模倣する空洞
瀬戸の記憶を「透明な修正液」で塗り潰した翌朝、佐伯の世界は吐き気がするほど完璧に整っていた。不信も追及も消え、瀬戸は従順な後輩へと戻っている。しかしその平穏は歪んでいた。瀬戸は自発性を失い、指示なしでは何も決められない“空洞”と化していたのだ。仕事は滞り、佐伯の負担は増すばかり。そんな彼の前に現れたのが、中途社員の古門だった。古門もまた「無銘文具店」の経験者であり、修正を重ねた末に周囲を抜け殻へ変えてきた過去を持つという。彼は佐伯に、意志を植え付け他者を操る「赤い芯のシャーペン」の存在を示唆する。追い詰められた佐伯は再び店を訪れ、瀬戸を“元に戻す”のではなく、“理想通りに動く存在”へ作り替えることを望む。翌朝、赤いシャーペンで書いた指示は瀬戸の思考を支配し、彼は完璧な成果を出す。だがその瞳は空虚で、ノートには古門と同じ不気味な螺旋が刻まれていた。支配と効率を選んだ佐伯は、知らぬ間に古門と同じ側へ足を踏み入れていたのだった。
第一章 漂白された朝
その朝、現実とは思えないほど、不自然に済んでいた。
地下鉄の階段を上り、地上への出口から溢れる光を浴びた瞬間、佐伯は眩暈に似た感覚を覚えた。光の中に塵ひとつ舞っていない。街路樹の葉擦れも、アスファルトを叩く革靴の音も、すべてが真空パックされたかのように音の輪郭を失い、鼓膜を素通りしていく。
不快なノイズが消えていた。
昨日まで佐伯の神経をやすりのように削り、胃の腑に重い鉛を沈殿させていたあの粘着質な気配――瀬戸という他者が発する、無言の批評、視線に含まれる侮蔑、あるいは若さゆえの無遠慮な正しさといったものが、一夜にして蒸発していたのだ。
オフィスの自動ドアが開く。
空調の送風音が、深海の底で聞く水流のように低く響いている。始業三十分前。フロアにはまだ数人の社員しかいないが、その誰もが静寂という膜に包まれているように見えた。
佐伯は自分のデスクに向かった。その足取りは、罪悪感よりも奇妙な浮遊感に支配されていた。
ポケットの中には、もうあの小瓶はない。
路地裏の、湿った黴の匂いがする文具店。「無銘文具店」と名乗るあの店で手に入れた『透明な修正液』。
――これで、消えますよ。不都合な記憶も、感情の澱みも。
店主である九条の声が、脳裏にこびりついている。佐伯は昨晩、残業中の瀬戸のマグカップに、それを一滴垂らしただけだ。無色透明で、味も匂いもしないその液体は、ミルクのように渦を巻くこともなく、瞬時に黒いコーヒーと同化した。
それを飲んだ瀬戸がどうなったか、佐伯は最後まで見届けずに退社した。逃げたのではない。結果を待つまでの猶予を、神のような視点で楽しんだのだと言い聞かせていた。
「おはようございます、佐伯さん」
背後から声がした。
あまりにも滑らかで、あまりにも心地よいはずなのに、違和感を覚えるような音量だった。
佐伯は反射的に身構え、ゆっくりと振り返った。昨日までの佐伯なら、その声を聞いただけで胃酸が逆流するほどのストレスを感じていただろう。瀬戸の声には常に、佐伯の指示に対する微かな疑念や、より効率的な代替案を隠し持ったような棘が含まれていたからだ。「おはようございます」という定型句の中にさえ、「また非効率な一日が始まるのですね」という皮肉が混じっているように聞こえていた。
だが、今の声には何もない。
棘も、毒も、あるいは人間的な温かみという名の不純物さえも。
瀬戸は自席に座り、背筋を定規で引いたように伸ばしてこちらを見ていた。
その瞳は、磨き上げられたガラス玉のように曇りがない。昨日までその奥で渦巻いていた、佐伯への不信感――「この人はまた間違えている」「なぜこんな無駄なことをさせるのか」という、無言の告発は、きれいさっぱり拭い去られていた。
「……ああ、おはよう。瀬戸」
佐伯の返答は、喉の途中で一度引っかかってから出た。
「昨日の進捗、確認をお願いします。サーバーへの転送は完了しています。エラーログはありません」
瀬戸は立ち上がりもせず、しかし無礼には見えない絶妙な角度で首を傾げた。その表情は、穏やかというよりは、平坦だった。凪いだ海のように、波ひとつない。
佐伯は安堵した。
修正液の効果だ。本当に消えたのだ。彼の中にあった、佐伯にとっての「不都合」が。
