助けて
「嫌っ、来ないで…!」
余裕そうな笑みをのせてゆっくりと歩いて来る男を目の前に、一歩ずつ後退る。どうしよう、こんなはずじゃなかったのに。
ここに着いた時はまだ辺りは明るかった。空月がなかなか元気にならないから、彼が気に入っていたこの池の水を汲んですぐ帰るつもりだった。屋敷からこの池は近いとは言えないけど、屋敷を出た時間から考えると、急げば暗くなる前に屋敷に着くはずだったので家族にも心配はかけないと思った。
計算違いは、帰ろうとした時にこの男の人がいたこと。それは、前に空月を襲っていた人の仲間らしい人だった。この人はあの時は何故だか倒れていたけれど、村に来たときもあの二人でいたし、空月は二人に襲われたような発言をしていたから、この人ももう一人と同様に危険な人と思ったほうが良いだろう。
その人はずっと森の入り口の辺りの草原を何か呟きながらうろうろしていて、見つからずに通り過ぎるのは難しそうだった。見つけた瞬間襲いかかって来ることはないと思うけれど、仲間の人が私が知っているということを伝えていたらと思うとどうしても会うのが怖くなってしまう。
とりあえずこの人が帰るのを待とうと思った。日が赤くなって来る。どうして帰らないんだろう、困って座り込んでいたら、人が増えた。
知らない人だった。別の村の人かな。
「言ってた奴、あの男のことだけどさ、やっぱり家に押し掛けるか。多分あっこが預かってるはずだし、今なら獲物は弱ってるらしい。時間ないんだろ」
え、何の話…?
何か物騒な言葉が聞こえた気がして息を呑んだ。
「仕方ないかぁ、でもここの村長さん強いらしいからあの人とは接触せずに出来たら良いんだけどな」
「それなら俺がその間だけ何か理由付けて家から離しておこうか」
「良いな。うちの村長は機嫌損ねると危ないからさ、良い見せ物見つけてくれて助かったよ。そんな面白いのなかなか無いぞ」
男、屋敷で預かってる、今は弱ってる、村長、それらの言葉を聞いて思い付くのは一人しかいなかった。
見せ物にするって言ってた。
「だろ!何てったって目が…」
目!自分でも気になっていたことを言おうとしたので思わず前のめりになる。すると、手にこつんと振動が来た。手に水を入れた器を持っていたのを忘れていて木の幹にぶつけてしまったのだ。一瞬どきっとしたが、此方に気付く様子はない。
ほっとした途端、手から器が滑り落ちた。
あっ!
取ろうとしてがさがさと音がなる。直後水を流しながら器が転がった。竹の節の部分を利用した器だった。どうしてこういう時に限って上手く転がるのか。器はころころと転がり、男たちの視界を通って止まった。
気付いた一人がずかずかとやって来る。隣村の人らしいほうだ。
どうしよう、どうしよう。
ここから何処かに隠れようと動いても音で気付かれて終わりだ。心臓がばくばくと音を立てる。
「見ぃつけた」
おそるおそる上を向いて目が合った。
「君さ、ずっと聞いてたの?」
口調は柔らかくても見下ろす目には殺意にも似たものを感じる。そもそも此処にいて聞こえなかったと言うほうが不可能だろう。必死で口を開く。
「ごめんなさい、ここにいたら話し出したからどうして良いかわからなくて。でも彼は、もう帰ってしまったわ」
こう言うのが一番平和に終わると思った。事実、少しずつ回復しているので近いうちに帰ることになるだろう。
「本当かなぁ」
やっぱり嘘だと思われてしまうのかな。その人は不気味な笑顔で私の頬に手を触れた。びくっと体が強張る。
「あれ、村長んとこの娘じゃん。健気だなぁ、守りたくて嘘付いてるの?彼に会わせてくれるなら帰してあげるけど」
無言で小さく首を横に振る。逃げなきゃ。少し後ろに下がってゆっくり立ち上がり、目の前に立ちはだかる男の人の伸ばした手の下を通るように体勢を低くして走った。
立ち上がったのにすぐしゃがんだものだから、その人の手は私の背に一瞬触れただけだった。
やった!
その直後、急に体勢が崩れて尻餅を付く。
「きゃっ!」
追ってきた男の人が私の髪を掴んでいた。そしてそのままもう片方の手で私の首根っこを掴むと髪を放す。手を剥がそうと両手で力を入れたけれどその力は強くて、首に食い込む爪が痛い。
「傷つくなぁ、逃げないでよ」
その人は首を掴んだまま私の顔を覗き込むと、手を離すと同時に突然みぞおちに踵を入れた。
「…っ!」
軽く呻いて座ったままうずくまる。
「会わせてくれる気になった?」
いつの間にか前に回って来てこっちを見下ろしている。もう一人のほうは思いがけない状況になって逃げたのか、いなくなっていた。でもこの人がいる限り逃げられない。力じゃ勝てないのは分かっているんだから何か方法を考えないと。
「ねぇねえぇ」
男の人は催促しながら今度は着物の裾から手を入れて足をさすって来た。
「嫌っ…!」
慌てて足を引っ込める。するとその人はにたっと笑った。その顔は本当に本当に怖くて、方法なんて考えられなくなってしまった。がたがた震えながら一歩ずつ後退る。
「嫌っ、来ないで…!」
嫌がれば嫌がる程満足そうに笑うその顔は、本当に怖くて気持ち悪い。後ろに付いた手が水を触った。振り返るともうすぐ後ろは池だった。嫌だ。怖い。私に触らないで。ぎゅっと目を瞑った。
誰か助けて!助けて……。