第1話「接近」
夜の住宅街。
静かすぎるほど静かだった。
ななが歩きながら言う。
「ここ……なんもなさすぎへん?」
ゆたかは周囲を見ながら答える。
「“何もない”のが問題や」
神父が小さく頷く。
「空間情報が希薄です」
人面犬が鼻を鳴らす。
「嫌な感じするな」
その瞬間だった。
——音がした。
「カッ」
乾いた、何かがぶつかる音。
ななが振り向く。
何もない。
「……今の何?」
返事はない。
ゆたかが低く言う。
「音だけが先に来とる」
神父が続ける。
「距離情報にズレがあります」
ななが眉をひそめる。
「どういうこと?」
ゆたかは短く答える。
「近いんか遠いんか、分からん」
再び音。
「カッ……カッ……」
今度は連続している。
足音。
だが、おかしい。
方向が定まっていない。
前にも後ろにも感じる。
ななが息を呑む。
「どこから……」
その時だった。
神父の声が少し強くなる。
「来ています」
一拍。
「認識外の速度で」
ゆたかが一歩下がる。
「速いんちゃう」
「“距離の意味がない”だけや」
人面犬が低く笑う。
「厄介なタイプだな」
ななが後ずさる。
「見えへんのに、近いって何やねん……」
その瞬間。
“カッ”
すぐ後ろで音が鳴った。
ななが振り返る。
何もない。
しかし——
空気が違う。
重さがある。
神父が言う。
「存在が観測されました」
ゆたかが短く言う。
「終わりやな」
その時だった。
視界の端に“何か”が映る。
白い。
長い。
だが、はっきり見えない。
「テケ……テケ……」
音ではなく、認識のズレのように聞こえる。
ななが固まる。
「今の……人?」
ゆたかが答えない。
ただ目を細める。
次の瞬間。
“カッ”
一気に距離が詰まる。
ななの呼吸が止まる。
「え——」
神父が即座に言う。
「離れてください!」
しかし遅い。
“カッ”
また近い。
距離が消えていく。
ななが叫ぶ。
「走っても意味ないやんこれ!!」
ゆたかが言う。
「走る概念がズレとる」
人面犬が舌打ちする。
「時間じゃなくて“間”を食ってるな」
その時、桃太郎が前に出る。
動かない。
ただ立つ。
“カッ”
音が止まる。
テケテケの気配が、一瞬揺れる。
ななが気づく。
「止まった……?」
神父が静かに言う。
「認識が固定されています」
ゆたかが小さく言う。
「無心か」
テケテケの“気配”が揺れる。
だが、消えない。
そこにいる。
ただ、届かない。
ななが呟く。
「これ……見えてるのに届かへんやつや……」
ゆたかが言う。
「逆や」
一拍。
「近すぎて見えへんねん」
風が止まる。
“カッ”
再び音。
今度は遠い。
しかし同時に、すぐ後ろにもある。
距離が壊れている。
神父が言う。
「空間認識の崩壊です」
人面犬が笑う。
「逃げ場ねぇな」
桃太郎はまだ動かない。
ただ、そこにいる。
テケテケの“気配”が揺れる。
そして、どこかへ——
引いていく。
ななが息を吐く。
「……なんやこれ」
ゆたかが静かに言う。
「追いつくもんちゃう」
一拍。
「追いつかれるもんや」
夜の静けさが戻る。
だがもう、“元の静けさ”ではない。
■ 第12章 第1話 終