佐伯はデスクの椅子に深く沈み込み、天井を仰ぎたい衝動に駆られた。
勝ったのだ。あの生意気で優秀すぎる後輩との、消耗戦に勝利したのだ。これでいい。これで元通りだ。いや、それ以上だ。これこそが、組織があるべき「円滑な形」なのだ。
しかし、その安堵が戦慄へと変質するのに、時間はかからなかった。
違和感の正体に気づいたのは、昼時だった。
正午を告げるチャイムが鳴り、オフィスの空気がふわりと緩む。同僚たちが「お昼どうする?」「あの店混んでるかな」などと雑談を交わしながら席を立ち始める。日常的な、弛緩した時間。
だが、佐伯の前の席だけが、真空のような重力を保っていた。
瀬戸が、動かない。
モニターを見つめたまま、キーボードに手を置いた姿勢で、微動だにしない。
画面には、五分間操作がなかったことを示すスクリーンセーバーの幾何学模様がゆっくりと漂い始めている。彼は仕事をしているわけではない。ただ、止まっているのだ。
まるで、電源コードを抜かれた家電製品のように。
「……瀬戸?」
佐伯は声をかけた。
彼はゆっくりと首を回した。油切れの機械のような動きではなく、あまりにも滑らかすぎて逆に人間味を感じさせない動きで。
「はい。何でしょうか、佐伯さん」
「昼だぞ」
「はい」
彼は佐伯を見つめ返したまま、次の言葉を待っている。その瞳孔が、部屋の明かりを反射して濡れている。
佐伯は眉をひそめた。
「……休憩に入らないのか?」
「休憩、ですか」
瀬戸は初めてその言葉を聞いたかのように、口の中で反芻した。そして、佐伯の目を見て言った。
「入ってよろしいのでしょうか」
背筋に、冷たい雫が伝うような感覚があった。
なんだ、今の問いは。
許可を求めているのか? 生理的欲求である食事や休息に対して、佐伯ごときの許可を?
「当たり前だろ。一時間休憩だ。行ってこい」
「承知しました。食事はどうすればよろしいですか」
「は?」
佐伯は耳を疑った。
「どうすればって……お前の好きなものを食えばいいだろう」
「選択の基準が不明確です。佐伯さんの推奨するメニュー、あるいは摂取すべき栄養素の指定をお願いします」
佐伯は息を呑んだ。
冗談ではない。瀬戸の顔には、微塵のユーモアも浮かんでいなかった。彼は本気で困惑し、そして本気で「指示」を求めていた。
佐伯の手のひらがじっとりと汗ばむ。
奪ったのは不都合な記憶だけではなかった。瀬戸という人間を直立させていた背骨――「意志」そのものが、修正液によって透明に溶かされてしまったのだ。今の彼は、佐伯の言葉を反射するだけの、有機質の鏡に過ぎなかった。
「……コンビニで、おにぎりを二つ買ってこい」
佐伯が絞り出すように言うと、瀬戸は「承知しました」と即答し、機械的に立ち上がった。
彼がオフィスを出ていく背中を見送りながら、佐伯は言いようのない不安に襲われた。
安堵という名の温かい湯船に浸かっていたはずが、いつの間にか湯が冷え切り、肌にまとわりつく泥水に変わっていたような不快感。
佐伯は、とんでもないものを生み出してしまったのではないか。
第二章 沈黙の操縦席
午後の業務は、佐伯にとって拷問に近いものとなった。
瀬戸は優秀だった。いや、正確には「高精度の入力装置」としては優秀だった。
佐伯が指示したことは、一言一句違わず実行する。一〇〇の仕事を命じれば、一〇〇の結果が返ってくる。九九でも一〇一でもない。
「瀬戸、この企画書のドラフト、ざっと作っておいてくれ」
佐伯はあえて曖昧な指示を出してみた。以前の彼なら、「ざっと、とはどの程度の粒度でしょうか? 来週の会議用なら、コスト試算まで含めるべきだと思いますが」と即座に返していただろう。生意気だが、そこには彼なりの「正解」への渇望があった。
しかし、今の瀬戸は違った。
「はい。企画書のドラフトを作成します」
一時間後、彼が提出してきたものは、文字通りの「ドラフト」だった。
過去のフォーマットをそのままコピーし、タイトルだけを書き換えたもの。中身は空欄のままだ。
「……瀬戸、中身がないじゃないか」
「はい。中身についての指示はいただいておりませんので」
悪びれる様子もなく、彼は平然と答えた。その瞳は、深海のように暗く、底が見えない。
馬鹿にしているのか?
