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海老名の猛反対も虚しく、池袋北署は滝野幸司に対して任意同行を求めに行った。
幸司は同行に対して素直に応じたどころか、署内での事情聴取で、父親の幸彦殺害を何ともあっさりと認めてしまったのである。
遺産を全て独り占めにしたかった、それがまず第一の理由。また、子供のころからの父親に対する感情的な憎しみがあった。そのような思いがあの夜、幸司の心の中で急激に爆発したのである。
発端は夜の10時ごろ。庭先でわずかな照明の明かりの中で、花々の様子を観察していた時。幸彦の妻の沙由里が、急ぎ足で門の外を通り過ぎるのを見た。今夜はもう戻らないだろう、幸司はそう判断したと言う。沙由里が殺害したように見せかければ、父親の遺産を全て独り占めできる。やるとしたら今夜しかない……と。
車椅子は一切使わず、腕の力だけで全てを成し遂げた、と言う。単に車椅子を動かすだけではなく、テニスをやるために上半身を十分に鍛えているおかげもあって、その実行は問題なかったらしい。腕だけで塀を乗り越え、塀の上を腕でしがみつきながら裏玄関まで移動し、記憶しておいた裏玄関の番号を押して開錠、中に入り、ほぼ腹這いで移動し、台所にあった包丁を取り、苦労して2階まで階段を上り、幸彦の寝室に忍び込み、就寝中の幸彦を包丁で一突き……帰りも同じような感じで移動した、とのこと。
夜9時過ぎ。事情聴取の終了と同時に、池袋北署は滝野幸司に対する逮捕状を裁判所に請求した。早くとも明日の午前中には正式に逮捕できるだろう。
「逮捕はもう少し待ってくれませんか? 疑問点が多過ぎる」
海老名が憤慨して藤沢係長に訴えた。
「自分が殺した、とはっきり言ってるのに、どんな疑問点があるんだ?」
「疑問点だらけですよ。動機も嘘臭ければ、家に侵入する経緯も嘘臭い。あいつの言ってること、嘘だらけだ。もう少し時間をかけて事情聴取をやってくれませんかね? 絶対に矛盾した点が出てくるはずです」
「そうだな、もっと詳しい取り調べは明日になってからでもいいだろう。でも今夜はもう遅い」と、藤沢係長は壁に掛かっている時計を見ながら言った。頭の中はもう家路のことしか考えていない。「その代わり明日は朝から忙しいぞ。滝野幸司の自宅に家宅捜索、マスコミ集めて記者会見……」
「フジさん、出来れば今すぐ、俺に滝野幸司の事情聴取をやらせてくれませんかね?」海老名は焦りながら言った。「何だか胸騒ぎがする。明日になったら、もう遅いかも……」
「滝野幸司も今まで長々と事情聴取をやった後だから、一晩休憩が必要だ。だいたいおまえ、担当を外れたんだろ? そのおまえが気に病むこともあるまい。もうこの時間だし、さっさとうちに帰って、いつも通り酔いつぶれてろ」と係長は帰り支度を始めながら言った。
滝野幸司に対する任意同行に猛反対した挙句、海老名は滝野幸彦殺害事件の担当を、河北署長の命令で外されてしまったのである。
「フジさん、幸司は絶対に殺ってませんよ。殺害を自供したことで、俺はますます確信を持ちました。あいつは嘘をついてる。真犯人は別にいるはずです」
と海老名が言うと、藤沢係長は、
「あのな、勘だけでものを言うんじゃないよ。それだけなら、あの丸出為夫と同じだろ」
丸出は立川課長の席の隣で、どこかから別の椅子を持ってきて、その椅子にふんぞり返って座っている。
「いやぁ丸出さん、さすがですねぇ。あなたの名推理のおかげで事件解決ですよ。その名に恥じぬ名探偵ですな」と、立川課長は丸出を褒めちぎっていた。
