崩壊する境界線
赤いシャーペンを使い始めてから一週間。佐伯は瀬戸を完全に支配し、理想通りに働く“人形”へと変えていた。しかし心に残るのは達成感ではなく虚無だけだった。やがて彼は、社内に同じ異質な空気が広がっていることに気づく。総務の桐生も修正液を所持し、古門は「社員の三割は既に操られている」と告げる。無銘文具店の文具は他者だけでなく、使い手自身の記憶や意志までも侵食していくのだという。さらに瀬戸が、自らも過去に店を利用した“加害者”だったと明かす。誰もが誰かを修正し、壊し合っていたのだ。すべてを終わらせるため佐伯は店を訪れるが、九条は「元に戻す」という選択肢は存在しないと告げる。代わりに示されたのは、自らの存在を消せる「白い消しゴム」。佐伯は震える手でそれを握り――翌朝、オフィスから一人の社員が消える。しかし誰もその不在に気づかない。路地裏の店には、新たな文具が静かに並んでいた。
第四話:崩壊する境界線
一、硝子細工の箱庭
その朝、佐伯は自分が世界の調整者になったかのような錯覚の中で目覚めた。目覚まし時計のアラームが鳴るよりも早く、薄暗い寝室の天井を見つめながら、今日という一日を操る感触を指先で転がした。枕元には、冷え切った金属の質感を持つ赤いシャーペンが置かれていた。それはもはや単なる筆記具ではなく、佐伯の精神の一部が外部化された臓器のような存在感を放っている。
一週間前、路地裏の奇妙な文具店で手に入れたこの道具は、他人の行動を意のままに操る力を彼に与えた。
当初感じていた罪悪感は、繰り返される「成功体験」という麻薬によって希釈され、今では朝のコーヒーを飲むのと同じくらい日常的な手続きへと変質してしまっている。
佐伯は体を起こし、澱んだ空気を肺に満たす。かつては憂鬱でしかなかった出勤という行為が、今では歪んだ愉悦を伴う儀式となっていた。
オフィスに到着すると、佐伯はいつものように一番乗りを果たし、静寂に包まれたフロアで今日の「脚本」を書き上げる作業に取り掛かる。シャーペンのノック音が、誰もいない空間に乾いた音を立てて響く。芯が紙を削る感触は、他者の脳髄に直接指令を刻み込む行為そのものだ。『午前九時、A社のプロジェクトに関する進捗報告書を完璧な状態で提出すること』『正午、チーム内の昼食の誘いはすべて断り、デスクで資料の読み込みを行うこと』『午後三時、部長からの指摘に対し、三パターンの改善案を即座に提示すること』――佐伯の筆跡は以前よりも鋭角的になり、迷いのない直線が白い紙面を黒く塗り潰していく。書き上げたメモを丁寧に切り取り、隣のデスクへ滑らせる。
そこは、かつて「無能」の烙印を押され、佐伯にとってストレスの根源でしかなかった男、瀬戸の席だ。
だが今の瀬戸は違う。佐伯が作り上げた、極めて高性能で、一切の感情を持たない有機的な端末。それが現在の瀬戸の正体だった。
始業のチャイムが鳴る頃、瀬戸が現れた。彼の動きには無駄というものが一切削ぎ落とされている。かつてのようにネクタイが曲がっていることもなければ、自信なさげに背を丸めることもない。
彼はデスク上のメモを一瞥すると、微かに頷き、即座にキーボードを叩き始めた。その打鍵音は一定のリズムを刻み、まるでメトロノームのように正確で、そして不気味なほど無機質だ。周囲の社員たちが「おはよう」と声をかけても、彼は必要最小限の会釈を返すだけで、視線をモニターから外そうとはしない。佐伯はその様子を横目で見ながら、胸の奥に広がる黒い空洞を自覚していた。
楽になった。
仕事は円滑に進み、評価は上がり、ストレスは消滅した。だが、この圧倒的な虚無は何だ。
佐伯は瀬戸を見ているようでいて、実はその背後に広がる虚空を見つめている。人間としての瀬戸は死んだも同然であり、ここにいるのは佐伯の欲望を映し出す鏡に過ぎない。
鏡に向かって命令を下し、鏡の中で満足げに微笑む自分。その閉じたループの中で、佐伯の精神はじわじわと摩耗し、現実という確かな地盤から乖離し始めていた。
昼休み、オフィスは喧騒に包まれたが、佐伯の周囲だけは真空のような静けさが漂っていた。同僚たちが連れ立ってランチに出かける中、瀬戸は指示通りにデスクに座り続け、サンドイッチを機械的に口へ運びながら資料を読み込んでいる。
