いささか刺激が足りませんし、飽き飽きしますね。
「共和国側は、自国領土の『オルフ台地』が主戦場になるという代償を払い、帝国側は水面下でイオニクと交渉してきた五年間の『情報』という代償を払った、というわけだ」
テオ・ザイフリートは、遠く東の空がぼんやりと明るくなってゆくのを、目を細めて眺めていた。ホルスターにはしっかりと魔導銃「ノヴァ」が収められている。
「この戦争がどうなろうと、クンツェンドルフは歴史に名を刻みましたね」と、スズ・ラングハイム中尉はとなりで言う。「リオベルグは今ごろ、ソルブデン軍によって制圧されているでしょう。現場の兵士たちがきちんと作戦を噛み砕けていれば、死者は出ていないはずです」
二人はオルフ台地の西、ほぼイオニクとの国境線に近いところにある崖の上に立っている。そこからは、国境を隔てている築城式結界をよく見渡すことができる。
首尾よくことが運び、メデューサがうまく騙されてくれれば――つまり「ルーンクトブルグは帝国との交渉に失敗し、リオベルグ侵攻に出遅れた」と思わせられれば、目の前の結界が破壊され、魔族の群れが姿を現すはずだ。
そこを、ルーンクトブルグ・ソルブデン連合軍が一気に叩く。クンツェンドルフ中将とレナエラ・エスコフィエ大佐が交渉に尽力した結果、実現した作戦だった。
しかし、未だ荒野はしんと静まり返っている。
「もう夜が明ける。まさか勘づかれたか」
「まあまあ少佐、落ち着いて待ちましょう。各連隊はすでに配置についていますし、ここまでできることはすべてしました」
テオは冷たい空気を吸い込み、それをめいいっぱい時間をかけて吐き出した。
この数日は、とてもゆっくりと時間が経過しているように感じていた。任務としてはこれと言って具体的なものはなく、中央本部の小さなオフィスでただただ時間が過ぎるのを見守っていることが多かった。
まさに今日このときのために、肉体と精神を万全にしておく。それが主な任務だった。
「少佐、それでどうなったんですか?」
スズがテオの脇腹を軽く小突いた。
「いったいなにがだ? ラングハイム」
「『いったいなにがだ? ラングハイム』って少佐、話を逸らすのが死ぬほど下手ですね。もちろん色恋の話ですよ。ケルニオス生誕祭、彼女と過ごしたんですよね?」
「――そんな話をしているときではないと思うんだがな」
テオたちはこの国の今後の命運を左右する、極めて重要な作戦の最中である。
「いいえ、とても大事な話ですよ。目の前に大きな戦争が迫っている。そこへ身を投じる運命にある若い男女。直前の生誕祭になにもないはずがないですよね? 常識的に考えて」
「非常識が服を着て歩いているようなきみに『常識的に』とかなんとか言われてもな」
家族や恋人など、大切な人と過ごすのが通例である「ケルニオス生誕祭」だが、テオはここ数年で初めて休暇を取ることができた。そしてもちろん彼は、自分の部下の休暇がいつか、上官として把握している。ニコル・フィルツ大尉が生誕祭に任務が入っていないことは、もちろんわかっていた。
スズは嬉しそうに、にやにやと笑顔を綻ばせている。
「どこまでしたんですか?」
テオは咳き込んだ。
「だっ、だから――そんな話をしているときではないと言ってるだろ!」
「否定しないということはしたんですね?! 行くところまで行っちゃったんですね?! あらあら、まあまあ、これはこれは」
「中尉――貴様、この戦いが無事に終わったら撃ち抜いてやるからな」
「楽しみにしています」
そして、東の空がゆっくりと目を覚ましたころ。
唸り声のような音を立てて、地面が揺れ始めた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
デニス・リフタジークは遠くで轟音を聞いた。
「いよいよ、始まりましたか」
となりで魔導銃を構えたゲイラーが言う。
デニスは部下たちに指示を飛ばす。
「ここは戦場となるであろうオルフ台地から最も近い村のひとつだ。化け物どもが到達する可能性もじゅうぶんにある。気を引き締めておけ」
まだ薄暗い村の中心部。こぢんまりとした広場に部隊は集まっている。
彼らはフロイントに来ていた。
