第83話 売春
「お姉さん一人? そこのバーの酒が結構美味いんだけど、飲みに行かない? 奢るよ?」
「ごめんなさい。人と待ち合わせしてるので」
いいじゃん行こうよとしつこく誘ってくる若い男性。けれど私がつれないことを悟ると、諦めて去って行く。遠くなるその背を見て静かに溜息を吐いた。
ナンパされることに慣れてなんかない。こんなとき真理亜さんならば難なく相手をあしらうこともできるのだろうが、私はそうはいかない。この場所に数時間立っているだけで三回も声をかけられたが、その全てにおいて上手くかわすことなどできなかった。
だがそれほど声をかけられるのは、決して私にモテ期が到来したとかそういうことではない。話しかけてきた人の一人、会社員らしき男性が去り際に吐き捨てた「紛らわしい格好しやがって」という言葉がいまだ耳に残っている。
黒のチューブトップ、背中が大きく開いた荒い網目の灰色ニット、デニムのショートパンツ、ダークブラウンのロングブーツ。真理亜さんにやってもらった化粧はなんだか目のあたりがキラキラと輝いていて、バサバサと伸びたまつ毛が落ち着かない。服の系統もメイクも、普段の私とはまるで違った。
「はぁ…………」
深呼吸をすると、冬を微かに感じさせるような肌寒い夜風が肺を満たす。寒さを誤魔化すように、私は胸元まで伸びた茶髪を弄る。最近のエクステはこんなにも自然に見えるものなのかと、鏡でみたときに驚いたものだっけ。
第七区の駅前広場を明るく照らすのは、ビルの明かりや街灯。音楽代わりに聞こえてくるのは辺りの賑やかな話し声。綺麗に着飾った女の子達と、それに対を成す男の人達。五万、ホテルで。そんないかがわしい言葉が飛び交っている。
こんな場所に立っているのも紛らわしいんだ。
そんなことを思ってもみたが、こんな場所に立っているのも、こんな格好をしているのも、あながち紛らわしいことだとは言い切れない。
だってこれから私がしようとしていることは。売春、援助交際、いわゆるそう呼ばれることなのだから。
「っ」
広場の外。駅の方面からこちらに歩いてくる一人の男性を見つけた。彼は広場をちらりと一瞥したものの、中に入ることはなくそのまま通り過ぎて行こうとする。私は不自然にならない早足で広場を出て、その男性の背を追いかけた。
「お、おにーさんっ!」
振り返った男性はキョトンとした目で私を見下ろした。緊張で震えそうになる声を押し殺す。ここで気後れしていては、せっかくの準備も台無しだった。
私は精一杯、自分にできる最高の笑顔を浮かべ、媚びを孕んだ甘い声で囁いた。
「私と……いいことしませんか?」
事の発端は、数日前にさかのぼる。
「妹を殺した犯人に復讐がしたいんです」
秋の暮れ、冬の気配を僅かに感じる頃。お喋りオウムのカウンターに座る女性はそう言った。
仕事のために東雲さんと訪れたお喋りオウム。だが今夜は先客がいたらしい。カウンターを挟んで如月さんと会話する一人の女性がいた。
「まだ中学生だったのに。まだまだこれからだったのに。あの子を殺した犯人が憎くて、憎くて、どうしようもないんです」
私達のような業界の人間ではない。黒髪をしっかりとまとめた大学生くらいの女性は、どう見ても一般人だ。しかしわざわざ第七区の裏路地にある店に来て、そしてこんな台詞を吐いているということは、この店がどんな場所かも承知しているのだろう。
彼女は後から来店してきた私達に一瞬顔を向けたがすぐに視線を如月さんに戻す。次の客だとでも思っているのかもしれない。私と東雲さんは隅のソファーに腰かけ、聞こえてくる女性の話を耳に通した。
「妹とは長い間ろくに口も効いていませんでした。私とあの子はソリが合わなくて……。夜遊びを繰り返していたあの子に注意しても、うるさいと言われて無視をされるだけで。でも、でもこんなことになるくらいなら、やっぱり止めるべきだった……」
女性は青いフレームの眼鏡を取り、ハンカチで顔を覆う。如月さんは励ますような言葉を投げかけ、しかし同情してはいなさそうな表情で女性の話を促す。
「それで、妹さんはどんな風に殺されたんです?」
「あの子は、首を絞められて殺されていたって警察の方が言っていました」
「場所は? 犯人に心当たりは」
