《LUNAR EXIT 第一話 : 月光の下の迷走と帰る場所》
彼女の目的は、ただひとつ――失われた恋人を探すこと。
長野から東京へ、夢も希望も持たずに飛び込んだ少女を待っていたのは、孤独と絶望だった。
そんな彼女を変えたのは、偶然出会った地下ライブハウスの音。
仲間、音楽、そして新しい夢――。
愛を追いかけて来たはずが、いつしかロックにすべてを賭ける少女に。
やがて彼女は、ステージの光を浴び、ロックの頂点へと駆け上がる!
《LUNAR EXIT 第一話:月光の下の迷走と帰る場所》
(ユラのノート・2023年3月26日撮影)
私のノートには、少し色褪せた一枚のポラロイド写真が貼られている。
写真に写っているのは、渋谷の地下通路の眩しい照明にスポットライトを浴びた一人の女の子だ。彼女は自分よりも年季の入った古いギターを抱え、目を閉じて歌っている。前髪が顔の半分を覆い、その表情は、頑なさと不安が入り混じったようなものだ。その彼女の前に、大きな黒いTシャツを着た、クールな様子のもう一人の女の子がしゃがみ込み、興味深そうに彼女を見つめている。人々がその横を足早に通り過ぎ、残像と化している。
これは、私がルナを撮った初めての写真だ。
あの日の私は、いつものように街をぶらつき、見過ごされがちな片隅を記録しているに過ぎなかった。彼女たちが誰なのか、何を話していたのかも知らない。私にとって、それは東京で毎日起こる何百万もの日常の一瞬でしかなかった。
あの時の私は、まだ知らなかった。
私がレンズに捉えたのは、ただの偶然の出会いではなかった。
二つの魂がぶつかり合った火花、嵐の序章、そして……私のこれからの二十五年間の人生の始まりだったのだと。
第一幕:地下通路の反響と無名の敬意
2023年3月26日・夕刻
渋谷駅の地下通路は、鉄筋コンクリートとタイルでできた、決して眠らない巨大な血管だ。空気はいつも濁っている。それは、プラットホームから漂う錆びた匂いのする湿った風と、たこ焼き店の甘辛いソースの香り、無数の通行人たちが残した香水と汗の匂い、そして都会の地下特有の、冷たい埃の匂いが混ざり合った、複雑な匂いだ。
頭上には、白く眩しい蛍光灯がずらりと並び、通路に影一つ落とさず、すべての通行人の疲れた表情をあからさまに照らし出している。壁一面の巨大なデジタルサイネージが無言で映像を切り替え、新作映画の予告やアイドルの完璧な笑顔が、その周りを足早に行き交う無表情な現実と、冷たい対比を成している。
ルナは、人の流れが少しだけ途切れた一角を選んだ。背後には冷たいタイル張りの壁、その手前には押し寄せる人波。着ているのは少し古びた白いTシャツに、ゆったりとしたカーキ色の薄手の上着、下はごく普通のジーンズと履き古したキャンバスシューズ。これは、彼女が慣れ親しんだ、最も安心できる装いだ。彼女は、長野から苦労して担いできた古いギターケースを開けた。蓋の内側には、故郷の山々の風景が描かれた、とっくに色褪せてしまったシールが貼られている。
東京に来て三日目だった。長野から持ってきたお金は、もうほとんど残っていない。遠い夢よりも、目の前にある次の食事代の方がずっと切実だった。路上で歌うことは、嘘をつかずに稼ぐことができる、唯一思いついた方法だった。
彼女は深く息を吸い込んだ。その濁った空気に、指先が少しこわばる。一つ目のコードを鳴らす。ギターの少し掠れた木の音が、がらんとした地下通路に懸命に反響しようとするが、すぐに四方八方から押し寄せる音の波にのまれてしまう。遠くから聞こえる電車が駅に入る甲高いブレーキ音、改札のカードリーダーの「ピッ」という電子音、スーツケースの車輪が擦れる音、そして何千何万という靴が地面を踏みつける、規則的で冷たい大波のような騒音。
彼女の声は澄んでいるが、緊張のせいで微かに震えている。歌っているのは、まだ名前のない曲。雪と、約束と、そして待つことを歌った曲だ。ユイに捧げた歌だった。彼女は目を閉じ、心の中で長野の雪山を描き出そうとする。その一面の純白で、目の前の巨大で騒がしい灰色の迷路に対抗しようと。
ほとんどの人は彼女を無視した。人波は生命のない川のように彼女の横を流れていき、足を止める人など一人もいなかった。時折、何人かの高校生が好奇の視線を投げてくるが、すぐに友人に急かされて、人々の流れの奥へと消えていく。ギターケースの中は空っぽで、彼女の世間知らずを嘲笑う黒い穴のようだった。
もう勇気が尽きかけ、この一曲を歌い終えたら終わりにしようと思ったその時、彼女は視線を感じた。瞼の裏越しに、通路の梁の陰に隠れて、遠くない場所に誰かが立ち止まっているのが見えた気がした。その視線は動かず、ただ静かに、一心に耳を傾けている。
ルナの胸が締め付けられ、かえってさらに力を込めて歌った。まるでそれが最後の足掻きであるかのように。
一曲が終わる。最後のコードの余韻が、空気の中で数秒間震え、やがて完全に飲み込まれた。通路の向こうから、ごく小さな、ため息のような、あるいは嗚咽のような声が聞こえた気がしたが、その声はすぐに消えた。
ルナが恐る恐る目を開けると、いつの間にか一人の女の子が彼女の前に立っていて、首を傾げて彼女をじっと見ていた。
その女の子は、肩まで届く金髪のショートヘアで、根元からは新しく生えてきた黒髪が見えている。大きな黒いTシャツを着ていて、化粧はしておらず、目尻と小鼻のあたりには薄いそばかすが散らばっている。その瞳は、まるで鋭いメスだ。
彼女は広瀬芽依、のちのメイだ。ルナは彼女の持つ、気ままでいて威圧感のある雰囲気に圧倒され、心臓が一つ鼓動を飛ばした。
メイの表情は複雑で、泣いたばかりのようにも見えたが、その瞳はいつもの冷たさを取り戻していた。彼女は深く息を吸い込み、すべての感情を押し込めた後、少し関西弁特有の、気だるい調子で口を開いた。
「あんた、この曲作ったんか?」
ルナは無意識に頷いた。
「バンド組んでないんか?」メイがまた尋ねた。
ルナは首を横に振った。
「ふうん」メイは立ち上がり、腕を組み、品定めをするような目でルナを上から下まで見つめた。「声はまあまあやけど、死にかけの子犬みたいに震えとるな。ギターもぐちゃぐちゃやし。」
その言葉はどれも批判だったが、ルナにはこの人が本当に「聞いて」くれたのだと伝わった。
「あの、私……」ルナは何か言おうとした。
だがメイは彼女に機会を与えなかった。少し苛立たしげに「ちっ」と舌打ちをし、持っていたトートバッグから、何も印字されていない小さな白い封筒を取り出した。
ルナが戸惑った視線を向ける中、メイはしゃがみ込み、その封筒を、まるで祭壇に供物を捧げるかのように、空っぽのギターケースの片隅に静かに、そして丁重に置いた。
「これはさっきの曲の代金や。」メイは立ち上がり、その口調は相変わらず抑揚がない。「次を稼ぎたいなら、明日の夜十時、この住所に来い。」
彼女は別のポケットからペンを取り出し、持っていたメモ用紙に素早く一行の文字を書きつけ、それもギターケースに入れた。
そう言い終えると、彼女は振り返ることなく人波の中へと消え、まるで最初からそこにいなかったかのようだった。
