第22話 理想を叫べ
レイモンドの丸太ほどに膨れ上がった左腕が脆い木の床を抉り取る音が、中央兵舎の狭い空間に響き渡る。
バキバキッ、という耳障りなノイズが、必死に敵影を追うアナトの思考を掻き乱した。
今、もはや目の前にレイモンドはいない。そこに在るのは、かつて人だったなにかだ。
十数人分の、ファランを含む兵士たちの力や魔力を吸収した影響か、全身が今や五倍ほどに膨れ上がり、その顔すらももはや原型をとどめてはいない。
声帯がひしゃげたのか、言葉を発することすらない。聞こえてくるのは、怪物じみた吠え声だけ。
「グルォォォォォオオオオオッ!」
憤怒に染まった声とともに、唸る拳がアナトの体を弾き飛ばさんと迫る。
それをアナトは紙一重で転がって回避。
真横に着弾したレイモンドの一撃が、古びた中央兵舎の床に大きな風穴を開けた。
その暴挙に、アナトは素早く背後で床に倒れ伏す人々へと視線をうつす。
だが、これだけの破壊がなされているにもかかわらず、彼らにほとんど害が及んでいる様子はない。
おそらくそれは、レイモンドがアイリスを傷つけることを恐れているからだ。
もはや知性の有無もよくわからなくなった怪物が、戦う理由を見誤ってはないことをアナトは思い知る。
広範囲を巻き込むことを恐れたこともあってか、レイモンドは輝石を使った攻撃を既に選択肢から外している。
ついにレイモンドは、アナトの身体を気遣う余裕も無くしたのだ。ゆえにその攻撃は、単に増強された筋力に頼った力技。
だが、物理的な攻撃手段に訴えられたことが、かえってアナトの不利を決定的にする。
足の筋力も数倍に強化され、超人じみたスピードで襲いかかってくる相手にアナトは抗う術を持たない。
せめてもの悪あがきに黒刀を振るってはいるが、その切っ先をレイモンドに届かせるには、あと十年くらいは修練を積まなければいけないほどに絶望的な差を感じさせられる。
「くそ、せめてかすりでもすれば、盤面をひっくり返せるってのに」
ぼやくのも当然。アナトの勝利条件は、かすり傷でもいいからレイモンドに傷をつけること、というイージーモードの戦いのはずなのだ。それさえできれば、レイモンドの《リンク》を破壊し、後ろで地に伏している兵たちを立ち上がらせることが叶うのだから。
しかし、たったそれだけのことが、アナトにとっては途方もなく難しい。
悔しさに唇を噛み締めるが、その無力を覆す方法がわからない。
思考を回せ。どうすれば、レイモンドの不意を突ける?
棒立ちになることだけは避けようと走り回りながらアナトは必死に勝負を決められるだけの手数を計算する。しかし、レイモンドの方が一枚上手だ。
瞬きの間に視界からレイモンドの姿が消え失せ、転瞬、構えた刀の隙間を抜けて突き出された巨大な拳が、アナトの腹部にもろに突き刺さる。
「ご、ふっ」
胃液が逆流し、黄色の吐瀉物が口の中へと迫り上がる。それを力なく吐き出しながら宙を吹き飛ばされたアナトの体は、散らばる木屑の上へと叩きつけられた。
視界がちかちかと星を散らす。脳震盪でも起こしそうな勢いで繰り出された打撃に、アナトはすぐに立ち上がることができない。
攻撃をかわしながら、かろうじて思いついた策はいくつかある。これを実行に移せれば、実際にレイモンドに通用する可能性は十分にある。
だが、その策を実行するために、数回レイモンドの攻撃を見切れるだけの動体視力がアナトにはない。
手詰まりだ。その突破口が開けなければ、アナトはこのままサンドバックにされて轟沈する以外に道はない。
どうすればいい。どうすればいい。
まったく同じ問いかけが脳内をぐるぐると回る。
どうすれば、
どうしたら、
どうしても、
駄目なのか。
行き着いた答えに、何もかもを投げ出しそうになって。
アナトはただ漠然と天井の木目を見つめた。
足元の腐食されて脆くなった床を、その筋肉が膨張した足で破り砕きながらレイモンドが近づいてくる音が聞こえる。
もう数秒で、アナトの意識は刈り取られるはずだ。
嘆きすらない。
周囲の音がすっと遠ざかり、束の間、嘘のような静寂がアナトの体を包んだ。
その時、
(アナト!)
