第二話 王宮に響く鐘の音
お見合いの翌朝。
「王立楽団の代役は、ピアノの独奏にする。」
ユリウス・グランフォードの言葉に、側近が目を丸くした。
「……独奏、ですか?」
「ああ。」
「たった一人で、王立楽団の代わりを?」
「そうだ。」
「……失礼ながら、本当に大丈夫なのでしょうか?」
ユリウスは静かに頷いた。
「私も、最初は信じられなかった。だが、あの演奏を聴けば分かる。」
「……そこまでの方なのですか?」
「少なくとも、私はこれまで、あれほどの演奏を聴いたことがない。」
側近は驚いたようにユリウスを見つめていたが、やがて深く頭を下げた。
「……承知いたしました。」
「ああ。準備を頼む。」
側近が執務室を出ていくと、ユリウスは窓の外へ目を向けた。
昨日のお見合いは、最初から気が進まなかった。母に強く勧められ、断りきれずに出席しただけだったのだ。
しかし、今は違う。
あの令嬢がピアノを弾き始めた瞬間のことを、何度も思い出してしまう。
楽しそうに鍵盤へ向かう姿も、演奏を終えたときの笑顔も、妙に心に残っていた。
……クラリス・ベルフォード。
ユリウスは、思わず小さく微笑んだ。
「……不思議な方だ。」
◇
同じ日の午後。
私は、再びグランフォード伯爵邸を訪れていた。
「クラリス様。お待ちしておりました。」
「こんにちは。本日もよろしくお願いいたします。」
玄関で出迎えてくれた執事さんに、丁寧に頭を下げた。
「こちらこそ。どうぞ、お入りください。」
「ありがとうございます。」
昨日よりは緊張しなくなったものの、まだ少しだけ背筋が伸びる。ここは立派な伯爵家のお屋敷なのだ。
それでも、今日の私は初めて訪れたときより、ずっと足取りが軽かった。
また、あのピアノが弾ける。
そう思うだけで、自然と笑顔になってしまう。
案内されたのは、昨日と同じ応接室だった。
大きな窓から陽光が差し込み、その先には美しい黒塗りのピアノが置かれている。
私は思わず足を止めた。
……ああ。
今日も、ここにある。
昨日、久しぶりに鍵盤に触れたときの感触が蘇ってくる。指先から音が生まれ、部屋いっぱいに広がっていくあの感覚を、私はずっと忘れられずにいた。
「クラリス様。お茶をご用意いたしましょうか?」
「あっ、ありがとうございます。でも、まずは少し練習させていただいてもよろしいでしょうか?」
「もちろんでございます。」
執事さんが微笑む。
私は椅子に腰を下ろし、そっと鍵盤に指を置いた。
本番まで、あと八日。
演奏するのは、リストの《ラ・カンパネラ》。
高音域で繰り返される鐘のような音と、大きく跳躍する右手が特徴的な曲だ。前世でも完成させるまでに随分と苦労し、何度も同じ箇所を練習したことを覚えている。
あの頃のように、指が動いてくれるだろうか。
昨日は久しぶりにピアノを弾ける嬉しさでいっぱいだったけれど、今日は少し違う。王宮の晩餐会という大舞台で、ユリウス様の期待に応えなければならないのだ。
不安がないと言えば嘘になる。
それでも、目の前に鍵盤があるだけで、胸の奥が弾むのを感じた。
……よし!
まずは練習しよう!
私はゆっくりと鍵盤を押した。
最初は指の動きを確かめるように弾き、少しずつ速度を上げていく。けれど、大きく跳躍するところでは狙った鍵盤に指が届かず、何度も音を外してしまった。
……うう。
やっぱり、思うようには動かない。
前世なら、もう少し滑らかに弾けたはずなのに。
私は一度手を止め、指の動きを確かめてから、もう一度同じ箇所を弾いてみた。
今度は、少しだけうまくいった。
……あっ!
今のは、よかったかも!
自然と笑顔になる。
失敗しても、また弾ける。何度でも挑戦できる。
前世では当たり前だったその時間が、今は何よりも幸せだった。
私は夢中になって、再び鍵盤へ向かった。
◇
数日後。
グランフォード伯爵邸では、ちょっとした変化が起きていた。
「……今日も、クラリス様はいらっしゃるのかしら。」
「ええ。午後からお見えになるそうよ。」
「そうなのね! 楽しみだわ!」
廊下で、侍女たちが小声で話している。
クラリスが練習を始めてからというもの、伯爵邸には毎日のようにピアノの音が響いていた。
最初は珍しい演奏に驚いていた使用人たちも、今ではすっかりその音色を楽しみにするようになっていた。仕事の合間に足を止める者もいれば、休憩時間になると応接室の近くを通る者もいる。
いつの間にか、彼女の演奏は伯爵邸の日常の一部になっていた。
もちろん、クラリス本人はそんなことなど知らない。
今日も夢中で鍵盤に向かっていた。
「……あっ!」
高音が少し外れた。
……うう、惜しい!
私は一度手を止め、指の動きを確かめた。
もう一回!
今度は少しゆっくり弾き、右手を大きく動かして狙った鍵盤へ指を落とす。
澄んだ音が響いた。
……よし!
今度はうまくいった!
