第一話 お見合い先のピアノ
「王立楽団が、演奏できぬというのか!?」
国王の怒声が、王宮の会議室に響き渡った。
「……申し訳ございません。」
文化芸術担当大臣のユリウス・グランフォードは、深く頭を下げた。
十日後には、隣国の外交使節団を迎える歓迎晩餐会が控えている。使節団を率いるのは、音楽をこよなく愛する王弟殿下。その歓迎のため、王立楽団による特別演奏を予定していた。
しかし、主要な演奏者たちが相次いで病に倒れてしまったのだ。
「医師によれば、少なくとも数週間の静養が必要とのことです。」
「何ということだ……。」
国王は険しい表情を浮かべた。
近年、隣国とは交易を巡って意見の食い違いが生じている。今回の訪問は、両国の友好関係を取り戻すための重要な機会だった。
「歓迎の席で失礼があれば、今後の交渉にも影響しかねぬ。代わりの演奏者はおらんのか!」
「現在、王都の音楽家たちに声をかけておりますが……。」
「十日しかないのだぞ!」
「……承知しております。必ず手を打ちます。」
ユリウスが頭を下げると、隣に座っていたボルマン侯爵が、わざとらしく咳払いをした。
「いやはや。若くして大臣になられたユリウス殿にも、難しい仕事があるようですな。」
王宮の儀礼や饗応を取り仕切る古参の大臣で、今回の晩餐会では料理を担当している。
「もっとも、料理のほうは万全ですぞ! 最高級の食材と王国随一の料理人を揃えております!」
侯爵は自信満々に胸を張った。
「せっかくの料理を、音楽で台無しにされては困りますからな。」
「……ご心配をおかけして申し訳ありません。」
ユリウスは静かに答えた。
国王は深いため息をつく。
「ユリウス。余はお前を信じている。何とかしてくれ。」
「……はい。」
会議が終わると、ユリウスは足早に王宮を後にした。
病に倒れた楽団員たちに罪はない。今は十分に休養を取らせるべきだ。問題は、残された十日間で何を用意できるかだった。
「……何とかしなければ。」
◇
「ユリウス。明日こそ、お見合いをしてもらいますからね。」
「……母上。」
その日の夕方。
グランフォード伯爵邸へ戻ったユリウスを待ち受けていたのは、母マルガレーテの厳しい視線だった。
「今は仕事が立て込んでおりまして……。」
「それは毎回聞いています! あなた、今年で何歳になりました?」
「……二十七です。」
「そうでしょう! いつまでも仕事ばかりでは困ります!」
王宮では若くして大臣に抜擢された有能な青年。しかし、母親の前では、どうにも頭が上がらない。
「今回のお相手は、ベルフォード男爵家のクラリス嬢です。十八歳の、とても明るいお嬢さんだそうですよ。」
「……男爵家ですか?」
「家柄よりも人柄です。あなたには、そういう方が合うと思うのです。」
「……母上。」
「明日の午後、お迎えしますからね。先方にもお話は通してあります。」
ユリウスは天井を仰いだ。
王立楽団の代役も見つかっていないというのに、明日はお見合いである。できることなら仕事に専念したかったが、母が一度決めたことを覆すのは、王宮での交渉以上に難しいかもしれない。
「……分かりました。」
「本当ですね?」
「はい。お約束します。」
「よろしい!」
母は満足そうに微笑んだ。
ユリウスは小さくため息をついた。
……せめて、失礼のないように応対しよう。
◇
「クラリス! じっとしていなさい!」
「はーい!」
「返事だけじゃなくて、ちゃんと動かないで!」
「……はーい。」
……うう。
お母様、さっきから同じことばかり言っている。
私は鏡の前に立ちながら、こっそりため息をついた。
私の名前はクラリス・ベルフォード。十八歳。貧乏男爵家の娘である。
そして、実は前世の記憶を持っている。
