麗月
『花待つ月』そう書かれた看板の隣の扉をゆっくりと押し開ける。カランカランと音がした。
「いらっしゃいませ」
一房だけ鮮やかな青が混じった黒の長髪を高い位置で一つに束ね、清潔感のある白いシャツと黒のベストを身に纏った背の高い男性が丁寧にお辞儀をした。
「こんばんは」
私も軽く頭を下げる。微笑をたたえた彼の瞳は、右目は普通だけどその左目は吸い込まれそうに青かった。それに女性にも見えそうな綺麗な顔。
「李里ちゃん、久し振りじゃない。元気してた?」
カウンターの手前で手をひらひらさせる女性に笑って答える。
「はい、仕事が忙しくて」
彼女はこのバーの常連さんで、同じく常連になりつつある私とはわざわざ待ち合わせをして会うことこそ無いものの、ここで会えばなんでもよく話す仲だった。
「本の編集のお仕事は大変ね」
「司書さんだって大変だと思いますけどねぇ」
「私が勤めてるのなんてほんとちっちゃい図書館だから」
そう言って笑うお姉さんの職業は司書さん。それで私が本の編集社に勤めているから、なんだか縁のようのものを感じている。
「あぁ、そういえば」
オーナーの麗月さんは、私にグラスを出してから、ふと思い出したようにお客さんを見渡した。
「おそらく、すぐではありませんが近いうちに、この店を閉じることになりました」
え!?私はもう少しで手に取ったグラスを落とすところだった。
「「は!?」」
そう大声を出したのはいつも奥のほうで飲んでいるサラリーマン達。
「いつ開いてるのか分かんなかった店が今度はついにいつ無くなるか分かんない店かよぉ…」
「俺らの憩いの場が…」
お姉さんも片手にしていたグラスを置いて麗月さんを目をいっぱいに開いて見ている。
「麗月それは、どうして?経済的な理由で?」
麗月さんは答えにくそうにした。
「いえ、強いて言うなら、歳…ですかね」
その言葉に、賑やかさが戻った。
「そんな若くて何言ってんだか。嫌味かぁ?」
「いや、でもこの店主、俺が初めて来たときから1ミリも変わってないからなぁ」
等々。麗月さんは笑っていたけど、私は、何か病気でも見つかったのかと心配になった。
「もし私が突然いなくなれば、ここの物は皆さんで好きに持ち帰っていただいて結構ですので。事前に分かればご報告致しますね」
麗月さんが最後にそう結ぶと、その話題は終わった。
彼が言った通り、すぐに閉まることはなかった。そして私たちがその話題を忘れた頃、メールの着信音がひとつ鳴った。
あの麗月さんのお店『花待つ月』は不定期で営業している。そのため常連さんでメアドを交換して、確認した人がその日の営業の有無を知らせているのだった。最近は閉まっている日が続いていた。
やっぱり体どこか悪かったのかな。
そう思っている中で、常連さんの一人から届いたメールだった。
"麗月、もう店辞めたかも"
詳細は無かった。
時計を確認する。定時は…過ぎてる。今日の自分のノルマは終わっている。
「すみません!今日先上がらせて頂きます!」
素早く荷物をまとめて頭を下げると会社を飛び出した。何があったのか知りたかったし、何より本当にもうやらなくなってしまったのなら自分の目で確認したかった。バス停から小走りで店の前まで来て、足を止める。
「あれ、灯り付いてる…」
店からはいつも通り橙の光がぼうっと漏れていて、不思議に思いながら戸に手を掛けた。開けようとして違和感を感じる。灯りが付いているのに音がしないからだ。
そっと戸を開けた。
いつものカランカランという音が静かな店内に響いた。
「…鍵、開いてたんですか?」
「あぁ」
メールを送ったサラリーマンが、カウンター席に、コンビニで買ったらしいビールを片手に座っていた。
「それ見てみ」
サラリーマンが指したのはカウンターの上に置かれている一枚の小さな紙だった。近付いてそれを手に取る。
"有難うございました。
花待つ月 麗月 "
それだけのシンプルなものだった。紙を持ったまま普段と同じ辺りに座って頬杖を付く。麗月さん、どうしちゃったんだろう。
何気なく紙を裏返して首を傾げる。紙の裏側の右下に文字が書かれていた。
"青海 空月"
「その字、何だろうね」
言われてじっと見つめる。
「…麗月さんの、本名…でしょうか?」
あおみ…何だろ…?
彼の字を指でなぞりながら考える。
「やっぱそうなんかね。それさ、下の名前?のほう、訓読みしたら「そらつき」だろ?もしそれが名前なら「麗月」ってそこから来てんだろなぁと」
「わ!ほんとだ!」
見て思わず大きくなってしまった声に恥ずかしくなって、少し小さくなる。サラリーマンは笑って、レジ袋から缶コーヒーのようなものを取り出して私の側に置いた。
「珍しいだろ。コンビニで売ってたから君のこと思い出して買っちゃったんだよ」
「ありがとうございます。…え、これカルアミルクじゃないですか。こんなのコンビニで売ってるんですね」
「な、凄いよな」
少し空気が柔らかくなって、二人で麗月さんのことやこの店のことなど、思い出して話していた。そうしているうちにだんだん常連さんが集まって来て、オーナー不在のいつものお店のようになった。
そして皆で店を出るとき、麗月さんの置いた紙の横にもう一枚、メモ用紙を置いて来た。お姉さんが私たちを代表して書いた。
"ありがとう。麗月。
『花待つ月』常連一同"
そして私たちは麗月さんの言っていた通り、店に残された小物やお酒をそれぞれ少しずつ持ち帰った。
それから半年くらいが経っただろうか。何の予定も無い休日があって、ふと私はその店を訪ねた。その後どうなっているのかが気になっていたからだ。
まだ空き家の貼り紙も無くて、まるであの時のまま時が止まっているかのようだった。
「あれ?」
窓から見えるカウンターには依然として紙があったが、それは一枚だけだった。誰かが一枚持って行った?
ダメ元で戸に力を入れる。
ギィ…。
開いてる!
おそるおそる開けて中に入った。無くなっているのは私たちの書いたほうで、代わりに鍵が置かれていた。
「麗月さん…?」
あの後も、来てたのかな…。
店内を見渡すと、カウンター内に見慣れない物があった。見ると鉛筆と原稿用紙の束が置かれていて、そこには文字がびっしりと並んでいた。
すぐに近くに倒れていた椅子を起こしてそれを読んだ。初めて見る、おそらく麗月さんの文章。
プロと比べれば拙いけれど、本当に体験したかのように繊細な感情までがそこにはあった。登場人物の感情によって麗月さんの文字は形が変わる。酷く静かな文字、どこか暖かい文字、優しい文字…。
直筆で書かれたそれはだんだん筆圧が弱くなっていくのが分かった。また少し強くなっては弱くなっていくを繰り返す。きっと、何日もかけて書いたんだ。最後のほうの紙にはHBだとは思えない薄い文字が並び、時々端に握ったような折り目があったり、鉛筆の線が滲んでいたりした。
弱っていく麗月さんを見ながらその中の物語を見続けた。ひとりでに溢れ出る涙をそのままに、全て読み終えたときには夕方になっていた。昼前に此処に来たのにお腹が減るのも感じなかった。
そのまま暫く机に突っ伏していた。
「麗月さん…」
タイトルのようなものは、一番最後に大きく書かれていた。
『月に咲く花』
それは紛れもなく、一人の、人間ではない男「青海 空月」の生きた物語だった。