「場所はその……第七区の、ホテル……だそうで。妹は彼氏と呼べる人も何人かいましたけど、毎回長続きはしなかったり二人と同時に付き合ったり。恨みをいくらか買っていてもおかしくはないです」
如月さん達の会話はしばらく続いた。けれどそれ以上手がかりとなるような情報を女性が持っていることはなく、何度も頭を下げて女性は店を出て行った。扉が閉まって少し経ったのを確認し、如月さんはギシリと椅子の背もたれに寄りかかりながら言う。
「出番だ。オオカミ、ネコ」
「引き受けよう」
東雲さんが即答する。
「とりあえず被害者と関わりのあった人間を全て知りたい。さっきの依頼主の話を聞く限り、率直に考えれば私怨か?」
「その可能性も高いけど……実は似たような案件を既に一つ、依頼されているんだよな」
「似たような案件?」
訝しむ東雲さんと私に如月さんは頷き、説明を始めた。
「依頼を受けたのは半月前。第七区のホテルで死体が発見されたんだ。被害者は十五歳の女子高生、死因は首を絞められたことによる窒息死。遺体の写真、見るかい?」
遺体の写真などどうやって手に入れたのだろう。如月さんが渡してきた写真を見て、東雲さんが嫌そうに眉を顰めた。気分のいいものではないと知りながらも私も写真を見て、ぐっと唇を噛む。
薄暗い部屋に置かれた大きなベッドに全裸の少女が横たわっていた。凹凸の目立つ化粧で顔を派手に見せているものの、白目を剥き、半開きの口からだらしなく舌が垂れている顔は悲惨だ。股の間から漏れた尿がシーツを濡らしていた。だけど何より、一番目がいくのは彼女の首だ。彼女の首部分はテラテラと妙な色合いに光っていた。首周りのシーツも少し濡れているように見える。薄暗い部屋の写真だ、それがどんな色をしているのかはよく分からない。だがきっと私が人を刺したとき、よく見てきたものと同じ色をしているのだろうと思う。
「皮を剥がしたんだろうね」
あえて口にしなかったことを如月さんが言う。不快感に眉根を寄せつつ、疑問を尋ねた。
「皮って……どうして?」
「証拠隠滅のためさ。恐らくその子は扼殺されたんだろう。道具を使わずに素手で殺せば、爪痕なんかの痕跡が残る。それを隠すために犯人は遺体の首の皮を切り取った。完全に隠せるかどうかは分からないが、多少の誤魔化しは効く」
死体の話はもういい、と東雲さんが固い声で拒絶する。鋭い視線が如月さんに注がれた。
「今の話と今回の依頼。二つが繋がってるというわけだな?」
「その通り。もっと正確に言えば、同一犯の可能性が高い」
こんな惨いことを平気でする人がどこかにいる。一人では飽き足らず二人も殺すだなんて、放っておいたら更なる被害が出てしまうかもしれない。
こちらでも情報は探る、と如月さんが言った。いまだ犯人を特定できるような情報がない以上、私達も動けない。
「一つ目の依頼は真理亜に頼んでいる。あっちからも何か情報が手に入ったら伝えよう。オオカミ、ネコ、お前達はまず犯人の特定に協力してほしい」
承諾の返事をする。
次の犠牲者が出る前に、私達で犯人を捕らえたかった。
一人目の被害者も、二人目の被害者も、第七区で殺されていた。だったら犯人は第七区に潜んでいる可能性が高い。
駅前の広場は賑やかだった。真っ暗になった夜の中、街灯や建物の明かりが広場全体を照らしている。夕方からずっと張り込んでいるというのに、一向に人の数が減ることはない、それどころか増えている。待ち合わせに使われやすい場所だから、辺りには人を待っている風貌の人が多かった。
携帯を弄ってぼんやりしている中学生くらいの女の子、同伴待ちらしいキャバ嬢さん、近くにいた初対面らしき男性と親しげに話す露出の多い寒そうな格好をした女の子、近くにいる女性に手あたり次第に声をかけている男性。風俗街が有名な第七区。いわゆる、そういう目的でいる人が目立っていた。
私もそういう目的でいるように見えるのだろうか。ときどき、近付いて話しかけてくる男の人もいた。隣の東雲さんが私の連れだとは思っていなかったらしい。だが彼が睨みを効かせると皆、怯えたような顔で逃げていく。私はできるだけ東雲さんの傍に寄り添って、フードを目深に被って顔を隠した。
「あの人とか怪しくないですか? ほら、マスクしてる猫背の人」
「あれはただの病院帰りだろう。手に持ってる袋に病院の名前が書いてある」