前世では日本の音楽大学でピアノを専攻していた。小さな頃からピアノが大好きで、毎日のように鍵盤に向かっていた。
ショパン、リスト、ベートーヴェン、モーツァルト。
難しい曲が弾けるようになるまで何度も練習し、演奏会にも出演した。思うように弾けず落ち込んだ日もあったけれど、昨日まで弾けなかった曲が弾けるようになる瞬間が、何より嬉しかった。
ところが、気がつけば私は、この世界の男爵令嬢として生まれ変わっていた。
魔法が存在し、王侯貴族が国を治める、まるで物語のような世界。最初は驚いたけれど、今ではすっかり慣れてしまった。
ただ、一つだけ残念なことがある。
……ピアノがない。
この世界にもピアノは存在する。貴族の屋敷や王宮では、演奏会が開かれることもあるらしい。
けれど、我が家にはそんな高価な楽器を買う余裕などない。
お父様は領民たちの暮らしを第一に考える人で、お母様も屋敷のやりくりに苦労している。二人が私を大切にしてくれていることは、よく分かっていた。
だから、ピアノが欲しいなんて、わがままを言ったことはなかった。
親戚の屋敷で何度か弾かせてもらったことはあるけれど、前世のように毎日練習できるわけではない。
それでも、音楽を忘れたことはない。
好きだった曲を思い出しては、机の上で指を動かしてみることもある。もちろん、本物の鍵盤とは違う。指先に伝わる感触も、弾いた瞬間に響く音もない。
それでも、頭の中で旋律を奏でていると、少しだけ昔に戻れたような気持ちになれた。
……ああ、ピアノが弾きたいなあ。
「クラリス。できたわよ。」
「わあ……!」
お母様の声で、私は我に返った。
鏡に映っていたのは、淡い水色のドレスを着た自分だった。
新しいものではない。お母様が若い頃に着ていたドレスを、私の体に合わせて直してくれたのだ。
「どうかしら?」
「すごく素敵です!」
私は嬉しくなって、その場でくるりと回った。
「きゃっ!」
「クラリス! まだ裾を留めているのよ!」
「あっ、ごめんなさい!」
お母様は呆れたように笑った。
「もう。本当にあなたは……。」
「えへへ。」
私はもう一度、鏡を見た。
丁寧に結い上げてもらった髪に、淡い水色のドレス。いつもの自分とは、少し違って見える。
よく見ると、袖口には小さな刺繍が施されていた。お母様が何日もかけて縫ってくれたものだ。
忙しい合間を縫って、この日のために準備してくれたのだと思うと、胸が温かくなった。
「お母様、ありがとうございます。」
「……気に入ってくれたなら、よかったわ。」
お母様は優しく微笑んだ。
「新しいドレスを用意してあげられなくて、ごめんなさいね。」
「何を言っているんですか。こんなに素敵なのに。」
私は大きく首を振った。
「それに、お母様が着ていたドレスでしょう? 大切にします。」
「……クラリス。」
お母様は少しだけ目を潤ませた。
そこへ、お父様が顔を出した。
「おお! 見違えたな、クラリス!」
「本当ですか、お父様?」
「ああ。どこへ出しても恥ずかしくない、立派な令嬢だ。」
「やった!」
私は思わず両手を上げた。
「……ただし。」
お父様が咳払いをする。
「お見合いの席では、もう少し落ち着いて振る舞うのだぞ。」
「はーい。」
「……本当に分かっているのか?」
「もちろんです!」
お父様とお母様が顔を見合わせた。
……何だろう。
あまり信用されていない気がする。
「それにしても、グランフォード伯爵家からお話をいただけるとはな。」
お父様がしみじみと呟いた。
「しかも、お相手は若くして大臣に抜擢された方だという。」
ユリウス・グランフォード様。二十七歳。
王国の文化芸術を担当する大臣で、とても優秀な方らしい。
……でも、どうしてそんなすごい人が、うちみたいな男爵家の娘とお見合いするんだろう?