ルナは完全に呆然としていた。彼女はゆっくりと頭を下げ、ギターケースの片隅にある白い封筒と、住所が書かれたメモをじっと見つめた。
「4番倉庫」。
彼女は恐る恐るその封筒をつまみ上げた。中にある紙幣の厚みが感じられるが、いくら入っているかは分からない。すぐに開けることはせず、ただそれをしっかりと握りしめた。そこには、メイの体温がまだ残っているかのように、神秘的で熱い重みがあった。
金額の分からないこの敬意は、彼女が東京に来て初めての肯定であり、最も重い果たし状でもあった。
第二幕:ネットカフェの一夜と五千円の重み
同日・深夜
ギターを背負ったルナは、岸に打ち上げられたプランクトンのように、深夜になってもまだ喧騒に包まれている渋谷の街を、あてもなく歩いていた。メイの出現は突然の嵐のようで、彼女の心に大きな波を立てた。嵐が去った後には、果てしない疲労と戸惑いだけが残った。
ポケットに残った数枚の硬貨では、一番安いラーメンすら食べられない。今夜、彼女はどこで眠るのだろう。
結局、彼女はぼんやりと光を放つ雑居ビルへと向かい、大きく「24h」と書かれたガラスの自動ドアを押して中に入った。ドアの内側から温かく乾燥した空気が流れ込んできて、ドアの外の湿った夜とはまるで別世界だ。
目に飛び込んできたのは、天井まで届く巨大な本棚だ。びっしりと漫画が詰まっていて、まるで紙の森のようだ。カウンターの奥では、ヘッドホンをつけ、上の空でスマートフォンをいじっている店員が、マニュアル通りの口調でどんなプランにするか尋ねてきた。
「ナイトパック6時間で、お願いします。」ルナはポケットに残っていた数少ない硬貨を、一枚一枚数えながらカウンターに置き、無理に礼儀正しい笑顔を作った。
店員は彼女にカードを渡した。そこには「B-27」というブース番号が書かれている。迷路のような、濃い色の絨毯が敷かれた細い廊下を歩く前に、ルナは隅にある無料のドリンクバーで少し立ち止まった。少し迷った後、熱々のコーンスープをカップに注いだ。
これが、今日口にした初めての温かい飲み物だった。その温かく人工的な甘みのある液体が喉を通り過ぎ、凍える体に、慰められているという実感をもたらした。
B-27のブースは、一人しか入れないほどの狭い個室だ。リクライニングできる合皮のソファーチェアと、パソコンのモニターとキーボードが置かれた小さな机が、すべての家具だ。ルナは苦労して、その大きなギターケースを壁の隙間に押し込んだ。彼女はソファーチェアに体を丸め、両膝に顔を埋め、長いため息をついた。
周りは静まり返っている。聞こえるのは、パソコンのファンが低く鳴り続ける音と、エアコンの吹き出し口のシューという音、そして隣のブースから聞こえる、ごくわずかなマウスのクリック音だけだ。ここは、無数の孤独な個人が一時的に集まった集合体だ。ここでは、誰も彼女を邪魔しないし、誰も彼女を気にしない。
しばらくして、何かを思い出したかのように、彼女はポケットから、あの白い封筒を丁重に取り出した。
封筒には何も書かれていないが、手にした時の厚みははっきりと感じられる。ルナの心臓が、再び勝手に鼓動を速めた。彼女は封筒を、少し擦れて光沢のある机の上に置き、何かの儀式を行うかのようにじっと見つめた。
毒舌で、でも優しい、あの不思議なドラマー。
彼女はいったい誰なのだろう?どうして泣いていたのだろう?そして、どうしてこれを自分にくれたのだろう?
ルナは震える指先で、モニターの青白い光の下、恐る恐る封筒の封を破った。中には手紙はなく、丁寧に折り畳まれた紙幣が一枚だけ入っていた。
息をのんで、それを広げる。
――五千円札だ。
薄暗いブースの中で、樋口一葉の肖像画が目に飛び込んできた瞬間、ルナの頭の中で「キーン」という音が鳴り、一瞬にして何も考えられなくなった。彼女は信じられない思いで、指先をそっとその紙幣に触れた。まるで、それが本物かどうか確かめるかのようだ。
一つの大きな温かい流れが、瞬時に彼女の心臓を打ち抜いた。目頭が熱くなり、予期せぬ涙がこぼれ落ちてくる。一滴、二滴と紙幣の上に落ち、小さな濃い染みを作った。
メイが言った。これは「あの曲の代金だ」と。
この五千円は、彼女が東京に来て、初めてその価値を認められた証だった。次の食事代を心配しなくてもいいという安心感、今夜雨風を凌ぐ場所があるという尊厳、そして、もう消えかけていた夢に、誰かが再び火をつけてくれたという希望だった。
大きな感謝と安堵の後、それに勝る、ずっしりとしたプレッシャーが押し寄せてきた。
彼女は涙を拭い、その瞳は戸惑いから、次第に確固たる決意を帯びていく。彼女は「4番倉庫」と書かれたメモを手に取り、五千円札と一緒に、しっかりと握りしめた。
明日の夜十時。
行かなければならない。この恩に報いるためだけでなく、メイに証明するためだ。自分の歌は、決してこの五千円だけの価値ではないと。
その夜は、ルナが東京に来てから、最も穏やかに眠れた夜だった。夢も見ず、ソファーチェアを一番平らな角度にして、ギターを抱きかかえ、あの紙幣とメモを胸に強く押し当て、パソコンのファンの規則的な鳴り声の中で、深く眠りに落ちた。
第三幕:迷いの果ての4番倉庫
2023年3月27日・夜九時四十五分
元々ひどい方向音痴のルナにとって、夜の渋谷の路地裏は、巨大で悪意に満ちた迷路に他ならなかった。
スマートフォンの地図の指示に従って、どれも同じに見える角を何度も行き来するが、画面に表示される自分の青い光の点は、酔っ払ったかのように、頑なにずれた場所を漂っている。故郷から持ってきた古いスマートフォンは、高層ビルによって細かく分断された空の下では、GPSの信号がとっくに機能しなくなっていた。
「おかしい……ここのはずなんだけど……」彼女はスマートフォンに呟き、額に焦りの汗が滲み出る。
約束の時間は夜の十時だ。もうすぐ遅刻してしまう。昨日、五千円で燃え上がった希望は、この道を見つけられない無力感に、今にも消されそうだった。東京という街は、待ち合わせの約束すら、簡単にさせてくれないようだった。
彼女が意気消沈し、もう諦めようかと思ったその時、タバコと錆の入り混じった、どこかで嗅いだことのある匂いがした。顔を上げると、路地の突き当たりに、古びた鉄の扉が見えた。そこには、白いスプレーで大きく雑に「4」と書かれている。
見つけた。
彼女は安堵の息をつき、足早に駆け寄った。
その扉のそばの陰に、一人の人影が寄りかかっている。指先のタバコが、赤く小さな火を灯している。メイだ。
メイは息を切らして駆け寄ってきたルナを見て、眉をひそめると、タバコの吸い殻を足元の空き缶に押し付けて消した。
「田舎の子は、警察に道を聞くもんやと思うとったわ。」メイの口調は、賞賛なのか嘲りなのか判別がつかない。「十分遅刻や。」
「ごめんなさい!その、道に迷って……」ルナは顔を赤くし、慌てて頭を下げて謝った。
「もうええわ、中に入り。」メイはそれ以上何も言わず、重い鉄の扉を押して中に入った。
