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無銘文具店  作者: Umejuice


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境界の夜

都会の喧騒から切り離された下町の一角。

昼間は人通りもなく、ほとんどの店がシャッターを下ろしたままの商店街に、夜になるとひっそりと灯りをともす文房具店がある。

錆びた真鍮の看板、万年筆のロゴ。

店内にはインクと紙の匂いが満ち、古いラジカセからはブルース・スプリングスティーンの静かな歌声が流れている。

この店には奇妙な決まりがあった――

客は、自分の悩みに関係する文房具しか買えない。店主が認めない限り、何も売られない。

IT企業で働く佐伯(20代後半)は、仕事で取り返しのつかないミスを犯した夜、なぜかその店に吸い込まれるように辿り着く。

何も話していないはずなのに、白い手袋をした老店主・九条は、佐伯が抱える焦りと後悔を言い当てる。

張り詰めた心が、店の静寂にほどけていく中、九条は一つの文房具を差し出す。

「これは、君のためのものだ」

半信半疑でそれを使った佐伯の状況は、確かに“好転”する。

だがそれは、すべてが元通りになる魔法ではなかった。

失われた信頼、残された後悔、そして「自分はこのままでいいのか」という問いは、まだ消えない。

あまりにも静かで、あまりにもあっさりとした解決。

佐伯は、この店の正体と、九条が何者なのかに疑問を抱き始める。

なぜこの店は夜にだけ開くのか。

なぜ人生に迷った者だけが辿り着くのか。

そして――この店は、本当に“救い”なのか。

夜明け前の文房具店を舞台に、

言葉を失った人々が「書き直せない人生」と向き合う、静かなミステリーが幕を開ける。

 夏の残暑がしつこく街の背中に居座り続ける九月の後半、暦の上では秋の入り口を通り過ぎているはずなのに、昼間の熱気は未だに逃げ場を失ったままだ。コンクリートの奥深くまで染み込んだ太陽の熱は、日が落ちてなお地面からじわりと這い出し、不快な湿気を含んだ風が首筋を撫でるたびに、脱ぎ捨てられない薄汚れたシャツのように肌に張りつく。

 東京という巨大な機構において、こうした逃げ場のない暑苦しさは決して珍しいものではないが、南千住という街の、それも人通りから見放されたこの一角に限っては、その暑さすらもどこか古びて鈍く、時間の歯車が都心のそれとは決定的に噛み合っていないような、奇妙なズレを感じさせた。

 駅から数分も歩けば、網膜に焼き付いていた駅前の喧騒は急速に色褪せ、鼓膜を震わせていた電車の轟音や人々の無機質な話し声は、まるで厚い水中に沈んだかのように遠のいていく。代わりに夜の静寂を埋めるのは、自分の革靴がアスファルトを叩く乾いた音と、遠い地平を走る貨物列車の、重く、腹に響くような振動だけだった。

 佐伯はこの日も終電近い時刻に駅のホームへ降り立った。二十代後半という若さでありながら、彼の肩には年齢に見合わない重苦しい疲労がのしかかっている。IT企業の営業職として、数字という実体のない記号を追いかける日々。上司からの叱責、クライアントからの無理難題。

そして何より、自分自身が何を成し遂げたいのかさえ分からなくなっている空虚感。それらが、ネクタイを締め直すたびに首を絞める鎖のように彼を苦しめていた。いつもなら機械的に帰宅の路につくはずだった。しかし、この夜に限っては、明るすぎるコンビニの照明や、整然と並ぶマンションの群れに耐えがたい拒絶感を覚え、気づけば普段は足を踏み入れることのない、古い商店街の方へと足を向けていた。昼間ですら人影がまばらなこの界隈は、夕暮れと共に街全体が呼吸を浅くし、眠りというよりは深い黙秘に沈んでいく。急ぐべき目的地も、自分を必要とする誰かもいないこの場所では、重い鞄を提げた指先から力が抜け、時間に追い立てられる強迫観念が、乾いた皮膚から鱗のように剥がれ落ちていくのが分かった。

 商店街の入り口に差し掛かると、その静けさはもはや物理的な質量を持って迫ってきた。通りの両脇に立ち並ぶ店構えは、かつての活気を微かに留めてはいるものの、そのほとんどは既に役目を終え、冷たい金属製のシャッターを重く下ろしたまま沈黙している。街灯の光に照らされたシャッターの表面には、数え切れないほどの擦り傷が生活の痕跡として刻まれ、剥げ落ちた塗装の隙間からは赤茶けた錆が、まるで隠しきれない傷口のように露出していた。色褪せた看板や、雨風に晒されて文字の判別すら不可能になった古いポスターが、わずかにこの場所の記憶を語りかけてくるが、深夜の歩行者にそれを聞き取る余裕などない。

ここは商店街というよりも、忘れ去られた過去の断片を陳列する、屋根のない回廊と呼んだ方がふさわしかった。夜が深まるにつれ、街灯の光はさらに心もとなくなり、オレンジ色の光が届かない場所には、不自然に濃い影が泥のように溜まっている。一歩進むたびに足元の感覚は曖昧になり、どこからか聞こえてくる空き缶の転がる音が、静寂を裂いて鋭く響いては、再び元の深い静寂へと吸い込まれていった。このまま暗闇に溶けてしまうのではないかという、理由のない不安が胸の奥で小さく鎌首をもたげ、足取りを重くさせる。だが、その不安は同時に、今の自分を誰も見ていないという奇妙な安堵感をも伴っていた。

 商店街のさらに奥、舗装の割れ目から伸びた雑草が、誰にも踏まれない歳月を傲慢に主張し始めている行き止まり付近で、突如としてその光は現れた。周囲の暗闇に埋もれることなく、かといって不自然に主張するでもない、真珠の表面のような柔らかく控えめな明かり。それは注意深く探さなければ見落としてしまいそうなほど淡いものであったが、一度視界に捉えてしまうと、磁石に吸い寄せられる鉄屑のように視線を釘付けにされた。まるで、疲れ果てた旅人がこの場所に辿り着くことを最初から予見していたかのように。その光は静かにそこに在り続けていた。近づくにつれ、その正体が古びた文房具店であることが判明する。ガラス越しに見える店内は琥珀色の闇に包まれ、その境界には、長い年月をかけて深みを増した真鍮の看板がひっそりと、掲げられていた。表面はくすみ、指で触れればざらりとした金属特有の冷たさが伝わってきそうだ。その正体不明な佇まいは、不気味さよりもむしろ、外界の理屈が通用しない聖域のような厳かさを漂わせていた。

