第95話 また一緒に
ゴチンと固い音がして、鈍い痛みが走る。頭を押さえて呻く私に溜息を一つ零し、眉間にしわを寄せた東雲さんが言う。
「一人で敵陣に突っ込むなんて何を考えている」
「いったぁ…………ごめんなさい」
「第一俺にも相談くらいしろ」
運び屋さんの車でお喋りオウムまでやってきた私は、早速とばかりに如月さんと東雲さんに施設での出来事を聞かせた。しかしティパちゃんの元に行くことを伝えていなかったから当然東雲さんには怒られた。本当にティパちゃんが薬に関わっているか半信半疑だったのだ。
涙目になりながら、それでも、と声を張る。
「証拠はちゃんと取ってきたんですよ! ほら!」
携帯を取り出し動画を再生する。ポケットに入れていたから画面は真っ暗だが、施設に入る前からの音声が録音されている。私の声も、ティパちゃんの声も、逃げるときの荒々しい音も。くぐもってはいるものの内容は聞き取れた。明星市の人気アイドルが薬物の乱用を認めている発言も。
「仁科さんに言われなければ気付きませんでしたけど……。何であの人、キャンディーに薬入ってるって分かったんだろう?」
「一時期あいつもやってたことがあるらしいからな」
「何を?」
「麻薬」
「えっ」
目を見開いて東雲さんを見る。だがそれ以上彼は何も言ってくれなかった。
仁科さんってば、一体何をやらかしてるんだ。
「元々過激な噂の多いアイドルだけども。自分達のみならず、周囲まで巻き込むとは」
如月さんが呆れと驚きの入り混じった声で笑う。
確かに元より、ティパちゃんには色々な噂話が飛び交っている。実はヤクザと手を組んでいるとか、男をとっかえひっかえしているとか、あの有名タレントとできているとか。どれも週間雑誌で一時は騒がれるが、証拠を掴めないことから単なる噂に過ぎないと、すぐ世間に飽きられていた。けれどもしかしたら。そんな噂のうち数個くらいは、本当のことなのかもしれない。今回の件でそう思う。
「薬に手を出して、しかも無関係の一般人にまでそれをばらまく。そんなアイドルがやる非公開のライブなんて碌なものじゃないだろう」
東雲さんの言葉に頷く。公にされていないイブのライブ。そこで何を行うのか、何が行われるのか。
しかしどうにせよ、ティパちゃんの行為を止める必要があった。これ以上あのドリンクを生産させないようにする必要が。身内間のみで薬を使用するのなら、良いわけではないがまだいい。けれど無関係の人々を巻き込むのは、あざみちゃんを巻き込むのは、決して許せなかった。
何故栄養ドリンクに薬物を混ぜる真似などしたのだろう。ファンを薬物中毒にしたかった? 意味が分からない。そんなことをして、一体何の意味があるというんだ。
「彼女の身辺調査を頼もうか」
如月さんが言ってどこかへと連絡を取り始めた。電話が終わってから、どうするんですかと訊ねる。
「有名人のゴシップを探るなら、俺みたいな情報屋よりも更に適任がいる。ハゲタカって名前のジャーナリストがいてね。そいつなら、彼女の裏ライブだって探れるだろう」
あとは相手の連絡待ちだと彼は言って携帯をしまう。連絡が来るまで私達は何もせず待機していればいいとのことだった。
クリスマスイブまでもう数日しかない。
空は青く晴れ渡り、穏やかな陽光が温かく降り注ぐ。風もなく過ごしやすい日である今日、動物園にはたくさんの人が来園していた。家族連れやカップルや友人同士、様々な動物を見て楽しんでいる。
フードコーナーの一角で、サンドイッチをもそもそ食べながらテーブルに広げた写真を見ていた。檻に入った動物の写真だ。ペリカン、猿、鹿、アヒル。しかしこれは今撮ってきたものではなく、どれもこれも以前見たことのあるものばかり。
「写真と比べてみたら何か見落としを発見できるんじゃないかって思ったけど、やっぱり何も変わんねえよな」
向かいの席でカレーを食べながら太陽くんが眉根を寄せた。そうだねぇ、と写真を持ちながら私も肩を竦める。
ティパちゃんの情報を待つまでの間。どうにも気が急いて静かに待機していられなかった私は、せめて手伝いくらいはと太陽くんの仕事を手伝うことにしていた。
