれた瞬間、私は誰かに抱きしめられていた。否、自由を奪われたのだ。声の主、ヴァン君に。私の体から血の気がサッと引いた。ヴァン君はそのまま抱えるようにして皆の前に私を連れて行った。親方と目が合い、泣きたくなった。親方は一瞬だけ目を優しく細めると、父に向き合った。
「危うく人を売り買いするところでした。あと一歩のところでお嬢様に助けていただきました。…誘拐の罪は償います」
父は真意を問うように、顔をしかめた。
「お父様!彼らも被害者なの!はめられて、財産を失って、大事な船も売って、食べる物もどうにもならなくなったの!!」
私はたまらず声を張り上げていた。もはや作戦も何もあったものではない。私にできるのは訴えることだけだった。ヴァン君は私がどこにも行かないようにするためにか、しっかりと背後から腕を回している。私はジタバタと藻掻く。
「私が彼らを唆したの!元の生活に戻ってもらいたくて!彼らの罪の責任は私たち領主が負うべきだわ!!」
「お嬢さん、やめてくれ。あんたは自分の身を守ろうとしただけだ。それに、俺たちはもうこれ以上罪を犯したくないんだ」
伯父さんたちは厳しい顔をしていた。それはそうだろう、彼らは犯人たちに重い罪を負わせ、極刑に処そうとしてやってきたに違いない。故に、親方達の処遇に全く希望が持てない。私がどれだけ喚いても効果があるかどうか。
「お願いお父…」
私の声は途中でかき消された。その場にいた全員が海の方に目を向けた。突如、用意されていた船が爆発したのだ。黒い煙と炎をまとい、帆船はごうごうと燃えていた。私は背筋が寒くなった。
(まさか…親方達があれに乗って逃げた後…)
帆に火が移り、無残にも焼けていく光景を眺めながら、私は最悪の想像をした。信じられない、という気持ちで父の方に振り返った。父の表情は固く、冷たい目で焼ける船をジッと見ていた。伯父さんたちも、怖い顔で船に集中していた。言葉を失った私と、呆然とする親方達。ぱちぱちと、炎が爆ぜる音と、穏やかな波の音だけが一帯を支配していた。
ヴァリエールは、領主兄弟たちの表情から動揺と困惑を読み取った。サレナの父親は、どう対処すべきかを思案しているところだと分かる。ユリアンは顔を真っ青にして立ちすくんでいる。後から煩そうだな、と思った。そして、腕の中のサレナは今冷静でいられない。ボロボロと涙がこぼれているのにも気が付いていないようだった。ヴァリエールは少しだけ腕に力を込めた。
「…あれでは生きてはいられんな」
ヴァリエールはフォーヴに向かって言った。フォーヴは、ヴァリエールの顔に笑みが浮かんでいることに気が付き、すぐにこの爆発が彼の仕業であると察した。そして、ヴァリエールが全てを把握していることに驚き呆れた。即座に状況を捉えると領主はパチリと頭を切り替えた。
思案の後、ランジット家の当主は小さくため息をつくと、会議の結論を述べるように淡々と口を開いた。
「…犯人は不慮の事故によって死亡。あの様子では追跡の調査は無駄だろう」
宣言とは反対に、生存している犯人たちは目を剥いた。ランジットの兄弟たちも顔を歪める。
「ジェイン兄さん。今進めている復興事業のピッチを上げてくれ。港の公正取引の立て直しと、商人たちの更生を急ごう」
固い表情の兄弟に、フォーヴはきびきびと指示を出した。ジェインは無言のまま諦めたように頷いた。フォーヴは次に目の前の一団に向き合った。
「……バルベルデス商会の件で被害を受けた者はもれなく申請するように」
フォーヴは頭と思しき男の目を見てはっきりと言った。子分たちは力が抜けたように、地面に膝を突いた。頭の男は混乱しながらも、犯した罪を償うことを望んだ。それに応えたのは五番目の兄弟のバージェルだった。
「事業の立ち上げまでやることが山ほどある。兄弟で分担しても追いつかない。それぞれ、こき使われることを覚悟するんだ。…監視だと思ってくれていい」
兄弟たちは各々、強張っていた表情を崩した。スジェットやカリムはまだ不満そうだが、決定に従わない道は無い。
そして終に、頭の男は焼けた手で赤黒い顔を覆った。もう何も言えないようだった。
ヴァリエールは、へなへなと腰が抜けてゆくサレナを改めてしっかりと抱きしめた。
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