ルナは彼女の後について中に入る。倉庫の中は、想像通り薄暗く、散らかっていた。カウンターの奥では、アロハシャツを着た、少し髪の薄い中年のおじさんがグラスを拭いている。メイを見ると、彼は口元を緩めた。
「おっ、メイ、今日は可愛い子を連れてきたな?」
メイは頷いた。「源さん、場所借りるで。一時間だけな。」
源さんと呼ばれたオーナー、高田源一は肩をすくめた。「今日は誰も練習してへんから、好きに使ってええぞ。あ、せやけどな……」彼はステージの方を顎でしゃくい、冗談めかして言った。
「今度は、また伸夫と一緒に俺のモニタースピーカー蹴り落とすなよ。この前、二人で飲み過ぎて、えらい損させられたんやからな。」
(ユラのノート・日付不明)
ルナは後に私に、当時源さんの言ったことが全く理解できなかったと話してくれた。
ずっと後のこと、皆でメイの家に集まった時、メイが楽しそうに笑いながら、当時の恋人、伸夫の酔った様子を真似するのを聞いて、ルナは初めてあの言葉の裏に隠された話を知った。数日前、メイが所属する伝説の地下バンド「NAjNA」がここでライブをした際、ボーカルのサラが格好良くモニタースピーカーに足をかけた。酔っ払っていたギタリストの伸夫もそれに倣って、もう一つのモニタースピーカーを力いっぱい踏みつけ、その結果、高価なスピーカーをステージの下に蹴り落としてしまったのだ。
この話は、ルナが初めて手に入れた「NAjNA」に関するパズルのピースだった。
メイは源さんのからかいを聞いて、全く怒った様子を見せず、むしろ不満そうにカウンターの方へ手を振ったが、その口元にはルナには理解できない、安らいだ微笑みが浮かんでいた。
「はいはい、分かったから源さん。」彼女は関西弁で語尾を伸ばし、年上の親戚に甘えるような口調だった。「今日はめっちゃ優しーくするから。」
そう言い終えると、彼女はルナに顔を向けた。その顔から温かさは一瞬で消え、再びあの、本心が見えないドラマーに戻っていた。彼女はルナを連れて、中央にある小さなステージに上がった。
「弾けや。」メイの声が背後から聞こえてくる。気だるそうだ。「昨日の曲でええ。あんたが地面に座り込んで泣きながら歌うだけの子犬やないってこと、見せてみい。」
ルナは深く息を吸い込み、目を閉じて、一つ目のコードを鳴らした。
音が、がらんとした倉庫の中で微かに反響する。地下通路で歌った時よりも、ずっとクリアで、豊かに響いた。彼女の声は相変わらず微かに震えているが、それ以上に、一か八かの決意が満ちていた。
メイは最初、ルナの不安定なリズムを掴もうと、ハイハットを適当に叩いているだけだった。
しかし、サビに入り、ルナの感情が溢れ出した時、メイの瞳の色が変わった。彼女のドラムは決定的かつ正確になり、一打一打がまるで釘のように、ルナの揺れるメロディをしっかりと繋ぎ止めた。バスドラムのリズムがルナの歌声を支え、スネアドラムの音が感情を前へ押し進める。そしてシンバルの、清らかで砕けるような音が鳴るたびに、それはルナの独白の上に、満天の星を降らせるかのようだった。
(ユラのノート・日付不明)
ルナは後で私に、あの瞬間のことを語ってくれた。メイの力強く、はっきりとしたドラムが初めて自分の歌声を支えてくれた時、もう一人ではないと感じた、と。彼女は目を閉じ、音楽の中で、長野を離れると決心したあの日へと立ち返っていった。
その力強いドラムの音に支えられ、ルナの歌声は錨を見つけた船のように安定した。彼女は目を閉じた。歌声の中に広がる風景は、目の前の薄暗い倉庫ではなく、太陽の光が降り注ぐ「月見館」の二階にある、和室の部屋だった。畳と檜の香りが漂うその部屋で、彼女は机の前に正座し、古びた木箱を開ける。中には、ユイが松本から送ってくれた手紙が何通か静かに横たわっていた。彼女は、手紙に書かれたユイの整った文字を指でなぞり、ついに心を決めたあの一文に止まった――「あんたがやれるなら、私は待ってるから」。
その瞬間、すべての迷いが消えた。彼女は箪笥から使い古したスーツケースを取り出した。中に入れたのは、服は数着だけ。お気に入りの本を数冊と、首から下げている303号室の鍵、そしてあの手紙だけだった。夜明け前、家族がまだ眠っている間に、彼女は一人でスーツケースを引いて、旅館「月見館」の古風な木造の門の前に立った。彼女は振り返り、自分の子供時代をすべて包み込んでくれた巨大な看板に向かって、深く、深く、九十度頭を下げた。それは別れであると同時に、嘘を孕んだ謝罪でもあった。
戸倉駅行きの揺れる田舎のバスから、未知のコンクリートジャングルへと向かう特急列車へ。窓の外の景色は、連なる青々とした山々や川のせせらぎから、次第に密集した家屋や電線へと変わっていく。彼女は窓に寄りかかり、見慣れた故郷の風景が少しずつ視野の端へと消えていくのを見ていた。東京という巨大で沈黙した怪獣が、地平線の向こうで彼女を待っている。彼女は怖くはなかった。ただ、胸元の鍵を強く握りしめた。その温かさが、彼女の全ての勇気だった。
【舞台は4番倉庫へ】
ルナは、故郷を離れる時に感じた、あの決意と孤-独を、歌声の最後の音符にすべて注ぎ込んだ。彼女は目を開け、振り返ってメイをちらりと見た。
メイの額には微かに汗が滲み、その瞳は信じられないほど真剣だ。あの気だるい雰囲気は完全に消え去り、代わりに燃え上がるような集中力が漲っていた。二人の視線が空中ですれ違ったのは一秒にも満たなかったが、ルナは瞬時に理解した。二人は、音楽で会話しているのだと。
一曲が終わる。最後のシンバルの残響が、倉庫の中をしばらく漂っていた。
その場には、二人だけの息遣いと心臓の音だけが残っていた。
「……初めて、最後まで一緒に叩いてくれた人です。」ルナが震える喜びを帯びた声で、静かに言った。
メイは額の汗を拭い、いつものだらしない態度に戻った。「ああ?泣きそうになってんのかと思ったわ。」
ルナは少し笑った。「ほんとに、ちょっとだけ。」
メイは立ち上がり、ドラムスティックを片付けながら、淡々とした口調で言った。「勘違いすんなよ。あんたとバンド組むつもりはないからな。私には、私のやるべきことがある。」
ルナは力強く頷いた。「分かってます。でも、今日はありがとうございました……本当に。」
メイは何も言わず、ただ手を振ると、ステージを降り、隅にある冷蔵庫からビールを取り出し、一人で飲み始めた。
その時だった。源さんが、帰りかけたルナを引き止めた。
「おい、お嬢ちゃん、ちょっと待ちな。」
彼はカウンターの奥から出てきて、分厚い封筒を手に持っている。その仕草は少しぎこちなく、まるでこんなことをするのは初めてであるかのようだ。
「さっき客がな、あんたの歌が良かったって、こっそりこれ置いてったんや。頑張りなはれってさ。」源さんは封筒をルナに差し出した。口調は少しごまかしているようにも聞こえる。
ルナは完全に呆然とし、感謝の気持ちで封筒を受け取った。ずっしりとした紙幣の重みが手に伝わり、言葉が出なかった。
メイは少し離れた場所でその様子を見ていたが、何も表情を変えず、ただビールを飲み続けた。
(ユラのノート・日付不明)
