壱:竜胆華宵の懊悩
「うだつが上がらない」とは今の私のようなものを指すのだろうな、とアルコールの回った脳でぼんやりと考える。
こうして一人寂しく缶チューハイを呷っている間にも、他の子は宅飲みやらサークルの飲み会やらでくんずほぐれつしているのだろう。
「ちくしょー…………」
私の呻き声は1Kの自室に木霊して消えた。
四月も中旬に差し掛かりそうな今日この頃、一人で過ごすにはやや寒い室温が恨めしかった。
何を間違えたのだろう。
酒気を帯びた私の頭は、ぐるぐると走馬灯のように過去を振り返り始めた。
◇
自分で言うのも何だが、私はそこそこ頭が良い。立派な大人になるために学力は必要だろうと勉強を怠ったことは無い。
高校三年生の私は、一月初旬に行われる全国六〇万人が受ける試験を上々の出来で通過した。期待以上の得点率を叩き出した甲斐もあって第一志望の大学は合格確実と言われていた。
慢心していたわけではない。しかし、人の禍福は予想できないものだ。
前期試験当日、数学の試験中。
私は頭が真っ白になった。
傾向を分析し、演習問題を繰り返すことで対策を練ってきた筈なのに公式をド忘れした。そして、私の勢いを止めた問題が第一問だったことが最悪だった。
第二、第三問と飛ばし進めていくが、問題文が頭に入ってこない。完全なパニック状態。
だというのに、私の冷静な部分は諦念をもって囁くのだ。
────これ、落ちたな。
結局、私は試験時間の一五〇分をフルに使って白紙を提出した。
きっと、ここが分水嶺だったのだろう。
当然のように第一志望の大学に滑った私は、第四志望くらいだった地方大学に後期入試で合格することになる。浪人するだけの気力が私には無かった。合格通知が届いてしまった時点で私の受験は終戦を迎えていた。燃え尽きてしまっていた。
さて、大学生になる資格を得た私は引っ越しに手間取ることになる。後期日程の合格発表が三月の下旬。対して大学の入学式は四月の初旬。その間、僅か二週ほど。
可及的速やかに家探しを始めた私だったが、なかなか望むような物件が見つからない。というのも、優良な部屋は既に前期日程で合格した者達に取られてしまっているためだ。大学の近くで残っているものと言えば家賃が高い物件と、セキュリティー面で不安が残る築数十年のボロアパート。
暫く懊悩した末に、大学から少々離れたマンションに部屋を借りることにした。
しかし、手続きが遅れたため入居できるのは入学式から数えて二日前。学校が始まってからも引っ越し作業に見舞われることになることは想像に難くない。
そんなこんなで有って無いような春休みを終えて入学式。
友達何人できるかなー、と気楽に構えていた私は大きな思い違いをしていたことに気がつく。
なんと、入学初日だというのに既に仲良しグループが出来ているではないか。
いきなりボッチ側に立たされた私は周囲の会話に聞き耳を立てる。すると、どうやら入学式の前に新入生歓迎パーティがあったらしい。
なんだそれ。
第四志望の大学ということもあってパンフレットを取り寄せたりもしていなかったから、そのような催し物があったとは知らなかった。そもそも歓迎会の日は不動産と契約を交わしていたため参加できなかっただろう。
結局、入学初日は友達が出来なかった。まあ、時間が経てば友達くらいできてるさ、などと現状を軽視して、その日の私は忘我の境地で引っ越し作業に注力した。
◇
「ともだちできてないし私…………」
空になった酒缶を床に放り捨て、ベッドに突っ伏す。思い返せば、大学生活が始まってから碌なことがない気がする。
友達が出来ないことは先述の通りなのだが、入居初日でインターホンのカメラとマイクが壊れるし、宅配かと思って玄関を開けたらカルト宗教の信者が現れて数時間ほどありがたい話を聞かされる破目になるし、宅配かと思って玄関を開けたら某テレビ局の受信料請求の人と玄関先での攻防を繰り広げることになるし、宅配が来ないなと思っていたら不在届けがポストに挟まっていたし。
「私が何か悪いことしたのかよー!」
ぼふんっ、ぼふんっ、と枕に顔面を叩きつけると頭痛が私を苛んだ。脈動に合わせて蠢く鈍痛が過ぎ去った後、私はのっそりと体を起こす。
「飲まないとやってらんねー……」
立ち上がり、ふらふらとした足取りでキッチンに向かう。先日染めたばかりのアッシュブロンドの頭髪をガシガシと掻きながら冷蔵庫の中を覗くと、使いかけの食材と麦茶しか入っていなかった。
買いに行かねば。酒を飲んで、鬱憤を晴らさねば。
どうせ誰も見てないだろうと化粧も整髪も面倒になった私は高校時代の体操服を上下に纏っただけの姿で近所のコンビニに出向くことにした。
深夜の住宅街は不気味なほどの静寂に包まれている。切れかけた街灯が僅かに照らす路面は昨日の雨に濡れて鈍く光っていた。
どこかの誘蛾灯で焼かれた虫の音が厭に響く。
寒い寒い、とポケットに手を突っ込みながら歩いていると、夜の帳を破る目的地の明かりが近づいてきた。
財布に幾ら入ってたかなぁなどと他愛もないことを考えていると、コンビニの前に二つの人影。
一人は肥えたおじさん。もう一人は、野暮ったい黒髪を目元あたりまで伸ばした大学生くらいの少女。
親子だろうかと一瞥したが、どうやら違うらしい。
これは黒だな。
