紅知づけ
肩で息をして立っていた。男を解放するときに一旦地面に突き刺した男の刀は、必死で逃げて行った男についに置いて行かれてしまった。いつの間にか元に戻って転がっていた傘を手に取ると、傘を支えに立ち上がる。
体が重い。足首もじんじんと痛むし、右腕も斬られたのは肘の少し下くらいまでだけなのだが止めどなく血が滴り落ちている。一つ息を吐いて白百合のほうへ歩を進めた。
「白百合、参るのが遅くなって申し訳御座いませんでした。御無事でいらっしゃいましたか」
彼女が池のすぐ側にいたので、自分も近くに腰を下ろして足を水に浸す。
「大…丈夫」
その声が震えていて驚いた。
俯いていて顔が見えなかったので気が付かなかったのだ。顎をつたってぽろぽろと零れる涙に焦って腰を上げる。
「白百合!やはりあの男に何か…」
白百合は俯いたまま首を横に振った。
「違うの。恐かったけど、今はほんとに平気。…なのに今更、涙が出て来ちゃって…」
彼女に安心して欲しくて、血で汚れていないほうの左手を、彼女の頭に伸ばした。そして、そっと撫でる。
「そういうの…余計泣いちゃうから…!」
そう言いつつ拒絶は示さない様子を見て微笑むと、少しの間そうしていた。池に背を向けて座った態勢だった彼女は、やがて落ち着いてきた涙を拭いながら私と方向を合わせて座った。
「空月も平気?病み上がりだったのに…」
「はい。雨に当たったら大分調子が戻りました」
「雨ってそんなに凄いの?」
そう言って少し笑った彼女に安心したとき、ふと目線を下にやったのだろう、焦ったような声を出された。
「え、怪我してるじゃない!大丈夫?ごめんなさい私のせいで……」
少し身を乗り出してじっと此方を見る白百合の目からまた涙が一粒流れ落ちる。涙に濡れた彼女の姿を、いつの間にか覗いた月が照らした。
あぁ、綺麗だ…。
そう思ったとき、何かつっかえていた物が取れたような、そんな感覚がした。その美しさは、私の理性を奪い、欲望に似た何かを与えた。
彼女を、白百合を、欲しいと思ってしまった。
無意識に彼女の頭に手を伸ばし、引き寄せる。
はっと息を吸い込む音が聞こえた。
「空…月?」
震える声で呼びかける。動揺してしまって普通に話せない。どうやら全く想像していなかった出来事が起きたとき、頭は正常に働かないらしい。頬には彼の唇の感触がまだ残っている。
「……すみません」
少し離れて俯いた彼が珍しく覇気のない声で言う。無理してでも弱々しい声は出さない彼なのに。数十秒の沈黙の後、彼がはっとしたように、先の戦いで乱れた衣を整え、大きく深呼吸をした。そして、真っ直ぐにこちらを向き直り手を地面に着くと丁寧に頭を下げる。
「先程は勝手な事、本当に申し訳御座いませんでした。嫌ならばどうぞお忘れください」
彼の言葉はさっきとは違ってしっかりしていた。あんなことがあったのにどうしてそんなに平静でいられるのだろう。
「もうじき父上がいらっしゃいます。きっと心配しておられるでしょう。さぁ」
でも、そう言って私の涙を拭う彼の頬は火照って見えて、いつも垂らしている左側の髪も耳に掛けていた。なんだ、動揺してたんだ。くすっと笑った私を不思議そうに見つめる両目が少しくすぐったい。いつもは片目しか見えないから……あれ?
隠しているのかと思っていた顔の左側。何の変哲もなく綺麗で、隠してしまうのが勿体無いと思いかけたときだった。
月灯りのせいか、彼の左の黒目が青く見えた気がした。そんなはずないと思ってもう一度きちんと見ようとすると、じっと見る私に気付いたようで、いつものように左側を隠してしまった。彼にそのことを訊くか迷っていると、後ろの草がガサガサと音を立てた。振り向くと彼の言っていた通り心配して来た父が灯りを持って立っていた。
「こんな所にいたのか。もう本当に心配したんだからな。白百合は勝手にいなくなるし、私らもあちこち探していたんだが空月も行き先も言わんと走って行ったきり戻って来ないし…」
父は呆れたように、でもほっとしたような優しい笑顔だった。
「ごめんなさい」
「失礼致しました。一秒でも遅れると間に合わなくなるような気が致しまして…」
私も立ち上がって皆で林から出た。
「それで、二人が遅かったのはこの物騒な物が関係あるのか?」
そう言って父が指したのは、地面に転がったままのあの男の刀だった。それにはさっき空月を斬ったときに付いたのであろう乾ききっていない血まで付いていて、確かに怪しいことこの上ない。
どこまで言うか少し考える。あの人たちのことは父には言わないと、一月前に一度言ってしまっている。
「前に空月のこと襲った人達とその仲間の人と会っちゃって…。なかなか逃げられなかったんだけど、そこで空月が来て助けてくれたの。その人達、もともと空月のこと狙ってたみたいで戦いになったんだけど…。それが、その人が置いて逃げちゃった刀」
父は呑み込みきれていないといった顔をしている。
「勝った…のか?」
父は空月をじっと見る。
「はい。お陰様で。義父上に稽古をつけていただいた甲斐がございました」
父は辺りをきょろきょろとした。違和感をもつのも当然だろう。だって彼は傘しか持って来ていなかったのだから。私もそれが理由で戦いの部分の説明は省いてしまった。まだそのことは彼に訊けていなかったし、さっき見たことだって本当に起こっていたことなのか信じ難い。
「武器は…?」
彼はなんて答えるのだろう。私も彼の返答に耳を傾けた。
「私もよく理解していないのですが、そのときは偶然ございました」
さすがに無理がない…?
父は目をぱちぱちさせた。数秒経つと小さく息を吐いて軽く下を向き、ぱっと上げた顔は笑っていた。
「良くやった!空月!頑張ったなあ」
そう言って父は空月の髪をぐしゃぐしゃに撫でる。武器のことはもう気にしないことにしたのだろうか。こうしていると本当の親子みたいだ。
「ちょ、義父上っ…」
空月も嫌がる素振りはなくて、明るく笑っていた。
雨が止んだ空で月だけが私たちを照らしていた。そのお陰で真っ暗だったはずの帰路はほんのり明るかった。暫く歩いて父上の持つ蝋燭も随分と短くなった頃、屋敷のある丘のほうから小柄な影が走って来た。
「白百合様!それにお二人も…。お帰りなさい。すぐに皆にも報せて来ます!!」
此方が何か言う暇もなく心底嬉しそうに忙しなく駆けて行った雪を三人でくすくすと笑う。
「ただいま。心配かけてごめんなさい」
屋敷の扉を開いて言うと、すぐそこに四人の姿があった。ゆっくりと丁寧に言葉が紡がれる。
「お帰りなさい、白百合様」
普通の言葉が何故だか嬉しい。少しだけ喉が詰まったけれど、笑顔で言った。
「…ただいま」