動物園から動物が消えた事件。もう一度確認のために二人で動物園に来てみたが、いまだに猛獣コーナーの動物はほとんどいなかった。空っぽの檻の前に建てられた謝罪の看板。広い空間にぽつんと取り残された、ヒグマの子供は、親が消えたことを悲しんでいるのかずっと横になって動かなかった。
「密輸だよ密輸。外国に売り捌いたんだ」
「毛皮とか愛玩用とかかな。でもあんなに大きな動物、すぐ見つからない?」
「そこはほら、船とか飛行機で上手い具合にさ。とにかく誰かがやったってのは間違いないだろ? テレビでやってたし」
太陽くんがスプーンを回し、カチンと犬歯で噛みながら言った。
一時閉鎖されていた動物園は一昨日から再開していた。何日も休んでいては商売にならないから、仕方なくといった感じだ。いまだいなくなった動物は一頭も戻ってきていない。
動物の失踪は先日ニュースで報道された。当然脱走ではないかと懸念されたが、猛獣達が自由になっていればとっくにどこかで犠牲者が出ていただろう。目撃情報も被害情報もなかったためか、その話題はすぐに下火となってしまった。
動物達自らの行動ではない。誰か人の手によるもの。ただし、その証拠も何もない。
空っぽになった猛獣コーナーに再度足を運んでみる。当然ながら足を止めて檻を眺める人はおらず、皆謝罪文の書かれた看板を一瞥して残念だねと去っていく。
太陽くんはライオンの檻に近付いてガシャリと手で掴んだ。私も隣に行って身を乗り出すように檻の中を眺めてみるが、まさかライオンが隠れんぼをするスペースがあるわけでもない。
「ライオンいないってマジだったんだぁ」
「残念。せっかく来たのに」
私達の後ろを通り過ぎていく通行人が残念そうに言っている。全くその通りだ、と心で同意しながら振り返る。そのうちの一人と目が合い、思わずあっと声を上げる。
彼女も私に気が付き、一瞬躊躇うように横の二人に視線を向けた。連れの子二人も私達の存在に気が付く。恐る恐る、といった感じでやってきた。
「こんにちは……」
「こんにちは。……えっと」
「澪です。こっちは帆乃夏、と蘭」
澪という子、そして左右にいた二人が私にぎこちなく頭を下げてくる。
高校見学に行ったときに会った子達だった。あざみちゃんの友達だったという、三人の女子中学生。
あざみは、と帆乃夏ちゃんが小さな声で訊ねてくる。あざみちゃんの名前に太陽くんが僅かに眉尻をもたげた。
「あざみちゃん……。あー、あざみちゃんは……」
「もしかして、私達がいるから?」
「あっ、ううん、違うよ。そういうわけじゃ!」
ぎこちない会話をしていると横から太陽くんが顔を覗き込ませ、三人をしげしげと眺める。その視線に気まずさでも感じたのか彼女達は顔を逸らした。
なあ、と太陽くんが話しかける。無邪気にはしゃいだ声だった。
「あざみの友達なのか?」
三人はすぐに返事をしなかった。私は場を取り繕うように困った顔で笑い、手を振った。
「あざみちゃんは今日誘ったんだけど来れそうになくて! 勉強するみたいだったから」
「……変わらないな」
そうなんですか、と呟いた蘭ちゃんが続けてぽそりとそう言った。澪ちゃんと帆乃夏ちゃんが彼女の顔を見て、ふっと歯を見せて笑った。
「本当変わらないね。昔も同じこと言ってた」
「映画見に行こうって言ってるのにね。いつも塾とかテスト勉強とか理由付けて、ツンツンした顔でさ」
「中学生になっても同じままなんだ」
三人はあざみちゃんのことを話してくすくすと笑っていた。思わずムッとして彼女達を見る。
あざみちゃんは中々素直になれない子だ。だから周囲に勘違いされることも多い。けれど、それが彼女の本心ではないのに。ちゃんと話せば素直な可愛い子だって分かるはずだ。
「お前ら……なんっにも分かってないんだなぁ」
けれど、私が三人に抗議をする前に、太陽くんが三人に向かってそう言った。呆れを滲ませた声に三人の方がムッとした顔を向ける。
「あいつが俺達といるときにどんな顔してると思う?」
