第一話 好感度、上限突破
朝のホームルームが始まる前の教室というのは、たいていうるさい。
友達と喋る声、椅子を引く音、廊下を走る足音。それが全部混ざって、ちょうどいい感じの騒がしさになっている。私、水城ひよりはその空気が嫌いじゃない。普通の朝だ。今日も普通に始まって、普通に終わるはずだった。
はずだったのに。
席についた瞬間、視界の端に何かが見えた。
ポップアップ、みたいなもの。ゲームのUIみたいなやつが、空中にふわっと浮かんでいる。
「……え」
思わず声が出た。
周りを見る。誰も気にしていない。私にしか見えていないらしい。
もう一度、そのポップアップを見た。
それは、一つの席に向かってついていた。窓際の、後ろから二番目。黒髪ロングで、いつも静かにしている女の子の頭の上に、ぷかぷかと浮いていた。
表示はこうだった。
【星野紗良 好感度:999(上限突破)】
は?
意味がわからない。
私は三回まばたきした。消えない。四回まばたきした。消えない。目をぎゅっとつぶって開いた。
まだある。
「なにこれ」
小声で呟いたけど、誰にも届かなかった。
星野紗良は私のクラスメイトだ。地味で、おとなしくて、いつも一人でいる。悪い子じゃないと思う。ただ、特別仲がいいわけでもなかった。名前を知っている程度の関係。
なのに好感度が999。
しかも「上限突破」ってどういうことだ。上限を突破したら何が起きるんだ。
ひとまず見なかったことにしようとしたけど、どうしても視界に入ってくる。
朝のホームルームが始まって、担任の先生が連絡事項を読み上げている間も、ずっとそのゲージが浮いていた。
紗良は窓の外を見ていた。横顔が静かだ。黒い髪が肩に落ちていて、地味と言えば地味なんだけど、ちゃんと見ると顔は整っているな、と初めて気づいた。
いや、そういうことを考えている場合じゃない。
なぜ彼女だけにゲージが見えるのか。なぜ999なのか。なぜ上限を突破しているのか。
謎が三つあった。
授業が始まっても、ゲージはついてきた。紗良が廊下に出れば廊下に見えるし、移動教室に行けばそこでも見える。どうやら私の目に焼き付いているらしい。
二時間目が終わった休み時間、私は思い切って紗良の席に近づいてみた。
何か話しかければ、何かわかるかもしれない。そう思って。
「あの、星野さん」
紗良がゆっくりこちらを向いた。
大きな目だった。黒くて、静かな目。
「水城さん」
静かな声だった。でも、どこか柔らかい。
「えっと、なんか、話しかけてごめん。授業のノートなんだけど、ちょっと聞いてもいい?」
一番無難な話題を選んだ。
紗良は少し間を置いてから言った。
「いいよ」
それだけだった。
にこりともしない。でも嫌そうでもない。ただ静かにそう言った。
私はとりあえず数学のノートのことを聞いた。紗良は丁寧に答えてくれた。授業中のノートが綺麗で、説明もわかりやすかった。
「ありがとう、助かった」
「うん」
そこで会話が終わった。
紗良はまた窓の方を向いた。
何もわからなかった。でも、話しかけた間、ゲージがずっとそこにあって、999という数字が変わらなかったのは確認できた。
私の席に戻りながら、隣の席の友達、中田あかりが声をかけてきた。
「ひより、星野さんと話してたじゃん。仲良かったっけ?」
「仲良くはないんだけど、ちょっと聞きたいことがあって」
「へえ。星野さんって、なんか近づきにくい雰囲気あるよね」
「そう?」
「あんまり喋らないじゃん。クールっていうか」
確かに、クラスの中でもあまり目立たない存在だと思う。友達がいないわけじゃないけど、ぐいぐい前に出るタイプでもない。
「でも、話すと普通だよ」
「ひよりはそう思うんだ」
あかりが面白そうな顔をしたから、私は話を終わらせた。
昼休みになった。
私はあかりたちとお弁当を食べようと荷物を持ったとき、誰かが隣に立った気配がした。
振り返ると、紗良だった。
「え、星野さん?」
紗良は小さなお弁当箱を持っていた。
「一緒にいい?」
静かな声で、そう言った。
え。
「え、私と?」
「うん」
「い、いいけど」
なんで急に。
あかりが私の後ろで「えっ」という顔をしていた。私も同じ顔をしていたと思う。
紗良は当たり前みたいに私の隣に座って、お弁当箱を開いた。
綺麗なお弁当だった。彩りがよくて、手が込んでいる。
「自分で作ったの?」
「うん」
「すごいね」
「練習した」
「お弁当を、練習?」
「うん」
淡々と答えながら、紗良はお弁当を食べ始めた。
私もお弁当を開いた。あかりが後ろから「ひよりー、こっち来ないの?」と声をかけてきたので「ちょっと待って」と返した。
しばらく沈黙が続いた。
紗良は喋らない。ただ静かに食べている。でもなんか、居心地が悪いわけじゃない。不思議な間だ。
「星野さんって、前から私のこと知ってた?」
思い切って聞いてみた。
紗良が少し手を止めた。
「知ってた」
「そうなんだ。どこで?」
「小学校、同じだったから」
「え! そうだっけ?」
「ひよりは覚えてないよね」
当たり前みたいに言ったけど、その声がほんの少しだけ揺れた気がした。
「ごめん、覚えてなくて」
「いい。私が覚えてるから」
また静かに食べ始めた。
私はその横顔を見ながら、頭の上のゲージを見た。
999。変わらない。
小学校が同じだったのか。でもそれだけで好感度が999になるものだろうか。何かあったのかもしれない。でも今すぐ聞くのは違う気がした。
「星野さんって、お弁当いつも一人で食べてるの?」
「最近は違う」
「最近は?」
「ひよりがいるから」
さらっと言われた。
え。え?
今日が初めて隣に座ったのに、最近は違うって、どういう計算なのか。
「今日、初めて一緒に食べるんだけど」
「これから毎日一緒に食べようと思って」
一方的な宣言だった。
否定する間もなかった。
「……私が嫌だって言ったら?」
「嫌?」
紗良がまっすぐ私を見た。
黒い目で、真剣な顔で。
嫌かどうかで言えば、嫌じゃなかった。嫌じゃないけど、なんか怒濤の展開すぎる。
「嫌じゃ、ないけど」
「じゃあいい」
また食べ始めた。
私は少し呆然としながら、ゲージを見た。
999。
これは、バグだ。絶対バグだ。
こんなに一方的に好かれる理由が私にはない。小学校が同じだったとはいえ、覚えていないくらいの接点しかなかったはずなのに。
でも。
紗良が静かにお弁当を食べている横顔を見ていたら、なんか、悪くない気がしてきた。
不思議な子だな、と思った。
怖くはない。むしろどこか、落ち着く感じがある。
それが何なのかはわからなかったけど、私は自分のお弁当に箸をつけながら、ゲージのことをもう少しだけ考えることにした。
999の理由。
きっと、何かある。




