動き出す車輪
シャリナの腕に抱かれたブルームが、つぶらな瞳で兄を見つめている。
旅支度を終えたアーレスの羽飾りの付いた帽子が気になって仕方がないらしい。
「そんなにこれが気になるのかい?」
アーレスは羽に触れながら言った。
「確かに少し不思議な色ではあるが…」
「色もだけど、お目々のように見えるのよね?」
シャリナはブルームに微笑みかけながら言った。
「にーに…」
ブルームが小さな手を差し出すと、兄は弟の蜂蜜色の髪を優しく撫で、その頬にキスをした。今朝は起きがけに遊んで思い切り抱きしめ終えているので、手を握って別れを惜しむ…
「少しの間、お別れだ。セレンもいなくて寂しいだろうけど、父上にたくさん遊んで貰うんだよ。」
「だーだ…んま」
「そうさ、父上に「それ」をして貰えるのは世界で君だけなんだからね。」
「だーだ…んまんま!」
理解したのか、ブルームが無邪気に笑った。昨夜も熱を出して父を死ぬほど心配させたというのに、今は嘘のように元気だ。
「お土産を持って帰るよ…行ってくる。」
最後に言って、アーレスはシャリナに視線を移した。シャリナは穏やかに微笑んでおり、「十分に気をつけて。」と一言だけ告げる。
「行って参ります、母上。」
アーレスは踵を返し、エントランスに向かって歩いて行った。
眩しい日差しの中にセレンティアの姿が見える…馬車の前に立ち、アーレスが来るのを待っていた。
「待たせたね…さあ、行こう。」
セレンを先に乗せた後、アーレスも馬車に乗り込んだ。
自分の馬は従者に任せてあり、いつでも乗り換えることが可能だ。護衛は従者を含めて三人…うち二人はシュベールの騎士団の騎士であり、随行することになる。
「忘れ物はないね?」
…はい、大丈夫です。
アーレスの問いに、セレンティアが頷いてみせる。
「よし、出してくれ!」
声に応じ、馬車が走り出した。
景色が動き、シュベール城の城門へと近づいて行く…
…初めはどこへ行くのですか?
「先ずは遠方へ…西の領地、ドヌー・ファルコだ。」
それが何処にあり、どんな場所なのか、セレンティアにはまったく解らなかった。わかっているのは「とても遠い場所」ということだけ…馬車は馬に比べて進む速度が遅いため、到着にはきっと相当な時間がかかるに違いない。
「今度の旅では、二つの城に立ち寄る予定だ。ファルコ城にはかつての知人がいて、彼から是非訪れて欲しいと招待を受けているんだよ。」
…お城?
不安そうな表情を浮かべるセレンティアに、アーレスは微笑みながら言った。
「不安に思う必要はないさ、城主のソランはかつての寄宿仲間で、昔馴染みなんだ。カインと三人で騎士修行を耐えた「同士」だから、君のこともきちんと理解している…その上で、彼自身が君に会いたいと言って来たんだよ。」
…私に?
「うん、とても優しい奴なんだ…会ってみれば判る。」
自分のような者に会いたいというその人は、いったいどんな方なのだろう…とセレンティアは思った。
…アーレス様とカイン様とのご友人ということは、きっとお若い方だろうけれど…それが私を同行させる理由なのかな…
「それから、視察場所や宿泊地では、君は私の妹ということにしておこう…いちいち関係について説明するのは面倒だし、その方が自然だろうからね。」
…はい、アーレス様。
「そうじゃなくて...「お兄様」だ。」
…お…おに…
躊躇い頬を染めるセレンティアに、アーレスは小さく吹き出して笑った。どうやら、少し練習が必要のようだ...
「時間はたっぷりある…徐々に慣らして行こう。」
セレンティアは頷き、ほっと胸を撫で下ろした。
優しくて素敵なアーレス…旅の間、この幸せを噛み締めよう…
二人は互いに笑顔になった。
移りゆく景色の美しさに、旅への期待が高まった。
丘の上に小さな背中が見え、シセルはその愛らしさに目を細める...
