第88話 夜のドライブ(前編)
「図書館で火事?」
「正確には火事未遂らしいけどね」
窓の外では冬の風が吹き荒び、木々が大きく揺れている。ノンカフェインのアールグレイを飲みながら、あざみちゃんは窓へと目を向け嘆息した。
とある休日。部活動だという太陽くんを除き、勉強会という名目で喫茶店に集まった私とあざみちゃんは、勉強もそこそこにお喋りに花を咲かせていた。温かな店内で温かなお茶を飲みながらの会話はよく弾む。学校のこと、親のこと、日常のことと話は続き、そんな中で彼女がぽつりと零したのが今の話だ。図書館で火災があったのだと言う。
「図書館って第一区の?」
「ええ、昨晩だったらしいわよ。閉館間際の出来事だったって」
今日の勉強会事態を提案したのは私だが、場所を指定したのはあざみちゃんだった。よく図書館で勉強しているイメージの強いあざみちゃんが喫茶店を指定してきたことがほんの少し意外だったが、そんな理由があったのか。
彼女の話をまとめるとこうだった。
第一区の図書館で昨夜突然、火災報知器が鳴り響き、館内に白煙が立ち昇ったのだと言う。館内の全員が避難し消防車がやって来るという騒ぎになったものの、どこからも火の手が上がらないことを不思議がって突入したところ、多目的トイレから大量の吸殻が見つかったらしい。吸殻にはほぼ吸われた形跡はなく、またゴミ箱から発煙筒が見つかったことから、火事を装ったイタズラだと判断された。
更に閉架書庫から何冊か本がなくなっていることも後に判明したらしい。貴重書ばかりが盗まれていたことから、元々本の盗難が目的で、動きやすくなるために火事を偽装したのだろうと。
「本を盗んで何がしたいのよ」
あざみちゃんが理解できないと言いたげなむくれっ面で言う。火事事件のせいで図書館に行けないことが不愉快でならないのだろう。もうすぐ冬休み前最後のテストが高校でも中学校でも行われるはずだ。少しでも勉強に支障があることは避けたいに違いない。
しばらく話し、ときどき勉強し、時刻は夜になろうとしていた。冬の昼は短く、空はもう大分暗くなっている。ぬるくなったお茶を喉に流し込んで私はさてと立ち上がる。
「今日はもう帰るの?」
「ううん。これから第七区に行くの」
「ああ、バイト」
あざみちゃんは納得したように頷いた。バイト、というぼかした表現を使う彼女に、そうバイト、と私も微笑む。
「勉強ばっかしてて最近できてないから、あたしもたまには息抜きしようかしら」
「勉強とバイトの両立って大変だもんね」
人の少ない喫茶店に、二人の学生の何てことない会話が流れる。私達は喫茶店を出たところで手を振り合って別れた。気を付けてね、と言うあざみちゃんに礼を言うと白い息が口から零れた。
やっぱり外は大分冷える。早く東雲さんに会いに行こう、と私はうきうきとした足取りで駅の方へと歩き出した。
第七区の駅で東雲さんと合流した後、その足取りのまま私達はお喋りオウムへと向かう。歩き慣れた路地を進み建物に着く。こんばんはと言いながらお喋りオウムの扉を開けた私はしかし、あれ、と思わず瞬きをした。
いつもカウンターに座っているはずの如月さんの姿がそこにはない。無人の椅子がそこにあるだけだった。外出中かとも考えたがだったら鍵はかかっているはずだろう。
と、ひょっこりという効果音が似合いそうに、カウンターの向こう側から腕が生えてきた。もそりと動いた腕がカウンターを叩く。水面から顔を上げるように、息を吐いてカウンターの裏から立ち上がったのは埃で汚れた如月さんだった。
「やあ、お喋りオウムへようこそ」
「そんな所で何をやっている」
東雲さんが呆れたように言う。如月さんは笑い、疑問に答えるように腕を持ち上げた。その手に掴まれている本が私と東雲さんの目に入る。
黄ばんだ皮表紙の本。どこかで見たことがある、と記憶を探っていた私は、あっと声を上げてその本を指差した。
「肝試しのとき、太陽くんが取ってきた本!」
夏休み。肝試しに行った館で太陽くんがちゃっかり持ってきていた本だった。あのときの記憶を思い出すと、今でも背筋に怖気が走る。