「こんばんはー。おっさん、なにやってんの?」
「……っ」
私が声をかけると、おじさんはギョッとした顔を見せてそそくさと逃げ出した。追いかける気も毛頭ないので心の中で中指を立てるに留まる。
一方、絡まれていた少女は俯きがちに肩を震わせていた。
「大丈夫?」
「あ、はい。あの、あり、がとうございます」
「どういたしまして。暖かくなると変な人が増えるから気を付けなよ?」
少女はどもりながら礼を述べつつ、何度もペコペコと頭を下げてきた。
縮こまる姿が小動物を連想させ、私は少しだけ口元を緩める。
「一人で帰ると危ないよ。私が送って行ってあげるから、ちょっと待ってな」
「そんな、悪いですし────」
「遠慮しない。私が一緒に居なかったせいで後から襲われましたってなったら寝覚めが悪いのよ。これはアナタのためじゃなくて私のため。自己満足。わかった?」
「は、はぃ」
私が顔を寄せると、少女は緊張のためか顔を赤くした。
買い物に付き合って、と彼女の手を引いてコンビニを巡る。缶チューハイ五本とポテトチップスをレジに持って行って会計を済ませる。
コンビニを出たところで少女は驚いたような声を出した。
「せ、成人だったんですか……?」
「そうだけど……もしかして、高校のジャージを着てるから未成年だと思った?」
「いえ、その……あの」
四日ほど前に誕生日を迎えた私は大学一年生の二十歳。浪人はしていない。高校一年生の時に大病を患って入院していたために留年したというのは知る人ぞ知る情報である。
目の前の子がそんなことを知る由もないだろうに、何かを言いたげに口をもごもごさせている。
暫く待ってみたが言葉が続きそうにないので、まあいいかと頭を振って思考を切り替えた。
「送っていくんだけれども、家はどこ?」
「あ、あっち、です」
「おぉ、私の家と同じ方角じゃん。歩いて行ける距離だよね?」
「はい、徒歩五分です」
「へー、私たちご近所さんかも」
帰りの道すがら、少女と肩を並べて歩く。ちなみに手は繋いだままだ。
歩きにくいから離してほしいのだが、自分から彼女の手を取った手前そんなことを言えるはずもない。ぎゅっと握られた指先から柔らかな体温が伝わってくる。
お互いに大学生なんだ、一人暮らし大変だよね、自炊が一番難しい、そんな料理があるんだ、などと世間話をしているうちに少女の住まうマンションの下まで辿り着く。
「あれ、私もここに住んでるんだよね」
「そ、そうなんですか!?」
「うん。五〇五号室」
「わ、わたしは三〇二号室、です」
「運命的な近さだね~」
凄い偶然があるものだと二人で顔を見合わせて笑う。初めて見た彼女の笑顔は春の野に咲く花のように朗らかだった。
階段で三階まで上がり、少女を部屋の前まで送り届ける。
「今日は本当に、ありがとうございました」
「いえいえ。何か困ったことがあったらいつでも私を頼りなさいな────あ、今度ウチに遊びに来てよ。手作りクッキーとか振る舞うよ?」
「はわわっ……!」
すっかり打ち解けた少女に対し、友人を獲得するチャンスと踏んだ私は誘いをかけた。
おどおどしていて人見知り気味だけど、優しい子だ。きっと、良い関係が築けるはず。
「考えておいてね。それじゃあ、おやすみ」
「はい、おやすみなさい、竜胆さん」
「ん……?」
挨拶もそこそこに少女と別れる。
彼女が最後に放った「竜胆」というのは私の苗字であるわけだが、はて、どこかで名乗っただろうか。
「……あぁ」
自室に戻って着替えようとしたところで気が付いた。高校指定の体操服の胸元には「竜胆」の文字。
目敏いなぁと変な感想を抱きつつ、買ってきた酒のプルタブを引いた。
今宵は良い酒が飲めそうだ。
◇
「あー……やった。やっちゃったわ」
翌日。私が目を覚ましたのは夕方だった。時刻を確認した私は再び死んだようにベッドに身を沈める。
今日は決して休日などではない。金曜日。朝から昼過ぎまで講義が入っていた筈だ。
「うー……」
根が真面目な私は失ってしまった講義の点数を頭の中で計算する。無断欠席一回で単位が出ないなんてことは無いだろうが成績は下がってしまっただろう。
干からびた魚のような体に鞭を打って頭だけ持ち上げると、視線の先には床に転がった空き缶が数本。私はアルコールを摂取すると熟睡してしまう体質らしい。平日に飲むのは控えよう。竜胆華宵、覚えました。
それから一時間ほどベッドの上でスマホを弄り、ようやく体が目覚めたのでシャワーを浴びる。
この頃には十八時を回っていたのだが、私の一日は始まったばかりだ。
有り余った体力をどうしようかと考えていると、玄関のチャイムが鳴った。
「また来やがったな……!」
以前、私が追い返した集金の民だろう。今度は居留守を決め込んでやるとふんぞり返っていると、ピンポンピンポンと連打が始まった。更にはコンコンというノック音が聞こえてくる。
なるべく足音を立てないように玄関まで移動し、覗き穴から敵影を確認しようとする。しかし、レンズが汚れていてイマイチ判別できない。
ちくしょー、来週までにカメラ付きのインターホンが設置されるからな覚えておけよと激情に駆られながら玄関の扉を押し開ける。
「近所迷惑でしょうが警察呼ぶぞ────って、あれ?」
私の視界にいたのは胡散臭い笑みを浮かべる異邦人ではなく、目元が隠れた小柄な少女だった。