 扉の前に立つと、店内から微かに漏れ出している空気が、外の湿った熱気とは明らかに異なる、凛とした温度を持っていることに気づく。それはまるで、数十年もの間、深い地下室で大切に守られてきた沈黙が、わずかに隙間から溢れ出してきたかのようだった。万年筆のインクが放つ、冷たい金属と油が混じり合った独特の香気。そこに、上質な紙が長年眠り続けていたときに放つ、少しばかり甘く香ばしい、乾燥した木の葉のような匂いが重なっている。その匂いを吸い込んだ瞬間、佐伯の意識の底に沈んでいた幼い頃の情景が、鮮やかな色彩を伴って浮上してきた。新しい筆箱を開けたときの期待感、誕生日に貰ったスケッチブックの真っ白な一ページ、そして、まだ自分の言葉に嘘がなかった頃の、真っ直ぐな筆跡。気づけば浅かった呼吸は自然と深くなり、一日中張っていた肩の力が、魔法が解けるようにゆっくりと抜けていく。耳を澄ませば、店内からは使い古されたラジカセが奏でる、掠れた音楽が聞こえてきた。流れているのはブルース・スプリングスティーンの、魂を削り出すような静かなバラードだ。音質は決して明瞭とは言えず、時折混じる砂嵐のようなノイズが夜の空気に不規則なリズムを刻んでいる。しかし、その歌声はこの店の古い木材やインクの匂いと完璧に調和し、外の世界との境界線を曖昧に溶かしていく。音楽は耳を塞ぎたくなるような騒音ではなく、ただそこに在るべき音として、訪れる者の意識を日常の呪縛から優しく切り離していく。


都心のオフィス街に位置するIT企業の喧騒の中で、佐伯はその日、自分の人生を支えていた歯車が一つ、音も立てずに外れ落ちた瞬間をはっきりと悟った。それは決して、映画のクライマックスのような劇的な破滅ではなかった。誰かが激昂して机を叩き、書類が紙吹雪のように床へ散乱し、ワイドショーのネタになるような華々しい失態ではない。けれど、それは細胞の奥底で「もう取り返しがつかない」と直感させる、静かで冷徹な種類のミスだった。数字の一桁、確認の一工程、あるいは、送信ボタンを押す直前のメールに添えるべきだった一文。ほんのわずかな、砂粒ほどの抜け落ちが、ドミノ倒しのように連鎖的に不具合を広げ、何年もかけて築き上げてきた大事な顧客との信頼関係を、一瞬にして砂上の楼閣へと変えてしまった。モニターの放つ無機質な光の前で硬直したまま、佐伯は自分の鼓動の音だけを、暴力的なまでの鮮明さで聞いていた。耳鳴りのように、血の流れる音が頭の奥で不規則に反響し、周囲で響く同僚たちのキーボードを叩く音や、電話の呼び出し音が、まるで分厚い防音ガラスの向こう側の出来事のように、ひどく遠く、無意味なものに感じられた。

 ――やってしまった。その言葉が、熱を持った鉛のように胃の腑へ沈んでいく。上司の声は、予想に反して意外なほど冷静だった。激しい怒号を浴びせられる覚悟をしていた佐伯にとって、感情を極限まで押し殺した低いトーンで進められる事実確認は、かえって剥き出しの刃物を突きつけられるような恐怖を伴っていた。いっそ怒鳴られた方が、その熱量に甘えて罪悪感を霧散させられたのかもしれない。しかし、事務的に淡々と進む対話は、今後の処分や人事評価といった、生々しく、冷酷な現実的な結末を容赦なく想像させた。上司の眼鏡の奥で光る冷めた瞳を見つめながら、佐伯の意識は、ふと新卒としてこの会社に入社した初日の情景へと逃避した。太陽の光を反射して眩しく輝く総ガラス張りのオフィス、ワックスの匂いが微かに残る磨き抜かれた床、そして、期待と不安が複雑に混じり合い、弾けそうだった自らの胸の内。あの日から今日まで、この場所にしがみつくことだけが自分の存在証明だと信じて、必死に手を伸ばし続けてきた。その指先が、今、滑らかな床の上で力なく滑り、どこにも拠り所を見出せなくなっていることに気づく。

――もしかしたら、もう、すべてが終わってしまったのかもしれない。そう考えた瞬間、喉の奥が焼けるようにひりついた。退勤時間になり、周囲の社員たちが一人、また一人と席を立っていく中、佐伯だけはいつまでも立ち上がることができなかった。デスクに置かれたパソコンのシャットダウンを選択し、画面がゆっくりと暗転していくそのわずかな時間は、人生のひとつの区切りを強制的に宣告されているようで、たまらなく怖かった。ようやく重い腰を上げ、ビルの自動ドアを抜けて外へ出たとき、丸の内の街はすでに厚化粧を施した夜の顔へと変貌していた。高層ビルの窓から漏れる無数の光が、今の佐伯にはあまりに眩しく、鋭い棘となって網膜を突き刺す。常磐線のホームに立ち、滑り込んできた電車のドアが開くのを待っている間、いつもと同じはずの景色が、まるで異星の風景のように見えた。満員電車の窓に映る自分の顔は、青白い照明に照らされて幽霊のように透けており、その表情には生気のかけらも残っていない。疲弊しきっているはずなのに、どこか自分の体ではないような、奇妙な剥離感と現実感のなさが彼を支配していた。