「明日の記者会見が楽しみですな。私もテレビに出て、話題の名探偵として注目されるんですから。仕事もますます増えるでしょうよ……」とか何とか、丸出はすっかりいい気になって、心が床から3メートルは浮き上がっていた。
ふん、まぐれ当たりのくせに、いい気になりやがって。海老名は小声で毒づいた。
「おい、エビ、いいか」と、藤沢係長は海老名に忠告するように言う。「身体障害者はみんな人を殺さない善人ばかりだ、と思ってたら大間違いだぞ。障害者にだって悪い奴はいる。そう思って捜査を進めなきゃ、必ず道を誤るんだぞ」
「俺だって、そんな逆の意味での偏見に捕らわれてるわけじゃありません。だいたいフジさんだって、直接滝野幸司と話をしたわけでもないのに、何がわかるんですか?」
「おまえ、幸司に近づきすぎて、逆に幸司にほだされてしまったんじゃないのか? とにかくあいつは自分が殺したと言ってるんだし、その動機も殺し方も筋が通ってる。問題ないじゃないか。以上、おしまい。また明日な」と言って、係長は帰って行った。
「おい、大森」
海老名は、今度は調書を作成中の大森に話しかけた。滝野幸司に対する事情聴取は、大森が担当だったのだ。
「おまえ、滝野幸司を取り調べてみて、何かおかしいと思わなかったのか?」
「別におかしな点はありませんでしたよ。全て筋が通ってます。一つだけ難点を言えば……あの殺害方法ですね。全て腕だけを使って移動するなんて、かなり超人的な技ですよ。いくら上半身を鍛えているからと言ったって、あそこはもう少し念入りに検証してみた方がいいんじゃないか、とは思いましたけどね。簡単な体力測定をしてみるとか……」
「でも基本的には、幸司が犯人であることは間違いない、と思ってるわけだ」
「そうですね。幸司が犯人じゃなきゃ、誰が犯人だというんです?」
「そもそもその動機から、少しおかしいと思わなかったか? 昼間、幸司の家へ聞き込みに行った時、おまえは幸司の話を聞いてどう思った? 特に幸彦が殺される前に、幸司が幸彦ん家に怒鳴り込みに行った、というとこ」
「ん……まあ、幸司は幸彦を憎んでるな、とは思いましたけど」
「それだけか? あの時、遺産のことが話に出てきたろ?」
「そうですね。遺産の分配の仕方に不満を持っていたのは、はっきり覚えてます。だから遺産を独り占めしたくて……」
「その時のことと、さっきの取り調べのこととは分けて考えろ。俺が言ってるのは昼間、聞き込みに行った時の話だ。幸彦との言い争いの理由について質問したら、自分から遺産分配に関する話を持ち出してきた。俺の印象では、どれも取って付けたような出まかせって感じだったぞ。しかもその話をしてる時の幸司の目を見たか? 明らかに目が泳いでた。あれは嘘をついてる、もっと他の理由があるんじゃないか、と思ったけどな」
「そうですかね? 取り調べの時には、堂々と遺産の話をしてましたよ。目も泳いでいなかったし……」
「だからそれは取り調べの時の話だろ。俺が言ってるのは、昼間の聞き込みの時の話だ。その間に遺産に関する嘘話を頭の中で、さらに筋が通るように作り変える時間もある」
「ああエビさん、ちょっとお願いですから、僕の頭を混乱させないでくれますか?」大森は疲れに満ちた表情で言った。「今夜中に調書をある程度は仕上げておかないと」
「わかった、すまん。そのかわり後で、取り調べの時に使ったICレコーダーを貸してくれないか?」
日付は変わって深夜0時過ぎ。署の刑事課のあるフロアは誰もいなかった。ただ一人を除いて。
海老名は大森から借りた、滝野幸司との事情聴取の模様を録音したICレコーダーを再生して聞きながら、父親の幸彦殺人事件に関する、作成中の仮の書類やメモ、鑑識係が作成中の資料の一覧などを読み続けていた。
