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第79話 準備、そして当日

 翌日から早速猛練習が始まった。空き教室にて、私達は全員で役の台詞を読む。小道具を作りながら一年生の二人も私達の練習を眺めていた。

 本物のオペラのように歌いながら劇をするのは初心者の私達には難しい。普通の劇と同じように、淡々と台詞を読んで物語を進めていく。けれどその分、言葉や表情で人物の感情を表現しなければならない。


「『人の声が聞こえたわ。誰と話していたの? 何故扉が閉まっていたの?』」

「えっと……『君とだ。番人が扉を閉めろと言ったのさ』」


 鈴木さんが手を叩いて会話を止める。振り向く私達に彼女は言った。


「一条さん、ここはもう少し感情を押し殺すように言った方がいいかも。嫉妬を吐き出す一歩手前みたいに。秋月さんはもう少し大仰な読み方で。……よし、じゃあ一回初めから流してみよう。最初のアンジェロッティの台詞からいくね。――……『ああ、馬鹿げた恐怖で、全ての顔が警官に見える!』」


 流石、鈴木さんの演技は上手かった。張るような声、瞬時に役に切り替わる表情。目の前にいるのは鈴木さんではなくアンジェロッティそのものだと錯覚するほどに。

 クラスではそれほど目立たない彼女だが、演劇部というこの場では生き生きと輝き、まるで性格が変わったかのようだった。思い返せば私達を引き入れるときもやけに積極的だった彼女。やっぱり好きな物は、人を変えるのだろう。

 一時間ほど練習をして休憩時間になった。近くの机に座って飲み物を飲んでいた一条さんが、そういえば、と呟いた。


「あと一人必要だったわよね。どうするの?」

「それなら今朝、ちょうどいい人が見つかったんだよ。部活やってる人だから、そっちの作業が一段落してから来るって言ってたんだけど」


 と廊下の方から足音が近付いてきた。タイミングのいいそれに、来たかな、と鈴木さんが声を弾ませた。

 教室の扉が丁寧にノックされる。続いて廊下から顔を覗かせた一年先輩が、教室にいた皆に笑顔を向けた。


「演劇部の活動場所はここで合ってるかな?」

「キャアッ、昴先輩!」

「げっ、一年先輩……」


 対称的な声で彼を迎える一条さんと私。やっほう、と気さくに手を振りながら先輩は教室に入ってくる。待ってました、と新しい台本を手に駆け寄る鈴木さんの姿を見て、私は引き攣った声で言った。


「もしかして最後の一人って……」


 私の言いたいことを悟った様子で先輩が微笑む。鈴木さんから渡されたばかりの台本を突き付け、楽しそうに笑った。


「スカルピア役、三年の一年昴です。文化祭までどうぞよろしくね」


 一条さんが目を輝かせる。演劇部の三人がよろしくお願いしますと嬉しそうに言う。その中でただ一人、私だけが表情暗く項垂れていた。

 まさか彼と共に舞台に上がることになるなんて。落ち込む私に構わず一年先輩はこちらに寄ってきたかと思うと、よろしく、と無理矢理握手をしてきた。



「『憐みを! マリオ、どうか私に憐みを!』」

「一条さん、スカルピアを見るときの視線はもっと複雑に。何故トスカは最期、恋人の名前ではなく憎きスカルピアの名を呼んだのか? それを考えて演じてみて」

「『世界は我々に微笑んでいる。自由の勝利だ! 見たかスカルピアよ、死刑執行人よ!』」

「秋月さんはもっと真に迫って。拷問されても屈しなかったカヴァラドッシの苦痛や怒りを、ここで一気に熱狂的な喜びとして爆発させるの」

「『死にぞこないめ。行け、行くのだ。死刑執行台へ。さあ行け!』」

「スカルピアはカヴァラドッシの言葉に単純に怒っているわけじゃない。これで恋人を助けるという名目でトスカを自分の物にできる。そこを踏まえて、もう一度お願いします昴先輩」


 何度も皆で台詞を合わせる。指導役の鈴木さんは途中途中、手を叩いて流れを止め、真剣な顔で指示を出す。演劇にとことん熱い彼女の指示に私達は必死で応えた。

 そうするうちに時間はどんどん過ぎていき、気が付けばもう外は真っ暗だ。夏も終わって日が落ちるのも早くなっていく。練習を終え、皆で帰り支度をして帰路につくことにした。