 街灯がまばらになり、舗装の割れ目が深くなっていく商店街の奥深くへと、佐伯は吸い込まれるように歩みを進めていく。夜の静寂は深まり、自分の呼吸音だけが耳障りなほど大きく響く。そんな、世界の終わりを予感させるような静寂の中で、不意に、見慣れない灯りが彼の視界の端を掠めた。それは現代的なLEDの冷たい光ではなく、暗闇を優しく包み込むような、古いフィラメントが放つ暖色の光だった。本来そこには、長年閉ざされたままの暗い店舗跡しかなかったはずだ。戸惑いと、説明のつかない奇妙な高揚感が、佐伯の足取りを再び動かした。暗闇の奥、行き止まりに近いその場所に、まるで時空の裂け目から現れたかのように佇む一軒の店。錆びついた真鍮の看板と、その奥から漏れ出す琥珀色の光が、アスファルトの上の塵を黄金色に染めていた。佐伯は立ち止まり、その光を見つめた。今日という最悪の一日の果てに、なぜ自分はここに導かれたのか。その答えを知るためには、目の前の重厚な木扉を開くしかないことを、彼は本能的に理解していた。

不意に足を止めたのは、論理的な理由や、切実な目的があったわけでは決してなかった。ただ、商店街の行き止まりに近い闇の奥に、あまりにも場違いなほど、やわらかな灯りが見えた。それだけだった。もはや死にたいといっても差し支えないこの通りに、日付を跨ごうとする時刻まで営業を続けている店が存在すること自体、物理的な法則を無視しているかのように珍しい。昼間でさえ、どこへ向かうとも知れない疎らな人影が通り過ぎるだけの場所なのだ。夜になればなおさら、濃密な深い沈黙に支配され、ここを通り抜ける人間など数えるほどしかいない。だからこそ、その灯りは夜の深淵を鋭く切り抜いたかのように浮かび上がり、疲れ果てた佐伯の網膜を、抗いがたい力で強く引きつけた。無意識のうちに、重い足取りがそちらへと向かっていた。使い古されたアスファルトを踏みしめる靴音が、やけに誇張された音量で夜の空気に響き渡る。静まり返った通りでは、わずかな足音の振動でさえ、鼓膜を震わせるようにして波及していく。

 歩みを進めるたび、左右の視界にはこの街が歩んできた衰退の歴史が飛び込んでくる。シャッターに描かれた色あせた落書き、端が丸まって剥がれかけた「閉店セール」の空々しい張り紙、そして文字が脱落し、赤茶けた錆だけが浮き出た看板。ここには、外の世界の進歩から切り離されたまま、行き場を失った時間が何年も、あるいは何十年も降り積もっている。上京したばかりの九年前、この商店街の入り口近くで、温かい惣菜を買い求めた記憶が不意に脳裏をよぎった。百円玉数枚で買える安くて量の多い唐揚げ。ビニール袋越しに伝わる熱。「お兄さん、しっかり食べなきゃ駄目だよ」と、こちらの事情などお構いなしに話しかけてきた、油の匂いのする店主の顔。あの頃の佐伯にとって、それは少しだけ煩わしく、けれど見知らぬ土地で孤独を埋めてくれる唯一の安心できる風景でもあった。しかし、今の彼の周囲には、あの頃の賑やかな声も、食欲をそそる匂いも、ほとんど残ってはいない。ただ、古びた記憶の残滓が、冷たい夜風に吹かれて足元を通り過ぎていくだけだ。

 灯りの正体が、街灯の反射や目の錯覚ではないとはっきり確信できたとき、佐伯はわずかに眉をひそめた。それは、あまりに質素な構えをした小さな文房具店だった。頭上に掲げられた真鍮の看板は、年月という重荷に耐えかねたように軋みながら、かろうじて、鎖でぶら下がっている。そこには、職人の手によるものと思われる簡素な彫り文字で「無銘文具店」と刻まれていた。聞いたことのない名前だった。この街に住み、この商店街を九年もの間、幾度となく歩いてきたはずなのに、記憶のどこを探ってもこの店の存在には行き当たらない。まるで、今この瞬間に、世界の裂け目から突然姿を現したかのような、唐突で異質な存在感。それでも、すりガラスの向こう側から漏れ出す光は、現代的な蛍光灯の冷徹な白ではなく、白熱電球が放つ、少し古ぼけて懐かしい、どこか体温に近い明るさに満ちていた。佐伯は一度立ち止まり、不安を振り切るようにして周囲を見回した。やはり、この店だけがこの夜の中で異様だった。周囲の建物が闇に溶けている中で、ここだけが独自の重力を持ち、別の時間を刻んでいるように見える。

 ここに入る正当な理由など、どこを探しても見当たらない。今の彼に急ぎで必要な文房具など一ひとつもないし、一分一秒でも早く家に帰って泥のように眠るべきなのだ。それでも、彼は引き返そうとは微塵も思えなかった。このまま冷え切ったワンルームの部屋へ帰り、暗い天井を見上げてしまえば、今日という最悪の一日が、取り返しのつかない重たい塊のまま人生に居座り続けてしまう。そんな予感が、彼の背中を静かに押していた。建付けの悪そうなすりガラスの引き戸に指をかけ、慎重に力を込める。戸は、時間の蓄積を物語るような、かすれた低い音を立ててゆっくりと開いた。その瞬間、背後の外界から聞こえていた微かな風の音や遠い喧騒が、遮断機が下りるようにして唐突に途切れた。商店街の死んだような静けさすら、この店の敷居を越えることは許されていないようだった。代わりに鼻腔を満たしたのは、微かなインクと紙の匂いだった。それは工場から出荷されたばかりの無機質な匂いではなく、誰かの手で使い込まれ、数え切れないほどの言葉を吸い込み、長い時間をかけて熟成された、芳醇で深い匂い。深く息を吸い込むと、肺の奥底に溜まっていた、黒ずんだ澱のような感情が、わずかに解けて軽くなるのを感じた。