数年後、高田源一がある晩酔っぱらった時、冗談めかしてこの話をしてくれたんだ。その時、ルナがあの時受け取ったものが、客からのチップなんかじゃなかったって初めて知った。彼は言った。メイはその日、ルナが帰った後、こっそり近づいてきて、トートバッグから札束を取り出し、彼のポケットに忍ばせた、と。メイの目は冷静だったが、その口調はいつになく真剣だったそうだ。「あの子、思ったよりも強いわ。これは一万円、私からの賭けや。客からのチップやと嘘をついて、あの子に渡してやってくれ」と彼女は源さんに言った。源さんは当時少し呆然としたらしい。メイの家が裕福ではないことを知っていたからだ。一万円という金額は、彼女にとって決して少なくない。だが、彼はメイの揺るぎない顔を見て、何も言わず、ただ言われた通りにした。「あの子が一万円だって聞いたら、目をキラキラさせとったわ」と源さんは笑って言った。「俺も、思わず自分で懐に入れそうになったわ」と。私たちは笑った。その瞬間、私は初めて理解した。メイは、ただ偶然にルナを引き止めたわけではなかったのだ。最初から、彼女自身も気づかないうちに、ルナという存在に、とてつもなく大きな賭けをしていたのだと。
時計の針は、もうとっくに午前零時を過ぎている。
ルナはギターを背負い、メイの後ろ姿に再び深々と頭を下げてから、あの重い鉄の扉を開けた。
第四幕:真夜中の散策とコンビニの灯り
2023年3月27日・深夜
扉の外の夜風はひどく冷たいが、ルナの心は熱く燃えていた。彼女は慎重に五千円札を二つに折り、財布の一番奥に入れた。そして、たった今手に入れた一万円札を別のポケットに入れる。空に目を向けると、街の灯りに染まったオレンジ色の夜空が広がっている。初めて、自分はもしかしたら、この街で生きていけるかもしれないと感じた。
脳裏にはまだ、メイと合わせた時のドラムの音が響いている。誰かに理解され、支えられているという感覚が、温かい流れとなって全身を巡る。
スマートフォンを取り出し、地図を確認する。ここから昨夜のネットカフェまでは、徒歩で約二十五分かかる。深夜の電車はもうとっくに止まっている。タクシーという選択肢もあったが、彼女はすぐにそれを打ち消した。あの五千円札は、彼女の命綱としてとっておくもの。そして、一万円札はこれからの数日を生き抜くための大切な生活費だ。無駄には使えない。
そう決意した彼女は、ギターのストラップを締め直し、ネットカフェの方向へ、一歩一歩、歩き始めた。
倉庫を出たばかりの興奮は、一人きりの散策の中で、深夜の静けさにゆっくりと冷やされ、沈殿していく。彼女は商店街を通り過ぎた。日中はきっと賑わっているのだろうが、今はほとんどの店がシャッターを閉めている。数本の街灯だけが薄暗い光を放ち、彼女の孤独な影を長く引き伸ばしていた。
誰もいない通りに、彼女の足音だけが、はっきりと孤独に響く。
これが現実だ。
音楽での共鳴がどれほど胸を熱くさせようと、曲が終わってしまえば、彼女は相変わらずポケットにはお金がなく、住む場所もない、ただのよそ者だ。メイはクールで、音楽のセンスもずば抜けているが、彼女ははっきりと、自分には自分のやるべきことがある、と言った。
あのつかの間の火花は、このまま消えてしまうのだろうか?自分は、これからどうすればいいのだろう?
ルナは俯き、黙々と歩き続ける。心の中を巡っていた熱い流れは、現実の冷たさに次第に置き換えられていった。
その時、「ピンポーン」という電子の呼び鈴の音と、見慣れた明るい白い光が、彼女の注意を引いた。
角にあるファミリーマートだ。
真っ暗な商店街の中で、その小さな店だけが、まるで灯台のように、頑なに光を放っている。ルナは足を止め、一点の曇りもないガラス越しに、店内で棚を整理している若い店員を眺めた。
温かいお茶を買おうか、それとも熱々の肉まんを食べようか、という気持ちがふと湧いてきた。しかし、彼女はポケットの中の貴重な紙幣をそっと触れ、結局は思いとどまった。
彼女はそのまま店の前にしばらく立ち、その小さな、温かい光を見つめていた。その光は、彼女のどんな現実的な困難も解決してはくれないが、無言の寄り添いのように、自分はこの街に完全に見捨てられたわけではないと感じさせてくれた。
そのささやかな慰めを胸に、彼女は再び向きを変え、見慣れたネットカフェへと歩き始めた。今夜もまた、彼女にはあの小さなブースしかない。
第五幕:ネットカフェの夢と303号室の初吻
同日・午前零時
狭いブースの中で、ルナは昨夜のように決意に満ちて地図を確認したり、計画を立てたりはしなかった。ただ冷たいギターケースを抱きしめ、ソファーチェアの上で体を丸めていた。
一つの大きな悔しさがこみ上げてくる。どうしてユイは何も言わずにいなくなってしまったのだろう?もしユイがまだここにいたら、今頃二人で、自分とメイのように、楽しそうにギターを弾いていただろうか?
涙が、音もなく袖を濡らす。どれくらい泣いただろうか。その果てしない疲労と悲しみの中で、彼女は深く眠りに落ちた。
【夢の始まり】
……高校一年生の春に戻っていた。
四月、日本の新学期。空気にはまだ少し肌寒さが残っていたが、陽の光はもう優しい金色だ。長野の桜はちょうど満開で、風が吹くたびに、桜色の花びらが雪のように舞い散り、止むことのない雪を降らせる。
真新しい制服に身を包んだばかりのルナは、まだ中学生の頃のお転婆な雰囲気を少し残していて、戸惑いながらも校内をぶらついていた。その時、澄んだギターの音と、清らかな歌声が、風に乗って耳に届いた。彼女が音のする方へ歩いて行くと、部室の横の一階の廊下で、一人の先輩が開け放たれた窓にもたれかかり、座って弾き語りをしているのが見えた。
ユイだった。
春のそよ風が、ユイのサラサラとした髪を揺らす。彼女の体に降り注ぐ陽の光は、優しい光の輪を作っている。彼女の歌声は、ルナの少し掠れた声とは違い、まるで山の渓流のように、澄んでいて、純粋で、聞く人の心の中へと流れていく。ルナはただ見とれていた。その瞬間が、今まで見た中で一番美しい絵画だと思った。
ユイはルナの視線に気づいたようだった。最後の音符を歌い終え、顔を上げると、ルナの視線とぴったり重なった。彼女は少しも驚くことなく、太陽の光のように温かい、優しい微笑みを浮かべた。
その笑顔は、湖面に投げ入れられた小石のように、ルナの心に幾重もの波紋を広げていった。波紋が広がり、時間と空間の境界を曖昧にしていく。高校の校舎と舞い散る桜は次第に薄れ、代わりに現れたのは、もう一つ見慣れた、陽の光が降り注ぐ場所――彼女の家である「月見館」だった。夏の蝉の鳴き声が、校内のチャイムの音に取って代わる。ユイはアルバイトとして、ルナと一緒に、旅館の長い廊下を拭いている。太陽の光で温かくなった木製の廊下を。二人はバケツを持って雑巾を絞り、床を拭きながら楽しそうにおしゃべりをしている。音楽の話から学校の面白い出来事まで。ユイの明るい笑い声と、ルナの澄んだ笑い声が、がらんとした旅館の中に交じり合い、反響している。
二人の笑い声が長い廊下を漂っていく。その澄んだ声は、遠くの軒先にぶら下がっている風鈴の音と共鳴しているようだった。チリン、チリン。ルナはその心地よい音に導かれるように、障子を開けた。その奥には、二人だけの秘密基地――三百三号室があった。