その姿を見て、上司である部長が佐伯の肩を叩いた。「すごいな、佐伯くん。君の指導のおかげで、瀬戸くんは見違えるようだ。まるで別人のように生まれ変わったじゃないか」と、部長は心底感心したように笑う。佐伯は曖昧な笑みを返したが、内心では冷ややかな嘲笑が渦巻いていた。
指導などしていない。
教育もしていない。
ただ、脳の配線を書き換えただけだ。部長の言葉は皮肉にも真実を突いている。
「別人」になったのではなく、「人」という枠組みから逸脱したのだと、誰が想像できるだろうか。
賞賛の声が耳に入るたび、佐伯は自分がペテン師であることを突きつけられるようだが、同時に、誰も真実に気づかないという優越感がその痛みを麻痺させていく。
しかし、異変の兆候は佐伯の精神面だけでなく、物理的な空間にも及び始めていた。
午後の定例会議、その空気の異様さに佐伯は初めて明確な違和感を覚えた。長机を囲む十数名の社員たち。議題は来期の予算配分という、通常であれば各部署のエゴが衝突し合う火花散る場であるはずだった。
だが、今日の会議室には奇妙な「凪」が支配していた。
発言者たちは皆、どこか上の空で、言葉に熱がこもっていない。「異議ありません」「承認します」と繰り返される言葉は、録音テープを再生しているかのように平板で、彼らの視線は時折、虚空を彷徨うように揺れた。
佐伯は見てしまったのだ。営業部の若手エースが発言の最中に、ふと数秒間だけ完全に表情を消失させ、誰かの許可を待つように視線を宙に漂わせた瞬間を。
それは思考の空白ではなく、操り糸が一時的に緩んだ瞬間の人形が見せる、魂の不在証明だった。
寒気が佐伯の背筋を這い上がった。これは瀬戸だけではない。このフロアにいる他の誰かも、何かによって操られているのではないか。そう直感した佐伯が視線を走らせると、会議室の隅に立つ古門と目が合った。
古門は会議には参加せず、オブザーバーとして壁にもたれかかっていたが、その瞳だけが異様に冴え渡り、この異常な光景を愉悦に歪んだ笑みで見下ろしていた。古門の視線は、まるで実験用マウスの行動を観察する科学者のそれであり、同時に、自分もまたその実験の一部であることを自嘲するような暗い翳りを帯びていた。
目が合った瞬間、古門は微かに口角を上げ、無言のまま佐伯に問いかけてきた気がし 「お前も、気づいたか?」と。
その視線の圧力に耐えきれず、佐伯は慌てて手元の資料に目を落としたが、文字の羅列はもはや意味をなさず、ただのインクの染みとして網膜に焼き付くだけだった。
このオフィスは、知らぬ間に浸食されていたのだ。無銘文具店という病巣から広がった菌糸が、社員たちの精神に根を張り、静かに、しかし確実に日常を食い荒らしている。
会議終了後、逃げるように自席へ戻ろうとした佐伯は、総務部のエリアで決定的な証拠を目撃することになる。総務部の古株である女性社員、桐生だ。
彼女は普段、神経質なまでに規則を重んじ、他人のミスを糾弾することを生きがいにしているような人物だった。
しかし今の彼女は、誰もいないデスクで一人、奇妙な儀式に没頭していた。
佐伯は衝立の陰からその様子を盗み見た。彼女の手には、何の変哲もない修正液の小瓶が握られている。
だが、キャップを開けて刷毛を引き抜くと、そこから滴り落ちたのは白い液体ではなく、透明な粘液だった。
彼女はその透明な液体を、広げられた稟議書の決裁印の上に垂らした。
するとどうだ。
インクが滲み、溶け出し、まるで生き物のように蠢いて、全く別の印影へと再構築されていくではないか。
それだけではない。
桐生はその濡れた指先を、自らのこめかみに押し当てた。
彼女の顔から苦悶の表情が抜け落ち、能面のような平穏さが張り付く。嫌な記憶を、あるいは自分自身の良心を、物理的に「修正」したのだ。
佐伯は息を呑み、後ずさりした。
瀬戸を操っている自分だけが特異点だと思っていた傲慢さは粉々に砕け散った。
ここはもう会社ではない。欲望を満たしたい者と、現実から逃避したい者が集う、巨大な精神の実験場と化していたのだ。
二、澱んだ喫煙室の告白
