蝶のはばたき 7
「シャミラセスの水蝶?」
医務室長が、小首を傾げた。博識な男でも知らないらしい。この男が専門分野とはかけ離れているのだから、当然とも言えた。
バラッドはようやくササヅカの上から、身体を退けた。
ベッドの縁に腰を下ろし、眠る少女に無意識に手を伸ばし、その頬を撫でた。
「遥か昔の話だ。神話として、ここらじゃ語られたり―――してねえんだな。そうだよな。驚くくらい信仰心のねえ国だもんな」
信仰心が無い、だと語弊があるか。言いながら、バラッドは思った。朝街の最大手ギルドは宗教ギルドだ。決してこの国の民に信仰心が無いわけではない。ただ、この朝街にある宗教ギルドの掲げる思想が、この国ではなかなか浸透していないというだけの話だ。
朝街で最大手の宗教ギルドが教え説くものは、世界宗教とも呼ばれている。シャミラセスの水蝶の話も、そこでは語られているに違いない。だからシャミラセスの水蝶の話は、朝街で暮らす貴族なら、誰でも知っているはずだった。
しかし、一般市民には、世界で信仰される宗教ギルドは、少しばかり敷居が高い。生まれた時のへその緒がどうのっていう儀式を皮切りに、死ぬまで儀式漬けである。費用がべらぼうにかかってくる。あれは王侯貴族の為の信仰だ。
一般市民は、朝街の宗教ギルドを取り入れつつも、昔からこの土地にあるしきたりを重視していた。バラッドにすれば、こちらの民俗信仰から派生する文化のほうが、良く分からないものが多かった。例えば「新月は、食べてはいけない」のだと云う。何を? という話である。彼らは、これをやたら真面目に言ってくる。しかも真面目に言った本人共が、新月の日にいつもと変わりなく物を食べている。「何を、って新月を、だよ。他の物は食べていいに決まっているだろ、バカだねえ」と、笑われた時には、意味が分からなすぎて、笑った副隊長を殺してやろうかと思ったくらいだ。
バラッドは、この国の意味の分からない地域信仰は、早々に理解するのを諦めた。
まだ、朝街の宗教ギルドの神話のほうが理解が出来た。
「シャミラセスは空中庭園の名前だ。実際あった」
「実際あった?」
「そう、今は落ちた。西の果ての礫の遺跡がそれだ」
「礫の遺跡?」
医務室長はそれも知らないらしい。そりゃそうか。西は人形しかいない。踏み込めぬ禁忌の方角だ。
「礫の遺跡には水蝶はいねえが……シャミラセスだった頃には水蝶がいた。最も鮮明で、最も美しい夕陽の色を羽に閉じ込めた水辺の蝶だ。その水蝶が飛び立つと、庭園の湖の水面が揺れ、生じた波紋が広がり続け、漣は大きなうねりとなって、遥か彼方、東の最果ての大都市メルデルラザルが水没する」
バラッドは、少女の頬の感触を楽しみながら、医務室長を見上げた。
医務室長は無感動な目でこちらを見つめていた。
それは、少年だった頃、「新月は、食べてはいけない」と言われた時のバラッドの横にいた男二名の表情と重なった。端的に言うと、そんなアホな、と言いたげな顔だ。そしてあの時、その二人の隣で自分もそういう顔をしていたと思う。
「へえ、蝶が飛ぶとメルデルラザルが水没するのか。それは凄いね」
物凄く棒読みで言われて、バラッドは吹き出した。
「シャミラセスはもう無い。礫の遺跡には水蝶もいねえから、あの大都市が水没することはない。いや、大事なのはそこじゃなくてだな―――その話から、シャミラセスの水蝶ってのは、物事のはじまりって言われている」
しかも、良くないことの始まり、を指す言葉だ。
バラッドは、自分の手が触れている柔らかい頬の感触と、もう片方の手に収まる硬質なチップの感触を意識した。
得体の知れないこの少女は、シャミラセスの水蝶、だろうか。
アルルカ部隊長のササヅカに対する勘違いは、まるで水蝶の飛び立った水面のように広がった。あんな風に、バラッドの知らない所で、大都市を水没させるような何かが、静かに波紋を広げ続けているのだろうか。