幸司は明らかに嘘をついている、と海老名は改めてそう思った。それも自分の身を守るための嘘ではなく、自ら進んで身を滅ぼすための嘘を。それはなぜか? 誰かをかばうため? 誰かをかばうとしたら……おのずとその人物は限られてくる。というより、海老名の頭の中では、すでに真犯人の目星はついていた。
真犯人は明らかにあいつだ。だが動機がわからないし、証拠もない。
今から留置場にいる幸司をたたき起こして、自ら事情聴取をしたい気分だった。ただ、今の状況では、どれだけしつこく問い詰めても、幸司は真実を語らないだろう。今ICレコーダーで聞いている幸司本人の声そのままに。幸司は大森の質問に対しても、実に雄弁と言ってもいいぐらい、はっきりと受け答えをしていた。それならば、もっとはっきりとした証拠を突きつけて、その嘘で固めた砦を叩き壊すしかない。だが現在までにそろっている証拠は、どれも壊す前に壊されてしまいそうな貧弱なものばかり。鑑識係が作成中の資料も幸彦宅に関することしか載っていないし、あとは翌日、幸司の家へ家宅捜索をして何かをつかむしかない。
でも……それでは全てが遅すぎるのではないか? 今からこの夜の暗闇の中で証拠集めなど不可能に近いし、だいたい幸司が警察署へ行ったきり一晩中戻ってこないと知ったら……真犯人は夜が明けるまでに、何かしらの行動を始めるかもしれない。逃亡とか……
時間がない、急がないと。
鑑識の資料には、幸彦宅の室内や敷地内で何かを引きずったような跡とか、ましてや車椅子の車輪の跡など、幸司の臭いがするものは全くなかった。幸司が犯人ではないのなら当然である。資料には、凶器の包丁に付着している誰のものかわからない指紋のこと以外に、興味をひくようなものは何もなし。幸司は犯行時、軍手をしていたという。おそらくこの指紋も幸司のものではないし、そもそも幸司はその凶器を手にしたことすらないはずだ。
もうほぼ目を通し終わろうとする直前、海老名は資料の中に少しだけ興味深い記述を見つけた。幸彦宅の裏手、南東側の角にある大きな柿の木(ああ、あれは柿の木だったんだ、と海老名は初めて知った)の地上から2メートルほどの枝に、明らかに人間のものと思われる毛髪が2本ほど引っ掛かっていた、という。男のものか女のものかはわからないが、長さはいずれも30センチメートルほど。根元から抜けているらしい。事件との関連性は不明だが、念のために採取して保管してある、とのこと。これは間違いなくDNA鑑定する必要があるな、と海老名は思った。
そうこうしている間に、ICレコーダーに録音してある事情聴取の模様も、終わろうとしている。最後の方で、大森が滝野幸司に聞いた。
「あなたは殺人罪という重い罪を犯したことになるんですよ。覚悟はしてますか?」
「もちろんです。どうせもうこんな身体ですし、この世に思い残すことなんて、何もありませんよ」
ここで事情聴取はほぼ終了した。
一番最後だけ本当のことを言ったようだな、と海老名は思った。
それにしても幸司はいったい何を隠しているのだろう……幸彦の女狂い、4回の結婚、姉の家出、「姉貴だけじゃまだ足りないのか、この変態野郎」……姉貴だけじゃまだ足りないのか? これが遺産分配に関する話だとすれば、「姉貴の分だけじゃまだ足りないのか」とならないか? 「姉貴」そのものが、まるで金銭か、ただの物体であるかのような言いぐさ……山口喜子がうろ覚えだと断った上での証言なら、はっきりとは断定できない。「変態野郎」も気になる。昔から幸司が幸彦を罵倒するための常套句らしいが、女狂い、女好きを変態と表現するのなら、それは幸司だって人のことを言えないのは、十分にわかっているはず。なのに今になってまた「変態野郎」とは? 変態にも色々な意味がある。幸司が言う変態とはどういう意味なのか?