 車の明るい光が次々に私達を通り越していく。グラウンドの方から聞こえる野球部の声、通りすぎる車から聞こえる音楽、コンビニの明かり。ぼんやりと夜の光景を眺める私の耳に、後ろを歩く一条さんと一年先輩の会話が聞こえてくる。


「先輩って演劇とか興味あったんですか?」

「見るのは好きだけど、やるのは苦手かな。演技するのはどうにも下手で」

「えー、そんなことないですよ。すっごく上手でしたよ! 苦手なら、どうして今回の劇をやろうとしたんです?」

「今朝、鈴木さんが困った顔で歩いているところに出くわしてね。困っているなら、苦手でも手助けくらいはできるかなって思ったんだ」


 やっぱり先輩って優しいー、と無邪気に一条さんがはしゃいでいる。二人とも私の前とは態度が大違いだ、と無言で苦笑する。

 と、鈴木さんが私の顔を見つめていることに気が付く。眼鏡の奥の瞳が、私の顔色を窺うように瞬いた。慌てて微笑みを浮かべ、彼女に顔を向けた。


「ありがとう秋月さん」

「演劇のこと? 別に、文化祭どうしようか迷ってたし。力になれるんだったら良かったよ」


 正直ね。鈴木さんはそう言って、逡巡するように視線を泳がせた。細い指で自分の三つ編みをくるくると弄る。


「言い方は悪いけど、誰でも良かったの。とにかく誰でもいいから一緒に劇をしてくれないかなーって必死だった。……でも秋月さん達で良かった。素敵な舞台になるよ、きっと」

「そんな。私、演技も上手くないど素人だし」

「そんなことない。――それに昨日、夏に部員がほとんど辞めちゃったって言ったでしょ? 一年生は何とか二人残ってくれたけど、二年生はわたし一人だけになっちゃって」


 鈴木さんが後ろを振り向く。私も釣られて同じ方向へ視線を向けた。最後尾を歩く一年生二人。同学年だからかお互いに小突き合ったり笑い合ったり、気兼ねなく話している様子だった。

 鈴木さんは彼らとも当然仲が良い。けれどやっぱり、学年が違えばその分共にいる時間は減るだろうし、部長という立場もあってか多少の遠慮はあるのだろう。微笑ましそうな少しだけ寂しそうな顔をした鈴木さんは、だから、と私に告げる。


「秋月さん達が手伝ってくれて、本当に嬉しいんだ」


 できれば教室でも仲良くしてほしいな、と鈴木さんが照れたように笑う。その笑顔にきゅうんと胸が締め付けられた。勿論だよ、と身を乗り出すように告げると彼女は一瞬目を丸くして驚いて、それからとても嬉しそうに微笑んだ。


 分かれ道で鈴木さんと別れ、そのうちに一年生の二人、一条さんとも別れる。残りは私と一年先輩の二人だけだ。

 無言で歩き続ける私の横を、ニコニコと嬉しそうな笑顔で先輩が歩く。家の近くの公園、保良さん達が住んでいた公園が見える所まで来て私は耐え切れずに口を開いた。


「先輩? 家はこっちでしたっけ?」

「ううん、第六区だよ」

「駅は反対方向ですけど」

「知ってる」


 爽やかに白い歯を見せる彼にガクリと肩を落とす。足を止め、私は彼に顔を突き出した。


「まさか家について来ようとしてます? やめてくれますか、迷惑なので。住所とかあなたに絶対知られたくない」

「はは。住所くらいオウムさんに聞けばすぐ分かるだろ。夜だからね、女の子が一人で夜道を歩くなんて危ないだろう。送ってあげる」

「……………………ありがとう、ございます」


 確かに住所程度、如月さんにお金を渡せばすぐバレる。というか、既に先輩なら私の住所くらい把握していそうだ。

 夜道を送ってくれる優しい人。これが一年先輩でなければ、素直にその優しさを喜んでいたのだけど。一条さんや鈴木さんや一年生の子達を放って、私を送るためだけにここまでついてくる彼の優しさは、喜んで受け取りたいものじゃない。


