違和感
「本当に肩、貸さなくて大丈夫?」
私は半歩ほど後ろをひょこひょこと左足を引きずりながらついてくる彼を振り返った。先程出発するときは、慎重に立ち上がってから痛みを堪えるような素振りを見せていたが、今は平然とした様子で足取りもしっかりしている。
「ご心配には及びません。お気遣い有難うございます」
当の本人もこうしてほんの少しも苦痛を訴えないものだから、かえって不安になる。
「それなら良いんだけど…」
ふと、彼が首を横に捻ったまま立ち止まった。何を見ているのだろうと私もひょいとそちらを見るが、その先にあるのは草原ばかりだ。不思議に思って彼の顔を見上げると、丁度こちらを向いた目と目が合う。くすっと笑ってから彼は見ていた方向をついと指差した。
「髪留めを昨日落として失くしてしまったのですが、あちらにそれらしき物を見つけたので取って参ってもよろしいでしょうか?」
私にはよく見えないけど、彼は目が良いのだろう。
「ええ。急いでいる訳じゃないから気にしないで」
そう言って彼について歩き始めたが、見つけたかろ拾うにしては距離がある。そろそろ一町になるかという頃になってやっと彼がしゃがみこんだ。そうして手にしていたのは手のひらに収まるか収まらないかくらいの大きさの竹が加工された物だった。私はもと来た方向を振り返る。この大きさがあんなに遠くから見えるものなのか。やっぱりこの人はよくわからない。
少し息をついて首の向きを戻すと、彼は慣れないような手つきで髪を束ね終えるところだった。彼が不器用なのか髪留めが使いにくい物なのか、緩くしかまとめられなかった髪は横から少しずつ落ちてくる。あんなにしっかりしている彼なのに、こういうちょっとしたところでは上手くいっていないのがなんだかおかしくて頬が弛んだ。
気付いた彼が首を傾げる。慌てて顔を戻してから、ふと彼が顔の左側に不自然に髪を残しているのが目に留まる。そういえば髪を結う前からも左側には髪がかかっていた。何か事情があるのかな。私が左側をじっと見ていたからか、彼はふいと顔の向きを変えた。
「お付き合いくださって有難うございました。参りましょうか」
そして右側がよく見えるような角度で、何もなかったかのように微笑んだ。これでは私は今から踏み込む訳にはいかない。大したことでもないので素直に彼に続いて元来た道を戻る。
この人は多分私より歳上だなと思った。何気なく目をやった草原では、奥のほうまで所々赤黒い塊が見える。昨日私が来るまでにも、きっと彼は酷い仕打ちを受けていたのだろう。そんなことがあった後で、どうしてこう綺麗に微笑んで平静でいられるのか。昨日見た光景が頭の中で甦り、ふと思い出して彼を見上げる。
「そういえば、昨日あなた、目を切ったでしょ。大丈夫なの?あまり動かさないほうが良いって聞くけど」
言われた彼は顔の前に垂らした髪ごしに手を目のあたりにやった。
「そうですね…。痛みますが、特に問題はございません。あまり深く切ってはいないので、おそらく直に治るでしょう」
「それなら良いけど…」
なんだか彼の言い種は自分の傷を軽く見過ぎているような気がする。そもそも自分の目を自ら切ろうとする時点で私には考えられない話だけど。
「確かあのとき青い目がどうとか言われてたけど、何がどうしてそうなったの?」
彼は少し思い出すような素振りを見せる。
「実を申しますとあのようなことを言われるのは初めてで…。私も驚きました。青い瞳をもつ人間などいないでしょうに」
そして困ったように笑った。他にもぽつぽつと会話をしながら屋敷や源山がある方へと進む。屋敷とあの池のある林はあまり近くはない。今朝も朝日がまだ黄色いうちに家を出たのに、林に着いた頃には、すっかり白くなった太陽が随分と見上げた位置にいた。往復すれば朝が昼になってしまう距離だ。
怪我人にそこまで歩かせるのもどうかと思うのだが、当の本人はきょろきょろと植物や虫、たまにある祠などを見ては初めて見たかのように目を大きくしていて、苦痛のような色はまるで見せない。