あの後、あざみちゃんが彼に本をどうしたのか聞いたとき、太陽くんが満面の笑みで言っていた台詞がハッキリと蘇る。
『オウムに売った! 古本屋じゃ買い取ってくれなかったから持っていったらさ、五千円で買ってくれたんだぜ!』
その五千円で買ったという大量の漫画は今頃、彼の部屋の本棚を圧迫しているに違いない。
イヌ? と東雲さんが不思議そうに首を傾げ、しげしげとその本を眺めた。
「珍しい表紙だな。皮か? 何の動物だ」
「知りたい?」
別に、と東雲さんは首を振る。丁重に本を扱う如月さんの姿に疑問を抱いた私は身を乗り出して訊ねた。
「ただの本じゃないんですか?」
「まさか! この内容を見ても、凄さが分からない?」
そう言って如月さんが僅かに本の中身を見せてくる。だがよく分からない数式やら難しい漢字の並んだ論文やらがみっちりと書かれた本というばかりで、それ以上の良さは私には理解できなかった。隣で同じように覗き込んでいた東雲さんも同じ様子で、難しい顔で眉根を寄せている。
勿体ないなぁ、と如月さんは心底嘆いた調子で本を畳む。
「新しい公式に鋭い指摘の論述……。凄いなぁ、どう生きていればこんな本が書けるんだろう。使い道によってはとんでもない物が出来上がるぞこれは」
「さっきから曖昧な表現ばかりだな。とんでもない物って、具体的には何なんだ?」
「癌の特効薬とか」
「そんなのが作れるんですか? 素敵じゃないですかっ」
「もしくは、空き缶一つ分の大きさで核爆弾なみの威力を放つ爆弾が作れるかもしれない」
「……………………」
「『使い道によって』って言っただろ?」
如月さんの言う通り、この本は使い道によって『とんでもない物』ができそうだ。善人の手に渡るか悪人の手に渡るかで大きな違いができてしまうだろう。五千円で喜んでいた太陽くんにはこのことは知らせない方がいいかも。
「二人とも今日は仕事で来たんだろう?」
「ああ」
「ちょうどいい。高報酬の仕事が一件あるんだが、受けてみないか?」
内容は何ですか、と私は聞いた。別段報酬の額は気にしない。重要なのはそれがどういった内容の仕事であるか、ということだけだ。
護衛だ、という答えに私は更に、誰の、と聞いた。如月さんは本を振りながら微笑む。
「俺の護衛」
「……如月さんの?」
「図書館で起きた火災を知っているかい」
私と東雲さんは頷く。それを確認して、如月さんは話しはじめた。
「貴重書が盗まれたことも知っているね? 犯人の目的は何だと思う」
「目的って……貴重な本を売ればお金になるからじゃないんですか?」
「ちょっと惜しいな」
言って如月さんは勿体ぶるように辺りを見回した。東雲さんが如月さんの様子をじっと観察していた。
「この数日、明星市内の情報屋が何件か襲撃されている。デジタル情報から書物として残していたファイルから情報がごっそりと奪われていたらしい」
「情報?」
「価値があるのは何も貴重書やパソコン本体のような物品だけじゃない。知識や情報は場合によっちゃ、物以上に高値が付くからなぁ」
形ないものにだって価値はある。現にこの『お喋りオウム』はそれで儲けているのだから。
「必死に集めた情報を持っていかれるなんてたまったもんじゃない。一旦ここを離れて、情報を安全な場所に保管する必要がある。俺がそこに行くまでの護衛を二人には頼みたいんだ」
「情報を安全な場所に保管って、そんなことできるんですか?」
「できるできる。パソコン内の情報はとっくに他の場所に移動してあるし、書類だってそうだ。今この店にある情報はほとんどがダミーか価値のないもの。唯一の価値がある情報と言ったらこの本ぐらいかな」
如月さんは説明しながらカウンターから鍵を取り出した。鍵に付いた車のキーホルダーが揺れる。
無言で話を聞いていた東雲さんが不意に踵を返したかと思うと、出入り口の扉の横に立ち、腰から銃を取り出した。鋭い目で扉を睨みながら、彼は如月さんに言う。
「それで? その本を奪いに、何人の客がやって来ている」
え、と状況に付いて行けない私は目を瞬かせて如月さんへと顔を向けた。如月さんは戸惑った様子もなく、東雲さんの問いが分かっていたかのような口ぶりで即座に返答する。
「扉の向こうには一人かな」