一瞬、そう思った。これは彼なりの高度な嫌がらせなのかと。だが、彼の表情筋は微動だにしていなかった。そこには、反抗の意思どころか、佐伯への関心すら感じられない。彼はただ、入力されたコマンドに対してエラーを返しただけなのだ。「パラメータ不足」と。
「……内容は、前回のAプロジェクトを参考に、今回のターゲット層に合わせて調整してくれ。数字は仮置きでいい」
佐伯は子供に言い聞かせるように、細かく指示を出し直した。
「承知しました。Aプロジェクトを参考に、ターゲット層を調整、数字は仮置きで作成します」
彼は佐伯の言葉をオウム返しにし、再びキーボードに向かう。
タッ、タッ、タッ。
一定のリズムで刻まれる打鍵音。そこには感情の揺れも、思考の溜めもない。メトロノームのように正確で、そしてどこか空虚だった。
佐伯は軽い眩暈を覚えた。
これは、楽なのか?
いちいちすべてを言語化し、定義し、命令しなければ動かない部下。かつて佐伯が疎ましく思っていた「彼の自発性」こそが、実は佐伯を支えていたのではないかという疑念が、胸の内で黒い煙を上げ始めた。
佐伯は、自分の仕事が倍増していることに気づいた。自分の業務をこなしながら、瀬戸という「OSの入っていないハードウェア」を常駐で制御し続けなければならない。思考が分断される。集中力が持続しない。
そんな限界寸前の佐伯の視界の端に、その男が映り込んだのは、ちょうどその頃だった。
まるで、腐臭を嗅ぎつけたハイエナのように、音もなく近づいてきた影。
古門。
先月、中途採用で入社してきた五十代半ばの男だ。
痩せこけていて、皮膚が薄い。オフィスの蛍光灯の下では、血管の青さが透けて見えるほど顔色が悪い。髪は白髪交じりの短髪で、整髪料の匂いも、汗の匂いもしない。まるで古い図書館の奥に眠っていた紙のような、乾燥した印象を持つ人物だった。
古門のデスクは、佐伯の席から二つ隣の島にあった。
彼は不気味なほど仕事が速かった。キーボードを叩く音は極めて小さく、まるで指先がキーに吸い込まれているかのようだ。誰かと雑談をすることもなく、昼休みも自席で栄養補助食品を齧りながらモニターを見つめている。
彼もまた、この「白いオフィス」に相応しい、ノイズのない部品の一つに見えた。
だが、佐伯だけは気づいていた。
彼が時折見せる、異常な癖に。
ある日の残業中だった。
ふと視線を感じて顔を上げると、斜め向こうの席で古門が右手を上げていた。
誰かを呼んでいるのではない。
彼は、何もない空中に向かって、ペンを走らせていたのだ。
さら、さら、さら。
実際に音が聞こえるわけではない。だが、その手首の動きは、確かに紙に文字を書く’’もの’’だった。視線は虚空の一点を凝視し、唇が微かに動いている。まるで、そこに見えない書類が存在し、それにサインをしているかのように。
あるいは、空気の層に鋭利な刃物で切れ込みを入れているかのように。
佐伯は背筋に冷たいものが走ったように感じた。
見てはいけないものを見た気がして、慌てて視線を瀬戸に戻した。瀬戸は変わらず、佐伯の次の命令を待機するアイドリング状態で固まっていた。
こっちもこっちで、地獄だ。
佐伯は深いため息をつき、逃げ場のない檻の中で、再びディスプレイに向き合った。
第三章 古門という名の未来
その夜、残業は深夜に及んだ。フロアの照明は半分以上が落とされ、佐伯のデスク周りだけが孤島のように白く浮き上がっている。瀬戸は二時間前に帰した。「帰れ」と命令しなければ、彼は朝まで石像のように座り続けていただろう。彼を物理的に排除したことで、ようやく佐伯は「一人分の仕事」に集中できていた。
静かだ。空調の送風音が、遠い波の音のように聞こえる。佐伯は疲れ切った目を擦り、マグカップに残った冷たいコーヒーを啜った。泥水のような味がした。ふと、気配を感じた。視界の隅、闇に沈んだキャビネットの影に、誰かが立っている。
心臓が跳ね上がった。警備員か? それとも瀬戸が戻ってきたのか?