「え? ……ツンと澄ました顔で、唇尖らせてたり」
「当たってる当たってる。でもあいつ、絶対つまらないとか、楽しくないわけじゃないと思うんだ」
太陽くんはそう言って微笑んだ。
「だってあいつ、いつも楽しそうなんだぜ。声が少し嬉しそうだったり、大きな声上げたり。それに結構、笑うときは笑うんだ」
「……………………」
「あざみにはあざみなりの笑顔があるんだ。あいつの表面だけを見て決め付けるなんて、勿体ないことするな」
あざみちゃんがこの場にいたとしたら。何を言ってるのよあんたはと、眉を吊り上げて太陽くんを叩いただろう。
でもきっとその口は僅かに緩んでいて。顔だって真っ赤になっていて。でもそれは、怒りとか羞恥とか、そういうものじゃなくて。
素直な言葉を口に出せないというのは確かに誤解されることなのかもしれない。ただそれだけで彼女の姿を決め付けるのは、太陽くんの言う通り、あまりにも勿体ないことだ。
「そんなの……」
「そんなの、こっちだって分かってるよっ!」
突然、蘭ちゃんが声を荒げた。彼女は怒りに眉を吊り上げて私達を睨む。さっきまで戸惑いの色を浮かべていたとは思えない険しい表情だった。
「分かりにくいだけであの子が本当はいい子だって、そんなことこっちだって分かってる、分かったんだよ」
「だったらどうして……」
「あのときは……昔は分からなかったの。そりゃ友達だったけど、でも小学生だったし。そこまで人の気持ちなんて分からなかった。愛想ない態度をされて受け入れられるほど、こっちは大人じゃなかったから」
中学生になって、一度あざみちゃんと距離を置いて、ようやく理解したんだと三人は言った。
私と太陽くんは黙って三人を見つめた。彼女達の言い分も分からなくはない。でもやっぱりあざみちゃんと今共にいる私達からしてみれば、どうしても拭えない感情はあった。
もしもこの子達が彼女のことを受け入れてくれていたのなら。あの子は動物を殺したりなんてしなかったろうに。そうして人を殺すことも、道を踏み外すこともなかったろうに。
彼女には理解者が必要だったのだ。
「これから時間あるか?」
太陽くんが唐突に三人に言う。キョトンと顔を見合わせながらも三人が頷いたのを確認し、太陽くんはそれじゃあと薄く微笑んだ。
「あざみの家に行こうぜ。あいつと会って、話がしたいんだろう」
ギョッとした澪ちゃんが慌てた様子で首を振った。駄目だよ、と太陽くんに詰め寄る。
「あの子は私達と会いたくないって! だってこの間もそうだったし、行ったところでどうせ……」
「大丈夫だ。あざみはお前らを追い返さない」
「どうして言い切れるの?」
大丈夫だからさ、と答えになってない答えを返して太陽くんは澪ちゃんの手を引っ張る。強引な太陽くんに文句を言いながらも澪ちゃんは付いていき、その後ろを蘭ちゃんと帆乃夏ちゃんも慌ててついていく。
ふと横を見て動物園の檻を眺めた蘭ちゃんの、囁くような声が。最後尾を歩く私の耳に聞こえた。
「あざみ……動物、好きだったよね」
ベットに横たわるあざみちゃんを、三人は凍り付いた表情で見下ろした。あざみちゃんのお母さんに説明された言葉もまるで耳に入っていないかのような姿。
だから追い返さないって言っただろう。静かに太陽くんがそう吐いた。
「やだ、寝てるの?」
渇いた笑いを零して澪ちゃんがあざみちゃんの肩を掴む。いつまで寝てるのよ、とからかうように言いながらも、その目は不安気に揺れていた。他の二人も似たような反応を見せていた。あざみ、あざみ、と何度も彼女の名前を不安そうに呼ぶ。
「いつ目覚めるの?」
「分からない」
「ずっと眠ったままなの?」
「……分からない」
そんな、と悲痛な声を上げて蘭ちゃんが目を潤ませた。昔の友達が永遠に目覚めないかもしれない。そんな状況、どんな気持ちだろう。
「ずっと謝ろうと思ってたのに」
帆乃夏ちゃんがあざみちゃんの手を撫でるように包み込む。ごめんね、と静かな声で言うも、あざみちゃんは反応を返さない。
「もう一度だけでいいから、一緒に遊びたいな」