「そっかぁ……案外難しいですね、怪しい人を見つけるのは」
「外見で人は判断できないからな。見た目が普通の異常者だっていくらでもいる」
人は見かけによらない、そんなこと今までの人生で嫌というほど分かっている。いい意味でも悪い意味でも。
せめて見た目からして怪しい人物だったら探すのも楽なのに、と心中で嘆息した。目の前を通り過ぎていく人々を観察してからふと今まさに広場を出て行こうとする男女に目がいった。
センター分けの髪をした、優しそうな顔をした男性。大学生くらいだろうか。そんな彼の隣に寄り添うように歩いているのは金髪を後ろでお団子にまとめた女性だった。ここからでは後ろ姿しか見えないものの、男性に親しげに話しかけている。
彼らは広場のすぐ外に停まっていた、恐らく男性のものだろう車に乗り込もうとする。ダッシュボードにオシャレな置物が置かれた、よくあるシルバーの車だ。助手席の扉を開けて乗り込もうとした女性の横顔がチラリと見えた。
「え?」
一条さんの顔だった。
いつもよりも濃い化粧をして、私の前では一度も見せたことのない甘えるような笑顔を浮かべている。水色のプリンセスコートにしっかりまとめた髪という見たことのない私服姿だが、それでも彼女だと瞬時に悟る。
私の様子に気が付いたらしい東雲さんが不思議そうな視線を向けてきたものの、応えることはせず一条さんを凝視した。何故こんな場所に。男性はお兄さんなのか、それとも彼氏か。
「…………っ」
唇を噛む。お兄さんなわけがない、だって兄弟にあんな媚びた顔をするものか。彼氏というのも微妙だった。こんな場所でわざわざ待ち合わせをするカップルがいるのか。とすれば考えられる理由は……。
違うかもしれない、考えすぎかもしれない。でももし、あの優しそうな男性が犯人であるとしたら? もしも、もしもそうだとしたら、ここで止めなければ彼女は。
突然走り出した私を周囲の人々が訝しげに見つめてくる。一条さんと、運転席に乗り込もうとしていた男性がこちらを振り返ったとき、私は一条さんの手を掴んで広場の外へ駆け出した。驚きと非難の声を上げながら、一条さんは私に引っ張られるままに走る。
路地を曲がって煌々と明かりの灯るコンビニの前まで来たところで、一条さんが無理矢理私の手を振り解いた。振り向いた瞬間彼女の罵声が飛んでくる。
「ちょっと誰よあなた! 急に何するの、この変態!」
「待ってよ、私だよ、一条さん!」
フードを取って彼女の前に顔を晒す。秋月? と僅かに目を丸くした一条さんは、みるみるうちにその顔を険しくさせ、苛立ちを発散するように私の脛を蹴り付ける。
「ああもう、走ったせいで髪が乱れちゃったじゃない。汗で化粧滲んでるし、ほんっと最悪!」
「ね、ねえ、何してたの。あんな所で」
「……分かるでしょそれくらい。ホテルよ、ホテル。分かる? ファッションホテル、ラブホテル、なんて言ったら理解する?」
「それくらい分かるよ! 分かる、けど……一条さんまだ十七でしょ? 未成年だよね! さっきの人は彼氏さんなの?」
「違うわよ、あっちから話しかけてきただけの知らない人だもの。それよりそっちこそ、こんな時間にこんな場所で、何してるの?」
私が言葉を詰まらせたのと、和子、と背後から呼びかけられたのはほぼ同時だった。
「急に走り出すな。驚いたぞ」
駆けてきた東雲さんにすみませんと謝った。私と東雲さんを交互に見た一条さんは、ああ、と納得がいったように嫌な笑みを浮かべた。
「何だ。人のこと言っといて、秋月も私と同じ目的なんじゃない」
「違うよ! 私と東雲さんはそんなんじゃ……」
「あーはいはい、言い訳はいいから。それよりどいてよ。早く戻らなきゃ」
「さっきの男なら、あの後他の奴に声をかけられて車に乗り込んでたぞ」
一条さんが顔を怒りに歪ませる。悪態をつこうとしたのか口を開きかけ、少し躊躇ってから溜息だけを零した。肩を落として歩き出す彼女に訊ねる。
「どこに行くの?」
「帰る。今日はもういい、気分じゃなくなった」
けれど数歩歩いたところで一条さんはまた顔を歪めた。歩く速度はゆったりとして、おぼつかない。どうしたのだろうとよく見てみれば、彼女は右足を庇うようにして歩いていた。