「たった一人?」
「屋根の上に二人。出てきた所を上から狙うって寸法らしいね」
「……………………」
私もうようやく話を理解した。如月さんが言った、情報屋が狙われているという話。そして今如月さんの手元にある情報がたっぷりと詰まった一冊の本。如月さんがパソコンの画面をくるりとこちらに向けると、そこには監視カメラの映像らしきものが鮮明に映っていた。お喋りオウムの外壁や屋根や周囲の路地を映し出したそこには、この建物の扉前に一人、屋根から身を乗り出すように様子をうかがっている二人の人間が映っている。
「如月さん」
「何だい?」
「何か音が出るもの……爆竹とかってあったりします?」
「あるよ」
あるのか、と東雲さんが思わず呟く。何でも揃っているよと如月さんが笑った。スタンガンや発煙筒やナイフやロープ……危い仕事をやっている以上護衛用の道具は揃っているのかもしれない。
如月さんが持ってきた爆竹を受け取り、東雲さんからライターを借りて両手に構える。
「東雲さん、私が合図したら力いっぱい扉開けてくれます? 開けたらすぐに扉の横に身を隠してください」
「構わないがどうするんだ?」
「怯ませるんですよ。あ、如月さんも絶対カウンターから出てきちゃ駄目ですよ。危ないから」
ずらりと手の平から零れる量の爆竹。一箱分じゃ物足りなかったので何箱分かまとめてある。ライターに火を付け、爆竹に近付けた。東雲さんと如月さんがそれぞれの場所へ待機しているのを確認して、私は素早く東雲さんに合図を出す。
東雲さんが扉を蹴るように開け、指示通りにさっと身を隠す。私は扉が開いた瞬間に火を付けた爆竹を外に投げ、その場にしゃがみ込んだ。
扉の先にいたのは監視カメラに映っていた、マスクで顔を隠した男が一人。その手に構えられていた銃がお喋りオウムへの店内へと銃口を向けていた。だが彼が開いた扉に反応を示す前に、放り投げられた爆竹が彼の胸元辺りで盛大に弾ける。
バチバチという大量の火花が弾ける音。咄嗟の出来事にパニックに陥った男は、反射のままに自分の銃を撃ち放った。けれどその弾丸は誰もいない空間を掠めるだけだ。彼が冷静さを取り戻す前に、私はその足を掴み全力で引っ張った。
「ギャッ!」
倒れた男を店内に引きずり込み、銃を奪って側頭部に鋭い蹴りを食らわせる。ぐわんと頭を揺らした男は気絶はしてないにしても、一瞬意識がぶれたように視線を揺らした。
屋根の上に待機していた男達が動揺する声が聞こえてくる。彼らが下りてくる前に、私は力を振り絞って男の体を持ち上げ扉の外に押し出した。目の前を一発の弾丸が通り過ぎていく。飛び出してきた人間を思わず撃ったものの、それが仲間であることに気が付いたのだろう。屋根の上の二人組が慌てて銃を鎮める様子が聞こえてきた。
私はその瞬間を狙って外に飛び出す。余っていた爆竹に更に火を付け、今度は屋根の上に放った。屋根の上にいた二人の男の足元で爆竹が爆発する。二人が怯んでいる隙を突き、壁を蹴り上げて屋根に手をかけ、そのまま屋根の上に飛び乗った。
「っち!」
反応が早い方の男が私に銃を撃った。一瞬早く私はその場から離れ、屋根を蹴って男の懐へと飛び込む。ナイフでその腕を深く切り裂いた。ぶわっと浮き出した血が袖を瞬く間に濡らしていく。痛みに蹲った男を足蹴にして屋根から落とす。咄嗟に屋根に捕まろうとした男だが、血でずるずると屋根を汚してそのまま呆気なく落ちて行った。
残った一人は僅かに怯えた目で私を見ていたが、それでも気を奮わせるように拳を握って襲いかかってくる。顔面へ向かって来た拳を、足を滑らせるようにしゃがんで避けた私は、一人目と同じように彼の足を払う。よろめいた男の服を引っ張って完全に横倒しにすると、私は彼の腹に跨るように座り、ナイフをその眼球すれすれに向けた。
「あなた達で全員ですか?」
訊ねてみたが、彼は怯えているのか情報を漏らさないように言われているのか、唇を噛み締めて微動だにしなかった。
パン、パン、と二発続いた発砲音が聞こえてピクリと肩を揺らす。男は私以上に肩を跳ね上げていた。その十秒後に、地面を蹴って私と同じように屋根を上がってきた東雲さんは、白煙の上がる銃を振りながら私達の元へと近付いてきた。お前らで全員か、と同じことを尋ねた東雲さんに私が首を振る。
