羽兎~ヴァイセ②
息を切らしながら短剣を振り上げたヒルデはその声に振り返った。
そこはヒルデの部屋専用の庭園で人通りなど無い場所だが、レギナルトが上階の回廊から偶然に見下ろしていたのだった。皇子は長く入り組んだ回廊から回り込むのが煩わしく、その場から庭園へ身軽に飛び降りた。それから氷のような眼差しで真っ直ぐヒルデに向かって歩いた。彼女の傍に息も絶え絶えに血だらけで倒れているのはティアナの家に居たヴァイセだった。首に下げた玉が血色にぬれているが、それに間違い無い。ヒルデガルトの部屋から血痕が続いている様子だった。
「あの、皇子、このヴァイセが急に襲ってきて、わたくし驚いてしまって…ああ、恐ろしゅうございました」
ヒルデはそう震えるように言うとレギナルトの胸にすり寄った。無言の皇子の様子が気になってヒルデは上目遣いにレギナルトを見たが、その瞳に宿るのは嫌悪だった。
「ヒルデガルト譲。このヴァイセは大人しく人に危害を与えるものでは無い。私の後でも付いてきてしまって迷っていたのだろう」
「皇子はこの獣を知っているのですか!」
ヒルデガルトは内心動揺したが、続く皇子の言葉に安堵したのだった。
「あの娘が飼っているヴァイセだ」
「あの娘? 花屋の娘ですね!」
ヒルデは何処でどうなっているのか分からないが、皇子はあの娘が飼っていたヴァイセを自分がわざと傷つけたとでも思っているようだった。
「まあ、そうでしたの? 知りませんでしたわ。でも本当ですのよ。急に襲ってきて、わたくし殺されるかと思いましたわ。誰かに命令でもされたのかしら? 賢い獣ですものね」
「…何が言いたい?ヒルデガルト譲?」
レギナルトのその声は更に冷たさを増し、ヒルデは言葉を呑み込んだ。ティアナを陥れようと思ったが逆効果だったらしかった。だがヒルデもこのままでは引き下がれず皇子に摺り寄せた肢体を更に押し付けて甘く囁いた。
「皇子、わたくしは怖かったので悪いように考えてしまいました。申し訳ございません。恐ろしくって…ほら、まだこの胸が高鳴っておりますでしょう?」
ヒルデは横に垂らしたままだった皇子の手を取り自分の豊満な胸に当てて訴えた。瞳は黒曜石のように妖しく輝いている。
「ヒルデガルト譲。私にそのような誘いは通じない。そなたは自分が最も美しく魅惑的だと思っているのだろう? 確かにそれなりに美しいがその皆が褒める自慢の黒髪も魅惑的な肢体も、そなたよりも素晴らしい女性を私は知っている。しかも心も美しい。だからそなたの武器は私には霞んで見えて通じない」
乾いた嗤いと共にレギナルトがそう言うと、ヒルデを自分から強く引き剥がした。
屈辱的な言葉を投げつけられたヒルデは呆然と立ち尽くしてしまった。しかし血まみれのヴァイセを救い上げて去って行く皇子に向かって叫んだ。
「皇子がわたくしをお嫌いでも構いません! でもわたくしは 〝冥の花嫁〟 です! 貴方が誰を好きであろうと貴方はわたくしを選ぶしか無いのですから!」
レギナルトはその言葉に一瞬立ち止まったが、振り向く事無く去って行った。
分かっている。 〝冥の花嫁〟 との婚姻は好き嫌いなど関係無いのだ。皇位継承者の義務であって例え嫌悪する相手でも自分の心を殺して契らなければならないのだ。
(自分の心を殺す?)