恐る恐る振り返ると、そこにいたのは古門だった。いつの間に近づいたのか、足音が全くしなかった。彼はグレーのカーディガンのポケットに両手を突っ込み、亡霊のように佇んでいた。
「……お疲れ様です、古門さん。まだ残っていたんですか」
佐伯が作り笑いを浮かべると、古門は無表情のまま、ゆっくりと佐伯の机に近づいてきた。その瞳が濁っている。老人特有の混濁ではなく、泥水が淀んで動かないような、死んだ沼の色をしていた。
「あんた、大変そうだな」
声は低く、乾燥していた。喉の奥から砂が擦れるような音がする。
「ええ、まあ。ちょっと立て込んでまして」
「部下の世話か?」
ドキリとした。古門は佐伯の反応を楽しむように、口の端を歪めた。「あの瀬戸って若造。最近、随分と『良い子』になったじゃないか」
「……指導の成果ですよ」
佐伯は視線を逸らし、書類を整理するふりをした。この男とは関わりたくない。本能が警鐘を鳴らしている。だが、古門は離れなかった。むしろ、佐伯の椅子に身を乗り出すようにして、顔を近づけてきた。整髪料の匂いはしない。代わりに、微かなインクの匂いと、鉄錆のような臭気が漂ってきた。
「……あんたも、使ったのか?」
耳元で囁かれた言葉に、佐伯の全身が総毛立った。思考が凍りつく。心臓が早鐘を打ち、血液が逆流する。佐伯は弾かれたように顔を上げた。古門の顔が、すぐそこにある。
「……何を、ですか」「とぼけるなよ」。古門は低く笑った。「クックッ」という、骨が軋むような乾いた笑い声。
「あの路地裏の店だ。看板のない、古臭い文房具屋。……『無銘文具店』」
決定的な単語が出た。
佐伯は椅子ごと後ろに下がろうとしたが、背もたれがデスクに当たって逃げ場がなかった。古門は知っている。なぜだ? 彼も客なのか?
古門はポケットから片手を出し、佐伯のデスクの上を指差した。その人差し指の腹が、黒く変色していた。インク汚れではない。もっと皮膚の深層に染み込んだような、刺青に近い黒ずみ。
「あれは便利だよな。俺も世話になった。……修正液か?」
佐伯は肯定も否定もできず、ただパクパクと口を開閉させた。喉が干上がって声が出ない。古門は佐伯の沈黙を肯定と受け取ったようだ。彼は満足げに頷き、誰もいないオフィスの出口付近、暗がりを指差した。「だがな、使いすぎると周りが『空っぽ』になる。経験者は語る、ってやつだ」
「経験、者……」
「ああ。俺も昔、部下に使った。生意気で、口答えばかりする部下にな。今のあんたと同じだ。あいつの個性を、記憶を、全部修正液で白く塗り潰してやった」。古門の視線が、闇の奥に向けられた。そこには、清掃員の初老の男がいた。いつもこの時間になると現れ、黙々とモップをかけている男だ。佐伯は彼と言葉を交わしたことがない。名前も知らない。ただの背景の一部として認識していた。「あいつだよ」。古門が言った。「え?」「あそこの清掃員。あれが、俺の元部下だ」
佐伯は息を呑んだ。清掃員の男は、機械のように一定のリズムで床を磨いている。その顔には表情がない。疲れも、喜びも、悲しみもない。ただ、プログラムされた通りに動く肉の塊。
「修正液を使いすぎてな。あいつは自分の名前すら思い出せなくなった。会社もクビになって、今はああして床を磨くだけの抜け殻だ」。古門の声には、罪悪感の色が全くなかった。むしろ、壊れた玩具を懐かしむような、残酷な愛着さえ感じられた。「あんたの瀬戸くんも、じきにああなるぞ」
恐怖で指先が冷たくなる。瀬戸が、あんな風になる? ただ命令を待つだけの現状でさえ持て余しているのに、名前さえ失い、完全に崩壊してしまうというのか。「そ、そんな……私はただ、少し素直になってほしかっただけで……」「手遅れだよ」。古門は冷酷に告げた。