深夜十一時、残業を終えたオフィスの空気は、澱んだ水槽のように重苦しかった。空調の音がやけに大きく響く中、佐伯は逃げ込むように喫煙室へと足を向けた。
煙草を吸う習慣はなかったが、今の彼には、紫煙で視界を曇らせなければ直視できないほど現実が鮮明すぎた。
狭い個室に入り、換気扇の下で深く息を吐き出す。ガラス越しに見える夜景は宝石のように煌めいているが、その光の一つ一つが、誰かの作為によって点灯させられた人工的な輝きのように思えてならなかった。
しばらくして、ドアが開く音がした。
振り返らずとも、入ってきた人物が放つ独特の気配でそれが誰であるか分かった。
古門だ。
彼は無言のまま佐伯の隣に立ち、慣れた手つきでライターを擦った。チッという着火音と共に、赤い炎が一瞬だけ彼の疲弊した顔を照らし出す。
「……随分と顔色が悪いな、佐伯」
古門の声は、煙草の煙と共に乾いた響きを持って佐伯の鼓膜を叩いた。
「お前も、そろそろ限界なんじゃないか? 他人を操るっていうのは、思っている以上に精神のリソースを食うからな」
佐伯は古門の方を向いた。
彼の瞳は深く沈殿し、そこには常人には理解できない諦念と、奇妙な連帯感が宿っていた。
「あんたも、知っているんだな。あの店のことを」
佐伯の問いに、古門は薄く笑い、ジャケットの内ポケットから一本の黒いボールペンを取り出した。
軸には不可解な幾何学模様が刻まれ、見る角度によって色が変化するそれは、明らかにこの世の工業製品ではなかった。
「『黒の契約ペン』だ。これにサインさせた相手は、俺の命令を絶対に拒否できなくなる。……まあ、お前のシャーペンほど直接的ではないが、契約という形をとる分、拘束力は強い」
古門はボールペンを指先で弄びながら、独り言のように語り始めた。「このオフィスにいる人間の三割は、もう『あちら側』だ。操られているか、操っているか。あるいは、桐生のように自分自身を修正し続けているか。みんな、誰かを壊して自分を保ってる。お前も、俺も、共犯者だ」
三割。
その数字の重みに佐伯は絶句した。隣で働いている同僚の三人に一人が、正常な精神構造を失っているということか。
「だがな、佐伯。本当に恐ろしいのは、他人が変わることじゃない。自分自身が変わっていくことだ」
古門は煙を天井に向かって吐き出し、その行方を虚ろな目で見つめた。
「無銘文具店の道具には、副作用がある。使えば使うほど、『現実の境界』が曖昧になるんだ。最初は他人を変えるだけだが、やがて自分自身の記憶や感情までもが『修正』されていく。世界認識そのものがバグを起こすんだよ」
古門の言葉は、佐伯がここ数日感じていた違和感の正体を鋭く突き刺した。昨日の夕食の記憶がない。先週末に何をしたのか思い出せない。感情の起伏が乏しくなり、喜びも悲しみも、薄い膜越しに感じているような感覚。
それは全て、シャーペンを使うことの代償だったのか。
「俺はもう、自分が何のために働いているのか、何を望んでいたのかさえ思い出せなくなってる。出世したかったのか? 金を稼ぎたかったのか? ……今はただ、このボールペンを使って他人を従わせる瞬間だけが、自分が生きている証のような気がするんだ」
古門の声が震えていた。
それは支配者の傲慢さではなく、薬物に依存する中毒者の悲痛な叫びだった。
「俺はもう、自分が『人間』なのか『道具』なのか、わからなくなってる。お前もいずれ、そうなる」
佐伯は反論しようとしたが、喉が張り付いたように言葉が出てこなかった。古門はさらに一歩踏み込み、佐伯の胸倉を掴むような勢いで顔を近づけた。
「九条のやつはな、ただ文具を売って楽しんでるわけじゃない。あいつは集めてるんだ。『完璧に操られた人間』と、『完璧に操る人間』を。人間の意志という不確定な要素を消して、純粋な『機能』だけにした存在。それが、あの店の本当の商品であり、完成形なんだよ。俺たちは客じゃない。あいつのコレクションの一部なんだ」
九条。
あの店の主人の、常に穏やかな微笑を絶やさない顔が脳裏に浮かぶ。彼の丁寧な接客、親身な態度の裏側に、これほどまでに冷徹な計算があったとは。
佐伯たちは、自分の欲望のために道具を使っているつもりで、実は九条という巨大なシステムの一部として機能させられていただけだったのだ。