というより、父親の滝野幸彦という、この殺害された被害者、そもそも何者なのか? 資産家。女好き。それ以外に、息子の幸司はどんな父親の秘密を知っているのか?
幸司の姉、幸彦の娘の早智子は家出した……その後に幸彦の最初の妻との離婚、幸司の非行、ほぼ一時的な家庭崩壊……幸彦の女狂いが明るみに出るのも同じころ、それ以前には噂がなし……その後の3度の結婚……しかも結婚生活は長続きせず、今の妻ともここ3年ほど夫婦生活なし……また幸彦も夜中にこっそり出かける……他に愛人がいる?……幸司の家に勝手に出入りする、しかも裏から……だから裏玄関の合鍵を没収する……30万円の小切手……そして幸司の……
何となく幸司や真犯人の心の中が見えてきたような、こないような。これをどうまとめたらいいものだろう? 海老名は考え込んでいた。フロア全体を満たす、天井の蛍光灯のまぶしすぎる静けさの中で。だが納得のいく答えは出てこない。
こんな時は酒の神様の力にでも頼るか。どうせ今は誰もいないし。
海老名は自分の席の引き出しを開けると、奥の方に入れてあったワンカップの日本酒を取り出した。このような時のために、海老名の席の引き出しの中には、常にこっそりと酒が入れてあるのだ。ふたを開け、数口飲んでみる。酒の神の託宣はこうだった。
発想を変えてみれば?
どう変えろというんだよ。もっと具体的に言ってくれ。と海老名は独り言を言った。
酒の神だけではなく、煙草の神の力も借りることにする。先程飲んでいたコーヒーの空き缶を灰皿代わりに、酒を飲みながら紙巻き煙草を1本吸ってみた。両方の神の託宣は……
いったん仕事から離れてみたら?
なるほど。そうかもしれない。うり坊の顔でも見たら、何かを教えてくれるかな?
海老名は自分個人専用のスマートフォンを取り出して、飼い猫の「うり坊」の自撮り画像を見ることにした。その前に少しだけメールチェック。1件だけ、読むべき価値のあるEメールがある。元妻からのメールだった。
妻とは別れたとはいえ、小学生の息子の勇気に関する養育問題もあり、今でも頻繁に連絡を取り合っているし、実際に会ってもいる。むしろお互い別れてから、いい友達同士になれたようなものだ。元妻からのメールは、
「この前、勇気と一緒に茨城にある、ひたち海浜公園ってとこに行ってきたの
青い花が一面に広がっててね、すごかったわよ、あの真っ青な花畑
この世のものとは思えないぐらい
現実にこんな幻想的な場所があるんだなあ、って感動しちゃった
私の✕✕✕✕に写真をうp(原文ママ)したから、ぜひ見てね」
指定された画像投稿サイトの、元妻のページにアクセスしてみる。元妻の言う通り、幻想的な一面の青い花畑の画像が何枚も載っていた。撮影された日は曇り気味で、空はやや白かったが、まるで天と地を引っ繰り返したかのように、雲一つない広大で真っ青な地面が曇り空を照り返している。息子の勇気の画像もある。青い花畑を背景に、海老名の前ではなぜか絶対に見せない、満面の笑みをたたえて。
仕事を完全に忘れた状態なら、何時間でも見続けていたいほどの美しい光景ではあるが、海老名の刑事としての職業魂は、これらの画像を見てすぐに警報を鳴らし始めた。特にこの青い花の拡大画像を見た時……青い花びらが5枚、真ん中でくっつき合っているが、そのくっつき合っている部分だけが白く、ちょうど花の真ん中の部分が形よく丸い白を帯びている、そんな花。
この花、どこかで見たことがある。
すぐに思い出した。滝野幸司の家の庭先にあった鉢植えだ。あれ、何て名前の花だっけ? 確かフェラチオ……じゃない、バカ。でも確かそんな名前だったような……ああ、何て名前の花だったっけ? 海老名はすぐに元妻にメールを返信した。