「一度消したインクは戻らない。上から書き直すことはできても、元の下地はもうぐちゃぐちゃだ」。古門は佐伯の肩に手を置いた。その手は氷のように冷たかった。彼は顔を寄せ、悪魔的な福音を囁く。「今のままじゃ瀬戸は使い物にならない。あんたの負担が増えるだけだ。……だが、九条のところへ行けば『続き』がある」
「続き?」
「修正液で消したなら、次は書けばいい。……意志を植え付けるペンだ」。古門の瞳の奥で、暗い火が灯ったように見えた。「それを使えば、あいつはあんたの望む最高の操り人形になる。いちいち命令しなくても、あんたの思考を読み取って動くようになるぞ。……俺のように、な」
古門はそう言って、再び空中に右手を走らせた。さら、さら、さら。今度は見えた気がした。彼が空中に描いているのは、文字ではない。幾重にも重なり合った、複雑怪奇な螺旋模様だ。行き場のない思考がぐるぐると回り続け、中心へと落ち込んでいく、底なしの渦。
「俺たちは同類だ、佐伯さん」。
古門は佐伯の耳元で、湿った声で笑った。「あっち側にはもう戻れない。だったら、とことん支配する側に回るしかないだろう?」
第四章 崩壊する論理
古門の予言は、あまりにも早く現実のものとなった。
翌週、社運を賭けた大規模プロジェクトの進行中に、それは起きた。佐伯はその日、複数の会議を梯子し、物理的に席を外していた。出発前、瀬戸には「進行中のデータ処理を見張っておけ。何か異常があれば対応しろ」と伝えていた。曖昧な指示ではあったが、異常への対応くらいはできるだろうと高を括っていたのだ。
だが、佐伯が戻った時、オフィスは葬式のような空気に包まれていた。
サーバーがダウンしていた。原因は、データ容量のオーバーフロー。処理プログラムが無限ループに陥り、システム全体を巻き込んで停止していたのだ。
そして瀬戸は、警告音が鳴り響くモニターの前で、ただ座っていた。
「……おい、瀬戸! 何があった!」
佐伯が駆け寄ると、瀬戸はゆっくりと顔を上げた。「サーバーがダウンしました」「見ればわかる! なぜ止めなかった! 警告が出ていただろう!」「はい。警告は確認しました」「だったらなぜ!」。佐伯の怒号がフロアに響く。瀬戸は瞬きもせず、淡々と答えた。「『異常があれば対応しろ』との指示でしたが、どのような異常に対して、どのような対応を行うかという具体的な条件定義がありませんでした。判断に迷っている間に、システムが停止しました」
佐伯は言葉を失った。目の前が真っ白になる。
論理的には正しい。機械にとっては、定義されていないエラーは処理不能だ。しかし、人間ならば。「やばい」と思えば、電源を抜くなり、誰かを呼ぶなりできたはずだ。
だが、今の瀬戸に「人間」を求めることは、石に呼吸を求めるようなものだった。
部長が飛んできて、佐伯を怒鳴りつけた。「お前の管理はどうなっているんだ! 部下の教育もろくにできないのか!」
佐伯は頭を下げ続けた。床を見つめる視界の端で、瀬戸の革靴が見える。彼は微動だにしない。謝罪もしない。ただ、次のコマンドを待っている。
その姿を見た瞬間、佐伯の中で何かが決壊した。
正しさなど、もうどうでもよかった。
ただ、この混沌を黙らせたい。自分の意図通りに動く世界が欲しい。
この無能な「抜け殻」に、中身を詰め込みたい。それも、佐伯にとって都合の良い、極上の綿を。
その夜、佐伯は三度、あの路地へ足を踏み入れた。
「無銘文具店」の看板は、以前のような救済の輝きを失い、逃れられない泥沼の底への入り口のように見えた。だが、足は止まらなかった。依存症患者が薬を求めるように、佐伯は渇望していた。支配を。絶対的な安寧を。
カラン、というベルの音が、審判の鐘のように響く。
