別れ
皆もう闇に目が慣れていて、暗いはずの廊下を居間へと迷いなく歩いた。こういうのはなんだか不思議な感じがする。居間に入るとすぐに温かい湯飲みがいくつか運ばれて来た。
「お白湯です。飲みやすい温度に冷めていますので冷えたお身体を温めて下さい」
お礼を言って受け取り、ゆっくりと飲む。温かい白湯がすっと体に染み込んでいくようだ。すする程熱くなかったのですぐに飲み終わってしまった。皆が飲み終わったのを確認してか、凛が腰を浮かしながら言う。
「色々とお訊きしたいことはありますが、今から話し始めると日が昇ってしまいそうですね」
「そうだな。明日たくさん話すとして、今はとりあえず早く寝たほうが良い」
父の言葉を聞いて、皆が動き出す。
「そうだ。空月はその前に私と来なさい」
良かった、父上はちゃんと空月が怪我してるの気付いてくれてたんだ。空月からは言いそうにないので私から言おうかと迷っていたのだ。
「わかりました」
その声に思わず動きを止めて空月を見た。気のせいかも知れないけど、その一言が彼らしくもなくとても淡々として聞こえた気がしたから。
何か悩んでる…?
「あの」
皆が立ち上がった中、一人だけ座ったままだった空月が口を開いた。視線が彼に集まる。
「明日、此処を去ちます」
これには誰もが動きを止めた。数秒の沈黙があった。
「それはまた…、突然ですね」
誰かが言うのが聞こえた。そうだ、一月一緒に暮らしていつの間にか彼のいる日常に慣れてしまっていたけど、彼は帰らないといけなくて、ずっとは一緒にいられないんだ。
「明日、話さないといけないことが増えましたね」
杏がそう言ったことで、解散の流れが戻って来る。皆ぽつぽつと言葉を返しながら居間を出て行く。雪が立ち止まった。
「朝食は、七人分用意しますから」
名を呼び掛けることはなかったが、それは明らかに空月に向けたものだった。
「…有難うございます」
少しほっとした空気が流れた。それはつまり、明日すぐに居なくなる訳じゃないことが保証されたも同然だったから。起きたら彼の姿がどこにもなくて不安になるなんて皆もう嫌なんだろう。
「おやすみなさい」
「失礼致します」
言われた通りついてきた空月を座らせて、新たに灯した灯りを頼りに手早く道具を集めると自分もその前に座る。
「袖、捲っておいてくれるか」
「はい。何度も申し訳ございません…。この衣も貸して頂いていたのに」
「気にするな。空月は一度も悪くなかった。それに、衣なんてどうにでもなる」
そう言ってはみせたが、彼はまだどこかで自分を責めているように見えた。
「何より空月は白百合を救ってくれたじゃないか」
加えて言うと彼は少し罰の悪そうな様子を見せた。
「それはそうですが、最初に彼らの怒りを買ってきっかけを作ってしまったのは私です。……元凶は、同情も感謝も受けるものではございません」
思わず彼の顔を見た。一体どんな環境を辿ればこんなことを当然のように言うようになってしまうのだろう。私が何か言うより早く、彼は腕にやっていた目を上げて、静かだった声を少し明るくして言う。
「元より、先に私を彼女が救って下さったのです。ただ乱すだけで去ることになってしまいましたね…」
申し訳なさそうに微笑む彼に悲しくなる。
「良いんだよ。君と過ごして私たちは楽しかったし、今だってこの日常が幸せなんだ」
「…甘いですね」
「そう思うかい?」
「ええ」
その受け答えは淡々としていたが、そう言った彼の表情は柔らかかった。
「どうして急に帰るなんて?」
「想定外ではございましたが、今日あの程度動けるのなら帰る分には差し障りないかと」
「随分と慌てるじゃないか」
「最初に申し上げた期間はとうに過ぎています。これ以上ご迷惑になる訳には参りません」
「寂しいことを言う。病み上がりでこんなに雨を浴びたんだ。身体だって冷えている。またぶり返したりしたら大変だぞ」
「これでも身体は丈夫なほうです。それに私の身体はおそらく元々冷たいほうですよ。ご心配痛みいります」
隙のない返事にふっと笑みと溜め息が溢れる。
「止めても無駄かな」
「…主が、待っておいです」
そう言って彼は優しい微笑みを見せると、包帯の巻かれた腕を袖にしまい扉の前に座った。
「有難うございました」
心なしかゆっくりと紡がれたその言葉には、今回の手当てだけに向けているとは思えないものがあった。
丁寧に礼をして出て行く彼におやすみと声をかけて自分も夜着に着替える。時々彼の年齢がわからなくなる。見た目だけで考えれば白百合とそう変わらないはずなのだ。違っても一つか二つ上なくらいだろう。だがその表情や言動には私よりずっと長く生きてきたのではないかと思わせるものが見え隠れする。それも、あの子が人間ではないからなのだろうか。そんな不思議な付き合いももう終わりだ。随分と短い一月だった。
剣で出来たまめを指でなぞりながら、少し笑う。いつぶりだろう、客人との別れを惜しんでしまうのは。だがそれほど、彼は私達に影響を与えたのだと思う。
「君も見ていたかい?白百合が見たこともない表情をしていたよ」
思えば昔逢った人魚の彼女のことがきっかけで君と仲良くなって、産まれた白百合がもうその頃の私たちくらいの歳になって、空月が来た。その彼はあの人魚を良く知る存在で…。縁というのは面白いものだ。あの子は、白百合は寂しがるだろうなぁ。
そっと戸を閉めて義父上の部屋に背を向けると、足音を立てずに暗い廊下をゆっくりと寝床へ向かう。少しずつ長く息を吐いた。自分の態度は自然だっただろうか。何も勘付かれてはいないだろうか。
此所を立つ理由を、包み隠さず言うことは出来なかった。嘘は一つもついていないが、『これ以上此所にいるのが怖くなったから』なんて言えるはずもなかった。




