待
大きく波が揺れて眠っていた目を開けた。ぱっと辺りを見渡して、軽く息を吐き出してまた目を閉じる。もう何度これを繰り返すのだろう。薄く目を開けて呟く。
「いつになったら帰ってくるのよ…、空月…」
空月が出発してからもうそろそろ一月が経とうか。彼を見たのは、力が底を尽きる寸前の満身創痍の状態で術を完成させたときが最後だ。あれから随分経つが、彼が近付いてくる気配はない。
また力を使い果たして眠ってしまったのかと思った。だが、それにしても遅い。他に何か大変なことがあったのかも、どこかで独り苦しんでいるかもと、心配が次から次へと沸いてくる。本当はすぐにでも彼のいる陸へと飛んでいきたかった。でも、この地域を護らなければならない長の立場が、留守にすることを許さない。
「お願いだから、無事でいて…」
こうしてもどかしい思いで彼を待っていると、昔のことを思い出す。彼がここに来て間もない頃は、時々突然いなくなったものだった。その度に、私はここにいるべきだからと私を置いて他の者が彼を探しに行き、私は不安な思いで待ちぼうけだった。それでもなかなか見つからず、すぐに戻るからと言って、結局私が探しに行って連れて帰ってくるのが主だったけれど。
そうは言っても流石に陸まで行く訳にはいかないので、今は彼を信じて待つしかない。膝を抱えて、また目を閉じた。
空月と出会ったのはもう、数百年前になるだろう。全ての始まりは、ある蟹に頼まれて、切れない縄を作ったことだった。
蟹は、やんちゃですぐに巣から出て行ってしまう子どものために強い壁を作りたいから、どんな力でも切れない強い縄を作ってほしいと言ったのだ。私は何の疑いもなく、私より強い力を持つ者くらいでしか切れない強い縄を作って渡した。これが、間違いだったのだ。
彼自身を初めて見たのは、それから十年近く経った後だった。用事があって遠くまで行ったとき、帰り道でなんとなく気が向いて遠回りをした。その途中、とても力の濃い血が水に混ざっているのを感じて足を止めた。ここから感じられる範囲にそんな強い力をもつ者のいる気配はない。それでもここまで血が届いてくるということは、大怪我をしているのかもしれない。
気にし出すと無視できなくなり、血の濃いほうへと進んだ。もちろんその見知らぬ誰かが心配だったが、自分と似て強い力を持つその相手と話してみたい思いもあった。
やがてその一番濃い辺りで止まって、その血の主を見て呆然とした。
目の前には大きな岩があって、その横のほうに小さな子どもが一人、縄で縛られてちょこんとくっついていた。
縛られている腹は深く窪んで常に血が出続けている。逃げられないのに強く美味しい血肉を持つせいだろう、大きな相手にやられたのであろう真新しい酷い傷がいくつもあった。
でもその子どもの表情に苦しそうな色は微塵もなかった。開いただけの目は何も見てはいなくて、少しだけ開いた口で薄く呼吸だけをしていた。そんな死んだような様子で生きていた子どもに、駆け寄ることはできなかった。その光景が惨かったからではない。私にはそうする資格も勇気も無かったからだ。
その彼を縛り苦しめていた縄は、間違いなく、
いつか私が作ったものだったから。
私はその瞬間頭の中が真っ白になって、何を考えていたかもう分からない。とにかく子どものいる反対側に寄っていって、縄に触れて力を散らした。上から覗くと、突然解放された子どもは深くえぐられた傷に触れながら、表情をぎこちなく動かして笑っていた。私が縄を作ったことさえ忘れていた時間は、この子どもにとってはとてつもなく長い時間だっただろう。
「ごめんなさい、ごめんなさい…。」
私は子どもから見えない所でただ、口の中で繰り返すことしかできなかった。
それから数年、子どものことが気になりつつも、会いに行く勇気も無く時が過ぎた。
そしてある日、私の統べる地域の中にあの子どもの気配を感じて思わず飛び出した。何を差し出しても償いなどできないと解っている。それでも何か力になりたいと思った。
「いた」
大きな岩の影にその姿を認めて立ち止まる。でも、どう声をかけて良いのか分からず同じ岩の横のほうに腰かけた。ついさっき敵と対峙した後なのだろう、子どもの腕には大きな牙で噛み千切られたような真新しい傷があって、血を止めようとぎゅっと掴む小さな指の間からまだ血が溢れている。
「なんで、いる?」
ふと子どもがこちらを見て爪を鋭くさせる。警戒するのも当たり前か。
「おまえ、つよい。なんで、くわない?」
すぐに答えなかったからだろう、重ねて問いかけてきた。どうやら言葉は上手じゃないらしいが、内容は理解できる。きっと、強い相手が来るときはたいてい食べようと来るものばかりだから、強い私がなかなか襲いかかってこないことが理解できないのだろう。
「私はあなたを食べる為に来たわけじゃないわ。…怪我、してるみたいだったから。大丈夫?」
色々省いたが嘘ではない。
「あぁ、それか」
小さく呟いたのが聞こえた気がした。
「えっ…?」
見ると子どもはぱっと此方を向いて、姿勢を正した。
「私は大丈夫です。心配してくれてありがとうございます」
抑揚がなく、さらさらと流れるように紡がれた言葉。さっき少しだけ聞いた言葉とは、まるで別人のようだった。
私は思わず息を吸った。この言葉だけを、きっと何十回も繰り返したんだ。まだ流暢に話せないのはきっと誰かと会話することがほとんど無いから。今の言葉で、関わろうとするたくさんの相手を退けてきたんだろう。