「それにしても、先輩はやっぱり嘘つきですね」

「何が?」

「さっき一条さんに言ってたじゃないですか。演技は苦手だって。本当は苦手どころか、常に演技しかしてないのに」


 先輩は何も言わずにただ微笑みを浮かべていた。私は苦笑して続ける。


「やっぱり人助けは続けてるんですね。演劇部の手伝いなんてやるとは思わなかった。いいんですか? クラスの出し物とか、美術部の作品展示とか、色々忙しいんじゃ?」

「今年の三年生はクラス展示じゃなくて学年展示だからね、僕一人くらい抜けても大丈夫さ。演劇部を手伝おうと思ったのはそうだな、鈴木さんに話しかけたとき、劇には既にスケットとして二年生の子が二人出るって聞いたからかな。その中に和子ちゃんもいるって言ってたんだよ」

「……もし私が出なかったら?」

「美術部も展示作品を描くので忙しいから」


 話を聞くだけ聞いて断る気だったなこの人。

 でも残念だ、と彼は嘆息して頭上を見上げる。ジリジリと点滅する電柱に蛾が集っていた。


「僕が演じるスカルピアって、どうも台本を見た限り、和子ちゃんがやるカヴァラドッシと対立する仲らしいじゃないか。絡みもあまりないみたいだし」

「現実でも対立してるんだからお揃いでしょ? いいじゃないですか、スカルピア。確かヒロインのトスカを狙う役でしたよね」

「そうそう。麗人トスカに無理矢理迫ろうとする悪役スカルピア、最期はトスカにナイフで刺されて死んでしまうけれど。あーあ残念、どうせやるなら狙うのも刺されるのも、和子ちゃんが良かったのに」


 はは、と乾いた声で笑う。彼がその役をやると決まったとき、鈴木さんは優しい先輩に似合わない役だと言っていたけれど、女性に無理矢理迫ろうとするところも下劣なところも一年先輩の本性ピッタリだと私は思う。

 でも当のトスカ役である一条さんは一年先輩の役にとても喜んでいたっけ。トスカはスカルピアを拒絶していたのに、一条さんのあの様子じゃあむしろ自ら一年先輩に擦り寄っていくんじゃないだろうか。……ああ本当に私と一年先輩の役が敵対する仲で良かった。友人や恋仲のような良い関係の役だったとしたら、絶対上手く演じられないだろうから。


 マンションに着く。コンシェルジュさんがいるから中までは入ってこれないし、入れる気もなかった。それじゃあ、とマンションに入ろうとする私に一年先輩は優雅に手を振って目を細める。


「おやすみ和子ちゃん」

「……おやすみなさい」


 私がマンションに入るまで、先輩はずっとその場に立って私を見送っていた。文化祭までの期間。毎日こうして一年先輩は私を家まで送るつもりだろうか。





 教室の壁に貼り付ける用の大きな紙に、刷毛でべったりと緑のペンキを塗っていく。教室中をペンキでカラフルに彩れば視野的に映えるだろう、という誰かの発案だったが、こうして紙いっぱいを塗る単調な作業は飽きるし疲れる。ずっと四つん這いになっていて腰が痛い。ぐっと背を逸らすように伸びをして、ついでに汗の滲む額を拭う。

 いつの間にか腕にペンキが付いていることに気が付いた。汚れないようにとつなぎを着用しているものの、それ自体もあちこちが彩り鮮やかに汚れている。クリーニングに出さなきゃ。腕のペンキが乾く前に洗い流してこようと教室を出て廊下の水道で洗い流す。教室に戻ると、一旦空気がリセットされたせいでむっとするようなペンキの臭いが鼻を突く。窓を開けて換気をしていても、やはり多少の臭いはこもってしまうようだ。

 つなぎ姿の皆があちこちで作業をしている。ペンキが足りない、さっき買ってきたばかりなのに、なんて会話が飛び交い教室は騒がしい。既に時刻は六時を回り外も完全に暗くなっているが、帰宅しようとする人は一人もいなかった。