その時、喫煙室のドアが静かに開いた。
古門との会話が中断され、二人の視線が入り口に向かう。
そこに立っていたのは、瀬戸だった。彼は無表情のまま、まっすぐに佐伯を見つめていた。その瞳には焦点がなく、ただ命令を待つ機械のような冷たさがあった。
「佐伯さん。明日の資料の準備、完了しました。帰宅の許可をいただけますか」
その機械的な声を聞いた瞬間、佐伯の中で何かが音を立てて崩れ落ちた。かつては人間味に溢れ、失敗ばかりしていた瀬戸。彼をここまで壊したのは自分だ。
そして、その自分もまた壊れかけている。古門の言う通り、ここには救いなどないのかもしれない。佐伯は震える声で「……ああ、帰っていいぞ」と告げた。
瀬戸は一礼し、ロボットのように正確な動作で踵を返した。その背中を見送りながら、佐伯はポケットの中のシャーペンを強く握りしめた。その金属の冷たさだけが、今の彼に残された唯一の現実だった。だが、その現実さえも、明日の朝には修正されて消えているかもしれないという恐怖が、佐伯の心を冷たく締め上げていた。
三、合わせ鏡の断罪
その夜、ビルの出口を出た瞬間に感じたのは、まとわりつくような湿気だった。
雨が降ったわけでもないのに、路面は黒く湿り気を帯び、街灯の頼りない光を乱反射させている。佐伯は重い足取りで駅へと向かっていたが、背後に張り付くような気配を感じて足を止めた。振り返るまでもなく、それが誰であるかは分かっていた。
瀬戸だ。
彼は本来、佐伯の「帰宅許可」というコマンドを入力された時点で、思考停止したまま自宅へ直行するプログラム通りに動くはずだった。
だが、今の彼は違う。数メートル後ろ、アスファルトに落ちた影の中に立ち尽くし、その視線は佐伯の背中に物理的な重圧としてのしかかっていた。佐伯はゆっくりと振り返る。そこには、いつもの無機質な表情の瀬戸がいたが、その瞳の奥には、これまで見たことのない澱んだ色が渦巻いていた。
「……佐伯さん」
その声は、かつてのマヌケな部下のものでも、この一週間の精巧なロボットのものでもなかった。まるで、深い井戸の底から這い上がってきた亡霊が、喉を鳴らして搾り出したような響きだった。
「僕、思い出しました。あなたが何をしたのか。そして、僕が何をされていたのか」
心臓が早鐘を打つ。
赤いシャーペンの効力が切れたのか?
いや、そうではない。瀬戸の瞳に宿っているのは、支配から逃れた解放感や、自分を弄んだ上司への怒りではなかった。そこにあるのは、底知れぬ「諦念」と、深く静かな絶望だった。
佐伯はポケットの中のシャーペンを握りしめたが、指先が震えて力が上手く入らない。 「思い出して、どうするつもりだ。私を訴えるか? それとも殴るか?」。
虚勢を張ってみたが、その言葉は夜風に吹かれて空しく消えた。瀬戸は首をゆっくりと横に振る。
「いいえ、怒れませんよ。だって、僕も同じですから」彼はそう呟くと、ポケットからスマートフォンを取り出し、画面を佐伯に向けた。青白いバックライトに照らされたその画面には、見覚えのある漆黒の背景と、金色のロゴが浮かび上がっていた。『無銘文具店』。
佐伯の呼吸が止まる。
「僕も、あの店の客だったんです。大学時代、ずっと僕を否定してくる友人がいました。優秀で、いつも僕を見下して笑う奴でした。だから僕は、あの店で『青い消しゴム』を買ったんです」
瀬戸の告白は、淡々としているがゆえに、鋭利な刃物のように佐伯の鼓膜を切り裂いた。 「その消しゴムは、他人の記憶の一部を消し去ることができる。僕は、彼の頭の中から『僕を馬鹿にした記憶』だけを丁寧に消していきました。最初は少しだけ。
でも、次第にエスカレートして、彼が僕に対して抱く感情すべてを消しゴムで擦り落としたんです。結果、彼は僕のことなんてどうでもいい、ただのクラスメートとして接するようになりました。……平和でしたよ。でも、その時、僕の中で何かが壊れたんです」
瀬戸は自嘲気味に笑った。その歪んだ笑顔は、現在の佐伯の表情と鏡合わせのように酷似していた。