それは、旅館の中で最も奥まった場所にある和室だ。畳の清らかな香りが漂い、窓の外の風鈴の音がすぐそばに聞こえる。ユイが後ろから彼女を抱きしめている。ルナが少しぎこちなく押さえているコードの指の上に、ユイの温かい手が重なり、辛抱強く指の置き方を教えてくれている。
「ここは、指の先を立てて。そうしないと、他の弦に当たっちゃうから……」
ユイの吐息がルナの耳元に優しくかかり、くすぐったい。ルナの心臓はどんどん早くなり、ギターを抱えていることすら難しくなっていく。彼女はユイから漂う、石鹸のような淡くて良い匂いを感じていた。緊張で身動きが取れずにいると、ユイの自分を見つめる優しい瞳と視線が合った。
見つめ合う二人。空気が固まったかのようだ。
時間の流れがひどくゆっくりになり、ユイがゆっくりと、ゆっくりと近づいてくる。ルナには、ユイの長い睫毛が微かに震えているのがはっきりと見えた。
そして、柔らかく温かいキスが、ルナの唇に優しく落ちた。
その瞬間、ルナの頭は一瞬にして空っぽになった。まるで世界中の音がすべて消え去り、窓の外の風鈴の音すら聞こえなくなったかのようだ。彼女のすべての感覚は、唇に触れるその信じられないほど柔らかな感触と、ユイから伝わる、温かく安心できる気配に集中していた。
それは情熱や要求に満ちたキスではなかった。むしろ、ある種の確認、無言の挨拶に近かった。それまでルナは、女の子同士がこんなふうになるなど、考えたこともなかった。だが、ユイの唇がそっと触れた時、彼女は少しの違和感も、間違いも感じなかった。
むしろ、これまでにないほどの**「完全な」**気持ちになった。
まるで、ずっと失くしていたパズルのピースが、ようやく唯一の正しい場所を見つけたかのようだ。これまでの人生における「好き」という曖昧な想像も、「親密さ」に対する漠然とした期待も、この瞬間にはっきりとした、たった一つの形を持った。
これが、そういう気持ちなんだ。
世界が静止し、ただこの人のそばに永遠にいたいと思わせる、絶対的な安心感。そして、自分はこんなにも優しく扱ってもらえるのだと感じさせてくれる、純粋な喜び。
時間の感覚は完全に消え失せた。どれくらい経っただろうか。一秒だったかもしれないし、一世紀だったかもしれない。彼女はただ本能的に、静かに目を閉じた。この瞬間を、永遠に、永遠に魂に焼き付けておきたかったからだ。
【夢の終わり】
ルナはハッと目を開けた。
目の前にはユイはいない。三百三号室もない。あるのはネットカフェのブースにある、単調な風景のデスクトップ画面と、パソコンのファンが鳴らし続ける冷たい駆動音だけだ。
彼女は無意識に手を伸ばし、自分の唇にそっと触れた。そこには、まだ夢の中の優しく温かい感触と、彼女を完全な気持ちにさせてくれた、あの絶対的な安心感が残っているようだった。
一つの大きな喪失感が、瞬時に彼女を飲み込んだ。
一筋の涙が、目尻からこぼれ落ち、音もなく合皮のソファーに消えていった。
夢が完全であるほど、現実は、脆く砕けていく。
第六幕:夜明けのエレベーターと雪国の約束
2023年3月28日・午前六時半
やわらかく、繰り返される電子音が、ルナを浅い眠りから呼び覚ました。
ブースのパソコン画面にウィンドウがポップアップし、無言で点滅している。「ご利用時間が終了いたします。退室のご準備をお願いします。」
六時間が、こうして過ぎ去った。
ルナはゆっくりと体を起こした。夢がもたらした甘さと喪失感が、まだ薄い霧のように彼女の心にまとわりついている。随分長く眠ったような気もするし、一睡もしていないような気もする。不自然な体勢のせいで、体の関節という関節が痛みを訴えてくる。
彼女はあの貴重な五千円札とメモを丁寧にしまい、自分より大切な古いギターを背負った。片手には数着の着替えが入ったスーツケースの袋を持ち、ブースの扉を開けた。
清晨のネットカフェの廊下には、夜の残滓のような奇妙な匂いが漂っている。かすかなタバコの匂い、カップ麺の油の匂い、そして密閉された空間で夜を過ごした人々の、疲労の匂いだ。
ガラスの自動ドアが開き、東京の夜明けの冷たく新鮮な空気が流れ込んできた瞬間、ルナは思わず身震いした。
空はもう明るい。
ルナは荷物を持ち、古びたエレベーターに乗り込んだ。エレベーターの中は湿っぽく、金属の壁に映る彼女のぼんやりとした疲れた姿と、その背後の巨大なギターケースが見える。彼女は「1」階のボタンを押した。黄色いランプが点灯し、エレベーターの扉がゆっくりと閉まり始める。
扉が閉まりきる直前、細い手が差し込まれ、センサーを遮った。
エレベーターの扉が再び開く。
五十歳くらいの背の高い女性が入ってきた。彼女は少し猫背気味で、濃紺のトレンチコートと色褪せたジーンズを履き、足元は履き古した白いキャンバスシューズだ。疲れているが、はっきりとした顔立ちをしていて、鼻筋は通り、口元は時の流れとともに少し下がっている。左目の下には、小さくはっきりとしたホクロがある。手には、今買ったばかりのような小麦粉の袋と、水筒を持っていた。袖口には白い粉が少しついている。彼女はルナの向かいに無言で立ち、落ち着いた表情で、何も話さなかった。
エレベーターの扉が閉まった。狭い空間に、蛍光灯のわずかな電流音だけが響く。女性はルナと彼女の荷物をちらりと見て、何気なく尋ねた。
「このビルの上にお住まい?」
極度の疲労でぼんやりとしていたルナは、ほとんど無意識に、故郷の長野の訛りが混じった語尾の助詞を使って答えた。
「あ……六階に…だに……」
思わず信州訛りが出てしまった。
彼女は顔が熱くなり、慌てて硬い東京の標準語で言い直した。「あ、いえ、六階です。」
女性は横目でルナをちらりと見た。その口元が、一瞬だけ、ごく薄く笑ったように見えた。
「東京には仕事で?」女性が尋ねた。
「あ、はい。」ルナは慌てて頷いたが、すぐにそう答えるのが違うような気がした。彼女は俯き、履き古したキャンバスシューズのつま先を見つめながら、自分の心に打ち明けるかのように、声をどんどん小さくした。
「長野から来ました。」
「……仕事というわけでもないんですけど……」
「友人と、ある約束があって。」
この何日かのストレスか、睡眠不足か、あるいは目の前の見知らぬ人の静かな雰囲気が、彼女の張り詰めていた糸を突然切ってしまったかのようだ。彼女は顔を上げず、蚊の鳴くような声で、独り言のように続けた。
「でも、来てみたら、ずっと連絡が取れなくて……」
その言葉が落ちた時、ルナの思考は、行き場のない喪失感とともに、まだユイに触れられた、あの冬の日へと飛んでいった。
(ユラのノート・日付不明)
ユイのことは、ルナはめったに話さない。だが、極度に弱っている時、その記憶の断片は、勝手に溢れ出してくる。まるで、あのエレベーターの中で、彼女が見知らぬ女性に語った、松本の雪と、彼女の人生を変えたあの約束のように。
【回想の始まり】
それは、松本の短大に通っていた頃、彼女とユイが二人で借りていた、小さなアパートの部屋でのことだ。