伯爵家と男爵家では、家柄も暮らしぶりも随分違う。お相手がどんな方なのかも、まだ何も知らない。
ちゃんとお話しできるだろうか。失礼なことをして、お父様やお母様に恥をかかせたりしないだろうか。
考えてみると、少し緊張してきた。
「クラリス。」
お父様が、真面目な顔になった。
「どれほど立派な家柄の方でも、お前が幸せになれなければ意味がない。無理に相手に合わせる必要はないからな。」
お母様も頷いた。
「そうよ。あなたらしくしていればいいの。」
「……はい。」
私は二人の顔を見つめた。
お父様もお母様も、私のことを心配してくれている。
その気持ちが嬉しくて、自然と笑みがこぼれた。
「ありがとうございます。」
明日のお見合いがどうなるのかは分からない。
それでも、二人の言葉を聞いて、少しだけ気持ちが軽くなった。
◇
翌日の午後。
私はグランフォード伯爵邸を訪れていた。
……大きい。
馬車を降りた瞬間、思わず屋敷を見上げてしまった。
立派な門に、美しく整えられた庭園。そして、我が家とは比べものにならないほど大きな建物。
お話には聞いていたけれど、実際に目にすると、やはり圧倒されてしまう。
私はそっとドレスの裾を整えた。
お母様が丁寧に直してくれた、大切なドレス。
……大丈夫。落ち着いていこう。
「クラリス様。こちらへどうぞ。」
「はい。ありがとうございます。」
使用人の方に案内され、私は屋敷の中へ入った。
磨き上げられた床に、壁を飾る絵画。廊下には美しい花が飾られ、どこを見ても丁寧に手入れが行き届いている。
我が家とは随分違う光景に、つい周囲に目を奪われてしまった。
……いけない、いけない。
今日はお見合いなんだから、ちゃんとしなくちゃ。
私は背筋を伸ばした。
やがて案内されたのは、広々とした応接室だった。
「クラリス・ベルフォード様がお見えになりました。」
使用人の声に、一人の男性が立ち上がる。
落ち着いた茶色の髪に、整った顔立ち。知的な雰囲気を漂わせる、背の高い男性だった。
……この方が、ユリウス様。
思っていたよりも若々しい印象だった。けれど、その落ち着いた佇まいには、大臣を務める方らしい威厳も感じられる。
私は少し緊張しながら、姿勢を正した。
「初めまして。ユリウス・グランフォードです。」
「初めまして。クラリス・ベルフォードと申します。」
私は丁寧に頭を下げた。
「本日はお招きいただき、ありがとうございます。」
「こちらこそ、お越しいただきありがとうございます。どうぞ、お掛けください。」
「はい。」
私は勧められた椅子に腰を下ろした。
使用人の方がお茶とお菓子を運んできてくれた。小さな焼き菓子が綺麗に並べられていて、甘い香りがふわりと漂ってくる。
……わあ、美味しそう。
思わず見入ってしまったけれど、慌てて視線を戻した。
……まずはお話よね。
「クラリス嬢は、普段どのようにお過ごしなのですか?」
「そうですね。家のことを手伝ったり、本を読んだりしています。」
「なるほど。」
「ユリウス様は、やはりお仕事がお忙しいのですか?」
「……ええ。少々。」
ユリウス様は、どこか上の空だった。
受け答えは丁寧なのだけれど、時折、壁の時計へ視線を向けている。何か気になることがあるようで、落ち着かない様子だった。
……もしかして、急ぎの用事があるのかな。
せっかくお時間を作っていただいたのに、申し訳ない。
私は少し気になりながらも、どう声をかければよいのか分からなかった。
◇
……困った。
ユリウスは、目の前の令嬢に気づかれないよう、小さく息を吐いた。
王立楽団の代役探しは、依然として難航していた。今朝も王都の音楽家たちに連絡を取ったが、よい返事は得られていない。
残された時間は、あと九日。
それなのに、自分はこうしてお見合いをしている。
もちろん、クラリス嬢に非はない。母が無理に話を進めたこととはいえ、約束した以上、礼を尽くすべきだろう。
彼女は礼儀正しく、穏やかな令嬢だった。こちらの様子を気遣うような視線にも、好感が持てる。
だが、今はどうしても仕事のことが頭から離れなかった。
「クラリス嬢。せっかくお越しいただいたのですが、実は急ぎの公務がありまして……。」
「あっ、そうなのですね。」
クラリスは少し申し訳なさそうに頭を下げた。