「佐伯さんが僕の人格を書き換えたように、僕もまた、他人の人格を削り取って生きてきた。だから、あなたを責める資格なんてないんです。僕たちは被害者じゃない。加害者同士が、たまたま同じ檻の中で食い合っていただけなんです」
佐伯は絶句した。
自分が支配者として君臨していたこの一週間は、滑稽な茶番劇に過ぎなかったのだ。
自分は瀬戸を「無能な部下」から「有能な人形」に変えたと思っていたが、瀬戸自身もまた、過去に誰かを修正し、その罪悪感で壊れかけていた人間だった。壊れた人間が、さらに壊れた人間を操作する。それは無限に続く地獄の連鎖であり、九条という男が仕組んだ悪趣味な実験そのものだった。
「もう、誰も元には戻れません」
瀬戸はスマホを懐にしまい、虚ろな目で夜空を見上げた。「佐伯さん、僕の記憶が戻ったと言いましたが、正確には違うんです。かつての『ダメな僕』の記憶と、この一週間の『完璧な僕』の記憶、そして『他人を消した僕』の記憶が混ざり合って、どれが本当の自分なのか分からない。思考の輪郭が溶けていくんです。……僕たちは、ずっと九条さんの『作品』として、陳列棚に並べられているだけなんですよ」
瀬戸の言葉は、佐伯自身の抱えていた恐怖を言語化したものだった。
自己の喪失。
境界線の崩壊。
佐伯は膝から崩れ落ちそうになるのを必死で堪えたが、瀬戸はもう佐伯を見ていなかった。彼は幽霊のような足取りで、闇の中へと消えていった。
残された佐伯は、自分の存在そのものが、薄氷の上に立つ幻影に過ぎないことを悟り、戦慄した。
四 救済という名の消滅
翌日、佐伯は会社を休んだ。
いや、休むという連絡を入れることすら忘れていたかもしれない。
彼の足は、無意識のうちにあの路地裏へと向かっていた。錆びついた看板、湿ったレンガの匂い、そして古書と香辛料が混ざり合った独特の香り。
一週間前には運命の出会いだと感じたその場所が、今は死刑台への入り口のように見えた。カラン、とドアベルが鳴る。
店内の空気は相変わらず重厚で、時間が止まっているかのような静寂に包まれていた。カウンターの奥には、あの男がいた。店主の九条だ。彼はまるで佐伯が来ることを予期していたかのように、手元の帳簿から顔を上げ、穏やかな笑みを浮かべた。
「いらっしゃいませ。……使い心地はいかがでしたか? 『赤いシャーペン』は」その悪びれることのない態度に、佐伯の中で何かが弾けた。彼はポケットからシャーペンを取り出し、カウンターに叩きつけた。
「ふざけるな! これのせいで、俺の人生はめちゃくちゃだ! 瀬戸を元に戻せ! そして、俺の記憶も、古門も、何もかも元通りにしてくれ!」
佐伯の怒号が狭い店内に響き渡ったが、九条の表情は微動だにしなかった。彼は叩きつけられたシャーペンを愛おしそうに拾い上げ、指先で転がした。
「元に戻す……ですか。お客様、それは不可能です」。
九条の声は冷たく、そして哀れむような響きを帯びていた。
「なぜなら、『元の状態』という概念が、もはや存在しないからです。あなたも、瀬戸様も、古門様も、何度も修正を重ね、書き換えを行ってきた。修正液の上にさらにインクを重ね、その上からまた消しゴムをかける。今のあなた方の魂は、原型を留めないほどに混濁しています。どこまで剥がせば『オリジナル』が出てくるのか、神ですら分からないでしょう」。
九条はカウンターの下から一冊の分厚いノートを取り出した。
黒革の表紙には、金色の文字で『顧客台帳』と刻まれている。そのノートが放つ圧倒的な存在感に、佐伯は思わず息を呑んだ。「これが、この店を利用されたすべてのお客様の記録です。ここには、誰が何を買い、どのような『修正』を行ったかがすべて記されています」
九条はノートをゆっくりと開き、あるページを指差した。そこには、佐伯の名前があった。そしてその下には、瀬戸の名前、古門の名前、桐生の名前……無数の名前が、細かい文字でびっしりと書き連ねられていた。
「あなたがもし、本当にすべてを終わらせたいと願うのなら……方法は一つだけあります」九条はカウンターの奥から、新たな文具を取り出した。それは、消しゴムだった。だが、瀬戸が使ったという青いものではなく、純白で、光を吸い込むような白さを持っていた。