「おまえの✕✕✕✕見たよ
確かにきれいな花畑だね
ところであの青い花、何て名前?」
メールを送信してから、すぐに気づいた。もうこんな真夜中じゃないか。彼女にも仕事がある。こりゃ朝になるまで返事が来ないんじゃないか? 海老名の目の前に広がる誰もいないフロアが、酒のせいもあって急激に溶け出していく。
まずい、早くしないと。でもどうしたらいい? あの花の名前さえわかれば、全てがわかりそうな気がするのに。真犯人も、滝野幸司が何を隠しているのかも、特に父親の幸彦に関する秘密も……とにかく落ち着け。
海老名は酒を飲み続け、もう1本煙草を吸う。そうしている間に、元妻からの返信メールが届いた。先程送信してから10分もたっていない。まだこの時間でも起きていたのか。
メールに書いてある例の花の名前を見て、全てを思い出し、全ての謎が解けた。
そして海老名は名刺ホルダーを取り出すと、この時間にも関わらず、ある人物に電話をかけ始めた。
でも、ありえない。今度は小壜のウイスキーを飲みながら、海老名は独りつぶやいた。ありえない。でもこの推理を受け入れなければ、全てがつながらない。ひょっとしたら、ただの妄想か? できればそうであってほしいが、もし正しいのなら……問題は真犯人をいつ拘束しに行くか。今か? それともあの人物が来るまで待つか? 仮に来たところで意味があるのか? そもそもこの時間に本当に来るのか? でもできる限り急がないと、全てが手遅れになりそうだ。夜が明けたら……
どうしようかな? 俺は相変わらず優柔不断だよ。
かつて元妻は海老名のことを、「ポローニアスも殺せないハムレット」とよく言ったものだ。称賛と軽蔑、両方の意味を込めて。別にハムレットは、ポローニアスを殺そうと思って殺したわけではない。叔父のクローディアスを殺そうとして、間違ってポローニアスを殺してしまったのだ。慎重に慎重を重ねた結果、間違いを犯すことは少ないかもしれないが、その分、常に大きな機会を逃してしまう臆病者。優柔不断のさらに上をいく超優柔不断。超が付くほどの優柔不断と言われようとも、もう少し待ってみるか。それともポローニアスを巻き添えにしてまで事を急ごうか……
酒を飲みながら悶々と迷っている時、突然内線電話が鳴った。1階の受付にいる当直の巡査からだ。
「わかった、今すぐここへ連れて来てくれ」海老名はそう伝えた。
当直の巡査が連れてきたのは、あの丸出為夫だった。
「何ですか、この真夜中に。私の祝賀パーティーは明晩のはずですぞ」
その顔は、いかにも就寝中をたたき起こされた眠気眼が進化した、不機嫌な様子。トレンチコートにベレー帽姿は昼間と同じだが、パイプ煙草はない。忘れてきたらしい。
「丸出、ちょっとこっち来い」と言って、海老名は席を立った。
外のガラス窓に面していないトイレの近くまで丸出を連れて行くと、海老名はいきなり丸出のコートの襟首を両手でつかみ上げて、丸出の背中を壁に叩きつけた。
「おまえ、いったい何様のつもりだ? というか、おまえはいったい何者だ? なぜ俺たちの捜査を妨害する? おまえのせいで、捜査がますますおかしくなってしまったじゃないか!」
「酒気帯び運転……」海老名に壁に叩きつけられた状態のまま、丸出があえぐようにそうつぶやいた。
「何だって?」と海老名が聞き返す。
「あ、あなた警察官なのに、しゅ、酒気帯び運転で検挙されたことがあるでしょ? わ、私は知ってますぞ」
「何のこと言ってんだ?」
「とぼけなくてもいいんですよ。わ、私はあなたのことなら何でも知ってます」