地面に座り、膝に乗せたキャンパスに向かって一心不乱に手を動かしているのがわかる…眼下に広がるのはグスターニュ城下の町並だが、彼が描いているのはどうやら別の様だ。
「うごいちゃダメだよ...ははうえ。」
黒髪の少年が言った。
「じっとしていてって言ったでしょ」
幼い子供の姿をした「画家」は、少し先にいる貴婦人を嗜めた。
「そうだけど…お腹が空いてきちゃった。」
「かきおわるまでガマン。」
「そんな…」
「ははうえがうごいちゃうから、なかなか終わらないんだよ..」
「ええっ」
見目麗しい姿で椅子に座っている妻が声を上げる…とても美しいが、すでに疲れきっている様子だった。
…助っ人が必要だな。
口角を上げつつ、シセルは息子の背後に歩み寄った。リオーネは気づいたが、バレルはまだ気づいていない。
「そろそろ母上を休憩させてあげなさい。食事の用意もできているぞ。」
「ちちうえ…」
シセルを見ると、バレルは振り返って瞳を輝かせた。シセルが二日ほど宮廷に滞在していたため、会うのは四日ぶりだ。
キャンパスを置き、すぐに父へと抱きつくバレル...シセルは息子を軽々と抱き上げて笑顔で頬を寄せた。
「母上を描いているのか?」
「うん、ははうえのおたんじょうびにえをあげるんだ。」
「それはいい提案だ。」
「…でも、まだナイショだよ...」
小声で耳打ちするバレルに、シセルも「了解だ...」と返事をする。
ようやく解放され、背伸びをしているリオーネをちらと垣間見ながら、父と子は互いに誓いを立てた。リオーネの誕生日はまだまだ先だが、セオノアに指示を仰ぎながら、ゆっくり丁寧に仕上げるつもりなのだろう…
「お帰りなさい。」
歩み寄りながらリオーネは言った。
「お疲れ様でした。定例会議に問題は?」
「特になかった。諸侯による各領土の収益も安定しているし、カイン様も安堵しておられたよ。」
「あなたが城を管理してくれるから、カインもその点は安心していられるのよね…本来ならここに根を下ろして、彼自身が責務を果たさなきゃいけないんだけど…」
「私は構わないさ。クグロワ様の時代からここで暮らしているし、馴染みが深い...カイン様がお許し下さるあいだは、グスターニュ城の管理を務めるつもりだ。」
「お父様の様に?」
「ああ、ユーリ様の様に。」
シセルが懐かしげに目を細める…
リオーネには分かっていた…シセルがどれほど父を尊い『漆黒の狼』の面影を写したバレルを、どれほどに愛おしく思っているのかを。
「感謝しています…教官。」
リオーネは告げてから並んで歩いた。バレルはすぐに父の腕から離れて食事の用意をしている侍女達の方へ走って行く…
「そころで、その姿は.バレルにせがまれたのか?」
「そう。私を描きたいと言うから着替えようとしたら、ドレスを着て下さいって…命令されたの。」
「気高き『水晶の騎士』に命令するとは...まるで暴君だな。」
「もう王様よ。」
「...だが、おかげで君の貴婦人姿を久々に見られた。まさに青天の霹靂だ。」
「あ、笑ったでしょ...酷い!」
「…違う。とても綺麗だ…と思ってね。」
リオーネは目を丸くして夫を見上げた。シセルが微笑んでいる…宮廷の貴婦人を虜にする、あの極上の笑顔で。
「父上、母上、早く来てよー」
バレルがじれったそうに声を上げた。
「お腹空いたー」
「…ちょっと、私にはさんざん我慢させておいて…」
リオーネは文句を言った。
「もうっこの我儘息子!」
シセルは思わず声を上げて笑った。
バレルのそういうところは母親譲り...ユーリも過分にそうだった。
「...血筋だな。」
リオーネを引き寄せ、背に手を回してなだめる。
「言い遅れたが、カイン様もこちらに来ているんだ。急いで戻る必要はないと仰られていたが、食事を済ませたらすぐに帰ろう。」
「カインが?」
リオーネの表情が明るくなり、笑顔が浮かんだ。カインに会うのは久しぶりで、積もる話が聞けるだろう。
「伯父様が来てるそうよ、バレル!」
リオーネが口角を上げて告げる。
「おじうえ...?」
バレルは小声で「えー」と呟いた。
優しくも厳しい伯父...黒騎士はバレルにとって少し怖い存在なのだ。
情けない顔になったバレルを見てリオーネは苦笑した。
カインの帰還…五歳になったのを機に、本格的に騎士修行が始まるに違いなかった。
「おかえりなさい、公爵閣下!」
騎士達が出迎える。
家令や召使いも集まり、皆が主君の帰還を歓迎した。
「半年ぶりだ...自分の城だというのにまるで馴染みがない。」
カインは周囲を見渡しながら言った。
「ここでは俺が一番の新参者だな。」
「何を仰るのです...閣下は国王陛下の側近であらせられる。王都にお留まりになるのはいた仕方ない事です。」
「そうですとも、王太子殿下の武術指南も務めるからには無理もありません。」
騎士達の言葉に、カインの口角が上がる。
「皆の理解と励ましに感謝する...滞在は10日ほどになるが、なるべく有意義に過ごしたいと思っている。」
騎士達は嬉々として頷いた。
漆黒の狼に鍛えられたグスターニュ騎士は、誰もが嫡子であるカインを敬っている。先代ブランピエール公爵の正当な後継者は今やこの世にただ一人...若き公爵は、城の者たちにとって期待の存在なのだ。
挨拶が済むと、カインはかつて父が使っていた居室に入った。
小性がカインの装備を解き、着替えを手伝う…それが終わると、「下がって良い。」と命じ、すぐに彼を下がらせた。
「静かだ…」
カインは呟いた。
執務室は隣が寝室になっていて、二部屋は通しになっている。
執務用の机も以前とまったく変わらない状態で置かれていた。ユーリが来るまでは大伯父がこの机で執務しており、子供の頃、ここで遊んでもらったことをうっすらと憶えてい。
…大伯父上が亡くなった後、父上は長くペリエ城とグスターニュを往復する生活だった…母上が移り住んでからは腰を据えたが、公爵の代理として、最後までこの場所で過ごされた..」
机に触れると、温もりを感じる...