レギナルトはその考えに嗤いが出た。陳腐な恋愛小説の主人公にでもなった気分だった。
『お認め下さい!』と言ったドロテーの言葉が浮かんできた。
しかし今はこの獣を助けるのが先決だ。あの娘が悲しむ姿を見たくなかった。
そして至急との使いに駆けつけたベッケラートは呆れた。
「おい、まさかこの獣を診れ! と言うんじゃ無いだろうな? 俺は人間専門だぜ! 冗談にも程があるだろが。それともこないだの仕返しかい?」
「冗談でも、仕返しでも無い。あの娘が可愛がっているものだ」
悲しむ姿を見たくないと言う言葉は呑み込んだ。
「あの娘? お譲ちゃんのか? そりゃいかんな。しかし、なんでまた…」
ベッケラートが言いかけた途中にリィンの体が眩しく光り、二人が驚いて見守る中に小さなヴァイセの体は幼い少年の姿へと変貌していったのだった。白いヴァイセがそのまま人間に変化したかのように白い肌と乳白色の髪。
「――こいつは…妖人か?」
〝妖人〟 それは極めて珍しい例だが妖魔と人間との間に生まれた半人半妖だ。妖魔は虚無の王の力から生み出されるもので妖魔同士での繁殖は無い。だが能力の高い妖魔は人型をとることが出来るので、まれにこのような子供が出来る場合があるのだ。それでも所詮違う種族のため拒否反応が出て生まれても直ぐ死ぬ確立が高かった。
レギナルトは闇の聖剣を鞘から抜き払った。
「ちょっ、ちょっと待てよ、皇子! 早まるなって! お譲ちゃんのだろう?」
「妖魔なら関係ない! 滅ぼすだけだ!」
「ちょっと、待てってば! 妖人は妖魔寄りと人間寄りとに分かれるだろうが。とにかくこれだけ人間に似ているんだ!様子を見ろ、って!」
レギナルトは聖剣をリィンの首元に突きつけたまま答えた。
「素人は黙っていろ! 妖魔は能力の高いもの程、人型に近いんだ! しかもヴァイセなどに変化も出来る。恐ろしい力だ!」
「待てって! ティアナが悲しむだろうが!」
レギナルトの剣の柄に力を込めた時、リィンが身動きをして人型になっても首に下げていた玉が鳴った。ティアナが優しくヴァイセを見つめながら、
『リィン、リィンと鳴るからリィンと呼んでいます』
と言った顔が浮かんだ。それを消すように首を一度振って柄を握り直した時、その彼女がハーロルトを伴って飛び込んで来たのだ。
レギナルトがヴァイセの窮状をティアナに知らせていたからだった。
「リィン! 大丈夫! えっ?」
ティアナは驚いて立ち止まった。皇子が見知らぬ少年に聖剣を突きたてようとしていたからだった。しかもその少年はもう既に刺された後だろうか? 血まみれだったのだ。
「皇子…何をしているのですか?そんな子供に!」
ハーロルトの制止を振り払ってティアナは駆け込むと、その少年とレギナルトとの間に庇うように座った。勢いよく聖剣の前に出てきたティアナを刃から守るためレギナルトは聖剣を引かない訳にはいかなかった。
「馬鹿! 離れろ! 危険だ! それは人間じゃない、妖人なんだ!」
「えっ?」
ティアナが反射的にその少年を振り向いて見た時、その子の瞳が開いたかと思うと勢い良く起き上がって彼女の首に抱きついた。
「しまった!」
レギナルトはその瞬間、心臓の鼓動が止まったかと思った。冷たい血液が身体を一瞬のうちに巡ったかのようだった。ティアナが殺されると思ったからだ。
しかしその妖人は人間の子供のように泣きじゃくっていた。
「ティアナ、ティアナ。僕ね、約束守ったんだよ。それなのにヒルデは約束守ってくれないんだ。痛いことするんだ!ティアナ、どうして?どうして、教えて! 僕、何か悪い事したのかな?ねえ、ティアナ?」
見知らぬ子供なのに何故、自分の名前を知っているのだろうかと不思議に思うティアナにレギナルトが説明をした。
「この子がりィン? まさか…本当にリィンなの?」
りィンは空色の瞳でティアナを見つめてコクリと頷いた。リィンはさすがに半妖なだけあり大きな固体に変化したせいで力が増し妖魔独特の脅威の治癒ですっかり傷は塞がっていた。ベッケラートは呆れ顔半分興味半分でその身体を調べていた。その間もリィンはティアナの服の端を握って放さなかったが大人しくされるがままだった。
レギナルトは聖剣を抜いたまま様子を伺った。たどたどしい言葉の端々にヒルデガルトとの関係が浮き彫りにされてきたのだ。聞きたい事は色々ある。
「約束とは何だ」
リィンは皇子の低く尊大な声に怯えてティアナの後ろに隠れるような素振りをした。