 店内は、外から見た以上にこぢんまりとした空間だったが、そこには物理的な広さを超えた、宇宙のような深淵が広がっていた。不思議と窮屈さは感じない。壁一面を埋め尽くしているのは、無数の小さな引き出しだ。ひとつひとつに貼られたラベルには、かつて何かが記されていたのだろうが、今では文字がかすれて判別できない。古びた木製の棚には、重厚な装飾が施された年代物の万年筆や、現代の製図では到底使われないような複雑な形の真鍮製定規、そして空気を吸って膨らんだ、色あせた革表紙のノートが、静謐な沈黙の中に並んでいる。どれもが、今の機能性を重視した文房具店では決して見かけることのない、物語を宿した道具たちばかりだった。店の奥からは、低く穏やかな、土の匂いがするような歌声が流れてきている。カウンターに置かれた古いラジカセから漏れるその音は、曲名も、歌っている男の名前もすぐには思い出せないものであったが、その旋律は、乾ききった佐伯の胸に驚くほど深く沁み渡った。張り詰めていた神経が、お湯に溶けるようにゆっくりと緩んでいく。無意識に食いしばっていた奥歯の力が抜け、呼吸が深く、規則正しくなるのを、彼は自らの細胞ひとつひとつが納得していくような感覚とともに感じ取っていた。

 そのとき、店のさらに奥、深い影が落ちるカウンターの向こう側から、一本の糸が空気を震わせるような声がかかった。「いらっしゃいませ」。それは、荒れ狂う海を鎮めるような、柔らかく、それでいて揺るぎない意志を感じさせる、包み込むような響きを持った声だった。佐伯が弾かれたように振り向くと、そこには一人の老人が立っていた。三つ揃いの背広を完璧に着こなし、その手には、雪のように清らかな純白の絹の手袋をはめている。老店主の視線は、佐伯が今日一日の間に受けた傷の深さを正確に測るように、静かに、そして慈しみを持って彼を見据えていた。佐伯は言葉を失い、ただその場に立ち尽くした。店主の手袋の白さが、琥珀色の店内で唯一の、救いの光のように見えていた。

 白い手袋をはめた老店主は、佐伯が店の敷居を跨ぐなり、ほんの一瞬だけその鋭くも穏やかな視線を落とした。それは、高級な骨董品を品定めするような無機質な値踏みの目では決してなかった。既に問いに対する答えをすべて持ち合わせている賢者が、最後に残されたわずかな確認事項を、ただ儀礼的に済ませたかのような、静かで深い視線だった。その一瞥だけで、佐伯の輪郭は九条という男の中に完全に取り込まれてしまったようだった。

「どうぞ、そこに」。カウンターの脇に置かれた、長年の使用によって黒光りしている古い木椅子を顎で示され、佐伯は導かれるまま、操り人形のようにその場所へ腰を下ろした。座面は、見た目の無骨さからは想像もつかないほどしなやかに彼の身体を受け止め、驚くほど安定していた。通常、こうした古い木製の椅子は座るたびに不快な軋み声を上げるものだが、この椅子は、佐伯の今の精神状態を気遣うように、音ひとつ立てなかった。ただ、使い込まれた木の微かな温もりだけが、ズボンの布地越しに伝わってくる。

 「お客さん、ずいぶん重たい足音だったね」。唐突に投げかけられたその言葉に、佐伯は肺に残っていた空気が一気に漏れ出すような感覚を覚え、一瞬だけ言葉を失った。あまりに突飛で、それでいて自身の内面を直撃するような問い。彼は何とか声を絞り出した。「……足音、ですか」「そう。店に入る前から、君の足音は夜の路地に実によく響いていたよ。迷いがある人間の歩き方だ。前に進もうという意思はあっても、踵が地面に吸い付いて離れない。前進を望みながら、その実、どこかで致命的に踏みとどまっている。そういう、矛盾に満ちた音がしていた」。店主の九条の口調には、冗談めかした軽薄さなど微塵も混じっていなかった。彼はただ、窓の外を流れる雲の形を説明するかのように、目の前の事実を淡々と、残酷なまでの事実を述べているだけだった。佐伯は自嘲気味に口角を上げ、力なく笑った。「そんなもので、すべてが分かるもんなんですか」「分かるとも。少なくとも、私にはね。ここには、そういう種類の音を立てる人間しか辿り着けないようになっている。幸福の絶頂にいて、人生のすべてが自分の思い通りに動いていると信じている人間には、この店の灯りを見つけることすらできないからね」。

 古いラジカセから流れる、ブルース・スプリングスティーンの低く静かな歌声が、二人の間に流れる重たい時間をゆっくりとかき混ぜ、満たしていた。佐伯は次に投げるべき言葉を探しながら、無意識のうちに膝の上で指先を強く絡め合わせた。自分の名前すら名乗っていない、今日初めて会ったばかりの老人に、まるで胸の内側を隅々まで透視されているような、形容しがたい居心地の悪さが彼を包み込んでいた。それは、周りの人に知られたくないことをしられているような羞恥心に近かった。「仕事で、大きなミスをしただろう」。九条のその問いかけは、確認を求めるものではなく、もはや確定した事実を告げる断定であった。佐伯の心臓が、肋骨の裏側で激しく一度だけ跳ねた。自分の内側の最も柔らかい部分を、鋭い針で突かれたような衝撃だった。

「……どうして、それを。僕が何者かも知らないはずなのに」「目だよ、お客さん。取り返しのつかない過ちを犯した人間というのはね、他人と目を合わせる直前に、決まって一度だけ視線を伏せるものだ。自分の過ちが、瞳という窓を通じて外界へ漏れ出すのを本能的に防ごうとする。今の君も、まさにその通りだった」。

 佐伯は、もう反論する気力さえ湧かなかった。目の前の老人に嘘をついたり、自分を飾り立てたりすることが、どれほど無意味で滑稽なことであるかを、彼は本能的に、そして痛烈に理解していた。九条の放つ空気は、抗うことのできない深海のような静けさを持っており、ただそこに身を委ねることだけが、今の佐伯に許された唯一の抵抗だった。「やめないといけないかもしれない、と。そう思っているんだろう」。九条の声はどこまでも穏やかだったが、その一言一言が、正確に佐伯の胸の急所を射抜いていった。「新卒で入った会社だ。あの日抱いた期待、積み上げてきた努力、そして何より、そこを自分の居場所だと信じ込ませてきた自負。そうしたものを手放すのは、誰にとっても簡単なことじゃない。だからこそ、後悔という名の呪縛は、日々重さを増して君の首を絞める」。佐伯は、深く、長く、体内の濁ったものをすべて吐き出すように息をついた。「……ええ」。それ以上の肯定の言葉を紡ぐには、彼の喉はあまりに乾燥し、枯れ果てていた。