私は堪らなくなって子どもの前に飛び出した。子どもはすぐさま距離をとって爪を鋭く伸ばし、少しよろけながら此方を睨んでいる。初めて正面から見た海より鮮やかな青の瞳は、凍てつきそうに冷たく、小さな稲妻を宿したように鋭く光っていた。思わず強張った身体を、自然な素振りで操って目を合わせたまま膝を折る。
「大丈夫。私は敵じゃない。だからその危ないの、しまってくれない?」
できる限り優しく言った。子どもはまだ警戒している様子を崩さすに、でも爪を鋭くしたままの手を後ろにやった。
「…くわない?」
「絶対、食わない」
言って子どものほうに歩を進めると、子どもはじっと此方を見て身体を硬くしたが、逃げようとする様子は無かった。ゆっくりと近付いて、子どもの隣に腰を下ろす。
前から来たのに敢えて横に座った私を子どもは驚いたように見た。やっぱりこの子も私と同じなんだ。私も、誰かに目の前にいられるのが苦手だった。
力の強い者は大敵に狙われる。大敵が大口を開けて向かってきたとき、先に食われるのはその大敵と自分の間にいた者だった。私を気にかけて近付いてきてくれた者が次の瞬間大口の中に消えるのを、何度も見た。だから、目の前にいられるのは恐くて仕方がなかった。
やがて顔の向きを戻して俯いたその子は、少し警戒の色が薄くなっている気がした。
「傷、見せて」
「へいき」
言いながら子どもは、顔をしかめて血の止まらない腕をきゅっと押さえた。
「さっきもそうだった。痛いのにどうして大丈夫だなんて言うの」
「どうせ、なにもならない」
そうして一層そっぽを向いた子どもの腕をそっと掴んで、その痛々しい傷の上に手をかざした。なくした皮膚は増やせないけれど、傷口に水を集めて膜にすれば血は止められる。水を操るくらいは造作もないことだ。子どもは、突然止まった血に目をぱちくりさせた。
「皆が皆、何もできない訳じゃないでしょ」
こくりと頷いてまだ不思議そうに傷口を見つめる姿は、やっと子どもらしかった。そろそろ、言ってみても良いだろうか。その日その子どもと会ってからずっと、考えていたことがあった。
「ねぇ。もし私が、あなたが欲しいって言ったら、どうする?」
心臓が派手に踊っている。子どもは何の感情ものせない顔でゆっくりと此方を振り返った。
「ほしい…?」
「あなたも一緒に私の棲み処に帰って、一緒に暮らしたいの」
随分と沈黙があった。言葉の意味が解らないわけではないだろう。子どもは目線を私から外して宙にやり、繁く瞬きをさせながら、言葉を反芻するように小さく口だけを動かしている。やがて私の元に戻ってきたその瞳は、驚くほどに凪いでいた。
「うそ」
その言葉で、私のうるさかった心臓は黙りこんだ。たくさん考えて出た答えが、それだった…?緊張も忘れてただ悲しくなった。子どもは徐に前を指差して再び口を開く。
「だれが こんな きみのわるい やつ。へんなの。こわい。きもちわるい。どこかで かってに くたばれば いい」
感情の無い声ですらすらと似合わない言葉が紡がれる。急にどうしたというんだろう。焦ってその顔を覗きこむ。
「ちょっと、あなた何を…」
すると子どもは黙って、前を指していた指をそのまま自分に向けた。
「いっぱいが、いう」
その告白は、これまで置かれていたであろう環境を察するには十分だった。長い間存在を否定され続けて、今になって優しい言葉をかけられても、素直に信じることはどんなに難しいだろう。
私は無意識に手を伸ばした。そしてその小さな肩を腕の中に抱き締める。子どもは一瞬抵抗しようとしたが、すぐに大人しくされるままになった。
「お願い。そんなことを自分で言わなくて良いの。周りがあなたを何て言おうと関係ないから…、私はやっぱりあなたと暮らしたい」
腕を解いてその顔を見ると、子どもはほとんど変わらない表情で、でもその綺麗な瞳からは、涙が溢れていた。その子は気付いていなかったかもしれない。私はそれには言及せずに、立ち上がって中腰になり、掌を二つとも広げて見せた。
「見て。私はあなたと同じような手足を持ってるの。お互い、本当の姿じゃないみたいだけど。どう?仲間でしょ」
言って、座ったままの子どもに片手を差し出す。このままではいけない。この子には、可愛がられたり大事にされたりする経験が必要なんだ。
この子を苦しめることに加担した私に、そうする資格がないことは勿論解っている。それでも、目の前に立っても大敵に食われることのない強い力を持つ私は、適任に違いなかった。それが、私がこの子の為にしてやれることだと思った。
子どもがじっと迷っている間、私はそのまま待ち続けた。やがて、子どもはその小さな手を私のそれに恐る恐る重ねた。
「いっしょ」
ぽつりと呟くのが聞こえた。
「そう、一緒」
言うと、子どもは両手で私の手を掴み、立ち上がった。そして、すっと私のすぐ近くに来て立ち止まる。私を見上げる青の瞳が少し柔らかく細められた気がした。
「いいよ。あげる。おまえ、へんなの、ね」
「ありがとう。そうかもね」
そうして私がその手をとると、小さな手はついに握り返した。それからその子は、時々不安になって居なくなることもあったけど、帰る場所は私と同じになった。
「空月、あんなに可愛かったのにね」
最初女の子だと見紛うほどだったその子は立派に成長して、今は迎えに行けない場所にいる。今は、信じて待つしかできないんだ。私は無意識に、自分の手を腹に当てていた。




