兆し
滝に到着するとすぐに着ていた衣を畳んで端に置き、水にざぶんと浸かる。冷えた水が身体の中に入っていく感覚が気持ち良い。水を衣のように変えて纏うと、軽く顔を洗って立ち上がる。皮膚を変えると髪が一度青く戻ってしまうが、この方法なら身体には全く変化が無いので最善かも知れないとここ数日で気付いたのだった。
滝の落ちる地点に近付き、手近な岩に腰をかけた。左手を水に翳し、目を閉じる。力を左手の一点に集中させる。手が触れるか触れないかの位置にある水面が小刻みに波打った。この後は送る物と送り先を強く念じる、といった手順だったはずだ。送る木の実などはまだ手元にはないので、まず送り先である月夜様とその周りの様子を頭に思い浮かべる。
大きな岩が所々にあり、その側では海藻が踊り、数多の従者が集っている。それを感情の読みにくい、無表情に近いが穏やかな表情で月夜様が見つめている。思わず駆け寄りたくなる感情を殺してその様子をより鮮明にしていく…。
「……ま!……しゃ様!使者様!」
はっと目を開く。横を見ると、岸にいたのはあの双子の瓜坊のうち兄のほうであるひうだった。
「邪魔してごめんなさい。使者様もうすぐ帰らないとだめだから、集まった木の実の量足りるか見てほしいって…」
言われて見上げると、空はもう橙に染まり始めている。そんなに時間が経っていたのか。
「声をかけてくださって有難うございます。ただいま参ります」
そうして腰を浮かしてから、はっと息を吸った。力が、入らない。ろくに抵抗の出来ないまま目の前に岩が近付く。かろうじて頭の前に付いた左腕がじんと痛んだ。膝を付いてゆっくりと呼吸する。よし、大丈夫。軽く頭に手をやりながら、慎重に立ち上がった。なんだか頭がぼおっとする。
「使者様…?しんどいの?」
心配そうな瞳とぶつかり、軽く笑顔を作る。
「いえ、しばらく力を使い続けていたので調子が狂ってしまったようです」
体を濡らす水をぱっと散らし、岸に足をかけた。だが、ちらっと左腕を見てため息と共に足を下ろす。散らしたはずの水が肌を伝う感覚があったので不審に思ったのだが、それは血で、どうやらさっき岩に付いた時に思いの外削れたらしい。手頃な葉を千切って濡らし、傷を軽く縛る。そして手を当ててすうっと肌に馴染ませた。
「え、治ったの!?」
こうすると、外から見れば傷も葉も無いように見える。驚く様子を見て苦笑いして言う。
「そう出来れば便利なのですが、これは目立たなくしただけです」
少しの傷だと、こうしてとりあえず隠してしまうことが多い。
「どうして隠すの?」
本当に不思議そうに問われ、少し戸惑う。
「余計な心配を…お掛けしたくございませんので」
「…余計な心配、なのかな…?」
その小さな呟きに対する言葉は見当たらなくて、ついにひうのそれは、相手に聞こえなかったかも知れない一人言に終わった。
ひうに案内されて来た私が集まった木の実を前に黙っているのを、山の動物たちが覗き込む。
「正直に申し上げますと…」
「足りないか?」
「ええ、充分とは言えません…。ですが、これ以上はもう厳しいですよね?」
「あぁ、…そうだな」
少し歯切れの悪い長に首を傾げたとき、下から声がした。屋敷のある丘に凛が立って口の横に手をやっている。
「空月さんー!もうすぐ夕食に致しますよ!」
私は五覚が優れているほうなので彼女の声が聞き取れたが、この距離だと私の声は届かないだろう。片手を上げて、聞こえたことを合図する。
「では、また伺います」
山の民に一言告げて、山を駆け降りた。ここ数日で木の実を探して歩き回って慣れたので、木の生えた地面もただの草原とそう変わらない感覚だ。
見たところ、もう木の実の残っている様子はない。しかし、あの量では足りない可能性のほうが高い。こんなに時間をかけて、足りなかったでは済ませられない。それこそ本当に手がなくなってしまう。
どこかに実のなる場所はないだろうか。どうすればこの村を守れる…。走りながら、唇を噛んだ。