「……ふふっ。」
そのとき、背後から小さな笑い声が聞こえた。
「……え?」
振り返ると、そこには上品なドレスを着た女性が立っていた。
「まあ、ごめんなさい。驚かせてしまったわね。」
「あっ!」
私は慌てて立ち上がった。
「マルガレーテ様!」
ユリウス様のお母様だった。
「こんにちは、クラリスさん。」
「こんにちは。本日もお邪魔しております。」
「そんなに畏まらなくていいのよ。」
マルガレーテ様は優しく微笑んだ。
「それにしても、本当に素晴らしい演奏ね。」
「ありがとうございます。」
「毎日、あなたの演奏を楽しみにしているのよ。」
「……えっ?」
私は思わず顔を上げた。
「ほ、本当ですか?」
「もちろんよ。」
マルガレーテ様は楽しそうに笑った。
「使用人たちも、皆あなたのファンになってしまったわ。」
「ええっ!?」
私は思わず廊下へ目を向けた。
すると、扉の向こうにいた侍女さんたちが、慌てて姿勢を正した。
……もしかして。
皆さん、聴いていたの!?
急に恥ずかしくなった。私はいつも夢中で練習しているので、同じところを何度も弾き直しているし、失敗して思わず声を上げることもある。
「す、すみません! 何度も同じところばかり練習していて……。」
「何を言っているの!」
マルガレーテ様は、すぐに首を振った。
「あなたの演奏を聴いていると、こちらまで楽しい気持ちになるのよ。」
「……そうなのですか?」
「ええ。本当に、音楽がお好きなのね。」
「はい! 大好きです!」
私は思わず笑顔になった。
ピアノのことになると、つい夢中になってしまう。けれど、マルガレーテ様はそんな私を、楽しそうに見つめてくださっていた。
「……まあ。本当に、可愛らしいお嬢さんだこと。」
「えっ!?」
私は思わず顔を赤くした。
「そうだわ。クラリスさん、今日はお昼もご一緒しませんこと?」
「……えっ?」
「せっかくですもの。ゆっくりお話ししたいわ。」
「よ、よろしいのですか?」
「もちろんよ!」
マルガレーテ様は、にっこりと微笑んだ。
「実は、あなたがいらっしゃるのを楽しみにしていたの。演奏だけでなく、あなたのお話も聞いてみたいと思って。」
私は、少し驚いた。
……私のことを?
てっきり、ピアノの話をするのだと思っていた。けれど、マルガレーテ様は私自身のことも知りたいとおっしゃっている。
「……ありがとうございます。ぜひ、ご一緒させてください。」
「まあ、嬉しい!」
マルガレーテ様は、少女のように顔をほころばせた。
◇
昼食は、伯爵邸の明るい食堂でいただくことになった。
大きな窓から陽光が差し込み、テーブルには美しい花が飾られている。
運ばれてきたのは、焼きたてのパンに温かなスープ、香草の香りがする肉料理だった。
「わあ……!」
私は思わず声を上げた。
「とっても美味しそうです!」
「ふふっ。遠慮せず召し上がってね。」
「はい。いただきます。」
まずは、スープを一口。
……美味しい!
野菜の甘みが口いっぱいに広がり、体の中まで温かくなるようだった。
「とても美味しいです。」
「まあ、そんなに喜んでいただけるなんて。」
マルガレーテ様が嬉しそうに笑った。
「料理長にも伝えておくわね。」
「はい。ぜひお願いいたします。」
私が笑顔で答えると、給仕をしていた使用人さんまで、嬉しそうに微笑んだ。
食事をしながら、マルガレーテ様はいろいろなことを尋ねてくださった。
好きな食べ物のことや、普段の暮らしのこと。そして、家族のこと。
「お母様が、今回のお見合いのためにドレスを直してくださったんです。」
「あら、そうだったの?」
「はい。お母様が若い頃に着ていたものなんです。とっても素敵で、私のお気に入りなんですよ。」
マルガレーテ様は、私のドレスへ視線を向けた。
「そうだったのね。よくお似合いだと思っていたのよ。」
「ありがとうございます!」
「きっと、お母様も喜んでいらっしゃるでしょうね。」
「はい!」
私は大きく頷いた。
「お父様もお母様も、いつも私のことを大切にしてくださるんです。」
すると、マルガレーテ様は優しく微笑んだ。
「……素敵なご家族なのね。」
「はい! 自慢の家族です!」
マルガレーテ様は、しばらく私を見つめていた。そして、何だか嬉しそうに頷いた。
最初は、失礼のないようにと、そればかり考えていた。
けれど、マルガレーテ様は私の話を楽しそうに聞いてくださる。気がつけば、私はいつものようにお父様やお母様の話をしていた。
……あれ?
