表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
37/46

第37話 ホテル スキエンティアの朝食は、殺しの匂い

 ホテル・スキエンティア――食堂。


 朝の光が、白いクロスを静かに照らしていた。


 焼きたてのパンの香り。

 スープの湯気。

 柔らかな喧騒。


 ――だが、その卓だけは違った。


 ハヤオとセリス。


 並んで座る二人の間に流れるのは、静かな緊張。


 ナイフを入れながら、ハヤオが口を開く。


「……ここから東だな」


 一拍。


「鬼人の国――インスラ・オリエンタスまで、三日」


 フォークを置く音が、やけに大きく響いた。


 横目で、セリスを見る。


「……行くのか」


 問いは短い。


 だが、その裏にあるものは重い。


 セリスの指が、わずかに震えた。


 ――怖い。


 その感情が、身体の奥から浮かび上がる。


 兄。


 父。


 血。


 選ばなければならない。


 喉が詰まる。


 言葉が出ない。


 ――逃げたい。


 一瞬、そう思った。


 そのとき。


 そっと、手が重なる。


 ハヤオの手。


 温かい。


 強引でもなく、優しすぎるでもなく――ただそこにある温度。


 逃げ場を、塞ぐように。


 そして、支えるように。


 セリスは、小さく息を吐いた。


「……うん」


 震えを押し殺す。


「行きたい」


 その声は、まだ揺れていた。


 だが――折れてはいない。


 ハヤオは、じっと見つめる。


「父親か、兄貴か」


「どっちにつく?」


 容赦のない問い。


 セリスの呼吸が乱れる。


 胸が締め付けられる。


 視界が滲む。


「……わからない」


 かすれる声。


 指に力が入る。


「わからない……けど……」


 一瞬、俯く。


 そして――顔を上げる。


 その瞳には、確かな光が宿っていた。


「私は……ナリカワの人間だ」


 言葉にするたびに、何かが削れていく。


 それでも止めない。


「今さら……ヴァルカナに戻るつもりはない」


 それは、血を捨てる宣言。


 そして――


 自分で選んだ居場所を守る覚悟。


 沈黙。


 ハヤオは、ゆっくりと息を吐いた。


「……そっか」


 それだけ。


 だが、否定は一切ない。


 手を、軽く握る。


「じゃあ決まりだな」


「前に進む」


 その瞬間――


 カチャ、と椅子の音がした。


 向かいの席。


 いつの間にか、二人の男が座っている。


 気配がなかった。


 ハヤオの目が細くなる。


「……なんの用だ」


 低く。


 鋭く。


「ローハン」


 盲目の老人は、パンをゆっくりと口に運ぶ。


 咀嚼。


 嚥下。


 そして、微笑む。


「いいではないか……朝食ぐらい」


 隣の青年が、無機質な声で言う。


「ここ出たら殺す」


 金髪、ジャージ、金のネックレス。


 空気に馴染まない異物。


 だが、その殺気は本物だ。


 ハヤオはため息をつく。


「お前らさ……」


「新婚夫婦の食卓だぞ?」


「遠慮って言葉、知ってるか?」


 ローハンは肩をすくめる。


「すまんの……ほとんど見えんもんでな」


 嘘だ。


 見えている。


 空気も、流れも、選択肢も。


 ――未来すら。


 ハヤオは鼻で笑う。


「で?そっちの若いのは」


 青年が一歩前に出る。


「……ウツセ」


 短い。


 それだけ。


 ハヤオは口角を上げる。


「へえ……ウツセ、ね」


 一拍。


「捨て子か」


 空気が凍る。


 だが、青年は動じない。


「……まあな」


 ローハンが続ける。


「すべてを仕込んだ……」


 その声音は、穏やかだ。


 だが、その中身は歪んでいる。


 人を“育てた”のではない。


 “作った”のだ。


 ハヤオは軽く肩を回す。


「で?」


「何が聞きたい」


 ローハンは、ゆっくりと口を開く。


「いつ出る?」


 ハヤオは即答した。


「言うわけねえだろ」


 ローハンは笑う。


 くつくつと。


「辿り着けぬぞ」


「街道も、駅馬車も……すべて押さえておる」


 一拍。


 そして、続ける。


「その道はな……血で滑る」


 静かに。


 だが確実に。


「三日後――お前は今の顔をしておらん」


 セリスの指が、びくりと震えた。


 未来。


 断定。


 逃げ場のない言葉。


 だが――


 ハヤオは笑った。


 心底楽しそうに。


「……そうかよ」


 椅子に深くもたれる。


「だったら別の道行くだけだ」


 ローハンの口元が、わずかに歪む。


「ほう……」


「面白い」


 立ち上がる。


「では――外で待っておる」


 ウツセも無言で続く。


 去り際。


「逃げるなよ」


 それだけ残して。


 二人は去った。


 静寂。


 やがて、食堂のざわめきが戻る。


 ハヤオはセリスを見る。


「どうする?」


「逃げ道は全部潰されてる」


 セリスは目を閉じる。


 呼吸。


 ひとつ。


 ふたつ。


 ――怖い。


 ――でも。


 目を開く。


「……是非もなし」


 その声は、揺れていない。


 覚悟。


 それだけが残っている。


 ハヤオは一瞬きょとんとして――


 吹き出した。


「えっ、なにそれ」


「子連れ狼?」


 セリスが瞬きをする。


「俺の嫁、拝一刀なの?」


 肩を震わせながら笑う。


「じゃあ俺、あのジジイと斬り合うの?」


 視線を、ローハンの去った方向へ。


「どう見ても……座頭市だろ」


 その軽口に。


 セリスは、ふっと笑った。


 ――怖い。


 それでも。


 この男は、笑っている。


 逃げずに。


 折れずに。


 前に進もうとしている。


(この人となら……)


 ほんの少しだけ。


 本当にほんの少しだけ。


 安心した。


「……行こう」


「一緒に」


 ハヤオは頷く。


「ああ」


 立ち上がる。


 手を引く。


「最初から――逃げる気なんてねえよ」


 その声は、静かで。


 だが、揺るがない。


 二人は歩き出す。


 朝の光の中へ。


 ――血の匂いが待つ道へ。


 それでも。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