窓の外には、粉雪が舞い、街全体を一面の純白に染めていた。松本の雪は、ルナの故郷である千曲市と同じで、大きく、厚く、街を囲む山々を優しく覆い隠す。
だが、部屋の中は暖かかった。ルナは先に目を覚ました。**体には、昨夜の愛おしさが残した、微かなだるさがあった。**彼女は、自分のうなじに当たるユイの穏やかな寝息と、自分の腰に回されたユイの腕が、温かく安心できるのを感じていた。
彼女は静かに寝返りを打った。ユイの安らかな寝顔を見て、思わず身を乗り出し、ユイの額にそっとキスを落とす。そして、ユイを起こさないように、冷たい風を立てないように、音を立てずにベッドから降りた。
彼女は箪笥の前まで歩いていった。部屋は狭く、仕切りはない。彼女はまだ眠っているユイの前で、裸のまま、今日着ていく普段着を探し始めた。二人にとって、それはごく自然な日常だった。
「……ルナ、」いつの間にか目を覚ましたユイが、ベッドにうつ伏せになっていた。布団にくるまったまま、眠たげな顔だけを覗かせている。「昨日の夜さ、夢でね、私たちが東京のライブハウスでライブやってたんだよ。」
「え?」素っ気ないTシャツを着ようとしていたルナが、振り返った。「東京で?」
「うん、東京。」ユイは起き上がり、細い肩から布団が滑り落ち、白い肌が覗く。彼女の瞳は朝日に輝き、未来への希望に満ちていた。「卒業したら、二人で東京に行ってみない?もっと大きな世界を見て、本当のステージで歌ってみようよ。きっと楽しいよ!」
ルナは光に満ちたユイの姿を見て、心に迷いが生じた。彼女にとって、東京は遠すぎて、あまりにも大きすぎる。そんな野心は持っていなかったし、そんな勇気もなかった。彼女はただ、今のように、静かにユイのそばにいられればそれでよかったのだ。
ユイはルナの臆病さを見抜いた。微笑むとベッドから降りてきた。彼女は薄いブランケットをただ緩く体に巻いているだけだ。後ろから、ジーンズを履こうとしているルナを優しく抱きしめた。
ユイはルナの首筋に顔を埋め、その肩に、羽毛のように軽いキスを落とした。
「ルナが何を怖がってるか、知ってるよ。」ユイはルナの肩に顎を乗せ、優しく、しかし確固とした声で言った。「でもね、二人で一緒なら、何だってできる気がする。ルナが隣にいてくれたら、私はどんなことにも挑戦できる勇気が持てるんだ。」
ルナは背後から伝わる、ユイの肌の温かさと、確かな心臓の鼓動を感じた。彼女の全ての不安と臆病さは、その抱擁とキスの中で、ゆっくりと溶けていく。彼女は顔を上げ、鏡に映る、ユイのその真剣な顔を見つめた。
「……ユイが行くなら、」ルナが小さな声で言った。
「うん?」
「私も行く。」ルナは振り向き、初めて自分からユイの瞳を見つめた。全身の力を振り絞って、微笑みを浮かべた。「ユイと一緒なら、どこへでも行けるから。」
「約束だよ!」ユイは嬉しそうに笑い、彼女を強く抱きしめた。
それが、二人の約束だった。東京を舞台に、ユイが夢に火をつけ、ルナがその夢を追いかけることで完成するはずだった約束だ。
【回想の終わり】
ルナの瞳は虚ろで、雪の降るあの温かい朝に留まっていた。エレベーターの扉に映る自分のぼやけた姿を見ながら、まるでユイの笑顔が見えているかのようだ。この何日間かで溜まりに溜まった、悔しさ、戸惑い、そして恋しさが、この瞬間に理性の堤防を突き破り、無意識の、ほとんど聞こえない呟きとなった。
「ただ、もう一度会いたいだけ。」
「ただ、どうしてなのか聞きたいだけなの。それだけなのに。」
彼女の声はとても小さく、まるで夢の中の言葉のように、狭い空間に消えていった。
その時、エレベーターが突然「ガクン」と大きく揺れ、耳障りな金属の擦れる音を立てて、急停止した。
頭上の照明が二度点滅し、最後に薄暗い光のままで止まった。
この突然の揺れと音は、回想に浸っていたルナに冷水を浴びせるかのようだった。彼女は驚いて顔を上げた。最初に目に飛び込んできたのは、故障した階数表示ではなく、向かいに立っている女性の、底の見えない静かな瞳だった。
ルナの頭の中で「キーン」という音が鳴り、一瞬にして何も考えられなくなった。
そこで初めて、自分が独り言を言っていたわけではないことに気づいたのだ。自分の心の一番深いところにある秘密を、全く知らない他人に話してしまったのだ。
大きな羞恥心が、一瞬にして彼女を襲った。頬は熱く火照り、首から耳まで真っ赤になっていく。今すぐにでもこの世界から消えてしまいたかった。
彼女は慌てて体を回し、九十度に近い深々としたお辞儀をしながら、支離滅裂に謝罪を続けた。
「ごめんなさい!ごめんなさい!」
「突然、見ず知らずの人にこんなこと、本当に申し訳ありません!」
女性は黙って彼女を見つめていた。そして、ようやく口を開いた。その声は相変わらず穏やかだったが、ルナの心に渦巻く混乱に、一つの石を投げ込むかのようだった。
「東京は、答えをくれないけどね、」
その時、エレベーターは「チーン」という音を立て、照明が正常に戻り、わずかに揺れて再び降下し始めた。
扉が開く。女性は荷物を持ち、外へ出ていった。扉が閉まる直前、彼女はまだ頭を下げたまま、困惑しきっているルナを振り返り、言葉の続きを言った。
「でも、答えがいらなくなる日まで……生きさせてくれる街よ。」
扉が、ゆっくりと閉まり、女性の去り際を隔てた。
第七幕:銭湯、練習曲と夕暮れの風鈴
2023年3月28日・午前七時
ルナがビルを出て、再び太陽の光の下に立った時、彼女は自分の服を見下ろした。スーツケースの袋に入っている、最後の綺麗なTシャツだ。
この数日、ネットカフェで過ごした体には、そこに漂う濁った匂いが染みついていて、肌もべたついて不快だった。店のショーウィンドウの前を通り過ぎ、ガラスに映る、髪が脂ぎっていて、瞳に疲労を滲ませ、顔色の悪い自分を見て、彼女は眉をひそめた。
駄目だ、このままじゃいけない。
彼女はスマートフォンの地図を開け、近くの松屋を探した。まずは腹ごしらえをしようと決めたのだ。
店の食券機の前に立ち、彼女の視線は最も安いオプションで止まった。「朝定食」、380円。彼女はポケットから一万円札を取り出し、迷うことなく、それを券売機に入れた。あの女性の言葉を思い出す。「生きていかせてくれる。」そうだ、生きていかなければ、答えを待ち続けることもできないのだから。
朝食はすぐに運ばれてきた。湯気の立つ温かいご飯、生卵、納豆、そして無料の味噌汁。彼女は黙々と食べた。味噌汁の湯気が顔にかかり、冷え切った鼻先を温めてくれる。最後の一口を食べ終えると、ようやく体に少し力が湧いてくるのを感じた。
食後、彼女は地図の案内に従って、次の目的地である「銭湯」へと向かった。
銭湯の温かい湯気の中で、彼女はここ数日の疲れと不安を、汚れと一緒に洗い流した。広々とした熱い湯船に全身を浸し、その熱がこわばった筋肉にじんわりと染み渡るのを感じた時、彼女は気持ちよさそうに長いため息をついた。
熱い……でも気持ちいい……