私、いつの間にか緊張しなくなっている。
「クラリスさん。」
「はい?」
「これからも、遠慮せずにいらしてね。」
「……えっ?」
「もちろん、ピアノの練習のためでもいいわ。でも、そうでなくても、いつでも歓迎するわよ。」
私は、思わず目を丸くした。
「……本当ですか?」
「ええ。私も、あなたとお話しするのが楽しいもの。」
その言葉に、私はそっと微笑んだ。
立派な伯爵家のお屋敷で、こんなふうに自然に話せるようになるなんて、少し前までは想像もしていなかった。
「……ありがとうございます。」
私は、心からの笑顔を浮かべた。
マルガレーテ様も、優しく微笑んでくださった。
◇
それからも、私は毎日のように伯爵邸へ通い続けた。
マルガレーテ様は、時折お茶や昼食に誘ってくださった。
ユリウス様のお父様まで、午後になると応接室へ顔を出してくださるようになった。
「ふむ。なかなか見事な演奏だな。」
「ありがとうございます!」
「これほどの曲を弾けるとは、驚いた。」
「えへへ。まだまだ練習中なんです!」
「……これで、まだなのか。」
ユリウス様のお父様は、少し驚いたように目を見開いた。
ある日には、執事さんからこんなことまで教えていただいた。
「実は旦那様、本日もクラリス様がお越しになる時間を確認されておりました。」
「えっ?」
「午後のご予定を、少し調整なさったようでございます。」
「……そうなんですか!?」
私は驚いて、応接室の扉へ目を向けた。
……そんなに楽しみにしてくださっているんだ。
前世では、音楽大学の先生や友人たちに演奏を聴いてもらうことが多かった。けれど、こうして純粋に演奏を楽しみにしてくれる人たちがいるのは、また違った嬉しさがある。
しかも、皆さんは私が失敗しても、嫌な顔一つせずに見守ってくださる。
最初は緊張していた伯爵邸が、いつの間にか安心してピアノを弾ける場所になっていた。
……もっと、いい演奏をしたいな。
私は再び鍵盤へ向かった。
◇
一方、その頃。
ユリウスは王宮で、連日遅くまで仕事をしていた。
晩餐会の演奏者については、国王にも報告を済ませている。
「……王立楽団の代わりに、男爵令嬢が一人で演奏するというのか?」
「はい。」
「本当に大丈夫なのか?」
「私が責任を持ちます。」
ユリウスが迷わず答えると、国王はしばらく考え込んだ。
「……そこまで言うのであれば、任せよう。」
「ありがとうございます。」
こうして、クラリスの出演が正式に決まった。
そして、ある日の夜。
ようやく仕事を終えて帰宅すると、母が待ち構えていた。
「ユリウス!」
「……母上。」
「あなた、クラリスさんの演奏をちゃんと聴いているの?」
「……はい。もちろんです。」
「本当に素晴らしいお嬢さんなのよ!」
「……それは存じています。」
「それに、明るくて、優しくて、使用人たちにも気さくに接してくださるの!」
「……そうですか。」
「この間なんて、一緒にお昼をいただいたのよ。ご家族のお話を、とても楽しそうにしてくださって。」
マルガレーテは、思い出したように微笑んだ。
「ご両親を本当に大切にしていらっしゃるのね。」
「……そうなのですか。」
「ええ。もう、すっかりクラリスさんのことが大好きになってしまったわ!」
「…………。」
ユリウスは、少し困ったように笑った。
「……母上。」
「何です?」
「……私より、母上のほうがクラリス嬢と親しくなっていませんか?」
「当たり前でしょう!」
「…………。」
「あなたは仕事ばかりしているのですから!」
「……それは、そうですが。」
マルガレーテは、少し呆れたように息を吐いた。
「まったく。あんな素敵なお嬢さん、そうそういませんよ。」
「……はい。」
「あなたがぐずぐずしている間に、ほかの殿方に取られてしまいますよ!」
「…………。」
ユリウスは、思わず黙り込んだ。
クラリスが別の男性とお見合いをし、その相手にあの笑顔を向ける。
想像しただけで、妙に落ち着かなかった。
「……ユリウス?」
「……いえ。何でもありません。」
ユリウスは、そっと視線を逸らした。
そんな息子を見て、マルガレーテは小さく微笑んだ。
「……ふふっ。」
「……母上?」
「何でもありませんよ。」
◇
晩餐会まで、あと三日。
その日、ユリウス様は珍しく早く帰宅された。
私は、いつものように応接室で練習していた。
《ラ・カンパネラ》の難しい部分を何度も繰り返すうちに、最初は思うように動かなかった指も、少しずつ感覚を取り戻してきた。
高音が、澄んだ音で響く。
鐘の音のように、軽やかに。
私は夢中で鍵盤を追いかけ、最後の音を響かせた。
「……ふう!」
思わず息を吐いた。
……よし!
今日は、かなりいい感じ!
「……素晴らしい。」
「……え?」
振り返ると、そこにはユリウス様が立っていた。
「ユリウス様!」
「お疲れ様です、クラリス嬢。」
「お帰りなさいませ!」
私は嬉しくなって、思わず立ち上がった。
ユリウス様は、少し驚いたような顔をした。
「……ただいま戻りました。」
……あっ。
今、私、何だか家族みたいな挨拶をしちゃった?
