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第四十九話 冬のはじまりに

翌朝。


 雨は上がっていた。


 けれど、空はまだ薄い灰色で、昨日の冷たさがそのまま残っているようだった。


 悠理はいつもの道を歩いていた。


 そして、いつもの場所で。


「おはようございます」


 澪が待っていた。


「おはよう」


「今日は早いですね」


「澪も」


「私は少し早く家を出ただけです」


「そうか」


 二人は並んで歩き始める。


 昨日とは違って、傘はない。


 代わりに、冷たい風が頬を撫でていく。


 澪は黒いマフラーに顔を少し埋めた。


「……やっぱり寒いです」


「そうだな」


「でも」


「ん?」


「昨日より、少しだけ平気です」


 悠理は横を見る。


 澪は前を向いたまま、静かに笑っていた。


「どうして?」


「昨日、悠理くんが言ってくれたので」


「何を?」


「これからも一緒にいるって」


「ああ」


「だからです」


「それだけ?」


「それだけで十分ですよ」


 澪はそう言った。


 その言葉が、妙に胸に残った。


 ◇


 教室に入ると、珍しく朝から机が動かされていた。


 公開授業のための準備が始まるらしい。


「おはよう、悠理」


 蓮が手を振る。


「おはよう」


「昨日、澪さんと一緒に帰っただろ」


「ああ」


「やっぱりな」


「何が?」


「いや、予想通りだっただけ」


 蓮は楽しそうに笑った。


 その横では、別の男子が紙を抱えている。


「これ、どこに置けばいい?」


「後ろでいいんじゃない?」


 そんな会話が飛び交う。


 いつもの教室。


 けれど、少しだけ違う。


 数日後には公開授業があり、その後には交流会がある。


 普段とは違う人たちが、この教室に入ってくる。


 そのための準備。


「悠理くん」


 澪が隣から声をかけた。


「今日、放課後も残れますか?」


「たぶん」


「よかった」


「何かある?」


「カードの整理をしたくて」


「分かった」


「ありがとうございます」


 それだけの会話。


 けれど。


 こうやって自然に「放課後も一緒にいる」ことを話せるようになったのは、少し前とは違うところだった。


 ◇


 放課後。


 教室には、十人ほどの生徒が残っていた。


 壁には、すでに季節をテーマにした写真がいくつか飾られている。


 秋の紅葉。


 夏の海。


 春の桜。


 冬の雪景色。


 まだ雪は降っていないけれど、冬を先取りした写真だった。


「この写真、綺麗ですね」


 澪が一枚の写真を眺める。


「雪か」


「はい」


「雪、好き?」


「嫌いではないです」


「寒いのに?」


「寒いのは嫌です」


 澪が少し笑う。


「でも、雪が降った日の静けさは好きです」


「静かだから?」


「はい」


「澪らしいな」


「……どういう意味ですか?」


「そのままの意味」


 澪は少し考えて。


「褒めているなら、受け取ります」


「褒めてる」


「では、ありがとうございます」


 また、笑う。


 最近。


 澪が笑うことが増えた気がする。


 以前は、人前では完璧な笑顔を作っているように見えた。


 けれど今は。


 こうして自然に笑っている。


 悠理はそれが嬉しかった。


 ◇


 作業が一段落すると、クラスメイトの一人が何気なく言った。


「そういえばさ、今年の冬休みって何する?」


「実家帰る」


「俺も」


「旅行かな」


 それぞれが答えていく。


 その中で。


「澪さんは?」


 突然、話を振られた。


「私ですか?」


「うん。冬休み」


「……まだ決めていません」


「家に帰るんじゃないの?」


「……」


 ほんの一瞬。


 澪の表情が止まった。


「たぶん」


 それ以上は言わなかった。


 悠理は何も言わない。


 ただ、澪の横顔を見ていた。


 文化祭の後。


 彼女が「家」という場所をどれだけ苦手としているのか。


 悠理は知っている。


 だからこそ。


 今は、みんなの前で触れる話ではないと思った。


 ◇


 片付けが終わった頃には、外はもう暗くなっていた。