「皇子の言い方はこの子を怖がらせています。優しく言ってあげて下さい」
「………」
ベッケラートがニヤニヤと愉快そうに様子を伺っているのが気に入らない。
「約束とは何だ?」
レギナルトは優しく言ったつもりだったが、リィンは怯えて更に小さく震えてしまった。ティアナは小さく溜め息をついてリィンに話かけた。
「ねえ、リィン。約束って、なあに?」
「あのね、ヒルデはね。僕と友達になる約束をしたんだ。毎日遊んでくれるって…僕は約束守ったのにヒルデはその約束守ってくれなかったから探しにきたの」
「お前が守った約束とは何だ!」
「皇子! そんなに大きな声出さないで下さい。リィンが怖がります」
「………」
ベッケラートが愉快そうに口笛を吹いたので、レギナルトは彼を睨んだ。ベッケラートはその視線を受けて肩をすくませた。
「んで、チビちゃんがした約束は何だい?」
「道を塞いだんだ」
「へぇ~一人でかい?」
「ううん。大きな人形に命令するんだ」
「人形? へぇ~どんなのかな?おじさん見たいな」
リィンの瞳が輝いた。
「見たいの? でも駄目みたい…この辺は人形が居ないから…」
しょんぼりする彼に聞こえないようにベッケラートがレギナルトに耳打ちした。
「おい、人形ってなんだと思う?」
「能力の強い妖魔は他の知能が低い妖魔を自由に使役する事が出来る」
「まさか…」
ベッケラートは慎重に聞いた。
「その人形達に道を塞がせて、この皇子と遊ぶように言った?」
「うん。その時、楽しかったなぁ~ヒルデも一緒にいたし。だけど…その人形、壊されちゃって…」
恨めしそうにリィンはレギナルトを見た。
レギナルトとベッケラートは顔を見合わせた。間違いなくヒルデガルトがこの妖人を使ってレギナルトを罠にかけたのだ。偶然過ぎる立ち往生に偶然なる出会い。それも命を救った恩人としての立場を手に入れ、目が見えなくなったと言う嘘をつき、まんまと帝都までやってきたのだ。しかもファネールの復興と云う恩賞まで手に入れた。たぶん親に捨てられて一人寂しく過ごす純粋そうなこの妖人を上手く操って計画したのだろう。狡猾な策士だ。 〝冥の花嫁〟 だと云うのも非常に怪しいものだが、こればかりは事が事だけに慎重に慎重を重ねて真実を追究しなければならない。ここでもし間違いでもおこしたら国の存亡に関わる問題だからだ。
どうしたものかと考えを巡らせている所へ、エリク来訪の知らせが届いた。レギナルトとハーロルトは頷き合うと、エリクの待つ部屋へと向かった。
その部屋にはエリクの他にもう一組の人物達が待っていた。その二人を見たレギナルトは驚き目を見張った。この場にいる筈のない人物だったからだった。
エリクはどのような証拠を掴んで来たのだろうか? ハーロルトがカチリと音をたてて扉の鍵を閉めた。彼のもたらした報告を聞く準備は整った―――
エリクが皇子宮に現れて時間もさほど経たないぐらいにティアナとベッケラートはレギナルトに別室へ来るようにと召集をかけられ、更にリィンは呼ばれたら直ぐ出られるようにと隣室でわざわざ待機させられた。
その集められた広めの部屋には、ヒルデガルトとイルマも現れた。彼女は先に座って待っていたティアナを見止めると、あからさまに嫌悪感を剥き出しで睨み、ツンと顎をあげて座った。
それから大神官ゲーゼが現れ久しぶりに会ったティアナに微笑みながら一言二言声をかけて臨席に座った。それと同時に、レギナルトが左右にハーロルトとエリクを従えて入って来たので、一同は立ち上がって頭を垂れて皇子達を迎えた。
レギナルトは皆を確認するように視線を巡らせると、中央の席に座りその両脇にベルツ兄弟が控えた。それから皆に座るように手を振った。
「皆に集まってもらったのは他でも無い。先送りされていた 〝冥の花嫁〟 について集まって貰った。皇帝に最終的な報告をする前に確認の意味で聞いてもらいたい」
レギナルトはそう言うと視線はゲーゼで止まった。
それを受けて大神官ゲーゼは立ち上がると軽く一礼をした。
「はい。お時間をおかけして申し訳ございませんでした。創世記の時代からの文献及び皇家の秘儀を調べましたところ同時期に 〝冥の花嫁〟 がお二方降臨された記述はございませんでした。しかしながら過去にそのような事実が無かったとしても今回が違うと云う裏付けも出来ません。初めての事かもしれないからでございます。特に証拠となる星の刻印があるのですから…ですがその星の刻印についてエリクより報告がございます」