急に恥ずかしくなった。
「す、すみません! つい……。」
「いえ。」
ユリウス様は、優しく微笑んだ。
「……嬉しいものですね。」
「……え?」
「あなたに、そう迎えていただけるとは思いませんでした。」
その言葉に、胸が少しだけ高鳴った。
「……そ、そうですか?」
「はい。」
ユリウス様は、少し照れたように視線を逸らした。
「実は、今日は少し早く仕事を切り上げたのです。」
「そうだったんですか?」
「ええ。……あなたの演奏を、ゆっくり聴きたかったものですから。」
私は、思わず言葉を失った。
忙しいお仕事を抱えていらっしゃるのに、私の演奏を聴くために早く帰ってきてくださったのだろうか。
「……ありがとうございます。」
小さく答えると、ユリウス様は穏やかに微笑んだ。
「それにしても、以前よりもさらに音が美しくなっていますね。」
「本当ですか!?」
「ええ。」
私は嬉しくなった。
「実は、少しずつ指の感覚が戻ってきたんです。」
「……戻ってきた?」
「あっ。」
……しまった。
前世のことを話すわけにはいかない。
「え、えっと……昔、練習していた頃の感覚です。」
「なるほど。」
ユリウス様は、納得したように頷いた。
私は、そっと胸を撫で下ろした。
「クラリス嬢。」
「はい?」
「あなたは、本当にピアノがお好きなのですね。」
「はい! 大好きです!」
私は迷わず答えた。
「ピアノを弾いていると、嫌なことも、悲しいことも、全部忘れられるんです。」
「……そうですか。」
「それに、聴いてくれた人が笑顔になってくれると、もっと嬉しくて!」
私は笑った。
「だから、今回も皆様に楽しんでいただけたらいいなって思っています!」
ユリウス様は、しばらく私を見つめていた。
そして、静かに口を開いた。
「……私も。」
「……?」
「私も、あなたの演奏を聴くのが楽しみになってしまいました。」
胸が、どきんと鳴った。
ユリウス様は、いつも私の演奏を真剣に聴いてくださる。音を褒めてくださるだけでなく、私が楽しそうに弾いていることまで喜んでくださるのだ。
「……ありがとうございます。」
私は少し照れながら頭を下げた。
すると、ユリウス様が微笑んだ。
「こちらこそ。あなたのおかげで、今回の晩餐会にも希望が見えてきました。」
「……ユリウス様。」
「本当に、感謝しています。」
その言葉を聞いて、私は改めて思った。
この人の力になりたい。
ユリウス様は、王国の文化芸術を担う大臣として、今回の晩餐会を成功させようと懸命に努力している。そんな方が私の演奏を信じ、責任まで引き受けてくださったのだ。
私は、そっと拳を握った。
「ユリウス様!」
「はい?」
「私、絶対に頑張りますね!」
「……はい。」
ユリウス様は、優しく頷いた。
「私も、最後まで全力を尽くします。」
◇
そして、ついに迎えた晩餐会当日。
王宮は、朝から慌ただしい空気に包まれていた。
夕刻。
演奏のために王宮へ招かれた私は、係の方に案内され、大広間へ足を踏み入れた。
そこには長い食卓が設けられ、白いクロスの上には磨き上げられた銀食器が並んでいる。色とりどりの花や無数の燭台が飾られ、普段の暮らしでは目にすることのない華やかな光景が広がっていた。
……すごい。
私は、思わず息を呑んだ。
前世でも大きなホールで演奏したことはあるけれど、王宮の晩餐会は初めてだ。
しかも、今日の演奏は単なる余興ではない。王立楽団の代役として、隣国からの大切なお客様をお迎えするのだ。
練習はできる限り重ねてきた。それでも、広い会場を見渡していると、少しずつ緊張が増してくる。
「クラリス嬢。」
「あっ、ユリウス様!」
振り返ると、正装したユリウス様が立っていた。
いつも以上に凛々しく見える。
……わあ。
……かっこいい。
そう思った瞬間、私は少しだけ頬が熱くなった。
「緊張されていますか?」
「……少しだけ。」
私は、正直に答えた。
「でも、私一人の演奏で、本当に大丈夫でしょうか?」
ユリウス様は、静かに頷いた。
「もちろんです。私は、あなたの演奏を信じています。」
「……ありがとうございます。」
「それに、あなたにお願いしたのは私です。その判断の責任は、私にあります。」
「……ユリウス様。」
「ですから、外交のことまで背負う必要はありません。」
ユリウス様は、優しく微笑んだ。
「あなたには、いつものように音楽を楽しんでいただきたいのです。」
私は、しばらくユリウス様を見つめていた。
王国の大切な晩餐会なのだから、ユリウス様だって不安がないはずはない。それなのに、私が安心して演奏できるよう、こうして声をかけてくださるのだ。
その優しさに触れると、胸の奥にあった緊張が少しずつ和らいでいった。
……そうだよね。
私は、ピアノを弾くのが大好きなんだから。
「……はい! 精いっぱい楽しんできます!」
「ええ。私も楽しみにしています。」
◇
やがて、外交使節団が到着した。
大広間に、華やかな衣装をまとった人々が次々と入ってくる。
その中心にいたのは、隣国の王弟殿下だった。
落ち着いた雰囲気を漂わせる、中年の男性。