「お忙しいところ、お時間をいただいてしまって……。」
「いえ。こちらこそ申し訳ありません。」
ユリウスは胸の内で安堵した。
……よかった。これなら、早めに切り上げられそうだ。
しかし、そのとき。
「あっ……。」
クラリスが小さく声を上げた。
「……どうされました?」
クラリスは、彼の背後にあるものを見つめていた。
「あの、ユリウス様。」
「はい?」
「あちらにあるのは……ピアノですよね?」
「……え?」
ユリウスが振り返る。
応接室の一角には、美しい黒塗りのピアノが置かれていた。
「ええ。そうですが。」
「わあ……。」
クラリスの顔が、ぱっと明るくなった。
先ほどまでの控えめな笑顔とは、まるで違う。瞳を輝かせ、まるで懐かしい友人に再会したかのようにピアノを見つめている。
「あの、ユリウス様はピアノを弾かれるのですか?」
「ん? ああ、まあ、多少。嗜む程度ですが。」
「そうなのですね。」
クラリスは嬉しそうに微笑んだ。
「私も、ピアノが大好きなんです。」
「……そうなのですか?」
「はい。昔から、弾くことが好きで……。」
そこまで話して、クラリスは少し恥ずかしそうに口を閉じた。
初対面の相手に、つい夢中になって話しかけてしまったと思ったのだろうか。
ユリウスは少し意外に思った。
男爵家の令嬢であっても、音楽を嗜む者は珍しくない。しかし、彼女の喜び方は、単なる社交上の趣味というにはあまりにも素直だった。
「ご自宅にもピアノが?」
「いえ……。残念ながら、うちにはありません。」
クラリスは少し寂しそうに笑った。
「ですから、こうして間近で見るのは、本当に久しぶりで……。」
「なるほど。」
ユリウスは頷いた。
すると、クラリスが少し遠慮がちに口を開いた。
「あの……ユリウス様。」
「はい?」
「大変厚かましいお願いなのですが……。」
「何でしょう?」
「少しだけ、ピアノを弾かせていただいてもよろしいでしょうか?」
「……ピアノを?」
「はい。ほんの少しで構いませんので……。」
クラリスは期待と遠慮の入り交じった表情で、ユリウスを見つめた。
ユリウスは一瞬迷った。
しかし、ここまで嬉しそうにされては、断るのも忍びない。
「……ええ。もちろん構いませんよ。」
「本当ですか?」
「はい。」
「ありがとうございます!」
クラリスの顔に、明るい笑顔が広がった。
◇
……やった!
ピアノだ。
本物のピアノ!
私は思わず駆け寄りそうになって、慌てて歩調を落とした。
ここは伯爵邸。私はお見合いに来た令嬢なのだ。あまりはしゃいで、ユリウス様を驚かせてはいけない。
そう自分に言い聞かせながら、ピアノの前へ向かう。
艶やかな黒い表面に、整然と並んだ白と黒の鍵盤。近づくにつれて、懐かしい光景が目の前に広がっていく。
私はそっと椅子に腰を下ろした。
前世では毎日のように触れていたピアノ。朝から晩まで練習に明け暮れ、難しい曲が弾けるようになるまで何度も同じ小節を繰り返した。
指が痛くなることもあったけれど、それさえ苦にならないほど、私はピアノが好きだった。
けれど、この世界に生まれ変わってからは、自由に弾くこともできなくなってしまった。
そっと鍵盤に指を置き、一つだけ音を鳴らしてみる。
澄んだ音が応接室に響いた瞬間、胸の奥に懐かしさが広がった。ずっと聴きたかった音が、今、自分の指先から生まれている。
……また、弾けるんだ。
そう思うと、自然と笑みがこぼれた。
さて、何を弾こうかな。
久しぶりだから、少し指を慣らしたほうがいいかもしれない。でも、せっかくの機会だ。大好きな曲を弾きたい。
……よし。
ショパンの《幻想即興曲》にしよう。
私は鍵盤の上に両手を構え、小さく息を吸った。
そして、指を動かした。
軽やかな音が、応接室に響き始める。
最初の数小節を弾いたところで、思わず苦笑しそうになった。
……ああ、やっぱり。
頭の中では次の音が分かっているのに、指先がわずかに遅れてしまう。以前なら自然に動いていたはずの指が、思うようについてこない。
長い間、まともに練習できなかったのだから、仕方がない。
それでも、不思議と落ち込む気持ちにはならなかった。
久しぶりに鍵盤に触れられたことが、ただ嬉しかったからだ。
弾き続けるうちに、少しずつ感覚が戻ってくる。