 九条はそれ以上無理に踏み込もうとはせず、ただ静止した絵画のように、黙って佐伯の話を聞く姿勢を崩さなかった。その、すべてを受け入れるような深淵のごとき沈黙が、かえって佐伯の強固に閉ざされていた口を、滑らかに、そして軽くしていった。普段なら決して口に出さないような、醜い失敗のディテール。大事な顧客先での稚拙な確認不足、一瞬の油断が生んだ取り返しのつかない数字の誤り、その事実が発覚した瞬間に周囲の空気が絶対零度まで凍りついたこと、上司の眉間に刻まれた、決して消えることのない深い険しさ。それらは、帰りの電車の中で何度も、何百回も反芻し、そのたびに自分を責め立ててきた悪夢のような光景だった。それらを言葉として外へ吐き出すたびに、胸の奥で煮え立っていた熱は少しずつ冷めていったが、話し終えるころには、佐伯の喉は熱いホットティーを飲んだときのようにひりつき、指先は微かに震えていた。

 九条は、彼の告白を最後の一滴まで飲み干すように一度だけ深く頷くと、背後の壁を埋め尽くす無数の引き出しへと迷いのない足取りで歩み寄った。長い年月を経て磨かれたその木肌を愛でるように指でなぞり、ある一点で足を止めると、そのうちの一つを静かに引き出した。「君の悩みは、過去という名の鎖に縛られていることだ。既に起こってしまったこと、変えようのない事実を、どうしても消しゴムで消すように無かったことにしたいと願っている。だが、君も知っているはずだ。過去を消す方法は、この世界のどこにも存在しないということをね」。九条は細長い、漆黒の小箱を恭しく取り出すと、それをカウンターの上にそっと置いた。「これは、今の君のために用意されたものだ」。佐伯が恐る恐るその中を覗き込むと、そこには十枚ほどの小さな紙束と、一本の何の変哲もないペンが収まっていた。見た目はどこにでもある事務用品のようで、特別な魔力を秘めているようには到底見えない。

 「この紙に、このペンで、自分が間違って起こしてしまったことを書きなさい。心に浮かぶまま、その過ちの重さをそのまま文字に移し替えるんだ。ただし、書けるのは一度きりだ。書き直すことも、途中で止めることも許されない。これをしたからといって、すべてが魔法のように元通りになるわけじゃない。失った信頼や、傷ついた他人の心がいきなり癒えるわけでもない。だが、状況は確かに変わる。君自身の内側で、何かが決定的に動くはずだ」。佐伯は、目の前の小箱と九条の顔を交互に見つめ、信じがたい思いで眉をひそめた。あまりにも出来過ぎた、都合のいい話だ。そんなペン一本で、この地獄のような現実が好転するはずがない。「……そんなこと、本当なんですか。ただの文房具に、そんな力が」

「信じるかどうかは君次第だ、お客さん。だが、今の君にとって、これ以上に合う文房具はこの世のどこを探しても存在しない。それだけは、私が保証しよう」。

 九条から告げられた値段は、あまりに拍子抜けするものだった。五百円。都心のカフェで頼むコーヒー一杯分にも満たない金額だ。長い時間をかけて身の上話を聞いてもらった代金だと思えば、あまりに安すぎる。半信半疑になりながらも、小銭をカウンターに置いた。佐伯の胸の奥には、正体不明のざらつきと、割り切れない不安が残っていた。これが救いなのか、それともさらなる絶望の始まりなのか。九条は、白い手袋越しにカウンターを軽く一度だけ叩いた。その音は、物語の幕を一度下ろすような、重い響きを持っていた。「忘れないでほしい、これは決して魔法なんかじゃない。道具はあくまで道具だ。君自身がその過ちとどう向き合い、どう言葉を綴るか。その意思の重さによって、この文房具の意味は劇的に変わるんだ」。その言葉の真意を、そして、自らが手に取った文房具が持つ本当の重さを、佐伯はまだ理解していなかった。店の外では、夜明け前の最も深い闇が、音もなく街を飲み込もうとしていた。

店を一歩出た瞬間、夜の空気が氷の刃のようにひやりと佐伯の頬を撫でた。ついさっきまで、あれほど静かで、柔らかな温度に満たされていた琥珀色の空間に身を置いていたせいか、商店街を支配する闇はやけに現実的な手触りを伴い、建物の輪郭のひとつひとつが残酷なまでに、はっきりしすぎているように感じられた。思わず振り返ってみても、文房具店は変わらずそこに、幻のように佇んでいた。窓から漏れる灯りは淡く、看板は錆びつき、何ひとつとして変わった様子はない。それなのに、自分の胸の内側だけが、泥水をかき回されたように確実に揺らいでいるのを佐伯は自覚していた。コートのポケットの中で、小さな紙束と一本のペンが、物理的な体積以上の重さを主張し、歩くたびに太腿をかすめる感触が、現実と非現実の境界線を曖昧にさせていた。

 北千住の、湿り気を帯びた夜道を一人歩きながら、佐伯は何度も自問自答を繰り返した。あれはいったい、何だったのか。老練な店主による、孤独な人間を標的にした巧妙なセールストークに過ぎなかったのではないか。あるいは、仕事の重圧によって限界まで追い詰められた自分の脳が、あまりに都合の良い救済の幻影を、あの裏路地の闇に映し出しただけなのではないか。理屈を積み上げれば、答えは火を見るよりも明白だった。現実に起こってしまった出来事、失われた信頼、覆せない数字の誤りが、たかが数枚の紙とペン一本で綺麗に消えるはずがない。そんな魔法のような帳消しが許されるのなら、この世から後悔という言葉はとっくに死語になり、すべての人間は過ちを恐れずに生きているはずだ。それでも、右手の指先がポケットの中で触れ続ける、あの紙のざらついた感触が、彼の理性的な思考を何度も、執拗に中断させた。あの店主、九条の瞳には、嘘を吐く人間の濁りが微塵もなかったことを、彼は思い出さずにはいられなかった。