「いらっしゃいませ」。九条はカウンターの奥で、静かに微笑んでいた。その笑顔は、慈愛に満ちているようでもあり、地獄への水先案内人のようでもあった。「おや、今日は随分と殺気立っておられますね」
「……古門という男に会いました」。佐伯はカウンターに両手をつき、荒い息を吐き出した。「彼は、あんな風になるのが『救済の続き』だと言った。清掃員の男みたいに、空っぽになるのが」
九条は眼鏡を拭きながら、感情の読めない声で応じた。
「店は客を選びません。ただ、望むものを与えるだけです。彼が望んだのは『絶対的な効率』でした。その結果として失われたものは、彼が支払った代償です」
「代償……」
「ええ。何かを得るには、何かを差し出さねばなりません。君は何を望みますか?」
佐伯の視線が、カウンターに置かれた一本の筆記具に吸い寄せられる。
まるで最初からそこにあったかのように鎮座する、黒いボディのシャーペン。ノック部分とペン先だけが、鮮血のように赤い。
『赤い芯のシャーペン』。
その赤は、血の色にも、教師が使う採点用の赤ペンにも見えた。
「……瀬戸を、元に戻したいんじゃない」
佐伯は乾いた唇を開いた。自分の声が、他人のもののように聞こえる。
「あいつの記憶を戻せば、また俺を馬鹿にするだろう。正論で俺を追い詰めるだろう。そんなのは御免だ」
佐伯はペンに手を伸ばした。指先が震えている。
「俺の言う通りに動いて、文句を言わせず、完璧に仕事をさせたい。……俺の頭の中にある正解を、そのまま実行させたいんだ」
それはもはや善意の欠片もない、純度百パーセントの支配欲だった。自己愛が肥大し、他者を自分の手足としか見なさない、怪物の論理。
九条は、悲しげとも、あるいは愉悦とも取れる微かな笑みを浮かべ、深く頷いた。
「承知いたしました。それが貴方の『渇望』ならば」
九条の手がペンから離れる。
「そのペンの芯は、貴方の思考を喰らって赤く染まります。書けば書くほど、貴方と彼は深く繋がり、やがて境界は消えるでしょう。……お気をつけて」
佐伯はペンを握りしめた。
冷たいはずの金属のボディが、脈打つように熱を帯びている。
店を出ると、夜空には月も星もなかった。ただ、塗り潰されたような黒い闇が広がっていた。だが今の佐伯には、その闇さえも心地よかった。このペンさえあれば、その闇に自分だけの地図を描けるのだから。
第五章 真紅の契約
翌朝、佐伯は誰よりも早く出社した。
誰もいないオフィスは、死体安置所のように静まり返っている。佐伯は自分のデスクではなく、瀬戸のデスクに向かった。
手には、あの赤いシャーペン。
佐伯はA4のコピー用紙を取り出し、瀬戸の机の上に置いた。ノックをする。カチッ、という硬質な音が、静寂を引き裂く。ペン先から繰り出されたのは、血が凝固したような、暗い赤色の芯だった。
佐伯は紙に向かい、書き始めた。
『佐伯の思考を最優先せよ』
『佐伯が望む結果を、佐伯が言語化する前に予測し、実行せよ』
『疑問を持つな。躊躇するな。ただ完璧に遂行せよ』
カリ、カリ、カリ……。
書き味は独特だった。紙を引っ掻いているような抵抗感がある。そして、一文字書くたびに、佐伯のこめかみがズキリと痛んだ。まるで、自分の脳細胞を削り取って、それを紙に定着させているような感覚。文字は赤く光り、紙の繊維に染み込んでいく。それはインクではなく、生体組織のように見えた。
書き終えた「指示書」を、瀬戸のキーボードの上に置いた。
これでいい。
佐伯は自分の席に戻り、瀬戸の出社を待った。心臓が高鳴る。恐怖と期待が入り混じった、暴力的な高揚感。
八時三十分。瀬戸が現れた。昨日までと同じ、虚ろな目をした操り人形。
彼は自分の席に着き、キーボード上の紙に気づいた。彼はそれを手に取り、視線を落とした。
その瞬間だった。
ビクッ!