右手が細やかな旋律を奏で、左手が異なるリズムを刻む。二つの流れが重なり合い、次第に一つの音楽となって広がっていく。
指先に伝わる鍵盤の重み。ペダルを踏んだときに生まれる、柔らかな響き。
その一つひとつが懐かしくて、私はいつの間にか演奏に夢中になっていた。
背後で椅子の軋む音がしたけれど、振り返ることはなかった。
今は、この旋律を最後まで弾きたかった。
やがて、曲は穏やかな中間部へと移る。
それまでの激しい動きが静まり、柔らかな旋律が応接室を満たしていく。私は一音一音を大切にしながら、鍵盤を押した。
ふと、前世の練習室が思い浮かんだ。
窓から差し込む夕日。何度も弾いたこの旋律。演奏を終えた後、友人たちと笑い合った時間。
あの頃は、ピアノを弾けることが当たり前だった。
けれど、今は違う。
もう二度と戻ってこないと思っていた時間が、こうして私の指先から音になって広がっている。
私はその懐かしさを胸に、旋律を最後まで丁寧に奏でた。
やがて、再び速い部分が戻ってくる。
静かだった音楽が勢いを取り戻し、指先が鍵盤の上を駆け抜ける。右手と左手の旋律が絡み合い、応接室いっぱいに音が広がっていった。
まだ思いどおりに動かないところもある。
それでも、私は最後まで夢中になって弾き続けた。
そして、最後の音が静かに消えていく。
「ふう……。」
私はそっと指を離した。
久しぶりだったから、少し指がもつれてしまった。それでも、こうして一曲を弾き終えられたことが嬉しかった。
名残惜しさを感じながら鍵盤から手を離し、振り返る。
「ユリウス様。ありがとうございました。」
「…………。」
……あれ?
ユリウス様は、椅子に座ったまま固まっていた。
しかも、先ほどより少し前のめりになっている。
「……ユリウス様?」
「…………。」
「あの……?」
私は少し不安になった。
演奏に夢中になって、思っていたより長く弾いてしまったのかもしれない。お仕事で忙しい方なのに、迷惑だっただろうか。
「す、すみません。つい夢中になってしまって……。」
「……素晴らしい。」
「……え?」
ユリウス様が、ゆっくりと立ち上がった。
「素晴らしい!」
「……えっ?」
「クラリス嬢! 今の曲は、いったい何という曲なのですか!?」
「え、えっと……《幻想即興曲》です。」
「幻想即興曲……?」
「はい。」
「どなたが作曲されたのですか?」
「あっ……。」
しまった。
そういえば、この世界にはショパンがいないんだった。
……どうしよう。
「え、えっと……ショパンという方です。」
「ショパン……?」
「はい。」
「……聞いたことのない作曲家ですね。どちらの国の方なのですか?」
「ええっと……。」
……まずい。
前世のポーランドです、なんて言っても通じないよね。
「あの、とても遠いところの方で……。」
「なるほど。私の知らない地域にも、これほど優れた作曲家がいるのですね。」
「そ、そうなんです。」
……よかった。
何とかごまかせたみたい。
ユリウス様は興奮した様子で言葉を続けた。
「それにしても、あれほど複雑な旋律を、たった一人で……。しかも、左右で異なるリズムを刻みながら、あれほど自然に響かせるとは……。」
その表情には、先ほどまでの疲れた様子がなかった。
まるで、新しい宝物を見つけた子供のように、目を輝かせている。
……もしかして。
……本当に、気に入ってくださったのかな。
「ありがとうございます。」
私は嬉しくなって微笑んだ。
前世では、演奏を褒めてもらうこともあった。けれど、この世界に生まれ変わってからは、誰かに自分の音楽を聴いてもらう機会さえ、ほとんどなかった。
それなのに、目の前の人は私の演奏を心から喜んでくださっている。
……また、誰かに音楽を届けられたんだ。
そう思うと、自然と笑みがこぼれた。
「実は、ほかにも好きな曲がたくさんあるんです。」
「……ほかにも?」
「はい。リストという方の曲も、とても素敵なんですよ。」
「リスト……。また別の作曲家ですか?」
「はい。」
「……ぜひ、詳しくお聞きしたいですね。」
ユリウス様は真剣な表情で考え込んでいる。
この世界で、こんなふうに音楽の話ができることが、私には新鮮だった。
「クラリス嬢。失礼ですが、どちらでピアノを学ばれたのですか?」
「えっ? ええっと……。」
