蝶のはばたき 6
眠る少女の眦から、涙がこぼれた。
こぼれた一粒の雫を、銀縁眼鏡の男の指が掬う。
その様子を視界の端で見ていたバラッドは、少女の肌に触れたまま微笑んだ。
そして、ついに、それを口に含んだ。
滑らかな肌をこする唇の感触に、少女は素直に反応した。くすぐったいのか肩が強張り、頬はほんのりと赤く色づく。今回は啼かなかった。先ほどまで可愛い啼き声を聴かせてくれていたのに。
惜しいな、とバラッドは思った。もう一度、啼かせてみたかったのだが―――
目的の物に、口が辿り着いてしまった。
ササヅカの手の平から円柱硝子―――チップを口で軽く摘み、バラッドは身体を起こした。指で掴み直して見つめれば、口角が知らず知らずのうちに上がる。
「これは、すげえな」
手の中の円柱硝子は、見たことのない色に変化していた。
黒色の円柱硝子の中は、指で揺らしても何の変化も見られない。情報がすり潰されるくらい凝縮されているのが、一目で分かる。異様なチップだった。異様すぎて、禍々しい。これを少女に渡したであろう男の顔が浮かんでくる。バラッドは納得した。間違い無く、このチップは、禍々しい代物だ。
「中には何が?」
同じくこれほど異様なチップを見たことがないであろう医務室長が、当然の質問をした。
バラッドがにやりと笑う。思い浮かぶのは、粗悪な偽物の住民カードだった。
「夕街のあの情報ギルドの全てが。だが欲しかったのはそれじゃねえんだよな―――住民カードの移動記録が欲しかったんだが」
「そう、街から街への移動記録が欲しいんだ」
「そう、街から街への移動記録も欲しいんだ」
バラッドは笑って言葉を返した。
医務室長は笑うこちらを眺め、しばらくして、ああ、と、納得したように呟いた。
「それは大変だね―――バルフレア・ハインの全貌から、そんな小さな情報を探すのは、きっと骨が折れる作業だ」
そう。それも問題だ。
今、欲しいのは『違法住民カードが、どこでどう利用されたか』という情報だった。
この街では、どこへ行くにも住民カードの提示が要求される。魔法と機械の二重確認なんて面倒臭いことは外門以外ではやらないが、魔法認証か機械認証のどちらかは確実に行っている。提示して街から街を移動すれば、確実にその情報はバルフレア・ハインに蓄積される。
チップの中を辿れば、違法住民カードに関与した輩の頭に、鈍色の弾を撃ち込めるかもしれない。
だが、医務室長が言うように、このチップの中には膨大な情報が詰め込まれている。
チップの中が理路整然と整理されていれば問題は無いのだ。だがもし情報が、これを少女に手渡した男のように禍々しく、混沌としていたら―――バラッドが、今欲している情報を探し出すのは困難を極める。
そして、バラッドは確信していた。
このチップの中は、混沌としている、と。
時間と手間は、確実に、かかる。
それでも探し出すことが不可能だとは、バラッドは思っていなかった。今、探そうとしている情報が、バルフレア・ハインの全情報の中においては、小さな小さな針の穴のような情報であったとしても、最終的には自分の前に引きずり出すことはできる―――気負いなく、当然のようにそう思っていた。何故なら、チップは彼が何よりも得意とする『機械』文化から生まれたものだからだ。バラッドは機械のことなら、このギルド、いやこの街の誰よりも理解していると自負していた。
機械とは反対に、バラッドには手に負えないものがある。
バラッドは、自分の下で眠る少女を見下ろした。
「それで医務室長? 俺の見立てじゃ、ササヅカは魔法貧血って結論なんだが、合っているのか?」
「どうしてそう思うの」
医務室長が、ササヅカの髪を撫でた。
「カウンターに、この子の体内の魔法量が尽きかけているのを感じる、なんて説明、できるとも思えないけれど」
「そんなこと、俺に分かるわけねえだろ!」
バラッドはからりと笑った。
まさに、これこそバラッドの最大の欠点だった。
ヒトは誰しも、1以上の魔法の才能を持っている。0ではない。必ず1はある。
だが、バラッドは0だ。
バラッドには、魔法の才能は皆無だった。魔法に関していえば、このギルド、いやこの街の誰よりも理解できていないと、これも自負していた。
「魔法の心得が無くても、この爪、この目の縁を見れば分かるだろ」
ササヅカの爪は白かった。その目の縁も色を失っていた。典型的な魔法貧血の症状だ。その上、医務室長のササヅカに対する対応は「寝かせておけ」だった。
これなら、慌てずに状況を見ていれば、自分でも分かる。
ササヅカは、魔法貧血だ。
魔法貧血は、眠って、体内の魔法量を蓄積し直せば、起きた時には健康そのものだ。手っ取り早く他人の体内の魔力を分け与える方法もあるらしいが、魔法に関しては、どこの誰よりも胸を張ってクズレベルと自覚しているバラッドには、『魔法貧血を起こした奴は、蹴っ飛ばして寝かせておけ』が唯一の治療法だった。
それくらい魔法知識の浅いバラッドが、今日、初めて知ったことが三つあった。
一、魔法貧血を起こした奴は、貧血中は何をしても、目を覚まさない。
二、ササヅカは、何度も啼けと要求したくなるくらい、可愛い声で啼く。
そして、三、可愛い声で啼く主は、どうやら魔法が使えるらしい、ということだ。
ササヅカが今まで、魔法について何か言っていたことがあっただろうか。バラッドは記憶を辿った。いや、一度も無いはずだ。
魔法について口にしたこともないササヅカが、今、こうして魔法貧血で眠っている。
よくよく考えれば、ササヅカは得体が知れない。
バラッドは少女がどこから来たのかもしらない。
ごく当たり前のような顔でここにいるものだから、些細なことだと気にとめたこともなかった。
街に流れてきて、ギルドに加入する輩も少なくはない。外遊部隊が拾ってくるのは、村を失い、行く当ての無くなった者達だ。ササヅカもそうだと、勝手に解釈していた。勝手に解釈しただけだ。ササヅカが自分の性別について説明しなかったのと同じだ。こちらが勝手に解釈し、向こうは一切何も言わなかった。
一切何も言わなかったから、バラッドは少女をただの子供と思っていた。
そこらへんにいるただのガキ、と。
だが、そこらへんにいるただのガキが、『あの男』の興味を惹くことができるのだろうか。
てめえはボケ老人か、というくらいヒト憶えの悪い男なのだ。
必要無しと見なせば、即座に忘れる。最近も朝街部隊長に「誰だっけお前」発言を繰り返し、朝街部隊長が「理解に苦しむ」と精神的に病んでいたくらいだ。そりゃ、そうだ。あの男のその口癖は、「不必要」と言っているのと同等の意味を持つ。そんな男が、だ。
数日に一度、「ちゃんと思い出して」渡してくる少女宛の掲示用の紙、
これこそあの男が最大級に興味を持っている証拠になるのではないだろうか。
ササヅカは、ただのガキじゃあ、ないってことだ。
ただのガキじゃないササヅカが、今日、連れ去られ、帰ってきたら魔法貧血でぶっ倒れていて、その上、その手には禍々しいチップを持っている。
嫌な予感で心がざわつく。
ざわつきすぎて、心が躍った。
何かが起こっている。
バラッドの知らない所で、確実に、何かが起こっていた。
彼は愉しくなって呟いた。
「シャミラセスの水蝶が、すでに飛び立っている気がする」