瀬戸の体が、電気ショックを受けたように大きく跳ねた。
彼は紙を凝視したまま、硬直した。喉の奥から「カッ、カッ」という、乾いた音が漏れる。瞳孔が開く。白目の部分に、細い血管が浮き上がり、充血していく。修正液で真っ白になっていた彼の内面が、今、佐伯の赤い毒で染め変えられていく。
「……瀬戸?」
佐伯が恐る恐る声をかけると、彼はゆっくりと顔を上げた。
ぞっとした。
虚ろではない。そこには、狂気的なまでの「光」が宿っていた。熱狂。崇拝。あるいは、絶対的な服従の悦び。
「おはようございます、佐伯さん」
声に張りがあった。昨日までの機械音声ではない。生き生きとした、しかしどこか人間としての温度を感じさせない、高揚した声。
「指示書、確認しました。……素晴らしい。完璧な論理です」
瀬戸は恍惚とした表情で紙を胸に押し当て、佐伯を見た。
「理解しました。貴方の望みこそが僕の望み。貴方の思考こそが僕の回路。……すぐに取り掛かります」
彼は席に着くと、猛烈な勢いでキーボードを叩き始めた。
タタタタタタタタッ!
速い。以前の倍以上の速度だ。モニター上のウィンドウが次々と開き、処理されていく。佐伯が昨日やり残していたクレーム対応のメール、未着手の企画書、来週の会議資料。それらが、佐伯の頭の中にあった「こうしたい」というイメージ通りに、いや、それ以上の精度で形になっていく。
ペンが紙を掠めるたび、佐伯の思考が瀬戸の脳内へ直接流れ込んでいく感覚。
周囲は瀬戸の復活に沸いた。「スランプ脱出だな」「顔つきが変わった」と無邪気な称賛が飛ぶ。だが、彼らは見ていなかった。瀬戸の瞳孔が開ききり、白目が充血して赤く染まっていることを。
佐伯だけは見てしまった。
瀬戸のノートの端に、古門が持っていたものと同じ、奇妙な螺旋状の模様が描かれているのを。
赤いボールペンで、幾重にも、幾重にも塗り重ねられた渦巻き模様。紙が破れるほど強く押し付けられた筆跡は、中心に向かって際限なく落ち込んでいくブラックホールのように見えた。
そして、遠くの席から古門が自分を見て、満足げに頷いているのを。
「ようこそ、こちら側へ」
古門の声が聞こえた気がした。佐伯は気づく。このオフィスには、自分以外にも「修正液」や「ペン」を使って現実を改変している人間が、他にも紛れているのではないかということに。
佐伯は、自分を崇拝するような目で見る「人形」となった瀬戸を抱え、崩れゆく現実の中で、ただ赤いペンを握りしめ続けた。もう手放せない。このペンがなければ、佐伯自身もまた、あの螺旋の中に飲み込まれてしまうのだから。
人は、痛みを失えば楽になれるのでしょうか。
それとも、痛みこそが人間を人間たらしめているのでしょうか。
佐伯は今回、ついに“救い”ではなく“支配”を選びました。
守りたかったはずの後輩を、理解し合える存在ではなく、思考をなぞる装置へと変えてしまう選択です。
空洞になったのは、果たして誰だったのか。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
コメントやリアクションなどお待ちしております。
意志を奪われた瀬戸か。
効率の名のもとに倫理を手放した佐伯か。
それとも、既に同じ道を歩んでいた古門か。
夜明け前に灯る無銘文具店は、相変わらず善悪を示しません。
店主の九条はただ問いかけるだけです。
「君は何を望むのか」と。
効率を極めた先に残るのは成果か、孤独か。
意志を塗り潰した世界で、最後まで残るのは誰の思考なのか。
物語はここから、“修正”ではなく“侵食”へと向かっていきます。
次話では、赤い線がさらに深く引かれることになるでしょう。