……どうしよう。
前世の日本で音楽大学に通っていました、なんて言えないよね。
「あの、ずっと昔に……。」
「なるほど。幼い頃から学ばれていたのですね。」
「そ、そうなんです。」
……助かった。
ユリウス様は、特に疑う様子もなく頷いている。
私は少しほっとした。
「あの、ユリウス様。」
「はい?」
「もしお時間が許すようでしたら、ほかの曲もお聴きになりますか?」
「……ぜひ、と言いたいところですが。」
ユリウス様は、はっとしたように顔を上げた。
「クラリス嬢。」
「はい。」
「一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか?」
「もちろんです。」
「あなたは……大勢の人の前で演奏することはできますか?」
「えっ?」
突然の質問に、私は目をぱちぱちさせた。
大勢の人の前で演奏すること。
前世では、何度も演奏会に出演したことがある。もちろん、舞台に立つ前は緊張した。演奏が始まるまで、指先が冷たくなってしまうこともあった。
それでも、鍵盤に触れて音楽が始まれば、不思議と落ち着くことができた。
何より、自分の演奏を誰かに聴いてもらえることが嬉しかった。
「……少し緊張するとは思いますけれど。」
私は微笑んだ。
「ピアノを弾けるなら、嬉しいです。」
「……そうですか。」
ユリウス様は、しばらく黙っていた。
◇
ユリウスは、目の前の令嬢を見つめていた。
彼女の演奏は、間違いなく素晴らしかった。
多少の乱れはあったものの、旋律の美しさも、表現の豊かさも、並の演奏家とは比べものにならない。
しかし、彼の心に残っていたのは、演奏技術だけではなかった。
演奏を終えたときの笑顔。音楽について語るときの明るい表情。そして、褒められたときに見せた、少し照れたような仕草。
王宮では、音楽さえも家柄や権威を示すための道具として扱われることがある。
だが、彼女は違う。
ただ、音楽が好きなのだ。
その喜びが、演奏を通して伝わってきた。
先ほどまで、早く帰ってもらいたいと考えていた。それなのに今は、もう少し彼女と話してみたいと思っている。
……不思議な方だ。
そして、もっと彼女の演奏を聴いてみたい。
そう思ったとき、ユリウスの頭に王宮での晩餐会が浮かんだ。
王立楽団の代役を探していた。だが、必ずしも楽団と同じ形式にこだわる必要はないのではないか。
一人の演奏家による、これまでにない音楽。
それもまた、歓迎の席にふさわしい催しになるかもしれない。
もちろん、王宮での演奏には大きな責任が伴う。ましてや、相手は隣国の王弟殿下だ。
まだ十八歳の令嬢に、そのような役目をお願いしてよいものだろうか。
ユリウスは少し迷った。
しかし、彼女の演奏には、それだけの価値があると感じていた。
……この方なら。
ユリウスは決意した。
「クラリス嬢。実は、あなたにお願いしたいことがあります。」
「お願い、ですか?」
「はい。」
ユリウスは、真っ直ぐに彼女を見つめた。
「九日後、王宮で外交使節団を歓迎する晩餐会が開かれます。」
「……外交使節団?」
「ええ。本来であれば王立楽団が演奏を披露する予定だったのですが、主要な演奏者たちが病に倒れてしまいまして……。」
「えっ……。それは大変ですね。」
「はい。現在、代役を探しているのですが、なかなか見つからず……。」
ユリウスは一度、言葉を切った。
「ですが、先ほどあなたの演奏を聴いて、確信しました。」
「……?」
「あなたなら、きっと使節団の皆様を満足させることができる。」
「…………。」
クラリスが目を丸くした。
「わ、私がですか?」
「はい。」
「王宮で……?」
「はい。」
「外交使節団の皆様の前で……?」
「……はい。」
クラリスは思わずピアノを振り返った。
驚きと戸惑いが、その表情に浮かんでいる。
ユリウスにも、彼女が何を感じているのか分かる気がした。
突然、王宮での演奏を頼まれたのだ。戸惑うのは当然だろう。
「もちろん、無理にとは申しません。」
ユリウスは静かに続けた。
「ですが、私はあなたの演奏に心を動かされました。ぜひ、あの音楽を多くの方に聴いていただきたいのです。」
そして、深く頭を下げた。
「クラリス嬢。どうか、私を助けていただけませんか。」
◇
……え?