「それがこの人全然口を割らなくて」
「そうか。――お前も仲間と同じになりたいか」
東雲さんが銃口を彼の左胸に押し付ける。ビクッと顕著に体を震わせた男はそれでも口を開かない。呆れた溜息を吐く東雲さんと私に声がかかったのはそのときだった。
おーい、と下から声がする。東雲さんに男を任せてそっと屋根の下を覗くと、一台の銀色の車がそこに止まっていた。運転席から顔を覗き出しているのは如月さんだ。ぶんぶんと手を振って私達を見上げ、早く来いよと笑う。
「どうします?」
私が東雲さんに首を傾げると、東雲さんはむっと唇を尖らせて男から離れようとした。男がチャンスを逃さないとばかりに目を輝かせて上体を起こす。その懐から鋭く輝くナイフが取り出されようとして――東雲さんが引き金を引く方が先だった。
屋根を下り、血を流して倒れる二人分の死体を飛び越えて如月さんの車に乗り込む。私は助手席で本を大事に抱え、東雲さんは後部座席で後ろを確認している。普段あまり使っていないのか内部に飾りっけは一切なく、少しゴム臭い。後部座席にバイオリンケースやトランクなどが無造作に置かれていることから、物置として使用しているのかもしれない。
如月さんはすぐに車を発進させた。静かに走る車は滑るように路地を抜けていく。車が通れるギリギリの幅の道を選んで進むが、如月さんが車をどこかに擦ったりすることはなかった。
「運転できるんですね」
「まあ免許は一通り持ってるから。中型も大型二輪も運転できるんだぜ」
そんなに上手くはないけど、と言いながらも如月さんは軽やかに車を運転させていた。揺れも少なく音も静か。まるでドライブを楽しんでいるかのような心地になって、私はシートに深く背をもたらせた。
大通りに出ると車も一気に増えてくる。周囲の建物のネオンや車のライトが、暗い夜を華やかな明るさに満たしていた。
如月さんが段々と車の速度を上げる。ゆっくりと走る車を追い越し、ブレーキを踏むことはない。黄色信号を超加速度で抜けたとき、私は思わず隣の如月さんの顔を見た。
「き、如月さん? 少し早すぎませんか?」
「速度を落としたら追い付かれてしまうだろう?」
「追い付かれる?」
「後ろを見てみなよ」
言われるままに振り向いた。後部座席に座っていた東雲さんが足元に置かれていたバイオリンケースを開けて中身を取り出す。それは普段彼が使っているのと似た、いくつもの銃だった。
東雲さんがそれを構えて後ろを見る。車の窓の外。普通の速度で走る車が数台。と、その車の陰から一台の車が姿を現した。黒い色をした普通自動車。私がポカンとその車を見つめていると、それは赤信号にも構わず突っ込んでくる。みるみるうちに速度を上げたその車は私達の車のすぐ後ろまで迫って来ていた。
東雲さんが僅かに窓を開け、銃で後ろを車に狙いを付けた。パンッと軽く弾が弾ける音。しかし突然銃を撃たれたというのに後ろの車は一向に速度を落とさず、ましてや更にスピードを上げて私達の車を追っていた。ここまで来れば私も理解する。後ろにいる車の狙いは私達だということを。
「う、わ……っ!」
交差点、左の道路から弾丸のように車がもう一台飛び出してきた。如月さんが咄嗟に右にハンドルを切る。ギリギリのところで突撃を免れたものの、その車は今まで私達を追っていた車と横並びになって私達を追ってきた。見れば車の更に後ろ、もう二台のバイクがほぼ同じ速度で走っている。
二台の車に二台のバイク。どんどん増えていく追手に私の焦りが膨張していく。腕に抱えた本を強く抱きしめた。あの人達の狙いがこの本なのだとしたら、手から振り解けないようにしなくてはいけなかった。
東雲さんが銃を連射する。相手の車の窓ガラスに一発が当たるも、ガラスには小さなヒビが入っただけで相手が速度を緩めることはない。如月さんがハンドルを大きく回す。甲高い悲鳴のような音を上げて大きく車体が右へ揺れる。横断歩道を渡ろうとしていた歩行者が驚いた顔で立ち竦んだ、その僅か十センチほど先を車体が横切る。道路の真ん中に落ちていた小石をタイヤが踏み、車体が大きくバウンドした。