国王が自ら出迎え、丁重に挨拶を交わす。
「遠路はるばる、ようこそお越しくださいました。」
「こちらこそ、このような盛大な歓迎をいただき、感謝いたします。」
両国の代表が挨拶を交わし、晩餐会が始まった。
最初は、和やかな雰囲気だった。
料理が次々と運ばれ、使節団の人々も満足そうに頷いている。
そして、いよいよ主菜が運ばれてきた。
「皆様! こちらをご覧ください!」
大きな声を上げたのは、ボルマン侯爵だった。
彼は満面の笑みを浮かべている。
「本日の主菜は、我が王国が誇る最高級の肉料理でございます!」
銀の蓋が取り払われる。
そこには、美しく焼き上げられた肉料理が並んでいた。
濃厚なソースが、艶やかに輝いている。
「……ほう。これは見事な料理だ。」
王弟殿下は、皿に盛られた肉料理を興味深そうに眺めた。
「ところで、このソースには何を使っているのかな?」
「よくぞお尋ねくださいました!」
ボルマン侯爵が、待っていましたとばかりに胸を張った。
「こちらには、我が国でも極めて希少な、ポルチーニ茸を使用しております!」
「…………。」
王弟殿下の表情が、ぴたりと止まった。
「……ポルチーニ茸?」
「はい! この日のために、特別に取り寄せた最高級の茸でございます!」
「……そうか。」
王弟殿下は、少し困ったように微笑んだ。
「申し訳ないのだが、私は茸が苦手でね。」
「…………。」
ボルマン侯爵の笑顔が固まった。
「……は?」
「特に、あの独特の香りがどうにも得意ではないのだ。」
「…………。」
大広間が、しんと静まり返った。
国王が、ゆっくりと侯爵へ視線を向ける。
「……ボルマン。」
「は、はい!」
「事前に、使節団の好みは確認しておらなんだのか?」
「そ、それは……。」
ボルマン侯爵は言葉に詰まった。
「……大変、申し訳ございません!」
深々と頭を下げる。
王弟殿下は慌てて手を振った。
「いえいえ。お気になさらず。私の好き嫌いの問題ですから。」
しかし、会場の空気はすっかり気まずくなってしまった。
急いで別の料理が用意されることになったものの、ボルマン侯爵は肩を落としている。
……あらら。
私は少し離れた場所から、その様子を見ていた。
せっかく用意した料理なのに、食べてもらえないなんて。
ちょっと気の毒だなあ。
そのとき。
ユリウス様が、大広間の中央へ進み出た。
「皆様。ここで、音楽をお楽しみいただきたいと存じます。」
その言葉に、王弟殿下が顔を上げた。
「おお、音楽か。それは楽しみだ。」
王弟殿下は、嬉しそうに微笑んだ。
「貴国の王立楽団は、大陸でも名高いと聞いている。ぜひ一度、その演奏を聴いてみたいと思っていたのだ。」
「……恐れ入ります。」
ユリウス様は、丁寧に頭を下げた。
「ですが、実は王立楽団の主要な演奏者たちが病に倒れてしまいまして……。」
「……何?」
「本日は、代わりに一人の演奏者をご紹介させていただきます。」
「……一人?」
王弟殿下が眉を上げた。
そのとき、ユリウス様が私へ視線を向けた。
「クラリス・ベルフォード嬢。お願いいたします。」
「はい。」
私は一礼し、ピアノへ向かった。
すると、大広間のあちこちから小さな声が聞こえてきた。
「……おい。まさか、独奏なのか?」
「王立楽団の代わりが、あの令嬢一人だと?」
「まだ随分と若いではないか。」
「……ふざけているのか?」
……うう。
聞こえてる。
全部、聞こえてるよ……!
私は思わず肩に力が入るのを感じた。
王弟殿下も、困惑した表情を浮かべている。
「……なるほど。ピアノの独奏か。」
その声には、先ほどまでの期待は感じられなかった。
「……まあ、試しに聴いてみるとしよう。」
王弟殿下は、静かに椅子へ座り直した。
国王陛下も、険しい表情でユリウス様を見つめている。
……やっぱり、期待されていないのかな。
練習してきたとはいえ、私一人で王立楽団の代わりを務めるのだから、皆さんが驚くのも無理はない。
私は思わずユリウス様を見た。
すると、ユリウス様は真っ直ぐに私を見つめ、小さく頷いた。
その表情に、迷いはなかった。
……大丈夫。
ユリウス様は、私を信じてくれている。
だったら、私も精いっぱい弾こう。
私はピアノの椅子に腰を下ろした。
大広間には、まだ小さなざわめきが残っている。
ゆっくりと息を吸い、鍵盤へ指を置く。
目の前には、白と黒の鍵盤。
前世では毎日のように触れていたのに、この世界に生まれ変わってからは、ずっと遠い存在だった。
それが今、こうして目の前にある。
指先に伝わる懐かしい感触に、胸の奥にあった緊張が少しずつ別の感情へ変わっていった。
……弾きたい。
私は小さく微笑んだ。
そして、最初の一音を奏でた。
――リン。
澄んだ高音が、大広間に響く。
まるで、遠くで小さな鐘が鳴ったような音。
続いて、軽やかな旋律が流れ始めた。
……うん。
いい感じ。
最初の入りは、うまくいった。
右手が大きく跳躍し、高音の鍵盤を捉える。左手が旋律を支え、音が重なっていく。
練習の初日には、何度も外してしまった跳躍だった。
けれど、今は違う。