この直接的で強引な熱さが、何日も張り詰めていた彼女の神経を、ようやく緩ませてくれた。彼女は思わず実家の「月見館」の温泉を思い出した。そこの湯はもっと柔らかく、景色もずっと良かった。しかし、その思いは一瞬で消えた。今彼女が必要としているのは、リラックスして楽しむための温泉ではなく、目の前にあるような、全ての疲労と不運を洗い流してくれる、シンプルで荒々しい熱湯だった。
彼女は、まるで再び充電されたバッテリーのようだ。汗をかくにつれて、何日も感じていたベタつきや、挫折感、そしてエレベーターで取り乱した羞恥心までもが、一緒に蒸発していったかのようだ。彼女は湯船から立ち上がり、湯気立つ体から、今はもう、郷愁ではなく、これまでにないほど爽快な決意が満ちていた。
シャワーを浴び、最後のきれいなTシャツとジーンズに着替えた彼女は、まるで生まれ変わったかのように感じた。続いて、彼女は銭湯の隣にあるコインランドリーに入った。スーツケースの袋に入ったすべての汚れた衣類と、今脱いだばかりのカーキ色の上着を、洗濯機に放り込んだ。
洗濯と乾燥を待つ長い時間、彼女はその場に留まらなかった。ギターを背負い、昨夜メイから得たヒントを実践してみようと決めたのだ。
彼女はここから遠くない、小さな地域の公園を見つけた。午後の陽の光は暖かく、目に眩しくはない。彼女は隅にあるベンチに腰を下ろし、ギターケースを開けた。今回は、目的が非常に純粋だった。練習すること。そして、今夜のネットカフェ代を稼げたら、という思い。
彼女は昨夜のメイのドラムの音を思い出しながら、自分のリズムをより安定させ、コードの切り替えをよりスムーズにしようと試みた。彼女が歌ったのは、相変わらずユイに捧げた曲だが、その感覚は全く違っていた。歌声には、絶望の混じった泣き声は少しも含まれておらず、代わりに、メロディを完璧に作り上げようとする、創作者としての集中力が満ちていた。
通りかかった数人の通行人が、その集中力に引きつけられ、少し離れた場所で足を止めて聞いていた。犬の散歩をしていた一人の年配の女性は、彼女の前を通る際、微笑んでルナに小さく頷いた。
ルナは、わざわざ聴衆の反応を窺うことはしなかった。ただ、自分の音楽の世界に完全に没頭していた。夕焼けが彼女の横顔とギターのボディに降り注ぎ、温かい金色の光の層を作っている。
空が暗くなり、街灯が一つ、また一つと灯り始めた時、彼女は演奏を止めた。時間は、もう夕方六時半だ。
空っぽのギターケースをちらりと見て、彼女は自嘲気味に笑った。静かな練習だけでお金を稼ごうというのは、やはり甘すぎたようだ。だが、彼女の心には少しも落胆はなかった。今日の午後の練習が、彼女に少しの自信を取り戻させ、そして「音楽」というものに対する、よりはっきりとした認識を与えてくれたからだ。
彼女はギターを片付け、コインランドリーから石鹸の良い香りのする洗濯物を受け取り、背中に背負った。お腹がまた鳴り始めた。まずどこかで夕食を済ませ、それから今夜のネットカフェを探そうと決めた。
その時、彼女が公園を出て、見慣れない、温かい光の灯る小さな路地に入った時、甲高くて、心地よい「チリン」という音と、濃厚なコーヒーの香りが、彼女の注意を引いた。
顔を上げると、小さな、古風な風鈴が飾られた喫茶店が見えた。店内の照明は温かい黄色で、とても居心地がよさそうだ。
第八幕:路地の風鈴と信州の善意
2023年3月28日・夕方六時半
ルナは路地の入り口に立ち、温かいままの半額弁当の入った袋を持ち、目の前の小さな喫茶店をぼんやりと見つめていた。
店の看板は手書きで、丸みのある文字で「風鈴」と書かれている。入り口には古風な江戸切子のガラスの風鈴がぶら下がっていて、夕風が吹くたびに「チリン、チリン」と澄んだ音を鳴らす。静かな路地の中で、その音はひときわ心地よく響いた。店内からは温かい黄色の光が漏れ、木のカウンターと、いくつかの空席が見える。空気中には、濃厚な焙煎コーヒーの香りが漂っていた。
この店のすべてが、ここ数日彼女が経験した渋谷の喧騒や、ネットカフェの濁った空気とは、まるで違っていた。ここは、独自の時間の流れを持つ、静かな店だ。
彼女の視線は、やがてガラス窓に貼られた、マジックで手書きされた、少し色褪せた紙切れに釘付けになった。
そこには、こう書かれている。
「アルバイト募集」
時給:1,200円~(経験者優遇)
勤務時間:週2~3日、1日6~8時間
時間帯:朝11時~夜7時の間で応相談
仕事内容:接客、簡単なドリンク補助
ルナの心臓が、勝手に一つの鼓動を飛ばした。
その時、喫茶店の木製の扉が内側から開いた。見慣れた人影が外へ出てきた。彼女は腰をかがめ、入り口に置いてあった「営業中」と書かれた木の札を、裏返そうとしている。
エレベーターで出会った、あの女性だ。
ルナの体は一瞬にして硬直し、思わず路地の陰に隠れようとした。しかし、彼女はすぐにその考えを打ち消した。逃げても何も解決しない。今日、銭湯で自分に誓ったことだ。
彼女は深く息を吸い込み、スーツケースの袋とギターをしっかりと持ち直すと、まっすぐその店に向かって歩き出した。
女性はルナの視線に気づいたようだ。ゆっくりと体を起こし、彼女の方へ目を向けた。二人の視線が重なる。女性の瞳は相変わらず穏やかだ。
ルナはその女性の前に立ち止まった。臆することなく、ただ礼儀正しく、軽くお辞儀をした。
「こんにちは。」彼女の声は大きくはなかったが、はっきりと聞こえた。「外に貼ってあったアルバイトの張り紙を見て…」
女性は頷いた。その口調は穏やかだ。
「いらっしゃいませ。もう閉店ですが、何か用ですか?」
ルナは小さく首を横に振り、少し気まずそうに言った。
「あの、外のアルバイトの張り紙を見て、それで……少しお話を伺いたくて。」
女性は彼女を見つめ、少しだけ微笑んだ。
「ああ、朝エレベーターで会った子だね。」
ルナは自分が覚えてもらっているとは思わず、頬が熱くなり、慌てて再びお辞儀をした。
「はい。あの、朝は失礼しました。私の名前は月村結月です。」
女性も彼女に頷き、自分の名前と店での呼び名を言った。
「私は橘。ここではみんな、風鈴さんって呼んでるわ。」
「喫茶店でのアルバイト経験はありますか?接客は慣れていますか?」
「実家が長野で温泉旅館を経営していますので、子供の頃から接客や掃除の手伝いをしていたので、多少は慣れています。」ルナは正直に答えたが、口調には少しの躊躇があった。「ですが……喫茶店での仕事や、コーヒーについては、あまり詳しくなくて。」
橘は彼女に経験がなくても落胆しなかった。彼女の微笑みは、少しだけ深まった。
「接客ができれば十分よ。コーヒーはこれからゆっくり覚えればいいわ。」
彼女はいくつかの簡単な質問をした後、その瞳に少し心配の色を浮かべた。
「東京に来てどれくらいになるの?」
「まだ五日目です。ずっとネットカフェに泊まっていて、その、これから部屋を探そうと思って……」ルナはそう言うと、恥ずかしさから声が小さくなった。
「そう……」橘は静かにそう言った。その口調には、理解と、そして少しの痛みが含まれていた。
「女の子が東京でネットカフェ暮らしというのは、少し心配ね。」
彼女は振り返り、店の二階を指さした。