蘭ちゃんの言葉に、澪ちゃんと帆乃夏ちゃんは黙って俯いてしまった。
彼女が起きていたら、この言葉に何て返事をしたのだろうか。
「意外だなぁ」
「何が?」
「太陽くんがあんなこと言うの」
三人が名残り惜しそうに帰ってからも私達はあざみちゃんの部屋に留まっていた。勉強机の前に座ってキイキイ椅子を揺らしていた太陽くんは、座ったまま顔を逸らして私を見る。
「だってあいつら何も分かってなかったから。何だか、ムっときて」
「だからってあんなにズバッと言うの、太陽くんらしいよ」
ギィ、と椅子が大きく軋む。太陽くんはぼんやりと天井を見ながら椅子の上で足を抱えた。あざみちゃんの手を撫でながら私は彼を見つめる。
「……俺。ヒーローになりたいんだ」
ヒーロー、と繰り返す私に彼は頷いた。ポケットから取り出した写真をひらひらとひらめか、明るく笑う。
「昔っからヒーローになりたいって思ってた。戦隊ヒーロー物とかに憧れて、ばあちゃんから風呂敷借りてマントにしたりさ。小一のときに強請ってようやく連れていってもらったヒーローショーで見たレッドが、すっごい格好良かったんだ」
キラキラと目を輝かせて太陽くんは語る。最初からずっと言っていたものなと改めて思い出す。太陽くんのヒーロー願望はよく聞いていた。
「悪い奴をどんどん倒して、この世界にいい奴だけを残せば、きっと世界は平和になる。そうだろ?」
「そうかもしれないね」
「だから俺はイヌになったんだ」
「…………ん?」
「俺が皆のヒーローになって、この世界をより良い方向に変えてやるんだ。それが俺の夢なんだ。だから俺は『イヌ』って呼ばれるヒーローになって、毎日悪人と戦ってる」
「そうかも……しれない、ね?」
「悪い奴は倒さなきゃ」
強い意志を込めた目を、太陽くんは天井に向けていた。
思わず立ち上がって太陽くんを呼びかけた。だがその前に、太陽くんの手から写真が床に滑り落ちてしまう。そのうち数枚が私の足元にまで滑ってきた。
おっと、と写真を拾って太陽くんに渡そうとする。と、その腕は途中で止まり、私はもう一度しげしげと写真を眺めてみる。空っぽの檻の写真。背景に生い茂った木々が、夜の闇に覆われている。
その闇の中。目を凝らしてみても見えづらい草の生い茂った場所に、誰かの人影があった。
「誰? 従業員か?」
「ちょっと待って。……着ているのは多分、スーツ? 動物園の関係者じゃあなさそうだね」
穴が開くほどに観察してその人物像を見る。スーツを着た男だった。顔までは見えないが、恐らくサングラスをかけている。関係者といった風貌ではない。
どこかで見覚えがある。記憶を手繰り寄せ、掴み取った記憶にハッと目を見開いた。
「ボディーガードの……」
「ボディーガード?」
ティパちゃんのボディーガードの一人に、似たような風貌の男がいたはずだ。首を傾げる太陽くんに事情を説明する。
「何でその男が?」
「分からない。でもこんな所でこそこそ隠れてるような格好してるってことは、太陽くんと同じで正式に入園したわけじゃないみたい」
だったら……と悩んでいた太陽くんが表情を引き締めて残りの写真を見比べ始めた。
「いた!」
声に釣られて彼の指し示す写真を見る。それは熊の入っていた檻だ。その写真の隅にも、先程とは違うが同じスーツ姿の男の姿を見つけた。
たった数枚だが、スーツの男達が写真の隅に写っている。ただでさえ見えにくい暗闇の写真に黒いスーツ、視認することさえ難しい。そして彼らは全て、ティパちゃんのボディーガードとして見たことのある人々だった。
「つまり……こいつらが犯人だ!」
「決め付けるのは早いと思うけど……うん、でも、怪しいよね」
確証がないけれど大方、動物誘拐はこの人達が犯人という見立てで間違いないと思う。しかし、何故彼らが……恐らくはティパちゃんは動物を誘拐などしたのだろう。
そのとき、突然携帯が鳴った。取り出してみると東雲さんからの着信だった。もしもし、と声をかけると和子か、という言葉を置いて東雲さんが言う。
『ハゲタカと連絡が取れた。今すぐ来い』