 自宅のアパートに辿り着き、重いドアを開けると、昼間の熱気が換気もされぬまま部屋の隅々に澱のように溜まっていた。コンビニで買った、すっかり温くなった発泡酒を冷蔵庫の棚に投げ込み、靴も脱ぎ散らかしたまま床に直接腰を下ろす。天井の電気をつける気力さえ湧かなかった。暗闇の中に浮かぶ街灯の微かな反射の中で、九条の言葉が、古い蓄音機から流れる旋律のように繰り返し頭をよぎる。「これは魔法じゃない」「君自身がどう向き合うかで、意味は変わる」。その一言が持つ真意を、佐伯は未だに掴めずにいた。単なる精神的な慰めに過ぎないのか、それとも、もっと根源的な「対価」を求める類のものなのか。思考は堂々巡りを続け、暗い部屋の空気と同化していくようだった。

 シャワーを浴び、身体に張り付いた一日の汚れと脂を熱い湯で流してみても、胸の奥にこびりついた不快なざらつきは一向に消えなかった。バスタオルを肩にかけ、ベッドの縁に腰掛けて、しばらくは無表情に天井の染みを見つめ続けた。瞼を閉じれば、あの日の仕事での致命的なミス、怒りを通り越して冷え切った上司の表情、そして顧客先の会議室で流れた、永遠にも感じられた沈黙が、鮮明な映像となって蘇ってくる。逃げたい。すべてを白紙に戻して、なかったことにしたい。そんな卑屈で切実な考えが、何度も何度も、心の底から鎌首をもたげてくる。そのたびに、残された理性がそれを必死に押し戻す。そんな都合のいい話があるはずがない、あってはならないのだ、と。しかし、理性は疲弊し、感情という名の濁流に今にも飲み込まれそうになっていた。

 やがて、佐伯は導かれるようにゆっくりと右手をポケットに滑り込ませた。指先に触れる、紙の鋭い縁とペンの無機質な冷たさ。それらを震える手で机の上に並べた。暗い部屋の、デスクライトだけが照らす白い紙は、思っていたよりもずっと小さく、頼りなく見えた。そこに書き込める言葉の数は、物理的に限られている。逃げ道を作るための長文も、言い訳を並べるための余白もそこには存在しない。だからこそ、その小さな白さは、余計な逃げ道を断つための宣告のように佐伯の目に映った。ペンを手に取ってみたものの、ペン先が紙に触れる直前で止まってしまう。黒いインクの先端が、真っ白な平原の上で、かすかな呼吸の乱れに合わせてわずかに震えているのが分かった。

 ――本当に、これを書いてしまうのか。――これを書いてしまったら、もう二度と、元の自分には戻れないんじゃないか。頭の中で、相反する二つの声が激しいせめぎ合いを続けていた。書かなければ、何も変わらない。ただ今日と同じような、絶望と後悔を抱えたまま、重たい鉛のような明日を迎えるだけだ。だが、もし書いてしまえば、何かが決定的に変わるかもしれない。その「かもしれない」という淡い期待が、今の佐伯には、どんな現実よりも魅力的に、そして危うく映った。失った信頼が都合よく戻るわけではない。自分の犯した責任が、法的に、あるいは組織的に消滅するわけでもない。それでも、この胸を苛む焼けるような熱が、少しでも楽になるというのなら――。彼は、自らの魂の一部をインクに混ぜ込むような覚悟で、ペン先を紙に押し当てた。

 「仕事で起こしたミスが、帳消しになりますように」

 最後の一文字を書き終え、ペンを離した瞬間、佐伯の胸は万力で締め付けられるような強烈な圧迫感を覚えた。それは、自分自身の大切な何かを、未知の存在に差し出してしまったときのような、奇妙な喪失感を伴っていた。紙は、書き終えた後も何の変哲もないまま、ただの文房具として机の上に置かれている。超常現象のような光が走るわけでも、予兆の音が鳴り響くわけでもない。佐伯は自嘲気味に、鼻から長く息を吐き出した。「やっぱり、こんなもんか」。自分に言い聞かせるような、力ない独り言が暗い部屋に溶けていった。彼は自分を納得させるように、その紙を机の引き出しの奥へとしまい込み、ペンを元の位置に戻した。

 布団に潜り込み、固く目を閉じる。明日が来るのが、心底怖かった。もし目が覚めて、昨日と何も変わっていない現実がそこにあれば、彼はその絶望を改めて真正面から受け止めなければならない。それは、今よりもさらに深い奈落へ落ちることを意味していた。それでも、肉体と精神の極限に達していた疲労が、恐怖を上回る速さで彼を意識の深層へと引きずり込んでいった。眠りに落ちる直前、意識の混濁した隙間に、あの文房具店を充たしていた古い紙の匂いと、ブルース・スプリングスティーンの低く静かな歌声が、遠い記憶の彼方から重なって聞こえてきたような気がした。それが救済の合図なのか、あるいは終焉の調べなのかを確かめる術は、もはや深い眠りの底へと沈んでいく佐伯には残されていなかった。


 翌朝、枕元に置いたスマートフォンのアラームがその無機質な音を鳴らし始めるよりも数分早く、佐伯は意識の底から弾き出されるようにして目を覚ました。カーテンの隙間から差し込む朝の光は、昨日まで見ていたものと同じはずなのに、その光の粒子のひとつひとつが、まるで新しく塗り替えられたばかりのペンキのように鮮やかで、どこか不自然なほどの光沢を帯びていた。昨夜の出来事――あの路地裏の文房具店、九条という老人の静かな声、そして暗い自室で震える手で書き綴ったあの言葉――それらは、今思い返せば熱に浮かされた際に見る夢だったと言われた方が、よほど納得できるほどに現実味が薄れていた。しかし、寝返りを打った瞬間に肌に触れた部屋の空気は、明らかに昨日までの重苦しさとは一線を画していた。肺を押し潰すようにのしかかっていた、あの形のない絶望という名の重圧が、潮が引くようにして、音もなく自らの背後へと退行しているのを佐伯は直感的に感じ取っていた。