丸出の言っていることは事実である。酒好きの海老名はある日、飲み屋で大量に酒を飲んだ挙句、自家用車で自宅へ帰ろうとしたところを、運悪く交通課の巡査に呼び止められてしまった。ちょうど定期的な交通安全キャンペーンの期間であることを忘れていたのが、運の尽きだった。アルコール検知器で測定された数値は、上限を大きく上回る状態。本来ならば、この時点で海老名の警官人生は終わったはずなのだが、池袋北署の管内だったのが幸いした。海老名のような優秀な刑事を失うのは署のためにならない、ここは自分たちにまかせてほしい、という藤沢係長や戸塚警部の必死の説得もあって、当分の間、海老名の運転免許証は係長が預かって車を運転させない、という羽毛よりも軽い処分に終わり、本庁にも何も報告せず、署の内部だけで隠蔽してしまったのだ。このことは外部には漏れてないはず……
「おまえ、そのことをどこで知った?」丸出の襟首を吊し上げたままの状態で、海老名が聞いた。
「わ、私は名探偵ですぞ。甘く見てはいけません……そ、それより早く、その手を放してくれませんかね? 本庁やマスコミにリークしてもいいんですぞ。そ、そうなったら、あなたの首はおろか、この署の信用にも……」
海老名は両手を放した。解放された丸出はゼイゼイと息を切らせながら、床に落ちた自分のベレー帽を取るために床にしゃがんだ。海老名の目に入った帽子のない丸出の後頭部は、はげ上がっていた。帽子をかぶり直して、再び立ち上がった丸出は、
「今、私の後頭部を見ましたね?」
「いや」と海老名は嘘をついた。
2人が廊下で立ち尽くしたまま、しばらくの間、沈黙の時間が床を流れていく。
「それで……」海老名が口を開いた。「何が目的だ?」
「は? おっしゃる意味がよくわかりませんが」
「そうやって俺をゆする目的だよ」
「ゆする、だなんて人聞きの悪い……私はただ警察のお役に立ちたいだけです。そのためには、誰かにとって都合の悪い真実も知らなければなりませんが。金のことなら心配はいりません。それなりの報酬は署の方からいただきますし。あとはまあ……何かおいしい料理でもごちそうしてもらえると、うれしいですな」と言って、丸出は屈託のない笑顔を見せた。
「わかった。もうそれ以上、俺を嗅ぎ回らないでくれ」と海老名は言った。「それよりも……この時間にあんたを呼んだ件なんだけど、あんた昼間、大森と関係者へ聞き込みに行った時、アパートの奥で何かを踏んづけたろ?」
「はて? そんなことがありましたっけ?」
「よく思い出せよ。滝野幸彦ん家と息子の幸司ん家の間にあるアパートの奥だ。あんたが虫眼鏡で蛾の死骸を運ぶ蟻を観察した後……」
「ああ、あれですか。あれなら今でも私の……」と言って、丸出は自分のコートのポケットに手を入れようとした。
「ちょっと待った!」と海老名が大声で制した。「もし今も持ってるんなら……今、軍手をはめる。絶対に素手で触るなよ」
丸出のポケットから取り出した2つの物体は、机の上で静かに無残な姿をさらけ出していた。一つは踏みつけられて大きく変形しているが、何か青い飾りのようなものがついた細長い金具。女性用のヘアピンとおぼしき原型をわずかに留めている。もう一つは、その青い飾りのようなもののかけら。
海老名は軍手をはめた手で、その2つの青を慎重につなぎ合わせてみた。2つの青は一つの花の形……例のあの青い花をそのまま模造した、美しい飾りとなって表れる。海老名は、今度こそしっかりと記憶に留めたその花の名前を口にした。
「……ネモフィラだ」
もう迷いはなかった。あとは今すぐ実行あるのみ。深夜3時過ぎ、海老名は泥酔状態で無免許にも関わらず、一人でパトカーを運転し、滝野幸司の自宅へ急いだ。
そして娘の礼奈を拘束し、署に連行した。