「お店の屋根裏に、小さな部屋があるの。普段は使っていないけど、掃除はしてあるから、寝るには十分よ。もしよかったら、当分の間、そこに住んでくれて構わないわ。お昼ご飯もお店で用意するから、心配いらないわよ。」
ルナは、その突然の温かさに息をのんだ。手に持っていた弁当の袋が、今にも落ちそうになる。
「え……本当ですか?ありがとうございます!」彼女は何度も頭を下げて感謝したが、心に渦巻く大きな戸惑いから、思わず顔を上げて、あの質問を口にしてしまった。
「でも、どうして私に、そんなに優しくしてくださるんですか?」
橘は微笑んだ。それは穏やかで、懐かしむような笑顔だった。
「私も松本出身なのよ。」彼女は言った。「あなたを見ていると、昔の自分を思い出すわ。田舎者同士、助け合うのは当たり前でしょ。」
彼女は再びルナに向き直り、穏やかで、しかし確固たる口調で言った。
「どう?うちで働いてくれる?」
ルナの瞳は、一瞬で赤く潤んだ。もう、迷いは何もなかった。彼女は力強く頷いた。その声には、抑えきれない嗚咽と感謝が混じっていた。
「はい、ぜひ……よろしくお願いします。」
「ちょうど閉店作業の時間だから、手伝ってくれる?終わったら、すぐに屋根裏で休んでいいからね。」橘は微笑んだ。
ルナは何度も頭を下げて感謝し、弁当の袋をカウンターに置くと、慌てて雑巾を手に取り、テーブルを拭き始めた。
入り口の風鈴が、再び「チリン」と鳴った。この時、ルナにとって、それはもう見知らぬ音ではなかった。
それは、彼女が東京に来て、初めて聞いた、帰るべき場所を知らせてくれる音だった。
第九幕:屋根裏の光と真夜中のメッセージ
橘を手伝ってテーブルを拭いたり、グラスを洗ったりしているうちに、時間はあっという間に過ぎた。夜八時前には、店内はすっかり綺麗になっていた。
「よし、今日はこれで終わりね。お疲れ様。」橘はエプロンを外し、自分のバッグを手にとった。「屋根裏への階段はカウンターの裏よ。鍵はもう扉の横に置いてあるから。ゆっくり休んでね、じゃあまた明日、十一時に。」
「はい、風鈴さん、ありがとうございました。」ルナは彼女を入り口まで見送り、深々と頭を下げた。
店の扉が閉まり、風鈴が最後の澄んだ音を鳴らした後、世界は静まり返ったかのようだ。広々とした喫茶店には、ルナ一人しか残っていなかった。
彼女はすぐに二階には上がらなかった。代わりに、冷たくなってしまった半額弁当の入った袋をカウンターに置き、静かに、一口ずつそれを食べ終えた。
そして、きしむ木の階段を上がっていった。
屋根裏の部屋は広くはなかったが、ルナにとっては、東京に来てから初めて手に入れた「本当に自分だけの場所」だった。部屋には簡単な木のベッドがあり、その上には清潔な古い布団が敷かれている。隅にはいくつかの段ボール箱が積まれていた。窓ガラスは少し割れていて、外の夜風がその隙間から、破れたカーテンを優しく揺らしている。
ルナは荷物を置き、雑巾を手に取り、真剣に掃除を始めた。床を一点の埃も残さず拭き、段ボール箱をきれいに隅に積み、持ってきた石鹸の良い香りのするシーツをベッドに敷いた。
すべてを終えると、彼女はベッドの縁に腰をかけ、自分の手で整えられた、小さく、自分だけの空間を見回した。
これまでにないほどの安心感が、温かい潮のように、何日も張り詰めていた彼女の神経を、完全に飲み込んでいった。
これが、東京での、彼女の初めての「家」だった。
彼女はスマートフォンの充電をすることすら忘れ、ただギターを抱きしめ、心地よい疲労に包まれて、深く眠りに落ちた。
どれくらい時間が経っただろうか。深夜の静けさの中、突然の振動音が、彼女を深い眠りから叩き起こした。
ベッドの枕元に置いた彼女のスマートフォンだ。画面が暗い部屋の中で、眩しい光を放っている。
新しいメッセージが一件表示されている。
メイからだ。
ルナは眠たげな目をこすり、メッセージを開いた。
[メイ]
(01:00 AM)
寝とるか?
明日の夜、ちょっと高級なクラブでライブあるんやけど、伸夫が急に用事できたみたいでな。あんた、一緒に来てみいひん?
ルナは画面を凝視した。疲労も、眠気も、そして夢から覚めたばかりの戸惑いも、この一瞬で完全に吹き飛んだ。彼女の眠気は瞬時に蒸発し、ベッドの上で飛び起きた。頭の中には、ただ一つの大きな声が響いている。「行く!」
彼女はスマートフォンを強く握りしめた。その手には、段ボール箱や古い布団では決して与えてくれなかった、本物の高揚感が伝わってきた。
(ユラのノート・日付不明)
何年か経った後、ルナはいつも私に笑いながらあの夜のことを話してくれた。ようやく東京に安心できる眠る場所を見つけ、これからゆっくり休もうと思っていた時に、あの猫のようなドラマーが、まるで稲妻のように、突然彼女の夢の中に飛び込んできたんだと。
彼女はいつも、当時の自分が眠たげな目で、メッセージを見て飛び起きた様子を真似しながら、興奮してこう話してくれた。「あの瞬間、私はただ東京でバイトする女の子じゃなくて、一つの壮大な冒険の中で、初めて仲間からの合図を受け取ったんだって感じたんだ!」
私望月由良は、今でもその時の、ルナの瞳に宿っていた、キラキラと輝く光を覚えている。その純粋な、未知の旅への期待は、どれほどの成功や喝采をもってしても、二度と再現できないものだった。
そして、あの五千円札について。ルナはあの日以来、一度もそれを使うことはなかった。
何年も経った今、少し色褪せたその紙幣は、小さな額縁に丁寧に飾られ、静かにルナの部屋のベッドの枕元にかけられている。
それはただのお金ではない。彼女たちの物語の始まりであり、彼女がこの巨大な街で、最初に受け取った優しさなのだ。
(第一話 完)
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
最初は心の中に、小さなバンド物語の“種”のようなものが芽生えました。
それが少しずつ膨らんでいくうちに、昔音楽をしていた頃の日々を思い出し、
その想いを重ね合わせて、この物語を形にしたいと思うようになりました。
私はプロの作家でも映像制作者でもありません。
ただ音楽と物語への愛情から、この作品を紡いでいます。
また、この物語のアニメ版もYouTubeで公開しています。
AIによる映像表現はまだ難しく、小説と比べて一部省略や濃縮された部分がありますが、
もしよろしければご覧いただければ嬉しいです。
▼WEB
https://www.lunarexit.com/
▼第一話 シネマティック版
https://www.youtube.com/watch?v=APuI1fJjfvE
▼第二話 シネマティック版
https://www.youtube.com/watch?v=HnaTDK-W4hU&t=26s
▼第三話 シネマティック版
https://www.youtube.com/watch?v=krvLniYtBaY
応援や感想をいただけると、とても励みになります。
これからも続けて創作していきますので、どうぞよろしくお願いいたします。