やがて村が見え始めた頃になってやっと一度休憩にした。近くに川や池はあるのかと彼が訊いたので、もはや流れるほどの水もなく点在する水溜まりのようになった川に立ち寄ったのだ。私が手近な岩に腰掛けると、彼は比較的深い水溜まりに足首まで沈めてその側の岩に同じように腰掛けた。それから目に見えて酷い傷の周りを息を吐きながらゆっくりと擦っている。その顔はやはり辛そうではなかったが、意識的に落ち着けているかのようだった。
「やっぱり、痛むの?」
言うと彼は瞬きを一つしてこちらに目をやる。
「ええ、まぁ」
そう言う顔にはやはり笑顔があったけど、少し疲れているふうだった。当然だ、こんなに歩いたのだから。まだもう少し歩くが大丈夫だろうか。私の考えはそんなに顔に出ていたのか、此方を見ていた彼がふっと笑った。
「貴方はお優しい方ですね。そうご心配なさらなくても大丈夫ですよ。実は私、何かと怪我の多いほうで、この程度は慣れたものです」
「そんなわけ…」
つい反論しようとしたが、彼は笑ってはいても冗談を言っているようではなくてやめてしまった。
「あまりゆっくりしていては遅くなってしまいますね」
彼がよいしょと立ち上がる。そうして大きく動く度に、彼の破れた着物から痛々しい傷が覗く。なんだか複雑な気持ちだった私は、言葉を返す代わりに立ち上がって軽く裾をはたいた。
「そういえば…」
ふと私は思い出して、羽織っていた紺の大ぶりの衣を脱いで彼に差し出した。
「これ、着てて。その格好じゃ目立つし、薄手で寒いでしょ」
対する彼は困惑した様子だ。
「いえ、そんな。私はこれで十分ですので…」
軽く制するように前に出された白っぽい手に、昨日大丈夫だと言って転びそうになった彼を思い出す。遠慮する彼に構わず私は後ろに回ると、背伸びして手に持った衣を彼の肩からかけた。
「あなたの為に持って来たんだから、あなたが断っても荷物になるだけなの」
意外にも返答はなかなか来なくて、悪いことをしたかと不安になる。気にしていないふうを装って歩き始め、横を通り過ぎるときにちらっと様子を窺う。しかし、何も気にせず彼の左側を通ったせいで、彼の表情は髪がすっかり隠してしまっていた。もやもやしながら歩き始める。
「あの」
呼び止めた彼の声はどこか強ばっていて、緊張しているかのようだった。彼は左手できゅっと紺の襟を掴む。
「これ、ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます」
力の入った様子で言い終わると深く丁寧に頭を下げた。衣一枚借りるのに、どうしてそんな大きな決断をしたかのようになっているんだろう。それを見て私は思わず声を出して笑ってしまった。それからきちんと振り返って笑顔で言う。
「どういたしまして。もう、衣くらいで大げさな人」
私に笑われるのが予想外だったのだろう、なんだか気の抜けた顔をしている。
「大げさ…ですか?」
「とってもね」
村に入ると彼はみんなの注目の的だった。彼はすらっと背が高く艶のある長い黒髪で、人の目を引くのも仕方ないのだろう。昼餉の時間で人は少ないものの、すれ違う人も遠くから見かけた人も声をかけてくる。おかげで進むのが随分と遅くなってしまった。
「ごめんなさい、疲れたでしょう?」
屋敷が近くなって人気がなくなった頃に言う。
「そんな、謝らないでください。こんなにたくさんの人とお話ししたのは初めてで楽しかったです」
相変わらず彼は綺麗に微笑んだ。やがて源山の麓に来た。源山と屋敷のある丘は隣合っていて、間を少し大きめの川が流れる。今は川と呼べる状態ではないので、その乾いた川底に並んで立つ。
「源山はここだけど…。本当にその足で行くの?」
彼は紺の衣を脱いで姿勢を正すと真っ直ぐに此方を向いた。
「はい。ここまで本当にお世話になりました」
そうして深くお辞儀をする。
「そんな、良いの…」
あれ、どうやって父上に言われたことを言い出せば良いんだろう。流れるように礼を言って返された衣はもう私の腕の中にある。
「この恩は、いつか必ず。では、失礼致します」
花のように微笑む彼に私は上手く声をかけられない。
待って。まだ言えてないのに。
そうして何も言わない私に彼はもう一度深く礼をすると背中を向けた。口を開けて息を吸うところまでは簡単なのに、その先が言い出せないのだ。うちに泊まれば良いなんて言おうとすれば心臓が大げさに動いて邪魔をする。
結局私は山の茂みに消えていく彼を見送ってしまった。