 駅へと続く道は、不気味なほどに穏やかだった。通勤を急ぐ人々の靴音、遠くで響くカラスの鳴き声、信号機が切り替わる電子音。それらすべての日常の構成要素が、昨日までのような「自分を責め立てる騒音」ではなく、ただの背景音として遠くへ追いやられていた。見上げた空はどこまでも高く、薄くたなびく雲の流れは、まるで精緻な風景画の一部であるかのように静止して見えた。世界は何事もなかったかのように、あるいは最初から汚れなど存在しなかったかのように、清々しく新しい朝を迎えている。「問題は解決したのだ」。佐伯は自分を納得させるために、心の中でその言葉を何度も反芻した。「少なくとも、表面的にはすべてが終わった形になっているはずだ」。そう自分に言い聞かせながら、彼は慣れ親しんだ駅の改札へと吸い込まれていった。自動改札機が電子音を立てて彼を通過させたその瞬間、自らの人生が再び正しい軌道に戻ったのだという実感が、微かな安堵と共に胸をよぎった。

 だが、ホームに電車が滑り込んできた瞬間、佐伯の胸の奥が、冷たい指で摘ままれたようにひくりと縮んだ。身体は慣性に従って前方へと動いているのに、心だけが一歩遅れて、取り残されているような感覚。乗り込んだ車内の、人の汗と微かな空気が混じり合った匂い、見知らぬ乗客との不自然に親密な距離、そして窓ガラスに映る、自分の疲弊した顔。そのすべてが必要以上に鮮明な解像度で脳に飛び込んでくる。昨日まで感じていた、あの真っ黒な絶望の淵に立たされるような恐怖とは、明らかに質が違う。それは、精巧に作られた偽物の世界に迷い込んでしまったときのような、薄ら寒い違和感だった。恐怖は消えたのではない。ただ、その形を変え、深層へと潜り込んで息を潜めているだけなのだ。窓の外を流れる見慣れた景色さえもが、今の佐伯には、書き換えられたばかりの不確かな記憶のように思えて仕方がなかった。

 会社に到着し、重い足取りでオフィスへと入った佐伯を待ち受けていたのは、さらなる「不自然な平穏」だった。デスクに荷物を置くか置かないかのうちに目に入った上司の態度は、昨日の凍てつくような峻烈さが幻であったかのように劇的に変化していた。上司は、佐伯と目が合うと、微かな微笑みさえ浮かべて声をかけてきた。「おはよう、佐伯くん。昨日の件だが、先方から連絡があってね。こちらの説明に納得してくれたよ。むしろ、君が誠実に対応してくれたことに感謝しているとさえ言っていた」。その声は羽毛のように柔らかく、簡潔な指示の中には、あの張り詰めた剣呑な空気など影も形もなかった。拍子抜けするほどの変化に、佐伯は、自分でも驚くほどうまく反応することができなかった。喉を鳴らして、辛うじて曖昧な返事を返すのが精一杯だった。安堵の波が押し寄せてくるのを期待していたはずなのに、実際に浮かび上がってきたのは、「なぜ、今さら」という、根源的な疑問と困惑、そして名状しがたい嫌悪感に近い感情だった。

 自分のデスクに腰を下ろしても、心は一向に軽くならなかった。論理的に考えれば、問題は完全に、そして円満に解決したのだ。理由も、原因も、そして責任の所在までもが、見えない大きな手によって整理され、綺麗になっている。それなのに、胸の奥底にいつまでも沈んでいる、この拭い去れない重さは何なのだろうか。自分を苦しめていたはずの「罰」が、何の代償もなしに、ただの言葉ひとつで消え去ってしまったことへの、説明のつかない不気味さ。解決とは、これほどまでに静かで、頼りなく、そして空虚なものだっただろうか。昨日まで佐伯を縛り付けていた鎖は確かに外れたはずなのに、彼は自由になった喜びを感じるどころか、自分が拠って立っていたはずの「現実」というものが、底なしの沼に変わってしまったような錯覚を覚えていた。

 昼休み、喧騒の絶えない社食を避け、非常階段の近くにある窓から外を眺めていた。規則正しく、機械的に走る電車が、高架下を通り過ぎていく。その光景を見つめながら、佐伯はふと思った。――もし、本当にすべてが終わったのだとしたら、この胸を蝕む違和感の正体は何なのだろう。昨夜、あの店でペンを握ったとき、自分は確かに「代償」を差し出したような感覚があった。魔法ではないと、店主は言った。だとすれば、この「解決」と引き換えに、自分は何を失ってしまったのか。あるいは、何を書き換えてしまったのか。窓の外を流れる平和な景色が、まるで破れかけた舞台の書き割りのように、危うく揺れている気がした。自分が立っているこの場所が、果たして昨日までと同じ「世界」なのかさえ、彼はもう自信を持てなくなっていた。

 あまりにも、あまりにも昨日までの世界とは違いすぎていた。オフィスに一歩足を踏み入れた瞬間から感じていたその「違和感」は、時間が経過するごとに、もはや無視できないほど巨大な輪郭を持って佐伯の喉元を締め付けた。拍子抜けするほどに、仕事は滞りなく、滑らかに、まるでよく手入れされた機械の歯車のように進んでいく。昨日のあの絶望的な状況はどこへ消えたのか。昨夜まで自分を睨みつけていた上司の瞳は、今は春の陽だまりのような穏やかさを湛え、同僚たちが放っていた冷ややかな視線の棘も、一晩の間に綺麗に研磨されたかのように消え失せていた。すべてが、まるで最初から何事もなかったかのように完璧に整っている。本来であれば、これこそが佐伯が心から望んでいた平穏な日常の姿であるはずだった。しかし、その「あまりに整いすぎた事実」こそが、今の佐伯には何よりも不気味で、信じがたい怪奇現象のように映っていた。

 まさか、とは思う。理性が、論理が、これまでの人生で培ってきた常識のすべてが、そんなことはあり得ないと激しく否定を繰り返す。だが、昨夜あの世捨て人のような老店主から手渡され、縋るような思いで使い切った「あの文房具」以外に、この不自然な変化を説明できる要因が、この世界のどこを探しても見当たらないのだ。偶然という言葉で片付けるには、あまりにも出来過ぎている。理屈では全力で否定したいのに、目の前に突きつけられた結果だけが、岩のように揺るぎない現実としてそこに居座っている。だからこそ、心の奥底には、決して消えることのない薄気味悪さが、どろりとした泥のように残り続けていた。自分が立っているこの場所は、果たして本当に昨日と同じ場所なのか。あるいは、自分が知らないうちに、何か決定的に取り返しのつかない境界線を越えてしまったのではないか。その答えを求めるため、佐伯の意識は自然と、あの路地裏の灯りへと向かっていた。