指先が、迷わず次の鍵盤へ向かっていく。
……よし。
ちゃんと、弾けてる。
私は、少しずつ演奏に集中していった。
次の音がどこにあるのか、どのように指を運べばいいのか。考えるより先に、体が分かっていた。
まるで、前世に戻ったみたい。
毎日のようにピアノへ向かっていた、あの頃。
難しい曲に挑戦して、何度も失敗したこと。先生に褒められた日や、友人たちと演奏を聴き合った日。初めて大きな舞台に立ったときの緊張まで、懐かしい記憶が次々と浮かんでは消えていく。
曲は、次第に華やかさを増していった。
大きく跳躍する右手と、目まぐるしく動く指先。高音が幾重にも重なり、鐘の音のように響いていく。
それなのに、不思議と苦しくなかった。
むしろ、体が軽い。
いつしか、周囲の視線も、王宮にいることさえも忘れていた。
ただ、目の前の音楽に夢中になっていた。
◇
王弟殿下は、最初こそ期待していなかった。
王立楽団の代わりに現れたのは、まだ若い男爵令嬢。しかも、ピアノの独奏だという。
正直なところ、失望していた。
だが、最初の数小節を聴いた瞬間、その考えは変わった。
「……ほう。」
王弟殿下は、手にしていた杯を口元へ運ぼうとしていた。
だが、その手が途中で止まった。
高音域で繰り返される澄み切った音は、軽やかでありながら、どこか幻想的だった。これまで数多くの演奏会に足を運んできた王弟殿下でさえ、聴いたことのない響きだった。
王弟殿下は、杯をそっと卓上へ戻した。
そして、わずかに身を乗り出した。
まるで、次に響く音を一つたりとも聴き逃すまいとするかのように。
先ほどまで隣の者と話していた使節団の人々も、いつの間にか口を閉じていた。
大広間には、ピアノの音だけが響いている。
演奏は、さらに華やかさを増していった。
高音は澄み切った鐘のように響き、低音は豊かに広がって旋律を包み込む。それぞれの音が独立していながら、すべてが一つの流れとなっていた。
技術が優れているだけではない。
まるで、音楽そのものが生きているかのようだった。
料理を運んでいた給仕も、思わず足を止める。
先ほどまで若い令嬢を疑っていた者たちも、今はただ演奏に聴き入っている。
誰一人、隣の者へ話しかけようとしなかった。
そして、ユリウスも。
彼女から、目を離せなかった。
お見合いの日に聴いた《幻想即興曲》にも、心を奪われた。けれど、今の演奏には、あのとき以上の輝きがあった。
クラリスは、笑っている。
鍵盤を見つめながら、心から楽しそうに。
王宮での大役を前に、彼女が緊張していたことをユリウスは知っている。それでも、いざ演奏が始まると、彼女は誰よりも自由に音楽を楽しんでいた。
ユリウスは、ただ静かに、その姿を見つめていた。
◇
もう、周りのことは何も気にならなかった。
今、私の世界には、ピアノしかない。
白と黒の鍵盤から生まれた音が、どこまでも広がっていく。
鐘の音が幾重にも重なり、軽やかに跳ね、舞い上がり、また降り注ぐ。
まるで、無数の小さな光が、大広間いっぱいに広がっていくようだった。
私は、最後の旋律へと駆け上がった。
ここからは、特に難しい部分が続く。
高音域への大きな跳躍と、目まぐるしい連打。練習中、何度も指がもつれ、同じ箇所を繰り返したところだった。
けれど、今は不思議と怖くなかった。
右手が跳び、狙った鍵盤を正確に捉える。
続く連打も、一つ一つの音が澄んで響いた。
……弾けた!
胸の奥で、小さな喜びが弾けた。
そのとき、ふとユリウス様の顔が浮かんだ。
あの人が、私を見つけてくれた。
私の音楽を信じ、こうして再び大きな舞台に立つ機会を与えてくださった。
緊張する私を気遣い、安心して音楽を楽しめるように支えてくださった。
……ありがとう。
この曲を、あなたにも。
私は鍵盤の上で、さらに指を走らせた。
ただ正確に弾くだけではない。この音を、聴いてくださる人たちの心へ届けたい。
……もっと、美しく。
高音が、きらきらと輝く。
左手が、力強く音楽を支える。
指先が、鍵盤の上を駆け抜ける。
そして。
最後の一音。
華やかな響きが、大広間いっぱいに広がった。
私は、そっと指を離した。
音の余韻が、ゆっくりと消えていく。
……ああ。
……終わっちゃった。
少しだけ寂しかったけれど、胸は満たされていた。
私はそっと息を吐き、顔を上げた。
「…………。」
大広間は、静まり返っていた。
誰も動かず、先ほどまで杯を手にしていた人も、給仕も、ただこちらを見つめている。
……あれ?
……どうしたんだろう?
演奏に夢中になりすぎて、何か失敗してしまったのだろうか。
そのとき。
「……素晴らしい。」
小さな声が聞こえた。
王弟殿下だった。
ゆっくりと立ち上がる。
「……素晴らしい!」
その声を合図にしたかのように、大広間に割れんばかりの拍手が響き渡った。
「何という演奏だ!」
「信じられない!」
「これほど美しい音楽は、初めて聴きました!」
次々と人々が立ち上がる。
王弟殿下も、満面の笑みを浮かべていた。
「見事だ! 実に見事だ!」
私は、思わず目を丸くした。
……皆さん、喜んでくれてる!