バラッドは自分の考えに笑った。まさか、な。こんな突飛な話、さすがに医務室長にも伝える気にもなれずに首を振った。さて、そろそろカウンターに戻ったほうがいいだろう。置いてきた奴が、怒りに震えて剣先をこちらに向けてくるとも限らない。
戻ろうと思うのに、手はいまだに、少女の触り心地を愉しんでいた。こいつの触り心地、癖になるよなあ。バラッドは、身体を屈めた。その耳元に囁く。
「お前が蝶ならいいんだがなあ」
そうしたら、きっと、確実に、面白いことになる。
バラッドは指で撫で、キスを目蓋に落とす。
瞬間、だった。
戸が蹴破られる音がした。
「てめぇぇぇええええ!!! 訓練をすっぽかすたぁ、いい度胸じゃねえか、ああぁ!?」
怒号が響いた。
蹴られた戸が、激しく床に落ちる音がする。
もはや怒号も凶器だった。硝子窓が、揺れる。
バラッドは、少女にキスを落とすぎりぎりのまま、動きを止めた。
医務室長も、戸口を見つめているのが分かる。
「ムドウ部隊長だね」
呑気な声で、医務室長が呟いた。
バラッドは咽喉を引きつらせた。
ササヅカの額と自分の額を触れ合わせながら、全身を震わせて、笑いをこらえた。
室内は、バラッドのこらえきれず漏らした笑い声が響く。
その他は、変わらず、静かなままだ。
やがて、医務室長がゆっくりと首を傾げた。
「あれ、隣の患者、新兵部隊だったかな」
次の瞬間、バラッドの爆笑と、隣の部屋からの悲鳴が同時に起こった。
「サボってねえ!! つか、俺は新兵部隊じゃねえええええええ!! ってその前に、ちょ、オヤッサン!! ぅおおおおオヤッサン……! コード、踏んでる! 俺に、つながった、そのコードを、踏……あ、足に引っ掛けんな、何してんのぉぉぉぉ!!」
続く声は、呆れたような声だ。
「何やってんスかムドウ部隊長。ササヅカの部屋は隣―――」
そうして、今度こそ扉が開く音がした。
しかし室内は変わらず、静寂が続いた。
バラッドは、笑いすぎで肺が痛かった。肩で荒い息をしながら、互いに合わせていた額に口付ける。ああもう。こいつ、本当に水蝶じゃないのか! この少女から派生する様々なことが、面白すぎる……!
扉が、静かに、閉まった。
怪訝そうなムドウ部隊長の野太い声が戸の外で響いた。
「おい、隣じゃなかったのか」
扉を開けたらしいラックバレーの声は無い。バラッドは笑いながら、身体を起こした。戸口を見やれば、やはり、戸口には誰の姿も無く、きっちりと閉められている。
「おいどうしたラックバ」
がん、と戸が揺れた。しかも二度、三度、四度、五度と続いていく。
ムドウ部隊長の慌てた声。
「ちょ、おま、なんで扉に向かって頭突きしてんだ、やめろ!」
「いや、きっと、俺が、悪い、俺が、あの服を、着て、みてる、場合じゃ、なかった!」
「は、服、だ―――? おい、やめろ、血ぃ出てるから!」
「いや、制服プレイつっても、着るのに滾るか着せるのに滾るかで話が変わってくるでしょぉ!?」
「……せぇふく、ぷれえぇ…?」
「着て滾らねえことを確認してる場合じゃなかった!! 女もんでも肩さえ通れば着れる、とか着方を工夫している場合じゃ断じてねええええ!!」
「………いったい、何の話をしてやがる……!!」
がつん、と音がした。
バラッドには分かった。
これはラックバレーが戸に頭突きしている音とは全く異なる、と。
「うぅ」
少女がかすかに呻く。見やれば、険しい表情をしている。ササヅカはおもむろに腕を上げた。そしてゆるゆると手が頭を押さえる。そして、ころりと転がってこちらに背を向け丸まった―――しかもぷるぷる、という表現が正しい様子で、頭を押さえている。
見事な条件反射。
ササヅカは日常ゲンコツをくらいすぎて、ゲンコツの音がしただけで、自分がくらったみたいな反応をしているようだった。お前、何その条件反射。
バラッドは心底、ササヅカに同情した。
その背を、優しく慰めた。
「そうだよな。ムドウ部隊長の拳って痛ぇよな……」




