バルフレア・ハイン 03
いや、何故、そこが出てくる。
案内カウンターのバラッドは、通信機の故障かと思った。丁度―――奇しくも丁度、カウンター内にはその子供の資料が広げられていたのだ。カウンターに広げられた資料は、数週間前に手配した国籍変更申請書や住民票の控えだった。
―――少し、気になることがあって、確認していたのだが。
「は!? なんでそこであいつが出てくるんスか!」
通信機の先で、ラックバレーの素っ頓狂な声が聞こえた。
「あんな足手まとい連れて行けなんて、死ねって言ってるようなもんスよ!」
「うるせえな! あれを連れて行くなら、お前だって少しは慎重に行動するだろ! そういう意味だ!」
「そりゃ慎重に行動するでしょうよ! あいつがいたら、何かしらぶっ飛んだことをされて、状況が壊滅的になるに決まってる。警戒しないわけがねえでしょうが!」
「否定はしねえが、世話係なら手綱をちゃんと引け!」
「……世話係じゃねえええええええ!」
バラッドは通信機から耳を離した。うるせえ部隊長と部下だこと。どうやら、ラックバレーはあの子供がバカラで起こした騒動が、相当トラウマになっているらしい。
「あんなの連れて行ったら、自殺行為も甚だしい……!」
「分かった、分かった! あいつを連れて行くなら、かわりにバルフレア・ハインの客人に助力してもらえるよう、一筆書いてやる!」
きた。
バラッドは椅子の背もたれから身体を起こした。通信機の先の男の、この言葉を待っていたのだ。
バルフレア・ハインの情報の開示には、二つのロックを解除しなければならない。バラッドはバルフレア・ハインの機械ロックは解除できても、魔法ロックが解除できない。誰にでも得意不得意はあるものだ。バラッドは機械のことなら呼吸と同じくらい簡単だ。だが魔法となると、完全にお手上げだった。
バルフレア・ハインから情報を引き出すためには、魔法ロックをどうにかしなくてはならない。そこで真っ先に思い浮かんだのが、バルフレア・ハインの『客人』だ。この『客人』は、ベイデン・ムドウ至上主義を掲げている。ムドウ部隊長の願い事なら、客として歓待されている場所であれ、簡単に欺くだろう。
だが『客人』の助力を得るためには、大きな壁があった。最大の問題は、ムドウ部隊長その人にあったのだ。ムドウ部隊長は『客人』と関わることを嫌悪している。一ヶ月に一度、義務で会っているようだが、それ以上の交流は拒絶している。
こちらから『客人』に依頼してくれと言っても、ムドウ部隊長は許諾しなかったに違いない。むしろ意固地になって、拒否を繰り返した可能性もある。助力の申し出は、ムドウ部隊長から言わせる必要があった。――なんか余計なモノも付いてきたけど。
しかし、これでバラッドの思い描いたように話は進むことになった。
楽勝だな。案内カウンターはほくそ笑んだ。ムドウ部隊長が指定してきた余計なモノは、ラックバレーの横で大人しくさせておけば、何の問題も無いはずだ。―――この話、『客人』の助力が決まった時点で、成功が約束されたようなものなのだから。
丁度その時、例の『余計なモノ』が、本部の入り口から入ってきた。
心なしか肩が落ちている。意気消沈。最近は常にこの調子だ。―――昼街に平手を食らってからは。
あの平手のせいで、聞きそびれていることがある。
バラッドは通信機の先で、部隊長と部下が喧しく騒いでいるのを聞きながら、カウンターの資料へと視線を落とした。そこには今、ホールに現れた子供の資料がある。空いている左手が自然と資料の中の単語を辿る。ぴたり、と止まった指のハラが、ある単語に覆い被さっていた。
ゆっくりと、指を紙面から持ち上げた。
―――単語は、男、とある。
「おい、聞いてるか!」
通信機の先の怒鳴り声。
「そりゃ、通信機が繋がっているんだから聞こえてる。むしろ痛いくらいにどやかましい」
「ラックバレーに俺からのモノを預けるが―――だがな、絶対、必要最低限の使用に留めろ。いいな!」
「ムドウ部隊長からの手紙って聞いたら、夕街の君、大喜びだろうに」
そう呟きながら、男、という単語を指のハラで叩く。
バラッドは視線を跳ね上げた。
入り口から入ってきた子供は、カウンターには来なかった。掲示板を見上げている。ぴょこん、と肩が揺れた。例の紙を発見したらしい。背筋が自然と伸びていく。背中からでも分かるくらい、子供の意識は掲示板に向いていた。
あーあ、喜んじゃって。バラッドは通信機の先の声を聞きながら、口元を歪ませた。そんな喜んでも、今日の内容は、落ち込むだけだってのに。
バラッドは内容を知っていた。もちろん案内カウンターが知らないわけがない。頼まれて、掲示板に掲示しているのはバラッドなのだから。
『 ササヅカ新兵部隊員へ 』
いつもの言葉で掲示板の書き出しは始まっている。
掲示板を見上げる子供の目は、きっと輝いていることだろう。