よかった。
本当に、よかった。
私は立ち上がり、深々と頭を下げた。
「ありがとうございました!」
拍手は、いつまでも鳴り止まなかった。
ふと、ユリウス様へ目を向けた。
ユリウス様は、誰よりも嬉しそうに拍手を送ってくださっていた。
私は、思わず笑顔になった。
◇
やがて拍手が落ち着くと、王弟殿下が私のもとへ歩み寄ってきた。
「お嬢さん。素晴らしい演奏でした。」
「ありがとうございます!」
「私は長年、さまざまな国で音楽を聴いてきました。しかし、今のような曲は初めてです。」
「……そうなんですか?」
「ええ。まるで、小さな鐘が幾重にも鳴り響くようでした。」
私は嬉しくなった。
「はい! 《ラ・カンパネラ》は、小さな鐘という意味なんです!」
「ほう!」
王弟殿下は、目を輝かせた。
「なるほど! だから、あのような響きなのですね!」
「はい!」
王弟殿下は満足そうに頷いた。
「今回の訪問で、これほど素晴らしい音楽に出会えるとは思いませんでした。」
そして、国王へ向き直る。
「陛下。貴国に、これほど素晴らしい演奏家がいらっしゃるとは。心から感銘を受けました。」
「……それは何よりです。」
国王も、嬉しそうに微笑んだ。
「これほど素晴らしい演奏を聴かせていただけるとは、思いませんでした。」
王弟殿下は、満足そうに頷いた。
「明日からの会談も、互いに実りあるものにしたいと思っております。」
「……もちろんです。」
国王は、安堵したように微笑んだ。
「今回の訪問が、両国の友好をさらに深める機会となれば幸いです。」
「ええ。私も、そう願っております。」
二人は、固く握手を交わした。
会場には、先ほどまでの気まずい空気など、すっかりなくなっていた。
その後、用意し直された料理も無事に供され、晩餐会は和やかな雰囲気のまま進んだ。
◇
晩餐会が終わると、国王はユリウス様を呼び寄せた。
「ユリウス!」
「はっ!」
「よくぞ、これほどの演奏者を見つけてきた!」
「……ありがとうございます。」
「見事だ! 余の期待に応えてくれたな!」
国王は、大きく頷いた。
「これで明日からの会談も、よい雰囲気で始められそうだ。」
「……何よりでございます。」
ユリウス様は深々と頭を下げた。
その表情は、どこかほっとしているように見えた。
王宮での演奏を任されたのは私だけれど、その責任を引き受けてくださったのはユリウス様だ。
無事に終わったことが分かり、私もようやく肩の力が抜けた。
すると、国王がこちらへ視線を向けた。
「ところで、ユリウス。」
「はい?」
「あの令嬢は、いったい何者なのだ?」
「……実は。」
ユリウス様は、一瞬だけ言葉を選ぶように間を置いた。
「私のお見合い相手でございます。」
「…………。」
「…………。」
国王が、目を丸くした。
「……何だと!?」
その声が、大広間に響き渡った。
「お見合い相手だと!?」
「はい。」
「お前、いつの間にそのような令嬢と!」
「……つい先日のことでございます。」
「…………。」
国王は、しばらくユリウス様を見つめていた。
そして。
「はっはっはっ!」
豪快に笑い出した。
「そうか! そういうことか!」
「……陛下?」
「お前、王立楽団の代役を探して、花嫁候補まで見つけてきたのか!」
「……いえ、そういうわけでは……。」
「何を言っておる! めでたいではないか!」
「……まだ、そういう話ではございません。」
国王は満足そうに頷いた。
「これほど素晴らしい令嬢と出会えたのだ。大切にするのだぞ!」
「……はい。」
ユリウス様は、少し困ったように笑った。
私は、思わず頬が熱くなった。
……ええっ!?
……これって、どういう状況!?
国王陛下の前で、こんなお話になるなんて思ってもいなかった。
どう反応すればよいのか分からず、私は思わず俯いた。
すると、国王が私へ向き直った。
「クラリス・ベルフォード嬢。」
「は、はい!」
「今宵の演奏、実に見事であった。」
「ありがとうございます!」
「そなたのおかげで、使節団の皆様にも大いに喜んでいただけた。王国を代表して、礼を言おう。」
私は驚いて顔を上げた。
国王陛下が、私にお礼をおっしゃっている。
そんなことは想像もしていなかったので、胸がいっぱいになり、慌てて頭を下げた。
「も、もったいないお言葉です!」
国王は優しく微笑んだ。
「これからも、その素晴らしい才能を大切にしてほしい。」
「……はい!」
私は、ゆっくりと頷いた。
「ありがとうございます!」
そのとき。
少し離れた場所で、ボルマン侯爵が小さく呟いた。
「……まさか、男爵令嬢がこれほどの演奏をするとは。」
その声には、先ほどまでの余裕はなかった。
国王が、ちらりと侯爵へ視線を向ける。
「ボルマン。」
「は、はい!」
「今宵は、そなたも苦労したようだな。」
「……面目次第もございません。」
「次からは、客人の好みも十分に確認することだ。」
「……肝に銘じます。」
ボルマン侯爵は、深々と頭を下げた。
◇
晩餐会が終わった頃には、すっかり夜も更けていた。
私は王宮の廊下を歩きながら、ほっと息を吐いた。
……終わったあ。
緊張したけれど、楽しかった!