「えりな演劇部の劇出るんでしょー? いつ、いつ? あや、小夜と一緒に見に行きたーい!」

「二日目よ。時間はえーっと、確かダンスコンテストが終わった次あたり?」

「じゃあ一日目は三人で回ろうか。二日目はえりなの都合とか見て決めよう」


 一条さんと恋路さんと瀬戸川さんの三人が楽しそうにはしゃぎながら刷毛を動かしている。文化祭を一緒に回ろう、あそこの出し物が気になる、などと口々に喋る三人は満面の笑みを浮かべていた。

 私も作業を再開しようか、と移動しかけた。そのとき近くでポスターを描いていた早海さんを見て思わず声を上げる。


「わっ、早海さん凄い。この模様うまーい!」


 早海さんが描いているのは宣伝用のポスターだ。文字用の黒色とコーラルブルー色のみを使ったシンプルなポスターには、複雑な蔦模様のデザインが施されている。

 私の言葉に顔を上げた彼女は照れたように苦笑し、そんなことはないと謙遜を述べた。


「三ツ木さんの絵、見てみなよ。これとかほら」

「えぇ、すっごい! この女の子可愛い!」


 早海さんに言われて隣で同じくポスターを描いていた三ツ木さんを見る。三ツ木さんも恥ずかしそうに微笑みながら私を見た。

彼女が描いていたポスターは早海さんの物とはまた違う。早海さんの作品がシンプルで爽やかなものだとすれば、三ツ木さんのそれは明るい色を散りばめた、派手でポップなポスターだった。

 中央に描かれているのは可愛らしい男女の絵。笑顔を浮かべている二人の絵は、誰が見ても上手いと賞賛するだろう画力だった。確か彼女は文芸部のはずだが、一年先輩がこれを見たら美術部に勧誘してくるんじゃないだろうか。

 私達の声に、周囲の人達が集まってくる。皆が絵を覗き込んで口々に感心の声を上げた。


「すっごーい! 瑠唯ちゃん、デザイン系の仕事できるんじゃない?」

「三ツ木さんプロじゃん! えー、可愛いー!」


 凄いね、と誰かが私に話しかけてくる。頷いて私もまた三ツ木さんを見た。彼女は少し困ったように眉根を下げながらも、それでも嬉しさを隠しきれない顔で近くの子と喋っている。

 しばらく騒いでいると急に教室の扉から誰かが入ってきた。金井先生だ。先生は私達の視線を一身に浴び、ゆるりと笑って両手に下げていたスーパーの袋をもたげる。


「皆さんもうすぐ六時半ですよ。連絡を入れていない方は親御さんに連絡を入れてくださいね。それからこれ、差し入れです」


 言って先生が袋を近くの机に置く。中に入っていたのはパンやおにぎり、ジュースにお茶、そして大袋のお菓子だった。わっと皆が先生の元に群がる。好きな物を取り、思い思いの場所で食べ始めた。


「秋月さんはどれがいい?」

「じゃあこれかな」

「はい、どうぞ」

「ありがとー」


 委員長から缶ジュースを受け取って飲む。冷たいジュースが疲れた体にしみる。ちびちびと缶を傾けながら、私は改めて教室を見回した。皆が協力し合って作成した装飾。文化祭も数日後に迫り、準備も終盤に入っている。普段見慣れた教室が鮮やかに彩られていく様は見ていてわくわくする。

 去年は何かと忙しく、こうした準備にも参加することができなかった。それで皆とは距離ができたと思っていたし、もう二度と皆と絆を結ぶこともない、そう諦めていた。でも今はどうだろう。友達とまでは言えなくても、私もクラスの輪に入ることができているんじゃないだろうか。

 委員長が渡してくれた缶ジュースを擦り、ふっと頬を緩める。たとえこの絆が文化祭というイベントの間だけのものだとしても。それでも、十分嬉しかった。


「……楽しいな」


 ポツリと誰にも聞こえぬように呟く。

 今年は参加できて良かったな。






 文化祭の準備は着々と進む。衣装合わせも済み、クラスの準備も完成し――そしてとうとう当日がたってきた。

 文化祭は二日間に分けて行われる。一日目は学校生のみの文化祭、二日目が校外の人々もやって来る一般公開。

 劇は二日目に行われる。だから一日目私は、クラスの出し物の係をやることになっていた。


「二年二組でボディペイントやってまーす!」


 演劇部の劇は二日目に行われる。だから一日目、暇な私はクラスの係に決められていた。教室でペイントをする係、校舎を歩いて宣伝する係。今の時間は後者を与えられた私は同じ時間に係に入っていた新田くんと一緒に校舎を歩く。看板を持ちながら声を張り上げ、ぐるぐると校舎を回っていた。