「『白い消しゴム――存在の抹消』。これを使って、この台帳に書かれた自分の名前を消すのです。そうすれば、あなたに関するすべての記憶、あなたが世界に与えた影響、そしてあなたが行った『修正』の事実が、この世界から完全に消滅します」
佐伯は震える手でその白い消しゴムを見つめた。
「俺が……消える?」喉が渇いて声が掠れる。
「はい。あなたが消えれば、あなたが瀬戸様に行った操作も無効化されます。瀬戸様は、あなたがいない世界線で、彼本来の人生を取り戻すでしょう。古門様も、あなたという観測者がいなくなることで、彼自身の歪みから解放されるかもしれません。
ただし、代償として、あなたは誰の記憶にも残らず、最初から存在しなかったことになります。それが、究極の救済です」。
九条の言葉は甘美な誘惑のように聞こえた。今の佐伯にとって、自己とは苦痛の塊でしかない。それを消し去ることで、罪も罰も、そしてこの空虚な日常もすべて清算できるのだとしたら。
佐伯は台帳の上の自分の名前に、白い消しゴムを近づけた。
指先が震える。生きる本能が拒絶しているのか、それとも消滅への恐怖か。だが、脳裏に浮かぶのは、壊れた瀬戸の虚ろな目と、古門の絶望的な笑顔だった。自分が始めた物語を終わらせるには、作者である自分自身を物語から削除するしかない。
佐伯は覚悟を決めたように目を閉じた。そして、力を込めて消しゴムを動かした。紙面が擦れる音が、雷鳴のように耳元で轟いた。
世界が白く反転し、意識が遠のいていく。最後に見たのは、九条が満足げに台帳を閉じる姿と、その口元に浮かんだ微かな嘲笑だった。
「ありがとうございました。……良い旅を」。
翌朝、オフィスの風景は何も変わっていなかった。電話の呼び出し音、キーボードを叩く音、社員たちの笑い声。だが、そこには決定的な欠落があった。
佐伯のデスクがあった場所には、観葉植物が置かれ、誰もそこに席があったことを覚えていない。瀬戸は少し眠そうな顔をしながらも、自分の意志で書類を作成し、時折隣の席の同僚と談笑している。
古門は相変わらず飄々とした態度でコーヒーを飲んでいるが、その瞳からは以前のような狂気が消え、どこか憑き物が落ちたような顔をしていた。
誰も佐伯のことを知らない。
誰も彼の不在に違和感を抱かない。ただ一つ、路地裏の文具店のカウンターに、新たなコレクションが加わっただけだ。
九条は静かに店の扉を開け、通りを行き交う人々を眺めた。
「さて、次は誰が迷い込んでくるのでしょうか」
彼の呟きは雑踏にかき消され、都市の喧騒の中に溶けていった。崩壊した境界線は修復され、世界はまた、何事もなかったかのように回り続ける。
第四話 エピローグ:空白の座席と残されたインク
五 不在の証明
翌朝のオフィスは、薄い膜が一枚剥がれ落ちたような、奇妙な透明感に包まれていた。空調の低い唸り声と、始業前のまばらな話し声が混ざり合う中、瀬戸は自分のデスクでパソコンを起動していた。
画面に表示されるログイン画面の青白い光が、彼の顔を照らし出す。
昨日までの彼は、まるで何かに急き立てられるように、あるいは目に見えない糸で操られているかのように、無機質で完璧な動作を繰り返していた。
しかし今朝の瀬戸は、どこか様子が違っていた。
キーボードに置かれた指先が、ふとした瞬間に止まるのだ。彼は無意識のうちに、右隣のスペースへと視線を送っていた。
そこには大きな観葉植物のパキラが置かれており、その緑の葉がオフィスの蛍光灯を浴びて艶やかに光っている。何の変哲もない、オフィスの風景の一部だ。それなのに、瀬戸の胸の奥には、小さな棘が刺さったような痛みが走っていた。
「……あれ?」
瀬戸は小さく呟き、自分のネクタイに触れた。結び目が少し緩んでいる。昨日までは、ミリ単位で整えられていなければ気が済まなかったはずなのに、今日はなぜかその緩さが心地よく、同時に懐かしくもあった。彼は首を傾げ、再び隣のパキラを見た。なぜ自分は、あそこに誰かが座っていたような錯覚を覚えるのだろうか。
誰かがいて、毎朝自分に指示を出し、その指示に従うことで世界が回っていたような、そんな奇妙な既視感。だが、記憶の糸を手繰り寄せようとしても、そこには霧がかかったように白い空白が広がっているだけだった。