高いヒールのショートブーツ。ただでさえ歩きづらそうな靴だ。さっき私が無理矢理引っ張ったとき、足を痛めてしまったのかもしれない。
「大丈夫? 歩けないなら、送っていくよ?」
「いい、放っておいて」
「でもそのままだと帰れないんじゃない?」
一条さんはギロリと私を睨んできた。構うな、という意味なのは分かるが、私の責任でもある以上放っておきたくはなかった。
東雲さんに視線を送る。彼は顎を引くように頷いて言った。
「家まで送ってやれ。これ以上いたところで今日はもう意味もないだろう」
「分かりました」
「何であなた達が勝手に決めてるのよ! 一人で帰れるって言ってるでしょ!」
「でも痛むんでしょ? せめて、近くまでは送らせてよ」
東雲さんに別れを告げ、私は一条さんに肩を貸して歩き出す。彼女はなおも最悪だと愚痴を呟いていたが、私の肩から手を離すことはなかった。思っていたよりも痛みが強いのかもしれない。
タクシーを止めて乗り込む。住所を尋ねると、渋々といった顔で一条さんは住所を口にした。走り出すタクシーの中、一条さんは始終むくれっ面のまま外を眺めていた。もうすぐ着きますよ、と運転手さんが言って赤信号で止まる。
「ここでいい」
「え、一条さん?」
私が止める間もなく一条さんはドアを開けて出ていってしまう。慌ててお金を払い私もタクシーから降りて一条さんを追いかけた。この辺りは住宅街らしくぽつぽつと家が建っている。だが時間帯もあってか、ほとんどの家は電気が消えており少し寂しげな雰囲気が漂っていた。ゆっくりと歩く彼女に追い付くのは容易い。だが追い付いた私に一条さんは舌打ちを返してきた。
「どうして秋月まで降りるのよ。そのまま自分の家に帰れば良かったじゃない」
「だってまだ足痛そうだったし。近くまで送るって言ってるでしょ」
「すぐそこだからついてこないでってば!」
「……もう! どうしてそんなに頑固なの!?」
「あなたに家を知られるのが嫌だからに決まってるでしょ!」
住宅街への迷惑もはばからず、私達は互いに噛み付いて騒いだ。荒げた声が夜の住宅街に響く。
一件の家の扉が開いた。そこから寝間着姿に上着を羽織った中年の女性が姿を見せる。私達の騒がしさに起こしてしまったのだろう。ようやく我に返った私がすみませんと謝ろうとする前に、その女性はまだ私に噛みついてくる一条さんを見て目を丸くした。
「えりな?」
女性に気が付いた一条さんは苦虫を噛み潰したような顔をした。すぐ、苛立ちを含んだ声音で言う。
「まだ起きてるの。出てこないでよ」
「ごめんなさい、声が聞こえてきたものだから目が覚めて。……そちらの方は? お友達?」
「関係ないでしょ」
一条さんはそう言った直後、苦しそうに眉根を寄せて足を擦る。その様子を見ていた女性は心配に表情を曇らせた。
「えりな、どうかしたの。足が痛いの?」
「あ……その、一条さんが転んで足を捻ってしまって。それで私が連れ添ってきたんですけど」
余計なことを、と一条さんが非難がましい目で私を睨む。ついでとばかりに手の甲を抓られた。そうなの、と女性は申し訳なさそうに息を吐く。
「ありがとう。あ、申し遅れました。えりなの母です。えりな、せっかくなんだから家に上がってもらいなさい」
「は!? どうしてこんな奴を家に上げなきゃいけないのよ!」
「そんな口の利き方しちゃいけません! 送ってもらったのよ、お礼は言ったの? お茶くらいなら出せるから」
「ああ、いえそんな、お構いなく!」
そう言ったものの、一条さんの母だと名乗ったその女性はどうしても私を家に上げたがっているようだった。お茶を出してもてなさなくては気が済まない、とでも言いたげだ。
一条さんもそのことは察しているようだった。本当に最悪、と今日だけで何度も聞いた言葉を口の中で繰り返している。そんな娘の態度を知ってか知らずか、一条さんのお母さんは笑顔で私を招く。
「……余計なこと喋ったら殺すから」
隣で一条さんが囁くように言って家に入っていく。私は一条さんの着ている今流行のコートの背中を見て、それから彼女の家を見上げた。
こじんまりとした二階建て。新築とは言えない、大分年季の入った建物。壁や屋根にはヒビやこびり付いた汚れが目立ち、お世辞にも綺麗な建物とは言えない。
「……お邪魔します」
そうして私は一条さんの家に上がることになった。