声が、した。
澄み渡った清流のような、美しい声色。そのたった三文字の言葉が、アナトが忘れかけていた全てを思い出させた。
もう、折れてしまうのか。
挫けてしまうのか。
叶いっこないと、全てを投げ出してしまうのか。
いや、だめだ。
そんなことは許されない。
ほんのついさっき、あの月下の庭園で、誓ったばかりじゃないか。
戦う理由を、もう見失わないと。
閉じかけていた目を見開き、乱雑に散らばる木片を振り払って、アナトはゆっくりと立ち上がる。そうだ、倒れている暇なんてどこにもないのだ。叩きつけられた衝撃で額が割れたのか、温かいものが鼻筋を伝っている気がするが、今はそれすらも気にならない。
ただ、目の前にいる、異形の怪物を。そうなるほどに大切な誰かを救いたかった哀れな獣を真っ直ぐ見つめた。
筋肉が肥大し、表情も読み取れなくなったレイモンドが、それでも少したじろぐような素振りを見せた。
その姿に、アナトは口角をうっすらと上げる。
こいつが化け物なのだとしたら、自分だって同じような化け物だ。
どんなに傷つけられても、決して命を落とさない。
それでもそう在ろうとし続けるのは、人間性を捨ててでも、守りたいものがあるからだ。
黒刀から左手を離し、アナトはその人差し指を、まっすぐレイモンドへと突きつける。
「別に、俺は戦争なんて、どっちが勝ったって構わないんだ。生まれてからずっと、世界は俺に関心なんか持ってなくて、俺もこの世界に大した愛着は持ってなかった。たぶん、俺がこの場で命を絶てば、その時点で戦争は終わる。少なくとも、目に見える形で人が死ぬことはない」
「グルォ……」
急に戦闘態勢を解いたアナトに、レイモンドも不意を突かれたようだった。半開きになった唇から、獣のようなうめき声が漏れる。その様子から即座に飛びかかってくるつもりがなさそうなことを確認し、アナトは言葉を注いだ。
「でも、あいつは欲張りだから、きっとそんな終わり方じゃ満足できないんだ。最後のリンカーとして、この世から戦場を消し去ってしまうなんて夢物語を、本気で信じてやがる。国の平和なんて知ったことじゃないが、俺のことを好きでいてくれる奴が、それを信じちまってるんだ。それなら、俺がそっぽを向いているわけにもいかないだろ」
アナトも気づいていなかった心の声が、音を得て外の世界へと溢れ出す。倒れた大勢の兵士たちがこちらに視線を向けていることも、今はどうでもよくなるほどに意識に上らなかった。
集落が襲われたあの日に、凍りついてしまった心の欠片が剥がれ落ちて、ずっと淡白だった口調が今は確かな熱を帯びている。ここに立っているのは、あの日英雄を夢見ていた少年だ。
「荒唐無稽な夢なのかもしれない。どれだけ頑張っても報われない、望むことすら許されない幻想なのかもしれない。でも、全てのやつが、そうやって初めから無理だと決めつけて諦めてしまったら、誰が理想を叫べばいい!?」
無理だ。諦めろ。現実を見ろ。
責任が増えていくほどに、投げかけられるそんな言葉。イルシアは、きっとそんな風に無謀を何度も諭されたはずだ。でも、別に構わないではないか。だって、夢を語るものがいなくなれば、世界はあまりにも窮屈だ。
「大きすぎる夢を追いかけるやつは孤独だよ。百人いたら、半数以上には鼻で笑われる。親身になってくれる人がいたって、どうしようもなく傷つくことを心配して、止めろと忠告するだろう。最後には、自分で自分を信じられなくなるかもしれない。……だから俺は、その理想を支える百人の中の一人になってやる。死にかけの悪魔を信じて救ってくれたあいつのために、今度は俺がその馬鹿みたいな幻想を信じてやる!」
これは、宣戦布告だ。理不尽な世界へ反旗を翻した、いずれ英雄となる幼稚な少年の。
力強く放たれたアナトの言葉に、わずかにレイモンドの視線が揺らぐ。
だが、その変化も長くは続かない。
「ウォォォォォォォォォォォォォオオオオ!」
苛烈な叫び声と同時、レイモンドの肥大した右腕が、アナト目掛けて一直線に突っ込んでくる。
だが、遅い。
迷いの宿った一撃は、先程までの精彩を欠いている。
その鈍った拳の一撃を、
(ーーーー右!)
心を震わす、水色の髪の少女の声に合わせて、アナトは軽々と回避していた。
理想を語ってもいいじゃないですか、でないと世界は味気ないですから。