四年前、魔族の襲撃事件が起きた村だ。村の人々はゲーデという魔族に操られ、派兵されていた当時のデニスの部隊を襲った。その過程でデニスは引き金をひき、民間人を殺める。彼にとっては軍を追われるきっかけとなった村でもあった。
フロイントはイオニクとの国境から約二十キロの地点にあるため、周辺の村々も含めて住民は避難を余儀なくされている。到着したときはすでに、村の住民はいなくなっていた。静まり返ったフロイントは、言葉にできない不気味さを感じさせた。現在村にはいくつかの部隊が駐留し、物資中継の要所となっている。
〈こちらアルバトロス01、国境線沿い、築城式結界の崩壊を確認――〉最前線に配備されている偵察部隊から通信が入る。〈繰り返す。築城式結界の崩壊を確認。このまま敵戦力の目視まで偵察を続ける――〉
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「六十年。国と国と隔てていた壁も、そのときがくれば、なんともあっけなく崩れ去ってしまうものなのですね」
風がそよぐような声で彼女は言う。目の前で起こっている紛れもない歴史的な出来事に想いを馳せて、彼女は微笑する。その表情は憂いを帯びていると同時に、まるで初めて言葉を発した我が子を抱く母親のように、嬉しそうでもあった。
魔導連隊長のイレーネ・シャルクホルツ大佐は、配下の魔導部隊を従え、前線へと赴いていた。深い黒色のローブに身を包み、身体の正面に杖をついている。飾り気のない、樫の木でできた古い杖だった。彼女は握り拳ほどの大きさの持ち手に両手を添えて、まっすぐに結界を見据えている。青い宝石をあしらった髪飾りが、淡く輝いていた。
「あれはただの爆発じゃないな。向こう側から地属性の魔法をあてがって、強制的に解除をかけてる。ああしかし、世界最大級の築城式結界が――かなり貴重なものなのに、もったいない」
副官のホルガー・ランセル中佐は双眼鏡をおろし、ため息をついた。
彼はシャルクホルツ大佐の右腕であり、ルーンクトブルグ軍指折りの「結界師」である。恵まれた体躯を持つ、大柄な男だった。丸刈りの頭には複雑なかたちの剃りが入っており、腕から手首にかけて、奇妙な模様の刺青がある。その風貌のせいで、大抵の人間は最初彼を敬遠するが、性格は極めて温厚な男だった。
「ランセル、堀の準備を」と、シャルクホルツ大佐が指示を出す。
「了解」
ランセル中佐はさらに部下へと指示を下ろし、崩れた国境を取り囲むようにして、部隊を散開させた。約百メートルの間隔で、ちょうど半円を描くようにして結界師たちが配置される。
「最前線に配置された喜びも束の間、作戦を聞けばまた『塹壕戦』ですか。いささか刺激が足りませんし、飽き飽きしますね」
シャルクホルツ大佐はため息まじりに言う。
「まあまあ姉さん、この作戦を承服しないと、あのバラデュールに前線を持っていかれるところだったんでしょう? そんなことになってたら、うちの部隊は今ごろふてくされてビアパブにでも詰めてますよ」
ランセル中佐のがたいの良さは、小柄なシャルクホルツ大佐と並ぶといっそう顕著になる。ともすれば、大佐を彼の肩に乗せることさえできそうだ。
シャルクホルツ大佐は微笑する。
「ええ。実際のところ、これが妥協点です。仕方がありません。作戦があってこその軍隊ですからね――とこでランセル、私は今とても気になっていることがあるのです」
散開した結界師たちは地属性の魔法を発動し、塹壕をかたち作っていく。大きく、広く、そして深く。
「ええと、なんでしょうね――壁の向こうからどんな魔族が姿をあらわすのか、ですか?」
大佐は微笑みをたたえたまま、首を横に振る。
「いいえ。私が気になっているのは、魔族が朽ち果てるまさにそのとき、いったいどんな叫び声を上げてくれるのかです」
そのとき、土煙を上げる結界の向こうから、ぼんやりと影が見えた。同時に通信が入る。〈こちらアルバトロス01、魔族を視認。その数――計測不能。おびただしい数の魔族が我が国の領土を侵攻中――繰り返す――〉
シャルクホルツ大佐は髪を軽く耳にかけ、持っている杖でこつんと地面を打った。
「さて、楽しみですね」