総務部の桐生が通りかかり、瀬戸のデスクに書類を置いた。
「瀬戸さん、これ頼まれていた経費精算の件です。……あら、どうしたの? ぼんやりして」
彼女の声は普段通りの厳格さを保っていたが、その目元には昨日までのような能面のような冷たさはなく、人間らしい疲労の色が滲んでいた。
「いえ、なんでもありません。ただ、少し……忘れ物をしたような気がして」瀬戸が答えると、桐生は不思議そうな顔をして、「そう? しっかりしてよね。最近のあなたは仕事が早くて助かっているんだから」と言い残して去っていった。
瀬戸は彼女の背中を見送りながら、自分の手元にある手帳を開いた。そこには、びっしりと自分の筆跡でスケジュールが書き込まれている。
しかし、数ページ前を捲ると、そこには見覚えのない、鋭角的で几帳面な文字で書かれたメモが挟まっていた。『A社の件、再確認すること』。
誰の字だろうか。
自分の字ではない。部長の字でもない。この文字を見ていると、なぜか胃のあたりが締め付けられるような圧迫感と、奇妙な安堵感が同時に押し寄せてくる。
瀬戸はそのメモを指でなぞった。インクの跡が、まるで存在しなかった誰かの指紋のように、紙の上に確かに残っている。
彼はそのメモを捨てることができず、手帳のポケットの奥深くにしまい込んだ。世界は正常に回っている。誰もいなくなっていないし、何も失われていない。それなのに、この喪失感は何なのだろう。
瀬戸は深呼吸をし、再びキーボードを叩き始めたが、そのリズムは昨日までの機械的なものではなく、時折迷い、立ち止まる、人間らしい不完全なものへと戻っていた。
六、煙と残り香
昼休み、喫煙室の空気は白く濁っていた。古門は換気扇の下で、紫煙を深く肺に吸い込んでいた。
手元には缶コーヒーが二本ある。一本は開封済みで、もう一本は未開封のままだ。
「……なんで二本買ったんだ?」
古門は自分の手元を見て、自嘲気味に笑った。
最近、記憶が曖昧になることが多い。
昨日、ここで誰かと話したような気がするのだが、相手の顔も、話した内容も思い出せない。
ただ、何か重要なことを告げられ、それに対して自分が激しく感情を揺さぶられたことだけが、身体の感覚として残っていた。
ポケットを探ると、黒いボールペンが指に触れた。『黒の契約ペン』。無銘文具店で手に入れた、他人を意のままに操るための道具。
古門はそのペンを取り出し、光にかざしてみた。
以前は、このペンを見るだけで全能感に浸れたものだが、今はなぜか、それがひどく色褪せた、子供騙しのおもちゃのように見えた。
「操る、か……」
古門は独りごちた。誰かを操り、自分の思い通りに動かすこと。
それが自分の望みだったはずだ。
しかし、操る相手がいなくなったような、あるいは操るべき「観客」を失ったような、虚しさが胸を去来する。昨日の夜、誰かが言っていた気がする。
「俺たちは実験の一部だ」と。
その言葉の主は誰だったか。
古門は煙草の灰を落とし、未開封の缶コーヒーを手に取った。
冷たいスチールの感触。これを誰かに渡そうとしていた気がする。苦い顔をして、それでも仕事の愚痴を聞いてくれる誰かに。
だが、その人物の名前がどうしても出てこない。脳の海馬の一部が、外科手術で綺麗に切り取られたように、そこだけ情報が欠落している。
古門は溜息をつき、未開封の缶コーヒーをゴミ箱の上に置いた。
「……まあいいか。疲れてるんだな、俺も」
喫煙室を出ようとした時、古門はふと振り返った。狭い個室の隅に、薄い影のようなものが残っている気がした。
それは幽霊などではなく、そこに確かに誰かが存在し、苦悩し、叫んでいたという残留思念のようなものだった。
古門は首を振り、その感覚を振り払うようにドアを開けた。オフィスの喧騒が戻ってくる。彼はデスクに戻り、仕事を再開するだろう。
そして夕方になれば、また誰かをこのペンで支配しようとするかもしれない。
だが、その行為に伴う快楽は、以前よりも確実に薄れているはずだ。なぜなら、その支配劇を見ていた「共犯者」は、もうこの世界にはいないのだから。
古門はペンを胸ポケットにしまう際、一瞬だけ指が止まった。
