参:竜胆華宵の追走
日野ちゃんと行動を共にするようになってから私の大学生活はそれなりに豊かなものになっていた。居心地の良さそうなサークルに入り、事務系のアルバイトも始めた。
大学にいるときは専ら日野ちゃんと行動を共にし、マンションが同じであるため帰宅まで一緒。お互いの時間がある時は家に遊びに行ってお菓子を作ったりゲームをしたり雑談に耽ったり。
先日のお誘い以来、件の男女グループからのアプローチは無く、穏やかと言えば穏やかな日常を送っていた。
日野ちゃんは常に周囲に気を配り、気遣いのできる優しい子だ。彼女の負担にならないように近すぎず遠すぎずの関係を保っていきたかった私だが────その関係は、ある日突然終わりを迎える。
◇
週の半ほどの水曜日。四月も終わりということで、新入生の間に弛緩した空気が流れ始める時期でもある。
今日は二限に講義があるため、やや遅めの始業となった。
学校では常に日野ちゃんの隣にいる私ではあるが、登校の時間まで合わせていない。
いつものように教室後方に席を取り、隣に日野ちゃんが座るための席をカバンで確保しておく。
スマホを弄りつつ日野ちゃんが来るまでの暇を潰していると、いつの間にか講義開始の時間が訪れていた。
(あれ……?)
隣の席は私のカバンが置かれたままで日野ちゃんの姿はない。遅刻、もしくは欠席の線が浮上する。
日野ちゃんのために真面目にノートを取ることを心に書き留め、万が一に備えて日野ちゃんに連絡を入れておこうとSNSを開いたところで視界の端にチラリと見慣れた黒髪が映り込んだ。
教室の前方、入口付近の席に座っているのは日野ちゃんだ。とりあえず出席していることに安堵し、私も講義に集中する。
授業も終わりを迎え、欠伸を噛み殺しながら筆記具を片付ける。日野ちゃんを迎えに行こうと立ち上がりかけたところで横合いから声を掛けられた。
「華宵ちゃん、この後ヒマ?」
一瞥すると、そこにはザ・大学生グループの一人である女子学生の姿。名を桃谷というらしい。
「いや、別に暇では────」
と、言いかけたところで教室から日野ちゃんが出ていく姿を捉えた。
「日野なら用事があるから先に帰るって言ってたよ」
私が視線を飛ばしていることに気がついたのか桃谷が口添えをしてきた。しかし、日野ちゃんと仲が良いわけでもなさそうな彼女が何故そんなことを知っているのだろうか?
「これから私らカラオケに行くんだけど一緒にどう?」
「今日は私も先約があってさ。ごめん」
私の口は咄嗟に嘘をついていた。特段、理由がある訳では無いが……なんとなく付いていくのは憚られた。勘が働いたと言ってもいい。
誘いを断る私を見た桃谷は頬をぷくりと膨らませた。
「えー、せっかくメンツ揃えたのに女子が一人足りなくなるじゃん」
カラオケという大義名分を得た合コンか何かだったのだろう。面倒事に巻き込まれなくてよかった。
「今度埋め合わせしてよ~」
「えー?」
嫌だけどー、と惚けて見せる。なんでそっちの都合で私が融通しなければならないのか。
のらりくらりと桃谷の言葉を躱し、ようやく解放されたときには日野ちゃんの影は見えなかった。
午後に講義が入っていないため時間が有り余っている。久しぶりに読書でもしようかと帰路に着く。
マンションのエントランスに差し掛かったところで食材の買い出しに行かなければならないことを思い出した。明日にしようか少し悩んで、踵を返してスーパーマーケットに向かうことにする。
すると、対面から買い物袋を手に提げた俯きがちの日野ちゃんが歩いてきたでないか。
私が手を挙げて挨拶しようとしたところで日野ちゃんも私に気がついたのか、顔を上げ────何事も無かったかのように私を素通りした。
私は口を開きかけた中途半端な表情で固まる。硬直した体に鞭打ち振り向くと、日野ちゃんはマンションに消えていった。
他人の空似ではない。
「無視された?」
私の呟きは曇天の空に木霊して消えた。
その日以降、日野ちゃんは私を無視……というよりは避けるようになっていた。声を掛けると肩を震わせて反応するし、彼女からの視線を時折感じる。
しかし、日野ちゃんとコミュニケーションを取ることはできなかった。彼女は何かを恐れるように私を避けるのだ。
一方、日野ちゃんが私から離れたことを機に例のグループから頻繁に遊びに誘われるようになった。いつまでも断り続けるわけにはいかないため意を決して遊びに行くこともあるが、正直つまらない。
カラオケにボウリングはまだマシだ。ゲーム性があるから。
色々な場所に連れて行かれたが、宅飲みが最悪だった。
私はともかく君たちは未成年だろうと忠言を呈したくなるが、無粋であることも分かっているため口に出さない。酔いが回ってくるといよいよ手が付けられなくなり、話題の中心が恋愛や大学生活からセックスへと推移していく。所謂そういう雰囲気になりつつあるのを肌で感じる。グループ内で恋人同士の者たちはペッティングまで始める有り様だ。
私は深くため息を吐くと、トイレを借りると言ってそのまま帰宅した。どうせ全員が泥酔しているからバレやしない。
自宅に帰ってベッドに身を投げる。心労が祟っていたのだろう、どっと疲れが込み上げてきた。
静謐な部屋で横たわっていると無性に友人────日野ちゃんの声を聴きたくなった。
時刻は二十一時。まだ起きているだろうと当たりを付け、スマホの通話アプリを起動してコールする。一回、二回、三回……コール音を取り継ぐ声はなく、電話は繋がらない。
沸々と苛立ちにも似た感情が募る。
私が何かしただろうか?