それに、皆さんに喜んでもらえて、本当によかった。
「クラリス嬢。」
背後から声をかけられ、私は振り返った。
「ユリウス様!」
ユリウス様が、こちらへ歩いてくる。
「本日は、本当にありがとうございました。」
「いえいえ! こちらこそ、こんな素敵な機会をいただいて、ありがとうございました!」
私は笑顔で答えた。
「久しぶりに、思いきりピアノを弾けて、とっても幸せでした!」
ユリウス様は、少し驚いたように私を見つめた。
「……あなたは、本当に変わった方ですね。」
「えっ!?」
「これほどの大役を果たしたというのに、まずピアノを弾けたことを喜ばれるとは。」
「……えへへ。」
私は少し照れた。
「だって、本当に嬉しかったんです。」
「……そうですか。」
ユリウス様は、優しく微笑んだ。
そして、少し真剣な表情になる。
「クラリス嬢。」
「はい?」
「……一つ、お話ししたいことがあります。」
「……?」
私は首を傾げた。
ユリウス様は、一度深く息を吸った。
「正直に申し上げます。」
「……はい。」
「先日のお見合いは、母に言われて仕方なくお受けしたのです。」
私は、少し驚いた。
けれど、思い返してみれば、あの日のユリウス様はずっと時計を気にしていた。
お忙しい方なのだから、お見合いに乗り気ではなかったとしても不思議ではない。
「……ですが。」
ユリウス様は、真っ直ぐに私を見つめた。
「今は違います。」
「……え?」
「あなたと出会い、音楽を聴き、そして共にこの晩餐会を迎える中で……私は、あなたという方を、もっと知りたいと思うようになりました。」
胸が、どきんと鳴った。
「あなたは、いつも明るく、誰に対しても分け隔てなく接してくださる。」
「…………。」
「そして、何より、心から音楽を愛していらっしゃる。」
ユリウス様は、少しだけ微笑んだ。
「私は、そんなあなたに惹かれています。」
「……えっ!?」
私は思わず息を呑んだ。
……それって。
私のことを、そんなふうに思ってくださっていたの?
頬が、少しずつ熱くなる。
ユリウス様は、真剣な表情のまま言葉を続けた。
「もし、あなたさえよろしければ……。」
「……はい。」
「今度は、私自身の意思で、あなたとお会いしたいのです。」
私は、すぐには返事ができなかった。
ユリウス様の言葉が、嬉しかった。
けれど、それ以上に驚いていた。
いつからだろう。
ピアノを弾けることだけでなく、ユリウス様にお会いできることまで、楽しみになっていたのは。
……私も、もっとこの人と一緒にいたい。
私はゆっくりと顔を上げた。
「……はい。私も、ユリウス様ともっとお話ししたいです。」
ユリウス様の表情が、ぱっと明るくなった。
「……本当ですか?」
「はい!」
私は大きく頷いた。
「ぜひ、よろしくお願いします!」
ユリウス様は、心から安堵したように微笑んだ。
「……ありがとうございます、クラリス嬢。」
「こちらこそ!」
私は嬉しくなって、自然と笑顔になった。
そして、ふと思い出した。
「あっ、ユリウス様!」
「はい?」
「……一つ、お願いしてもいいですか?」
「もちろんです。」
私は、少しだけ照れながら言った。
「また……ピアノを弾かせていただいてもいいですか?」
ユリウス様は、一瞬だけ目を丸くした。
そして。
「……ふふっ。」
優しく笑った。
「もちろんです。」
「本当ですか!?」
「ええ。」
ユリウス様は、私を見つめた。
「いつでも、弾きにいらしてください。」
「ありがとうございます!」
私は満面の笑みを浮かべた。
そして、ふと思いついた。
「あっ、ユリウス様!」
「はい?」
「今度、お父様とお母様にも聴いていただきたいんです!」
「もちろんです。」
ユリウス様は、迷わず頷いた。
「ぜひ、お二人もお招きしましょう。」
「……本当ですか!?」
「ええ。きっと喜んでいただけると思います。」
「……ありがとうございます。」
私は、思わず目頭が熱くなった。
お父様もお母様も、私のことを大切にしてくださった。それでも、家にピアノを置く余裕はなかった。
いつか二人にも、私の演奏を聴いてもらいたい。
ずっと胸の奥にあったその願いが、ようやく叶うのだ。
すると、ユリウス様が、少しだけ悪戯っぽく微笑んだ。
「……ただし。」
「……え?」
「今度は、私にもゆっくり聴かせてくださいね。」
私は嬉しくなって、大きく頷いた。
「もちろんです!」
あの日、お見合い先で見つけた一台のピアノ。
その音色が、私に新しい居場所をくれた。
そして今、隣には、私の音楽を誰よりも楽しみにしてくださる人がいる。
私は、そっとユリウス様を見上げた。
ユリウス様も、優しく微笑んでくれた。
これから始まる日々が、楽しみだった。
――完。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
『男爵令嬢の私がお見合い先でピアノを弾いたら、王国の危機を救うことになりました』は、これにて完結です!
大好きなピアノをもう一度弾きたいと願っていたクラリス。
そんな彼女の演奏が王国の危機を救い、ユリウスとの新しい恋につながる物語でした。
クラリスの奏でる《ラ・カンパネラ》が、皆様の心にも少しでも響いていたら嬉しいです。
また、ほかにも異世界恋愛の短編や、恋愛コメディ、長編ファンタジーなどを投稿しています。
よろしければ、ほかの作品も覗いていただけると嬉しいです!
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最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました!