ペンの軸に刻まれた幾何学模様が、以前よりも黒ずんで見えたのは気のせいだろうか。彼は微かな悪寒を感じながらも、日常という名のぬるま湯の中へと戻っていった。
七、無銘の棚卸し
路地裏の「無銘文具店」には、今日も静謐な時間が流れていた。外の世界の喧騒は、重厚な木の扉によって遮断され、店内には古書とインク、そして微かな香辛料の香りが漂っている。
カウンターの中、店主の九条は、一冊のノートを閉じたところだった。
『顧客台帳』。
その最新のページには、かつて記されていたはずの一人の男の名前が、完全に消滅している。
白紙に戻ったわけではない。繊維の奥までインクが吸い取られ、最初から何も書かれていなかったかのように、紙面が滑らかに整えられているのだ。
九条はその空白を指先で愛おしそうに撫でた。
「美しい……」彼の唇から漏れた言葉は、純粋な称賛だった。
「自らの存在を対価にして、歪みを正す。それは最も愚かで、最も気高い『修正』の形です」
九条は立ち上がり、背後の棚へと向かった。
そこには、数え切れないほどの文具が並べられている。
インクの切れない万年筆、殺意を感知して震えるカッターナイフ、未来の日付が記された手帳。そのコレクションの中に、九条は新たなアイテムを追加した。それは、佐伯が置いていった『赤いシャーペン』ではない。
彼が最後に使用し、その身を削って消滅させた『白い消しゴム』の残りカスを集め、凝縮させた新たな結晶だった。
小瓶に詰められたその白い粉末は、店内の薄暗い照明を受けて、星屑のように微かに発光していた。
『存在の残滓――記憶の彼方』
九条は小瓶にラベルを貼り、棚の最も目立つ場所に置いた。そして、カウンターに戻ると、一枚のメモ用紙を取り出し、万年筆を走らせた。
「次は、誰が来るのだろうか」
その文字は、優雅で、どこか挑発的だった。
九条はこの店を訪れる迷える魂たちを待っている。
心に穴の空いた人間、欲望に溺れかけた人間、あるいは現実という重圧に押し潰されそうな人間。彼らが扉を開けるたびに、この店の商品は新たな物語を紡ぎ出し、九条のコレクションは増えていく。
カラン、とドアベルが鳴った。
九条は顔を上げ、穏やかな営業用の微笑みを浮かべた。
「いらっしゃいませ。無銘文具店へようこそ。……何か、お探しですか?」
入ってきたのは、疲れた顔をした若い女性だった。
彼女の目には、かつての佐伯と同じような、現実に絶望した色が宿っている。彼女は店内を見回し、吸い寄せられるようにカウンターへと近づいてきた。
「あの……ここなら、自分を変えられる道具があると聞いて……」。
九条の瞳が、爬虫類のように細められた。
新たな物語の幕開けだ。彼はゆっくりと頷き、カウンターの下から一つの箱を取り出した。
「ええ、ございますとも。お客様にぴったりの文具が」。
佐伯という男が存在した事実は消えた。
しかし、彼が残した空白は、この店の一部となり、次の悲劇への呼び水となっている。
街の片隅で、誰にも知られずに繰り返される取引。
境界線は常に揺らいでおり、その崩壊は決して止まることがない。
店の外では、雨が降り始めていた。アスファルトを濡らす雨音は、誰かの涙のようにも、あるいは世界がリセットされる音のようにも聞こえた。
ここまで物語を追ってくださり、ありがとうございます。救いを求めたはずの選択は、いつしか支配へと姿を変え、やがて存在そのものを揺るがす問いへと辿り着きました。佐伯が最後に握ったのは、誰かを操るための道具ではなく、自分を消すための白い消しゴムでした。正しさを守るためでも、効率を極めるためでもない。ただ終わらせるための選択です。けれど、何度も修正を重ねた世界に「元の形」は残っているのでしょうか。瀬戸も、古門も、そして店主の九条もまた、誰かの選択の連鎖の中にいます。夜明け前にだけ開く無銘文具店は、善悪を示しません。ただ、望みを差し出すだけです。消された名前の分だけ、世界は静かに整い、そしてどこかが欠けていく。もしあなたが白い消しゴムを手にしたなら、何を消しますか。それでもなお、あなたはあなたでいられるでしょうか。
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