「父上...」
カインはユーリを想った。ペリエ城での日々もさることながら、騎士修行に明け暮れていた頃の父との思い出が蘇る。
“お前はどうするつもりだ?”
ユーリの声が聞こえた。
“いつまでも根無草では、埒が明かんぞ...“
…ええ、本当に。
このままではいけない。自分に甘過ぎる事で、公爵としての権威を失墜する危険性がある。
…それでは爵位を継いだ意味がない。
「解っています...いずれこの椅子に座りますよ。」
カインは答えた。
「妻子は望めませんが...バレルがここに座るまで、しっかりと義務を果たします。」
無責任なのは承知している...望まない結婚であっても、それが「義務」ならすべきなのだろうことは。
…カイン
おさげ髪のマリアナが目に浮かぶ…幸せな日々が懐かしかった。
「マリアナ...」
昨夜の晩餐で会ったばかりだというのに、もうすでに彼女が恋しい。この思いに決着をつけるなど、とうてい無理だと感じた。
…宮廷に居れば君に会える。今はまだ、そうしていたいんだ...
カインはため息を吐き、窓辺に近寄って中庭を眺めた。
父と母がいつも寄り添っていた花園が見える...
「妻」とともに在る自分を想像し、カインは苦笑した。
「虚しい夢だな…」
「カイン!」
部屋に入ってきたリオーネが手を広げて歩み寄り、双子の弟を抱きしめた。
「久しぶり、おかえりなさい。」
「ただいま、リオン。」
半身である二人が笑顔で互いの存在を確かめ合う。
「元気そうで良かった…」
「君もね…にしても、歓迎の挨拶にしては過剰な演出だ。」
「え…?」
「いや…その姿、一瞬誰かと思った。」
「あー」
リオーネは身を離して自分を見やった。滅多に着ない「貴重」なドレス…そういえば、カインには一度も見せたことがなかった。
「まあ、理由は後で説明するとして…」
手のひらをカインの前に押し出してから、後ろを振り返る。
「バレル…隠れてないで、伯父様に挨拶しなさい。」
カインが扉の方へ視線を移すと、小さい頭が見えた。扉越しに顔を
覗かせ、おずおずとこちらを見つめる…
「こんにちわ…おじうえ。」
カインは甥の様子を見て、警戒されているな…と察した。
恐怖感を与えた覚えはないが、どこかで畏怖を感じさせてしまったのかもしれない。
…それとも『直感』か?
「久しぶりだな、バレル。」
カインは笑顔を浮かべて言った。
「また少し背が伸びたじゃないか。」
「…うん。」
警戒を解かない甥っ子に、カインが自ら歩み寄る。ここで嫌われてしまっては、今後の関係に響いてしまうだろう。
「どうも俺は背が高すぎて、かなり威圧感があるらしいな…こうしたら良いか?」
片膝を着き、バレルに視線を合わせる…シセル似の優しい容貌と、明るい空色の瞳がじっと自分を見つめた。
「絵はどうだ?まだ描いているのか?」
「かいてる…」
「楽しいか?」
「楽しいよ。」
「これからもずっと続けたいと思う?」
「うん。」
「そうか、それは良いことだ。」
カインは黒髪を撫でながら頷いた。
バレルの興味は少しも衰えてはいない…マリアナに頼まれた件は問題ないようだ…
…とすれば。
「アノック卿は絵画の師…それは変わらない。…だが、お前は騎士の子だから、その勉強もしなきゃいけない…解るな?」
「うん。」
「明日からそれを始めようと思う。それにはお前の父と母、そしてお前自身の誓いが必要だ。」
「ちかい?」
「そうだ。俺はこれから黒騎士としてお前を鍛える…俺がお前の教官になる。」
「…きょうかん?」
バレルは反問したが、幼児の理解は半分以下に過ぎないだろうとカインは思った。自身もそうだっただけに、その点は無理からぬことだ。
「心配するな…幸い、お前の両親は二人ともに騎士…当分はこの城で手ほどきを受けられる。俺は帰還した時に教官を務める…ただそれだけだ。」
それでも、バレルは不安そうにリオーネを見上げた。
リオーネは穏やかな微笑みを繕いながら頷いて見せる…
騎士修行…すなわち親元を離れて『外』に出す目安は11歳…8歳で騎士見習いとしてグスターニュ騎士団に託されるとしても、ほんの僅かな時間しか残されていないのだ。
…あの時のお母様の気持ちが解る。
顔を上げると、扉の側に立つシセルが見えた。
シセルの表情にも、複雑な心情が浮かんでいた。
つづく