 ――今日も、あの店へ行こう。その思いが芽生えたとき、佐伯の身体は既に無意識のうちに帰り支度を始めていた。時計が就業時間を告げると同時に、彼は誰とも目を合わせず、寄り道もせずに駅へと向かった。昨夜歩いた記憶を、一歩一歩なぞるようにして下町の路地へと入り込んでいく。肺に吸い込む空気の冷たさも、アスファルトの亀裂の形も、すべては昨夜と同じはずだった。しかし、彼が記憶している「あの場所」に辿り着いた瞬間、佐伯は心臓を冷たい手で掴まれたような感覚に襲われ、その場に釘付けになった。そこには、店などなかったのだ。

 視線の先にあるのは、ただの寒々しい空き地だった。腰の高さまで伸びきった雑草が、頼りない街灯の光に照らされて幽霊のように風に揺れ、湿った土の匂いと、どこか遠くで鳴き続ける虫の声だけが、鼓膜を不快に震わせる。間違えるはずがなかった。昨夜、確かに彼はこの場所で、あの重厚な木の扉を開き、インクの匂いに包まれ、九条という老人と対話をしたはずなのだ。自分の指先には、あの真鍮のドアノブの冷たさがまだ残っているというのに。胸の奥が、激しい動悸と共にざわつき始める。自分は狂ってしまったのか。あるいは、昨日見たものすべてが、疲労が見せた精巧な白昼夢に過ぎなかったのか。彼は混乱の中で、スマートフォンの画面を何度も点灯させ、時間を確かめた。そして、何かに取り憑かれたように、少し離れた街灯の影で、その場所を見つめながらじっと待ち続けた。昨夜、彼が店を見つけたあの時刻が訪れるのを、一分一秒を数えるようにして待ち続けた。

 やがて、運命の針が昨日と同じ時刻を指し示したそのとき。佐伯が再びその場所へ視線を向けると、そこには、何事もなかったかのようにあの文房具店が佇んでいた。暗闇の中から静かに、当然のような顔をして浮き上がってきたその店構え。錆びついた真鍮の看板。万年筆を模したあの小さなロゴ。現実が、物理的な法則を完全に無視して、音もなく静かに書き換えられたような感覚に、佐伯は激しい目まいに襲われた。この店は、一体何なんだ。単なる店という枠組みを逸脱した、この異質な空間の正体を知りたいという衝動が、恐怖を上回り、彼の足を前へと動かした。

 重い扉を押し開くと、昨夜と寸分違わぬインクと紙の匂いが、呼吸を整えるように彼を迎え入れた。古いラジカセから流れるブルース・スプリングスティーンの、砂混じりの静かな歌声も、昨夜と全く同じフレーズを奏でている。店主――九条は、カウンターの奥で万年筆を磨く手を休めることなく、まるで佐伯が今夜ここへ戻ってくることを最初から確信していたかのように、静かに、そして穏やかに頷いた。その微かな微笑みが、佐伯には救いのようでもあり、底なしの沼への招待状のようにも見えた。

 佐伯は、今日一日の間に自分の身に起きた不可解な出来事のすべてを、堰を切ったように話し始めた。会社での気味が悪いほどの平穏、上司や同僚たちの不自然な変貌、そして、つい先ほど目の当たりにした「店が消えていた」という怪奇現象。九条は一切の口を挟むことなく、ただ白い絹の手袋をはめた手でカウンターをなぞりながら、聖者のような静謐さでその言葉に耳を傾けていた。その姿は、混乱の極致にいる佐伯に奇妙な安心感を与える一方で、現実の理屈では到底説明のつかない「異界の住人」としての威厳を色濃く漂わせていた。すべてを話し終え、荒い呼吸を整えたあと、佐伯は堪えきれず、自らの魂の底から湧き上がる問いを九条に叩きつけた。

 なぜ、この店は夜にしかその姿を現さないのか。なぜ、人生に行き詰まり、道を見失った人間だけが、この「場所」に辿り着くことができるのか。そして――この店が客に差し出すものは、本当に「救い」と呼べるものなのか。あるいは、もっと別の、恐ろしい代償を伴うものなのではないか。九条はすぐには答えなかった。彼はただ、意味深な含みを持たせた笑みを浮かべ、カウンターの上に置かれた一本の、重厚な装飾が施された万年筆にそっと指を置いた。その沈黙は、どんな言葉を並てるよりも雄弁に、そして残酷に物語の深淵を物語っていた。ペン先に宿るインクは、誰かの人生を書き換えるための血液なのか、それとも、失われた時間を埋めるための偽りの記憶なのか。

 夜明け前の、青白い静寂に包まれた文房具店の中で、佐伯は気づき始めていた。ここは、傷ついた人々を癒やすための温かな救いの場所などではないのかもしれない。ここは、現実の重みに耐えかね、自らの手で人生を正しく進めることを放棄した者たちが、最後に行き着く「墓場」のような場所ではないのか。あるいは、一度書き込んでしまったら最後、二度と元の人生には戻れない「物語の牢獄」なのか。その答えは、まだ語られない。ただ、カウンター越しに見つめる九条の瞳の中に、佐伯は自分自身の姿が、一滴のインクのように取り込まれていくのを感じていた。物語は、まだ始まったばかりだ。昨日までの彼が知っていた世界は、今夜、決定的に崩壊したのだ。次の夜、その先に待ち受けているのは、さらなる救済か、それとも救いようのない絶望の完成か。佐伯の指先は、まだ見ぬ次の「文房具」を求めて、無意識のうちに震えていた。


書きながら、少し怖くなりました。

「救い」は本当に救いなのか。

便利なものほど、代償は見えにくい。

佐伯はどこへ向かっているのか。

それを決めるのは、もしかしたら彼ではないのかもしれません。

次話も、夜明け前に。


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