「今日はここまででいいみたいです」


 澪が荷物を持つ。


「帰るか」


「はい」


 二人で廊下を歩く。


 教室の明かりが一つずつ消えていく。


 校舎に残っている生徒も少ない。


「悠理くん」


「ん?」


「さっきの話」


「冬休みの?」


「はい」


「……」


「私、たぶん今年も一人で過ごすことになると思います」


 淡々とした声だった。


 けれど。


 どこか寂しさが混ざっている。


「そうか」


「はい」


 二人は階段を下りる。


「去年は、それでも何とも思いませんでした」


「今年は?」


 澪の足が、少しだけ止まった。


「……今年は」


 小さな声。


「少しだけ嫌です」


 悠理は何も言わなかった。


 澪が続ける。


「家にいることが嫌というより」


「うん」


「誰とも会わない時間が、嫌になりました」


「……」


「昔は、それが普通だったのに」


 澪は笑おうとした。


 でも。


 うまく笑えていなかった。


「変ですよね」


「変じゃない」


 悠理は静かに言った。


「むしろ、普通だと思う」


「……そうでしょうか」


「ああ」


 少しだけ考えてから。


「俺も、前より一人の時間が減ったから」


「……」


「だから、急に一人になると、たぶん寂しくなる」


 澪は驚いたように悠理を見る。


「悠理くんも?」


「ああ」


「そうなんですね」


 その顔が、少しだけ安心したように見えた。


 ◇


 校門を出る。


 夜の空気はかなり冷たい。


 澪はマフラーを巻き直した。


「悠理くん」


「ん?」


「冬休み」


「うん」


「もし、予定がなかったら」


 澪が言葉を選ぶ。


「……どこか、一緒に行きませんか?」


 悠理は足を止めた。


「どこに?」


「まだ決めていません」


「そうか」


「映画でもいいですし」


「うん」


「本屋さんでも」


「ああ」


「カフェでも」


「いいな」


「……」


 澪が少しだけ顔を上げる。


「では」


「うん」


「一緒に考えてくれますか?」


「もちろん」


 澪は嬉しそうに笑った。


「よかった」


「まだ冬休みまで結構あるけど」


「だからいいんです」


「?」


「楽しみにする時間が増えるので」


 悠理は少しだけ笑った。


「なるほど」


「はい」


 並んで歩く。


 その歩幅が、自然に揃っていく。


 しばらくして。


 澪がそっと口を開いた。


「冬休みだけじゃなくて」


「ん?」


「冬の間も、できるだけ一緒にいたいです」


「……」


「無理なら、いいんですけど」


「いや」


 悠理は首を横に振った。


「無理じゃない」


「本当ですか?」


「ああ」


「……よかった」


 澪はマフラーの中で、小さく笑った。


 ◇


 家の前に着いた。


「じゃあ、また明日」


「ああ。また明日」


 澪が玄関へ向かう。


 けれど。


 今日は、すぐには入らなかった。


「どうした?」


「……いえ」


 少し考えてから。


「悠理くん」


「ん?」


「明日も、一緒に帰ってくださいね」


「ああ」


「明後日も」


「もちろん」


「その次も」


「……気が早いな」


「約束しておきたいので」


 澪は笑った。


「冬休みまで、毎日」


「毎日?」


「嫌ですか?」


「……別に」


「では、決まりですね」


 澪は満足そうに頷いた。


「おやすみなさい」


「おやすみ」


 今度こそ、扉が閉まる。


 悠理は自分の家へ向かう。


 隣の部屋。


 ほんの数歩しか離れていない。


 でも。


 以前は、そこに誰がいるのかなんて考えなかった。


 今は違う。


 隣には澪がいる。


 明日も会う。


 明後日も。


 その次も。


 当たり前のように続いていく日々を想像して。


 悠理は、小さく息を吐いた。


 冬は、まだ始まったばかりだった。


 けれど。


 今年の冬は、去年よりずっと長く。


 そして、きっとずっと暖かい。


 そんな予感がしていた。

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