16 魔族シルバ軍とゼンディス 前編
最前線の南側、帝国と魔族の領土がぶつかり合う境界線。そこでは今、息つく暇もないほど激しい戦いが繰り広げられていた。
魔族側の第一軍団長、シルバが率いるワーウルフ隊は、かつてない苦戦を強いられていた
ワーウルフたちは灰色の毛並みに鋭い爪と牙を持ち、人間の大男をはるかに上回る体格を誇っている。それほどの巨体でありながら、その動きは驚くほど俊敏だ。
しかし、彼らが真の力を発揮するのは、本来なら月が昇る夜のこと。
夜になれば身体能力は跳ね上がり、傷を癒やす再生能力も格段に高まる。だが、人間側もそのことは百も承知だった。
人間たちは、月明かりの届かない深い森の中へとワーウルフたちを巧みに誘い込んだ。
あるいは、夜の間は徹底して守りに徹し、まともに戦おうとはしない。ワーウルフが得意とする夜の強襲をさせない戦い方を、徹底して守っていたのだ。
さらにシルバを苦戦させていた原因が、もう一つあった。
「ちっ! やつら、ついに毒まで使いやがったか。これが人間のやることかよ!」
シルバは地面に唾を吐き捨て、周囲でうめき声を上げる部下たちに鋭い視線を向けた。本来ならすぐに塞がるはずの傷口が、どす黒く変色して血が止まらない。
「いいか、奴らの武器には絶対に触れるな! 避けるか、どうしても無理なら爪で受けろ。あの毒はこちらの回復力を上回る。一撃でももらえば終わりだと思え、わかったな!」
吠えるように指示を飛ばしながらも、シルバは冷静に敵の陣形を睨みつけた。
(あの指揮官さえ潰せば、あとはただの集まりだ。だが、あそこまで駆け抜ける道がない……)
敵の陣容は隙がなかった。前方は分厚い盾を構えた重装歩兵と騎士たちが壁を作り、中衛には弓兵と機動力の高い騎兵が控えている。
今のワーウルフ部隊の力押しでは、この堅い守りに穴を開けることすら難しい。
このまま戦いを続けても、ジリ貧になるのは目に見えていた。
膠着状態といえば聞こえはいいが、実際はこちらの分が悪い。
時間が経てば経つほど、毒と消耗で負ける可能性が高くなっていく。シルバは奥歯を噛み締め、じりじりと後退する戦線を支えるのだった。
シルバが厳しい表情で次の策を練っていた、その時だった。
「ふぉっふぉっふぉっ……。だいぶ苦戦しておるようじゃな、シルバ?」
ワーウルフ隊の後方から、ふわりと影が降り立った。
銀髪のメイド、シトリンを静かに従えて現れたのは、どくろの仮面を浮かべ、中身のない黒いローブをまとった異形だった。
「じじい!?」
地面から数センチ浮き上がり、空中をゆらゆらと漂うその姿は、間違いなく第三軍団長のゼンディスだった。
「なぜここまで来た。誰かに命令されたわけでもないだろう?」
シルバはじじいと呼ぶこの老骨を怪訝そうに見つめ、問いかけた。
「なーに。城での研究も少し飽きてきてのう。ちょっとした実験も兼ねての、まあ、ただの暇つぶしじゃよ」
ゼンディスはとぼけた調子で答えた。だが、その仮面の奥では別のことを考えていた。
(それに、儂の故郷を奪ったあの因縁の貴族どもは、どうやら今回は出ておらんようじゃな……)
「シルバよ、ワーウルフたちを下がらせるのじゃ。これからは儂が攻撃を行う」
ゼンディスはそう告げると、ゆっくりと敵陣の方へと向き直った。実体のないその体が、強大な魔力でぶわりと膨れ上がったような気がした。
「おい、じじい。突破口を開くのは任せるが、あとは俺たちがやる。年寄りと女は引っ込んでいろ」
シルバは不敵に笑うと、仲間のワーウルフたちに左右へ散開するよう鋭く合図を送った。
「女」と呼ばれたシトリンは、感情の読めない琥珀色の瞳でシルバを一瞥し、冷ややかに口を開いた。
「……あんな犬っころに、果たして後始末が務まりますかね?」