王宮で演奏?
しかも、外交使節団の皆様の前で?
私は思わず、目の前のユリウス様を見つめた。
冗談をおっしゃっている様子ではない。真剣な表情で、私の返事を待っていらっしゃる。
……どうしよう。
ピアノは弾きたい。
もちろん、弾きたい。
けれど、王宮での演奏となれば、ただの演奏会とは違う。
大切な外交使節団の歓迎の席。もし失敗したら、自分が恥ずかしい思いをするだけでは済まないかもしれない。
ユリウス様にも、ご迷惑をかけてしまうだろう。
そう考えると、指先が少し冷たくなった。
そんな私に、ユリウス様は静かに言葉を続けた。
「もちろん、正式な依頼として相応の謝礼もご用意します。ですが、それ以上に……私は、あなたの演奏を多くの方に聴いていただきたいのです。」
私は顔を上げた。
ユリウス様は、真剣な表情で私を見つめている。
初めて会ったばかりの私に、大切な役目を任せようとしてくださっている。
それほどまでに、私の演奏を信じてくださっているのだ。
前世では、何度も舞台に立った。緊張したこともあったし、失敗して落ち込んだこともあった。
それでも、誰かに音楽を届けられる時間が大好きだった。
この世界に生まれ変わってから、ずっと諦めていたこと。
それが、またできるかもしれない。
……本当に、私でいいのかな。
私はもう一度、ピアノを見つめた。
つい先ほどまで、あそこで夢中になって演奏していた。久しぶりに鍵盤へ触れたときの喜びは、今も指先に残っている。
……怖い。
それでも、弾きたい。
私は膝の上で、そっと両手を握った。
不安がなくなったわけではない。
けれど、私の演奏を楽しみにしてくれる人がいるのなら、その期待に応えたい。
私はゆっくりと顔を上げた。
「……分かりました。」
「……!」
「私でよければ、ぜひ弾かせてください。」
「本当ですか?」
「はい。」
私はしっかりと頷いた。
「少し緊張しますけれど……。」
正直にそう伝えると、ユリウス様は穏やかに微笑んだ。
「それは当然だと思います。」
「……ありがとうございます。」
その言葉に、少し肩の力が抜けた。
不安を感じることまで、受け止めてくださった気がしたからだ。
「せっかく聴いていただけるんですから、最高の演奏にしたいです!」
ユリウス様は、少し驚いたような顔をした。
そして、ふっと微笑んだ。
「……ありがとうございます、クラリス嬢。」
「こちらこそ。」
私は微笑んだ。
こんな素敵な機会をいただけるなんて、思ってもいなかった。
ただ、一つだけ気になることがある。
「あの、ユリウス様。」
「はい?」
「一つだけ、お願いしてもよろしいでしょうか?」
「もちろんです。何でしょう?」
「本番まで、練習させていただきたいんです。」
「……練習、ですか?」
「はい。久しぶりなので、まだ指が思うように動かなくて……。」
「……先ほどの演奏で、ですか?」
「はい。」
ユリウス様は、なぜか再び固まった。
……そんなに驚くことかな。
でも、私としては本当に練習が必要なのだ。
さっきだって、何度か指が追いつかなかったし、細かな表現も思いどおりにはできなかった。
何より、大切な場所で演奏するのだから、できる限り準備をしておきたい。
「もっと練習して、皆様に楽しんでいただける演奏にしたいんです。」
そう伝えると、ユリウス様は嬉しそうに微笑んだ。
「分かりました。こちらのピアノは、いつでもお使いください。」
「本当ですか?」
「ええ。私が責任を持って手配いたします。」
「ありがとうございます!」
私は思わず両手を上げかけた。