「百円でペイントできますよー。文化祭の思い出作りに、ぜひ!」

「可愛いペイント、格好良いペイント、何でもできますよー! いかがですかー」


 通り過ぎていく人達が、私達を凝視する。可愛いと言ってくすくすと笑いながら去って行く背中を見て、私はむぅっと口を尖らせて隣の新田くんに話しかける。


「あのさ。これって顔に描かなくても良かったんじゃない?」

「ペイントだろ? 顔に描いた方が目立つし、宣伝になるじゃないか」

「うぅっ……そうだけどぉ」


 ちょっと恥ずかしい、と近くの水道の鏡に顔を映す。猫の鼻と髭のペイントを描いた私の顔。三ツ木さんに描いてもらったそれはとても可愛かったけれど、少し恥ずかしい。

 宣伝になるさと笑う新田くんを見て、まあ新田くんほどではないかと思い直す。オレンジ色の虎のきぐるみを着て、顔全体にも同じく虎のペイントを施している彼に比べれば。それにしても本当に全身オレンジ色で肌色がほとんど見えない。


「和子ちゃん?」

「一年先輩?」


 二人で話していると後ろから一年先輩の声が聞こえた。名を呼びながら振り返った先にいた先輩はニコニコと微笑んでいたが、同じく振り返った新田くんの顔を見て吹き出す。咳払いをして表情を取り繕った先輩は、苦笑混じりに肩を竦めた。


「随分個性的なメイクだね……。えっと、確かそっちはボディペイントだっけ?」

「そうなんすよ。一回百円で描けるんで、よかったら先輩も来てください」


 和子ちゃんに描いてもらえるなら行こうかな、と先輩は私だけに聞こえるように小さく呟いた。顔全体を白く塗ってやろうか、と考えながら私は笑う。

 新田くんが先輩が出てきた部屋を見て納得したように言った。


「ああ美術室。そっか、美術部の作品はここで出してるんすか?」

「そうなんだ。どうせなら、こっちも見ていきなよ」

「せっかくだし見て行こうぜ秋月!」


 遠慮する間もなく新田くんが私の手を引いて美術室に入ってしまう。部屋の中は何度か入ったときとは変わっていた。綺麗に整頓されているだけでなく机が並べられてできた通路に立てられた薄い壁、そこにいくつかの絵が飾られている。

 空を泳ぐクラゲの絵、可憐な花を手に微笑む女性の絵、アニメチックな男の子が勢い良くパンチを繰り出している絵、美しい朝焼けに照らされるビルの屋上の絵……。流石にどれも上手い。凄いな、綺麗だな、と感嘆の言葉を新田くんが囁く。

 絵の下に描かれた作者の名前を読んでいく。中にはいくつか一年先輩が描いた絵もあった。けれどそれは特に心に訴えかけてくるようなインパクトの強いものではなく、単純に花を模写したものだったり、満開の桜を描いた風景画だったり。いたって普通の絵ばかりだ。チラリと準備室の扉に視線を向ける。この部屋に飾られているのは普通の絵だけだが、扉一枚隔てた向こうには、あの悲惨な絵が並んでいるんだろう。


「こっちの部屋は何もないんです?」


 タイミングピッタリに新田くんが準備室の方に歩み寄る。何故か私の方がビクッと肩を跳ねてしまったが、当の先輩は目を細めて静かに頷くだけだ。


「こっちには没になった絵や描きかけの物しか置いてないよ」

「へー、でもどんなのかすっげえ気になる」

「なんだったら入ってみる?」

「いいんすか?」


 え、と上擦った声を上げてしまう。唖然とする私の前で、新田くんは躊躇なく扉を引いた。鍵なんてかかっていなかったらしい扉は、呆気なく開いてしまう。新田くんと一年先輩がその先に足を踏み入れた。