「何だと? 俺をただの犬と一緒にすんな。俺たちは誇り高き人狼族だ」
シルバが牙を剥いて言い返すが、シトリンは鼻で笑うだけで相手にもしない。最前線の緊張感の中で、二人?の間にはどこか噛み合わない空気が流れていた。
「ふむ、いい頃合いじゃのう」
ゼンディスが低くつぶやいた。
その瞬間、宙に浮いたどくろの仮面の瞳部分が、不気味な紅い光を放つ。仮面の前の空間が、まるで熱で焼かれたようにぐにゃりと歪んだ。
直後、真っ白な一閃が放たれた。
音もなく放たれた一筋の光が通り過ぎた瞬間、目の前にいた人間も、立ち並んでいた巨木も、すべての障害物が最初からそこになかったかのように消えてなくなった。燃え尽きたのではない。ただ、文字通り消滅したのだ。
光が収まったあとには、もう何もない。
前方の視界は不気味なほどに開け、地面までもが深くえぐり取られた、異様な地形が真っ直ぐに伸びているだけだった。
運良く光の範囲から外れていた兵士たちは、何が起きたのか理解できず、顔を真っ青にしてその場にただずんでいた。
「よし、野郎ども行くぜ! 指揮官までの道は開いた。ワーウルフの本当の力を見せてやるぞ!!」
シルバが鋭い爪を前方へ突き出し、力強く叫んだ。それに応えるように、背後の部下たちが一斉に喉を震わせる。
「ウォォォォン!!」
地を這うような重厚な雄叫びが、戦場一帯に響き渡った。シルバを先頭に、人狼の群れは風を切り、ゼンディスがこじ開けた「無」の道を一気に駆け抜ける。
その背中を見送りながら、ゼンディスはふわりと空中で座り込むような仕草を見せた。
「さて、ここで少し休ませてもらうかのう。いやはや、今のを放つのは年寄りには骨が折れるわい……」
「……あの犬っころたちが、途中で息切れせずにどこまでやれるか。せいぜい特等席で見物させていただくとしましょう」
隣に控えるシトリンは、乱れたメイド服の裾をそっと整えながら、冷ややかな視線を戦場の奥へと向けた。
シルバたちワーウルフの群れが去り、辺りに不気味な静寂が戻った、その時だった。
シュッ、と鋭い音を立てて、一本の矢がゼンディスのどくろの仮面めがけて飛んできた。……だが、その矢が仮面を貫くことはなかった。
横に控えていたシトリンが、まるで飛んできた羽虫でも払うかのように、その矢をひょいと素手でつかみ取ったのだ。彼女はそのまま無造作に、矢をパキリとへし折って地面に捨てた。
「やれやれ……。年寄りをいきなり暗殺しようとは、最近の若者は礼儀というものを知らんのかのう。なあ、シトリン?」
「ええ、そうですね。ゼンディス様」
ゼンディスが矢の放たれた方へゆっくりと視線を向けると、そこには矢筒を背負った弓兵の男がいた。暗殺に失敗したことを悟り、顔を青くして必死に逃げようとしている。
「挨拶もせずに帰るとは、本当に無礼な奴じゃのう、シトリン?」
「ええ、本当にそうですね。ゼンディス様」
短く答えた直後、シトリンの姿がかき消えた。
逃げていた男が背後に気配を感じて振り返る間もなく、彼女は再び姿を現す。そして、逃げる男の頭部を、細い指先でわしづかみにした。
「……っ!!」
どこにそんな力があるのか、シトリンの指が男の頭を万力のように締め付ける。男は激痛のあまり、声にならない悲鳴を上げてその場に崩れ落ちた。
シトリンが無造作に手を放すと、弓兵の男は頭を押さえて地面にうずくまり、ガタガタと震え始めた。ゼンディスはふわりと空中に浮いたまま、その男の目の前まで移動する。
「さて、儂はゼンディス。見ての通り、しがない老人じゃ。……なあに、聞きたいことは簡単じゃよ。お主の知っていることを、すべて話してもらうだけでいいのじゃからな」
ゼンディスのどくろの仮面。その空洞の瞳の奥で、紅い光が怪しく、そして残酷に灯った。