礼奈はこの時間でも眠らずに起きていて、海老名が駆け付けた時には、父親の幸司のために設けられた階段の手すりにロープを引っ掛けて、首を吊ろうとしていたと言う。
滝野礼奈は、祖父の幸彦殺害を淡々と認めた。
あの日の深夜2時ごろ、礼奈は自宅の裏手から柵を越えて、隣のアパートの裏側を回り、あの柿の木から数メートル離れた所から高い塀をよじ登って、幸彦宅の敷地内に入り、木をすり抜けて、記憶しておいた裏玄関の番号を押して家の中に入り、台所から包丁の柄を素手でつかむと、2階の祖父の寝室に入り、就寝中の祖父を包丁で一突き……
凶器となった包丁の柄に付着していたもう一つの指紋は、礼奈のものと一致した。
殺害後は、ほぼ同じ経路をたどって自宅に戻ったが、興奮と焦りのあまり、柿の木の横をすり抜けると、すぐに高い塀をよじ登って、アパートの敷地内に入ろうとした。その時に前髪が柿の木の枝に引っ掛かってしまい、前髪にはめていたネモフィラのヘアピンが外れて闇の中に吸い込まれ、数日後に丸出為夫が踏みつけるまで、アパートの裏側で静かに眠っていたのは、礼奈自身にも知らないことである。
また、木の枝に付着していた毛髪をDNA鑑定した結果、やはり礼奈のものと判明した。
礼奈が祖父を殺害した動機。それは礼奈を2度も妊娠させたのが、祖父の幸彦であったことである。幸彦は3年ほど前から、合鍵を使って真夜中にこっそりと息子の家に侵入し、実の孫娘を犯し続けていた。
最初に礼奈が妊娠した時、幸彦は小切手に30万円と書いて礼奈に渡した。まあ、手術代は10万ぐらいで済むだろう、残りは小遣いだ、と幸彦は言って礼奈に中絶させた。その後も幸彦が礼奈を犯し続けるのをやめることはなく、再び孫娘の妊娠を知って、また同じように幸彦は礼奈に30万円の小切手を渡して、中絶するように勧めた。一度目は祖父の言う通りに渋々従ったが、2度目はさすがに怒りが込み上げてきた、と礼奈は言う。
「こういうのって、お金で解決できることじゃないと思うんです。こんな変なことをこれから先も繰り返すぐらいなら、お腹の子をまた殺す前に、まずあの人を殺してから気持ちを整理したくて……」礼奈は無表情にそう供述した。
娘が祖父の殺害を供述したことで、父親の滝野幸司も少しずつ真実を語り始めた。
幸司は自分の父・幸彦を殺したのが、本人から直接聞いたわけではないが、娘の礼奈であることはわかっていた、と言う。ただ娘の名誉を守りたい、その一心で自分が罪をかぶろうと思った、と話した。幸司は時々幸彦が夜中にこっそり家に入って来て、礼奈を犯していることは何となく知っていた、とのこと。過去にも例があったからだ。
それは姉の家出の原因……幸彦はやはり実の娘の早智子も犯していた。幸司はあの当時、それをこっそりと盗み見たことがあると言う。あのおぞましい光景は忘れようにも忘れられない。後の幸司の女狂いは、その記憶を頭の中からぬぐい去りたかったが故のことらしく、交通事故で半身不随になるまで続いた。姉が家出をしたことで、父と娘の異常な関係も家庭内で明るみになり、妻との離婚、幸司の非行、と一時的な家庭崩壊につながった。
「親父のその後の女狂いや、何回も結婚を繰り返したのも、結局は常に姉の面影を追い求めていた結果なのかもしれません」と幸司は言った。
そこへ今度は孫娘の成長。それがあの老人の異常な性癖に新たな油を注ぐことになった。
礼奈の再度の妊娠に気づいた幸司は、娘の留守中にこっそりと娘の部屋に入り、机の上に父親が書いた30万円の小切手を見つけた。幸司が怒りを膨らませて幸彦の家に乗り込んだのは、その数時間後。父親にこの小切手の意味を問い詰め、娘のみならず孫娘にまで手を出したその異常な性癖を責め、挙句には自宅の裏玄関の合鍵を没収して、もう二度と俺たちの家には来るな、この変態野郎、と小声で言って帰って行った。
