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第46話 花嫁修業と言う名の地獄

 ――翌朝。


 山の空気は、やけに澄んでいた。


 静かで、穏やかで。


 まるで何も起きていないかのような――


「やめてぇぇぇぇぇ!!助けてくれぇぇぇぇぇ!!」


 ――絶叫が、すべてを台無しにした。


 山門の前。


 アンジェリーナは、凛に羽交い締めにされていた。


 完全拘束。


 しかも片手で。


「離せぇぇ!!兄貴ィィィ!!」


「落ち着きなさい」


 凛は微笑んだまま、腕を締める。


 ギリ、と。


「ぐえっ……!?」


 虎獣人の膂力が、いとも容易く封じられる。


 逃げ場は、ない。


「置いてかないでぇぇぇ!!」


 その声は、もはや懇願だった。


 プライドも何もかも捨てた、剥き出しの叫び。


 その視線の先――


 虎徹。


 背を向けて、歩き出そうとしていた。


 止まらない。


 振り返らない。


 ただ。


 大きく、ため息をついた。


「……諦めろ」


 一言。


 それだけだった。


「ふざけんなぁぁぁぁぁ!!」


 涙目で叫ぶ。


「俺たち番だろォォォ!!」


 魂の叫び。


 だが。


「だからだ」


 虎徹は、止まらない。


「ここで逃げたら、あとが面倒くせえ」


「迎えに来る」


 淡々と。


 現実だけを告げる。


「信じろ」


 その言葉だけ、少しだけ重かった。


 ――それでも。


「今じゃねぇだろォォォ!!」


 アンジェリーナは叫ぶ。


 必死に、腕を振るう。


 だが。


 ビクともしない。


「はいはい、暴れないの」


 凛が、楽しそうに押さえ込む。


「今日からあなたは――山本の家の“嫁”なんだから」


 その一言で。


 空気が、変わった。


「……は?」


 アンジェリーナの動きが止まる。


「花嫁修業、始めるわよ」


 にこり、と。


 優しく。


 逃げ場のない笑顔。


「いやいやいやいや待て待て待て!!」


 全力で拒否する。


「俺、そんな話聞いてねぇ!!」


「今聞いたでしょ?」


「聞いてねぇ!!納得もしてねぇ!!」


「大祖母様のご命令よ?」


 詰みだった。


 完全に。


 逃げ道が、存在しない。


「戦闘技術」


 凛が指を一本立てる。


「当主の妻としての心構え」


 二本目。


「礼儀作法」


 三本目。


「あと――」


 にっこり。


「全部」


「全部ってなんだよォォォォォ!!」


 絶叫。


 空気が震える。


「みっちりやるわよ」


 優しく。


 確実に。


 地獄の宣告だった。


 その横で。


「良かった〜」


 心底ほっとした顔で、充希が胸を撫で下ろす。


「お義姉さんが身代わり――」


 ぴたり。


「ん?」


 アンジェリーナの目が光る。


「……後を継いでくれて」


 言い直した。


 露骨に。


「おい待て今なんつった」


「気のせいだよお義姉さん♪」


 にこにこ。


 悪びれない。


「てめぇぇぇぇぇ!!」


 暴れる。


 だが。


「はい、動かないの」


 ギリ、と締められる。


「ぐえぇぇぇぇぇ!!」


 再び沈黙。


 完全制圧。


 その一部始終を。


 虎徹は、見ていた。


 ほんの一瞬だけ。


 振り返る。


 目が合う。


 アンジェリーナの目。


 怒り。


 涙。


 恨み。


 そして――


 ほんの少しの、期待。


「……すまん」


 ぽつり。


 それだけ言って。


 今度こそ、背を向けた。


 歩き出す。


 一歩。


 また一歩。


 止まらない。


 止まれない。


「いやあああああああああああああああ!!」


 絶叫が、山に響く。


「俺はぁぁぁぁぁ!!」


 魂を絞るように。


「子作りするんだぁぁぁぁぁぁぁ!!」


 ――静寂。


 一拍。


 凛が、ふっと微笑む。


「大丈夫よ」


 優しく。


 本当に優しく。


「順番にやるから」


「順番ってなんだよォォォォォ!!」


 絶叫、再び。


 山に木霊する。


 その声を背に。


 虎徹は、山門を下っていく。


 振り返らない。


 ただ、口の端だけが――


 ほんの少しだけ、緩んでいた。


(……生きて帰れよ)


 誰にも聞こえない声。


 そして。


 花嫁修業という名の地獄が、幕を開けた。

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