「オウム! もっと安定させろ、狙いづらい!」
「悠長なこと言ってると追いつかれちゃうぞ?」
「早い早い早すぎますよ如月さん!」
如月さんはアクセルを踏み込み続ける。速度は一向に緩まることはない。速度メーターの示す数字はぐんぐんと上がっていく。六十、七十、八十――――。
いつしか私はシートに爪を立てて必死にしがみ付いていた。体中にかかるGが恐怖を膨らませる。手汗と激しい心臓の鼓動に身を強張らせ、拘束で流れていく車窓の景色にただただ目を見開く。
高速道路であればまだ障害物がない分良かったのに。ここは一般道、それも街中だ。建物、歩行者、対向車……如月さんがほんの少し操作を間違えば私達なんてひとたまりもない。
「ああもうしつこいなぁ! 早く諦めちまえよ、本一冊くらい!」
「うわあぁっ! 如月さん、前見て、前!」
窓から顔を出して後続車を煽る如月さんの袖を引っ張る。おっと、と彼はハンドルを操作して目の前に駐車していたトラックを避けた。ブレーキ音が激しくなる。タイヤがアスファルトを焦がす。
チュンッと小さな音がすぐ横から聞こえてきた。一発目を茫然と聞いていた私は、二発目の同じ音に顔を青くする。撃ってきた、と私が振り返ったのと同時に車が大きなカーブを描いて曲がる。すぐ後に、先程まで車が走っていた場所に雨粒のように弾丸が叩き込まれていた。
「オオカミ、追手を全員撒けたりするかい?」
「ごく短時間は牽制できたとしても、あの人数じゃあすぐ追いつかれるだろうな」
「ちょっとでいいさ」
「……分かった」
東雲さんは少し訝し気な顔をしながらも銃に弾を込める。その間に如月さんが前を見たまま私に言う。
「ダッシュボードにノートパソコンが入ってるから取り出してくれる?」
「は、はい……これかな?」
「そうそれ。あと、いつでも車を出られる準備をしておいてくれ」
首を傾げながらも私は頷く。
東雲さんが窓からそっと身を乗り出して後ろに狙いを定め、引き金を引いた。だが彼が狙ったのは追手の車ではなく、その前方を走っていた大型トラックの窓ガラスだった。誰もいない助手席の窓ガラスにヒビが入る。運転手が驚いてブレーキを踏んだようだが、左折しようとしていたトラックはまっすぐ止まることができず荷台を道いっぱいにはみ出すような形で止まってしまった。
何台もの車がブレーキを踏む音、トラックに対する抗議のクラクションが背後で鳴り響く。ちらりと後ろを振り返ってみたものの追手の姿は一時的に見えなくなっていた。一瞬とは言えできた時間にほっと胸を撫で下ろす。
如月さんは車を走らせ、赤信号の路肩に駐車した。手際よくシートベルトを外し、運転席のドアを開ける。
「席を変わってもらえるかな」
「え、はい」
急いで自分のシートベルトを外し運転席へと移動する。外を回って助手席に座った如月さんに小さなノートパソコンと本を手渡した。彼はパソコンを開くと何やら指を動かしながら私に告げる。
「じゃあ座ったままで後ろが見える位置にバックミラーを動かして。もう追って来てる?」
「まだ大丈夫です」
「シートの高さを調整して、シートベルトを締めて」
「はい」
「ブレーキを踏んだままハンドブレーキ……このレバーを下ろす」
「はい」
「ハンドルを掴んで」
「はい」
「発進して」
「はい。……はい!?」
ギョッと横の如月さんに顔を向けた。後部座席から東雲さんも、はぁ!? と驚いた声を上げる。
けれど如月さんは冗談だと否定の言葉を吐かない。ただ微笑んだままコツコツと指でバックミラーを叩く。鏡を見て、また目を見開いた。追手の姿が小さく映っている。振りかえれば、二台の車と二台のバイクがぐんぐんと距離を詰めてきていた。東雲さんが銃を撃つも、相手との距離は広がらない。
「アクセル。右足を踏んで」
「で、でもっ!」
「いいから」
後ろからは追手が迫ってきている。目の前の信号が青になり、止まっていた車が走り出す。私は泣きそうになりながらああもう、とハンドルを握りしめた。
「どうなっても知りませんから!」
自棄になってそう叫び、私は思いっ切りアクセルを踏み込んだ。




