触れるな
急に静かになってそっと目を開けた。
「空…月……!?」
どうして。
息を切らして目の前に背を向けて立っている彼を見て私は目を見開いた。ここ数日やっと起き上がれるようになったところだったのにここまで走って来れたのだろうか。それにどうしてこう困っているところに現れたのか。
「彼女に何か御用でもございましたか?」
空月は息切れを抑えて静かに問うた。
「なに、ちょっとお喋りしてただけさ」
「大変怯えていらっしゃいましたが」
間髪入れずに返す彼にいつもと違う空気を感じて、驚きで恐怖を忘れていた身体が少し強ばる。男は一瞬圧された様子を見せたが、ふっと嗤うと私のほうを覗いた。
「その顔が最っ高だったんだよ」
目が合いそうになって心臓がはねあがる。すると空月がすっと動いて男の視線を遮った。
「それをあなたは楽しんでいたと?」
「そうだよ。あぁ、そんなことよりその青の混じった長髪…。獲物のほうから来てくれたようで助かるよ」
調子良く話す男の声に被さって空月がふぅと息を吐く音が微かに聞こえた。そうして一瞬俯き気味になった彼はゆっくりと顔をあげる。突然彼の纏う空気が変わった気がした。
「あのお二人の仲間という訳か。この間と同様の内容なら御免だ」
敬語を外した口調で低い声を吐く様子は、空月ではないみたいだった。男は口角を上げた。
「あの日のことは聞いてる。今はまた同じ目が見たいか。武器も持たないお前に何が出来る?」
「お前には悪いが、今日は貸して頂いてきたから身一つじゃない」
そう言って空月がきゅっと左手で握りしめたのは閉じたままの傘だった。
「もしかしてその傘のことか?はっ!傘で戦おうとは舐められたもんだ。…それに、急に敬語やめられると腹立つなぁ」
男は鼻で笑うと刀を抜いて構える。空月も応戦態勢ということか、空いている右手で器用に顔の左側を隠す包帯を解いて袂に入れた。
「ねぇ、逃げないの?」
白百合が不安になって尋ねると、空月は振り返らずに少しだけ後ろに下がって白百合に近付いた。そして小声で言う。
「こういう奴は、一度懲らしめないときりがありませんよ。少しばかりお待ちください」
その声は相手の男に対するそれとは打って変わって優しいものだった。白百合がそれに対して反応する前に空月は一歩二歩とゆっくり男に近付く。
「敬うに値しないと判った相手に、敬語を使う馬鹿があると思うか。舐めているのはそちらだろう。私にも、お前と真剣に対峙しなければならない理由ができた」
そう言って長髪の男が軽く頭を横に傾けると、覗いた青い目が鋭く光った。刀を持つ手が汗ばみ、背筋がぞくりとする。
「手脚合わせて四本か。さあ、どれを落とされたい?私は…喰うなら胴のほうが好みなのだが」
前にいて顔は見えないけれど、その低く響いた声に、味方ながら思わずぞくっとする。
「言わせておけば!!」
男は少し怯んだ様子を見せたが、ついに構えていた刀を振り上げて足を踏み出す。どうしよう、本当に傘で…?不安に思ったのはほんの一瞬だった。
「嘘…」
私は目を見張った。男も思わず動きを止めている。辺りがぼんやりと明るい。空月は腰に当てた左手で持つ傘の、持ち手の部分を右手で握り、鞘から刀を抜くようにゆっくりと抜き取っていく。そして、ずっと普通に使われてきたはずの傘は、左手を抜けるところで青白い光を放ちながら刀になってゆくのだ。完全に抜き取ったそれは鍔にまで意匠が施されていて、刀そのものだった。そして、みとれる程綺麗だった。すぅっと光が消えていく。
「この武器では不満か?」
空月はただ一人戸惑う様子もなくそれを構えると、驚きで固まっている男を真っ直ぐに見た。それはまるで、かかってこいとでも言うように。
五秒間くらいの間があった。最初は驚いていた男も、空月が攻撃を仕掛けないので余裕ができて落ち着いたのか、先程までの調子を取り戻して刀を構え直す。
「やれるもんなら、やってみろよっ!」
そう言って地を蹴った直後、きんと高い音が響いた。
「速い…」
そして二人は一息にその応酬を何度も繰り返す。最初ははらはらして見ていたが、やがて気が付く。父上と空月の二人でやっていたときのほうが、速い。
義父上のほうが速い。目の前の敵を見て、そう思ってしまった。強めに刀をはらい、攻めに入る。受け止められるのをわかった上で意識して顔のほうに刀を向ける。刀が向かって来るのが分かりやすくして、より恐怖を与える為だ。実を言うと、彼に傷を付けるつもりは一切無い。この男に対して怒りがあるのは確かだが、被害者当人でない自分にはその権利がない。第一彼を斬ったところで得をする者はいないし自分は殺生は嫌うほうだ。彼には、忘れ難い恐怖と圧を与えて最後にとどめを刺す。男の顔には順調に怯えと焦りが広がってきた。故意に顔のほうばかりを狙っていると悟られてはまた面倒なことになりそうなので、時々刀を大きめに振って胴体を狙ったりしながらこっそりと思案する。自分はあまり体力は残っていないが、相手はまだ息も乱れていない。長期戦になれば不利になるのは此方だ。早いうちに勝負をつけねばならない。義父上に教わったことには、相手を殺さない場合だと、首に刀を当てて相手に勝ち目が無いことを表明すれば良かったはずだ。手が滑って斬ってしまわなければ良いが。さて、どうやって終わらせようか。一瞬下がって態勢を整えると一気に間合いを詰め、その足に刀を振った。突然下を狙ったので面食らった様子の男は慌てて足を退けた。そこで力が抜けているはずの刀を目掛けて目一杯振り上げた。
「あっ!」
男の焦ったような声と共に刀は手から離れて地面に落ちた。前に体重をかけて凪ぎ払ったので、態勢を崩した男が尻餅をつく。今だ。刀を突き付けようとしたとき、突然男が前かがみになった。刀が当たりそうになって慌てて刀を退く。そのとき、左足首から激痛が走った。力が抜けて思わず膝を折る。彼の仲間に砕かれた後、未だ完治していなかったところに、男が落ちた刀の柄を思い切りぶつけたのだ。続いて軽くしゃがんだ状態になった私の右腕を斬り上げる。
「っ…!」
手の先の辺りから斬られたせいで一時的に力が入らず手から刀が滑り落ちる。刀は右手でしか練習していないのに。だが此処で隙を見せては逆転されてしまいかねない。表情を崩さず彼を睨む目を鋭くする。男が軽く息を吸うのが聞こえた。前かがみになっていた男の肩を右手で押して仰向けに倒し、左手で彼の持っていた刀の刃を持った。斬れるほうは外側にある。刃の部分を持てば普段自分の爪を長くして使うのと大差はない。距離感覚は馴れたものだ。右手で肩を、足で身体を押さえて素早く刀を彼の喉に当てた。流石に動けないようで、目だけで私を見ると、小さく速い息をしている。ゆっくり顔を近付ける。
完成だ。
「金輪際、彼女に近付くな。次下手なことをすればこの喉、掻っ切ってやるから覚悟しておけ」