ゲーゼは厳しい表情で報告を済ませるとゆっくりと腰掛けてエリクが喋るのを待った。
エリクは一歩前へ進み出るとレギナルトに向かって一礼して話し始めた。
「ご報告申し上げます。ゲーゼ様の命を受け、ファネールへと調査にまいりました。そこである興味深いものを発見致しました。ファネール城で見つけたものでございます」
エリクは布に包まれた長方形のものを皆が腰掛けている大きな円卓の上に立てて置くと、その覆いを外した。それは年代物の肖像画だった。貴族が好んで描かせる肖像画にしては小振りのもので、人に見せると云うよりも自分か極親しい者で楽しむものだろう。その描かれた人物は美しい女性の上半身の姿だった。しかも胸が見えるか見えないのかと云うきわどい角度で描かれていた。皆が注目したのはそんな妖艶な絵姿では無く、その左胸に浮かんでいる 〝星の刻印〟 だった。はっきりと描かれた刻印は当然のようにティアナ達の刻印と全く同じものだった。
「裏に 〝愛しきマルガ〟 と記されております」
「マルガとは十二代前のファネール侯爵家出身の 〝冥の花嫁〟 でございます」
エリクの読み上げにゲーゼが補足した。
「ヒルデガルト譲、そこで問うがこの肖像画は当然見知っていたであろう?」
レギナルトの紫の視線がヒルデを捉えた。
「存じません! 肖像画などどれくらいあるとお思いですか? ましてそのように小さいものなど見たこともございませんわ!」
ヒルデは平然とした態度で口調は強く否定した。だが、彼女の返答など関係なくレギナルトは次の問いを続けた。
「ベッケラート、この絵の通りに肌に細工するのは医術上可能か?」
「そう~だなぁ。見本があるからまあまあ腕の良い医師なら出来るだろうよ」
「わたくしの刻印が偽者だとでもおっしゃいますの!」
ヒルデは驚いたように抗議した。エリクは続けた。
「そもそも 〝星の刻印〟 が冥の花嫁の証拠となりますが、その形や色などは一般には知られていません。それは皇家の秘儀でありこの肖像画のようにそれを写すなどありえないものです。しかし、この作者は十二代前の画家皇帝と呼ばれたアウトゥル陛下です。推測するに自らの手で皇后を描いた個人的なものだったのでしょう。それが皇后の実家の手に渡ったとしても不思議ではございません。それから追随すればファネール領内で腕が良いと評判の医者が行方不明だと云う話があります」
皆の視線がヒルデガルトに集まった。だが彼女は怯む素振りも無く悠然と構えていて微笑みさえ浮かべていた。
「それが何か? わたくしは全く存じませんわ」
「では、ヒルデガルト譲。これについて申し開きをして貰おうか?」
レギナルトは目で合図を送ると、ハーロルトが隣室の扉を開けた。そこから現れたのはリィンだった。彼はヒルデを恐る恐る見ながら守ってくれるティアナの影に走り込んだ。
さすがのヒルデも一瞬顔色を変えた。殺したかもしくは瀕死の状態にしたと思っていたものが、元気よく現れるとは思わなかったのだ。彼女はリィンがヴァイセでは無く、この人型の時も知っている。本来の姿は人型なのだがヒルデはヴァイセの姿を好んだので何時もそれを強要していたのだ。
「これは先程、そなたが手にかけたヴァイセだ」
「お、お戯れを皇子、その少年がヴァイセなど何の冗談でございますか?」
「戯れと思うのか?」
レギナルトの声が一段と低くなった。
「この者が申すにはそなたが友となり毎日会ってくれると云う約束で、ファネールへの道へ誘い込むように国境から帝都への道は妖魔を使って塞がせ、私との出会うきっかけを作る為に我らを妖魔に襲わせたと云う話だったが? 如何に返答する?」
「存じません」
ヒルデは平然と答える。
「何も知らぬ、と申すのだな?」
「はい。皇子こそ、そのような半人の言う事をお信じになられるのでございますか?」
レギナルトはエリクと密かに目を合わせた。皇子の紫水晶のような瞳が鋭く光っている。
「よかろう。それは済んだことであるし不問にしよう。肝心の 〝冥の花嫁〟 か?どうか?である刻印についての検証に入る。それについて協力を仰いだ方にこの場に来て頂こう」
レギナルトはそう言うと立ち上がって扉へ向かいその人物を迎い入れるため扉に手をかけた。皇子の丁寧な物言いにその人物が何者なのか予想が出来なかったが、皆も立ち上がって扉に注目した。