 待ってよ、と慌てて私も追いかける。もしも先輩が新田くんに何かをするのだとしたら、止めなくては。

 以前入ったときの部屋は、大量のキャンバスが並んでいた。けれど今ここにあるキャンバスは少ない。部屋の隅に寄せられたそれは、どれも描きかけだったり白紙だったり、先輩の言った通りのものばかりだ。しかし二つ、窓際に寄せられたキャンバスに黒い布がかけられている。図面を隠すように覆う布を見て、以前ここに入ったときのことを思い出し胸が脈打つ。

 普段入らない部屋に入ったことで気分が高揚していたのだろう。新田くんは了承を得ることもなく、パッとその黒い布を取ってしまった。


「新田く…………あれ?」


 悲惨な絵が飛び込んできてしまう。そう思って心臓がキュッと縮まったが、布の下から現れた絵を見て、ぱちりと瞬く。それは何てことのない、普通の油絵だった。

 ドレスを身に纏った茶髪の女性。その手の平にキスをする洋風の服を纏った黒髪の男性。背景に描かれているのは大きな十字架で、まるで教会を描いているようだった。


「これって、トスカ?」


 咄嗟にそう思い訊ねると、よく分かったね、と一年先輩が微笑んだ。僕らの劇を描いてみたんだと先輩は続ける。改めて絵画を見ると、男性の方はスカルピアを演じる一年先輩に似ているような気がした。


「演劇部の劇の宣伝用に絵でも描こうかなと思ったんだけど、どうにも上手くいかなくてね。没にしちゃった」

「勿体ない、綺麗に描けてるのに。じゃあこっちは?」


 新田くんがもう一つの絵を指す。そっちは水彩画で描かれた女性の絵だ。美しい金髪と、大きな青い目をした女性の絵。

 そっちは小道具、と先輩が答える。トスカの劇で使う予定のものらしい。そうだ、私が演じる画家であるカヴァラドッシが描いた絵としてこの絵を使うのだろう。小道具の大半は皆で協力して作ったり一年生の子達が頑張ってくれたりしたけれど、絵画という小道具を作るなら美術部の先輩に頼むのが一番いい。

 おかしな絵が飾られているといった予想が外れていたことにほっとする。新田くんがカーテンと窓を開け、窓から身を乗り出して下を見下ろした。賑やかな声が聞こえてくる。


「たくさん屋台やってんなー。秋月、ちょっと外行こうぜ。俺腹減ったよ」


 新田くんは一年先輩に礼を述べ、お腹を擦りながらさっさと部屋を出て行ってしまう。私も出ようと扉へ近付いたとき、後ろから先輩がぼそりと言った。


「気になってる絵なら、アトリエの方に移動させてるんだよ」


 振り返ると、一年先輩は静かな瞳で私を見据えていた。アトリエ、と私も静かな声で返すと、彼は微笑みながら頷く。


「昔叔父が使っていたアトリエをね、もう使わないからって僕に譲ってくれたんだ。和子ちゃんが気になってる絵なら全部そっちに移動してある。文化祭になって部員が出入りするようになったら、流石に置いておけないからね」

「専用のアトリエってことですか。……豪華ですね」

「今度遊びに来る?」


 結構です、と首を振る。あんなおぞましい絵に囲まれたアトリエに行くなんてまっぴらだ。

 廊下の方から新田くんが私を呼んでいる。今行く、と答えてそちらに向かいかけ、また一度振り返って先輩を見つめた。


「私達のクラス、よかったら来てください」

「来てほしいんだ?」

「……クラスの宣伝になるでしょう。それに、文化祭くらいは楽しんでほしいから」


 光栄だな、と先輩が笑う。その笑顔から視線を逸らし、私は新田くんの待つ廊下へと向かった。屋台屋台と声を弾ませる彼に笑いながらふと思う。

 没になったというあの絵。私達の劇を描いていたといったあの絵に描かれたトスカは、茶色い髪の毛をしていた。一条さんの髪は明るい金髪だ、茶の色をしているのは一条さんでも鈴木さんでもなくて、私の……。

 いいや、と首を振る。あの絵が飾られなかった理由なんて私には分からない。思いを払拭し、私は屋台で何を食べようか、そんなことを考えることにした。

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