彼女の機嫌を損ねる言動をした覚えはない。
そこで、私はふと気が付く。
そもそも、私を避けるようになった日の前日は「近所に美味しい定食屋さんを見つけたので週末に食べに行きましょう」と日野ちゃんの方から誘いをかけてきたではないか。即ち、私は共に居ることを許されている、否、許されていた筈だ。ならば、日野ちゃんが私を避けるようになった外的要因がある筈だ。
ニタリと口角が持ち上がるのを自覚する。
日野ちゃん、明日は絶対に逃がさないからな。
◇
翌日。日野ちゃんから避けられるようになってからちょうど二週間。五月初旬の空模様はご機嫌ナナメなようで、連日の重たい雲が太陽を遮っている。
授業が終わると同時に日野ちゃんがそそくさと講義室を出ていくのを確認し、私も後ろを追いかける。道中、例のグループから何か声を掛けられたが、知らん。
てくてくと猫背姿勢の日野ちゃんが歩いていく先は大学指定の駐輪場。私は彼女が帰宅することを確信し、先回りして自転車に跨るとダンシングで自宅マンションまで全力疾走。
風で乱れた前髪を整えつつ、向かうのは私の住まう五階────ではなく、日野ちゃんの住まう三階。
目的の三〇二号室にたどり着いた私は扉の前で仁王立ちをした。
ややして訪れる足音。その主は言わずもがな彼女である。
そして、正面から啖呵を切る。
「よっす、久しぶり。色々聞かせて貰うから」
「────っ!」
私の出会い頭の挨拶に日野ちゃんは声にならない悲鳴を上げ────逃げ出した。
「……待てっ!」
数舜、私も遅れて反応する。まさか出会って早々に逃げ出すとは、そんなに私と一緒に居るのが嫌なのか?!
ショックを受けつつも足は止めない。マンションを飛び出した日野ちゃんは市街地を駆け抜ける。しかし運動は不得手なようで、その脚は縺れ気味だ。
一方の私も自慢ではないが、運動はてんで駄目である。悲しいかな、亀の歩みのように遅い日野ちゃんの逃げ足に追いつくことができない。
道行く人々の奇異の視線を全身に浴びつつ、日野ちゃんとの追いかけっこは泥沼化を始める。
市街地を抜け、田園を抜け、線路沿いの公園の中でとうとう日野ちゃんが「べちゃっ」と転んだ。その姿を後方約十メートルのところで視界に収めた私はようやく追いつくことに成功する。
血の味を含んだ唾を飲み込み、何と切り出したものか考えるが、一先ず乱れに乱れた呼吸を整えたい。
膝に手をついて喘いでいると日野ちゃんが再び立ち上がりかけた。待ってくれ、もう私は走れない。ここで逃げられたら今までの走りが徒労になってしまう。日野ちゃんを捕まえるべく、ガクガクと震える脚を踏み出そうとして────私も転んだ。
「むぎゅっ」
脚が機能しなくなった私は、立ち上がりかけた日野ちゃんに覆いかぶさるように体重を預ける。日野ちゃんも限界だったのか私の身体を支えられず、潰れた声を出して倒れ伏した。
平日の昼下がり。人っ子一人いない公園。汗と泥まみれの女子大生二人が亀の親子の様に身体を重ねて事切れる姿は、さぞかしシュールであったことだろう。
もう逃がさないという意志を込めて日野ちゃんの腰にしがみついたら「全部お話します」と諦観にも似た言葉を告げられた。
安心した私は、汗を吸って肌に張り付いた服が気持ち悪いのと、擦りむいて血が滲んだ日野ちゃんの膝を手当てする意味を込めて帰宅することにした。
十五分かけて走ってきた道を一時間近くかけて戻る。何と無為なことか。
しかし帰りの道中、私たちの肌を雨滴が叩き始めた。もともと天気は崩れ気味だったがタイミングが最悪だ。精根尽き果てた私たちは互いの体躯を支え合って歩むしかないのだから。
十分ほど経過したところで寒さによって体が震え始めた。もともと気化熱で体温が奪われていたのに、追いうちの雨は非情にもほどがある。日野ちゃんは白を通り越して真っ青になっていた。わななく唇が痛ましい。
このままでは低体温症になると危惧したところで、私たちの眼前に救世主が現れた。
「日野ちゃん、ここ入るよ」
「……え、へっ、えっ!?」
艶めかしいネオンに彩られた看板には「HOTEL」の文字。私たちも子どもではないので、これが意味することは言わずもがなである。
青白かった日野ちゃんが赤く色づく。吹き出しそうになるのを堪えながら、私たちはラブホテルへ足を踏み入れた。