「僕がこんな身体じゃなかったら、先に僕が親父を殺していたところです。お願いですから、これ以上娘に恥をかかせるようなことは、やめてください」と幸司は訴えた。
かくして海老名の推理通りに全ては展開していたわけである。もっとも海老名の顔に喜びはない。刑事として当然の仕事をしただけであり、またたとえ「少女A」と伏せられようとも、礼奈がこうむった恥辱や滝野一家のどす黒い運命は、今後の裁判やマスコミによる報道などで、これから先も何度も蒸し返され続けるであろう。
俺は余計なことをしたのかな? あのまま幸司が刑務所に入り、礼奈が自殺した方がまだ……海老名は頭の片隅でそう考えて、すぐに打ち消した。これは俺のせいじゃない、あの一家を犯罪に駆り立てた悪魔が悪いんだ。そう思うことで自分を慰めようとした矢先に、藤沢係長から大目玉を食らった。
「おまえ、また酒飲んでパトカー運転したろ? 免許は俺が預かったままなのは、わかってるよな。しかもあれだけ禁じられてるのに、自分の席で煙草まで吸いやがって……もうかばいきれんよ。今度やったら本当にクビだからな!」
「すいませんでした、フジさん、あの時急いでたもんで」海老名は全く悪びれた様子もなく、そう言った。「1分でも遅かったら、あの子はあの世に逃亡してたかもしれないんで」
空は透き通るような青空が広がっていた。春本番。というより、冬はもう布団をかぶって熟睡し、木の葉が赤く色づくまでは、起きることもないだろう。そんな暖かく柔らかい日差しが、署の窓にも差し込んでいる。
「それにしても、おぞましい話ですよね、近親相姦だなんて」隣の席から大森が海老名に話しかけた。「まあ、いくつになってもご盛んなエロジジィなんて別に珍しいことじゃないけど、自分の孫娘にも手を出すなんて、どうかしてますよ」
「まったくだ。俺だって、そんなこと考えたくもなかったよ」海老名が自分の席にあるパソコンの画面を見ながら言った。画面の壁紙は、ほとんど見たことがない笑顔を見せる息子の勇気のものに変えてある。背景にはネモフィラの青い花畑。元妻が撮影したやつだ。「子供や孫の成長なんて、黙って見守ってるだけでも楽しいもんだろ。花だって同じさ。それも自分で育ててるものなら、なおさらだ。そんな自分で育てた花を自分で踏みにじって楽しむ奴がいれば、そいつの考えてることは理解できん。理解したくもねぇよ」
「理解できないと言えば、あいつの存在も全く理解できませんよね」と言いながら、大森はフロアの隅の小テーブルに座っている丸出為夫を見た。
丸出は高級料亭から頼んだ仕出し弁当を食べながら、まるで王様か殿様にでもなったような気分で浮かれている。誰も聞いていないのに大声でしゃべりながら。
「今回の事件で決定的な証拠を見つけたのは、この私ですぞ。私のおかげで事件は解決したんですからな。みなさん、これで私がどれほど優れた名探偵であるかが、おわかりになったでしょう?」
何言ってんだ、このバカ野郎。海老名は小声でつぶやいた。おまえがこの事件でどんな活躍をした? 人の足を引っ張るだけでさ、とんだ疫病神だよ。だいたいあのネモフィラのヘアピン、何も知らないで踏んづけただけじゃないか。
でも……なぜあいつは俺の酒気帯び運転のことを知ってるんだ? あいつはいったい何者なんだ? ひょっとしたら、違う意味で只者じゃないのかも……
そんな海老名の疑問は、外の春風に舞い上がることもなく、陽の当たらない心の片隅で、ただじっと根を下ろしている……
(次回に続く)