……あっ。
危ない、危ない。
ここは伯爵邸だった。
慌てて手を下ろし、姿勢を正す。
すると、ユリウス様が小さく笑った。
「……どうぞ、お気になさらず。」
「……すみません。嬉しくて、つい。」
「いえ。そんなに喜んでいただけるとは思いませんでした。」
ユリウス様は、穏やかな笑顔を浮かべていた。
……あ。
さっきまで、ずっと難しい顔をしていらっしゃったのに。
今は、こんなふうに笑ってくださるんだ。
初めてお会いしたときは、少し近寄りがたい方なのかもしれないと思っていた。けれど、こうして音楽の話をしていると、とても優しく、話しやすい方に感じられる。
……もう少し、お話ししてみたいな。
そんなことを考えていると、ユリウス様が口を開いた。
「それで、クラリス嬢。」
「はい。」
「本番では、どのような曲を演奏されるおつもりですか?」
「そうですね……。」
私は少し考えた。
せっかく王宮で演奏するのだから、華やかな曲がいい。
それに、聴いている人がわくわくするような曲。
美しい旋律と、きらきらと輝くような音色。
……それなら。
あの曲がいいかもしれない。
前世でも、何度も何度も練習した、とっておきの一曲。
「……一つ、弾いてみたい曲があります。」
「どのような曲なのですか?」
私は自然と笑顔になった。
「《ラ・カンパネラ》です。」
「……ラ・カンパネラ?」
「はい。小さな鐘、という意味なんですよ。」
「……鐘、ですか。」
「とても綺麗で、華やかな曲なんです。」
私は鍵盤へ視線を向けた。
高く澄んだ鐘の音を思わせる旋律。軽やかに駆け抜ける指先。そして、華やかに響き渡る最後の音。
前世で初めて聴いたとき、その美しさに心を奪われたことを覚えている。
いつか自分でも弾けるようになりたいと思い、何度も何度も練習した曲だった。
……うん。
あの曲なら、きっと楽しんでもらえる。
ただし、簡単な曲ではない。
今の私の指が、どこまで動いてくれるか分からない。
……しっかり練習しなくちゃ。
「ユリウス様。」
「はい?」
「私、精いっぱい頑張ります。」
ユリウス様は、真剣な表情で頷いた。
「……よろしくお願いいたします、クラリス嬢。あなたの演奏を、楽しみにしています。」
その言葉に、私は思わず微笑んだ。
まだ少し不安はある。
けれど、ユリウス様が私の演奏を楽しみにしてくださっている。そのことが、何より心強かった。
「はい。」
私はしっかりと頷いた。
こうして、私のお見合いは思いがけない方向へ進んでしまった。
まさか、お見合い先でピアノを弾いたことがきっかけで、王宮の晩餐会に出演することになるなんて。
人生って、本当に何が起こるか分からない。
でも。
私は、もう一度ピアノへ視線を向けた。
……また、大好きな曲を弾けるんだ。
しかも、私の演奏を楽しみにしてくださる人がいる。
そのことが嬉しくて、胸がいっぱいだった。
――第一話 終わり。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
ピアノが大好きなクラリスと、生真面目なユリウスのお見合いはいかがでしたでしょうか?
第二話では、いよいよクラリスが王宮の舞台でピアノを披露します。二人の関係がどう変わっていくのか、ぜひ最後までお楽しみください。
また、ほかにも異世界恋愛の短編や、長編ファンタジーなどを投稿しています。よろしければ、そちらも読んでいただけると嬉しいです!
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