だが今回は、いつもの誘いとは違う。
見上げる黒い瞳の輝きは、次の言葉で翳るだろう。
『至極、多忙のため、白天祭が閉幕するまで連絡を休止する。 H 』
その背中を眺めていたバラッドには、子供の歓喜が落胆へと変化する瞬間が分かった。掲示板を見上げていた頭がゆっくりと落ちた。伸びていた背筋が次第にゆるゆると丸くなる。萎んだ風船のようだ。ほら、だから落ち込む内容だっただろうに。面白い奴。バラッドはにやにやと嗤った。本当に、羨ましいくらいに感情を素直に表現する奴だ。
その背を観察しながら、左の指先が触れている単語を意識した。単語が、違う単語を連想させた。掴んだことのある首を思い出す。子供の首は細いもんだ。だが―――
少女の首も、同じように細いものだ。
「バラッド、ササヅカは来てるか」
通信機の先で、ムドウ部隊長ががなり立てた。
「ああ、丁度来た」
「ハヅィはまだか」
「いや、ハヅィは訓練所にいる」
「なら、訓練所にササヅカを行かせてくれ。こちらも向かう」
「了解、ちょっと待ってろ――――おい、サ」
サヅカ。
通信機を耳に当てたまま、声を上げかける―――その瞬間、案内カウンターの前を、しなやかに、何かが通り過ぎた。
「連れて行くぞ」
すとんと、重低音が落ちてきた。
バラッドが案内カウンターの中から、動く物を目で追ったのは条件反射に近かった。ふわりと香ったかすかな香り、呆けていた意識が離れていく背に持っていかれた。そのまま目をそらせなかったのは、この男が何をしでかすか分からないと、脳が訴えたからだ。
バラッドは呆気に取られたまま、しなやかに歩く男の背を見つめた。
静かに、獰猛に、ゆっくりと。
まるで野生の獣が獲物に近づくように、男は音を立てなかった。
そしてその歩みの先に、掲示板の前に立つ子供がいた。
掲示板の前の子供は、しょんぼり、を体現していた。ペンを持って返事を書こうしているが、いつもの珍妙な返事は生まれてこなかったらしい。諦めたのか、ペンを掲示板の桟に置いた。掲示板から離れかけ、視線を感じたのか何気無く顔が上がる。直後、黒い瞳が大きく見開かれた。びくりと肩を震わせて、足から根が生えたかのように凝固した。
獣が、子供に近づいた。まるで獲物で遊ぼうとでもするように、随分とリラックスしている。ついに彼は獲物のもとへと辿り着き―――凝固する子供の顔を覗き込むように少し屈んだ。眺めた男が笑ったのがバラッドからも見て取れた。何かを言った。重低音で恐ろしい程、場を支配するその声は、何かぶっ飛んだことをさらりと言ったに違いない。男の腕が上がり、その手が動けずにいる子供の頬に伸びた。男の指が子供の左頬に触れ、男はさらにゆっくりと屈み、顔を近づけ―――おいおい……! バラッドは椅子から腰を上げかけた。こちらが口を出す暇は全く無かった。
獣は屈んで、指で触れた子供の頬を――舐めた。
べろりと舐めた。躊躇無く、舐めた! 偶然、傍観する羽目に陥ったバラッドよりも、左頬を舐められた子供のほうが激しく動揺した。ここから見ていても、分かるくらいに顔が赤くなる。狼狽した子供が後ずさりしかけ、眼前の獣に腕を掴まれる。子供の肘を掴んだ男の肩が、揺れる。愉しげに笑っていた。そして男は身体を起こし、歩き出した。男の一歩の大きさに、肘を掴まれたままの子供が慌てて小走りで着いて行く。
すっと男の眼が案内カウンターへ向いた。
その眼が―――青灰色の眼が、愉しげに、獰猛に、細まった。
嗤っていた。
バラッドの脳裏に男が言った言葉が浮かんできた。―――『連れて行くぞ』
そのままホールを通り抜け、彼らは姿を消した。
その後ろ姿をバラッドは間抜けにも見つめ続けた。
処理しきれない情報。
椅子に中腰で、呆けていた案内カウンターは、ムドウ部隊長の「条件」が拉致された事実に気がついた。これでは、バルフレア・ハインの『客人』の助力が得られない。だが、計画の為に子供を返せと言って通じる相手では、勿論、無い……! つまり、そう。こちらが描いた計画は、頓挫した。何、あのヒト。この忙しい時期に、連絡中止と書いた紙を掲示しろと言ったのはあの男だったはずだ。だが、クソ忙しくて本来こんな場所にいるはずのない男は、こともあろうか子供の頬を舐めていた。忙しいと抜かしたのはどの口だ。そうして愉しそうに連れて行く姿が浮かんだ。何だ、あのヒト、本当に……
や り た い 放 題 だ な ……!!
漏れ出た呻き声に、通信機の先のムドウ部隊長から怪訝そうな声が上がる。
「……ムドウ部隊長」
積み上げた計画をあっさり崩して行った男に、バラッドは半ば殺意を抱きながら、通信機の先に言った。
「引くべきはササヅカの手綱じゃねえな……」
あれに比べれば、ササヅカなんて可愛いもんだ。このギルドで真に手綱が必要なのは、子供を引っ掴んで行った男のほう―――そして一番の問題は、あれの手綱を引ける輩が、このギルドには見当たらないことだった。




