第75話 恐怖
「開かない? つまらない冗談か何か?」
「冗談なんかじゃない! 本当に開かないの!」
苦笑気味のあーちゃんに、あざみちゃんが怒鳴る。青ざめた顔で必死に扉を開けようとする彼女の傍に近寄りノブに手をかけてみるものの、確かに扉は開かなかった。ノブを回しても、扉は数ミリ以上開かない。
オートロック式というわけでもなさそうだ。第一、オートロックだったにしても外側からしか開かない鍵など聞いたことがない。
「扉の前に何かが倒れてるとか? ほら、強風で木が倒れたりしてるかも」
「でも今日は風が強いわけじゃなかったもの。……どうするのよ、玄関から出れなくなって。どうやって外に出ればいいの?」
「勝手口から出ればいいだろ? 窓なんかもあるだろうしさ」
そうだけど、とあざみちゃんは渋った様子で視線を彷徨わせた。不安がっている様子がひしひしと伝わってくる。
とにかく出口を探すため、私達は二手に分かれて出口を探すことになった。分かれて探した方が早く見つかるだろうというあーちゃんの提案によるものだが、十中八九、早く見つかってほしいのは教授の残した研究文書に違いない。
私と太陽くんとあざみちゃんの三人で、一階の左側の部屋を調べていくことにする。玄関からまっすぐ伸びた廊下の左側、一番手前の部屋に入ることにした。
広い空間だ。ようやく暗闇に慣れた目に、部屋の内装が映る。小さめの冷蔵庫、シンク、食器棚……キッチンだろう。ダイニングとしても使われていた様子で、テーブルが一つ、ぽつんと部屋の中央に置かれていた。
覗き込んだシンクは長い間使われていないせいで、カビや黒い汚れが付着している。横の冷蔵庫を開いて顔を突っ込んだ太陽君は、すぐに鼻頭にしわを寄せて顔を遠ざけた。
「うへぇ、野菜も肉も全部腐ってる」
「電気も通ってないみたいだからね。……うわ、本当だ、酷い」
芽が生えた野菜、ビニール袋の中ですっかり変色した肉が変な色の液に使っている。横の棚に入った牛乳やお茶も賞味期限は相当昔だ。
すえた臭いが鼻を突く。冷蔵庫を閉めて太陽くんと辟易した顔を見合わせていると、部屋の隅からあざみちゃんの声がした。
「いたっ」
痛みを訴える声に慌てて視線を向ければ、勝手口の前で指を押さえるあざみちゃんがいた。駆け寄った私に彼女は無言で人差し指を見せてくる。懐中電灯で照らしてみれば、指の先端に一本、小さな棘のようなものが刺さっていた。
勝手口を見つけたから、という彼女の言葉を聞いて扉に手を伸ばそうとする。だがそれを制され、よく観察しなさいと告げられる。じっと見つめてみると、ノブの所には太いロープが雁字搦めに絡められていた。
「ロープで縛られてて開かないの。毛羽立ってるから、下手すれば刺さるわよ。ナイフは持ってないの?」
「今日は持ってなくて」
「じゃあ包丁の一本でも拝借しましょう。キッチンだし、あるでしょそれくらい」
包丁ならここにあったぞ、と会話を聞いていた太陽くんが食器棚の奥から何本かの包丁を取り出してくれた。床に並べられた包丁を見て、私は思わず渋い声を出す。
「これちゃんと洗ってなかったのかな、凄く汚い」
全ての包丁の刀身全体に茶色い錆が浮いている。長年放置されていたからだけでなく、元より丁寧に手入れをしていなかったのかもしれない。何匹も魚を捌いた後に洗うことなく放置した、そんな印象だ。
ナイフも包丁の手入れも怠らない東雲さんが見たら怒るだろうなと苦笑して、一本の包丁を取りロープを切ろうとする。だが錆だらけの包丁は頑丈なロープに歯が立たない。頬を汗が伝うほど格闘してみたが結果は変わらなかった。
勝手口から出ることを諦めた私達は次の部屋に向かう。応接間らしき部屋だった。高級そうなボルドー色のソファーが向かい合い、その間にずっしりとした重みと光沢のあるテーブルが置かれている。カサカサに枯れた花が活けられた花瓶がテーブルに飾られ、壁にはいくつかの絵画や鹿の首までかかっていた。鹿のつぶらな瞳がじっと私を見つめている。暗がりの中ではそれが私を観察しているように見えて少し怖い。
豪華な部屋だ。だが妙な点が一つある。部屋にはほぼ必ずある窓、この応接間も例外ではない。しかしこの部屋の窓から外に出るのが不可能なことは一目で分かった。高い位置にあるからでも体を通せないほど小さいからでもない。鉄格子だ。縦横に何本も埋め込まれた棒で鉄格子が作られ、窓から出ることはおろか指で触れることさえ叶わない。
あざみちゃんが鉄格子を揺する。いくら頑張ったところでビクともしない。肩で息をしながらあざみちゃんは額の汗を拭う。
「まるで刑務所じゃない!」
その通りだ。ロープで縛られた勝手口、鉄格子の嵌められた窓。内側から出ることができないこの家は、まるで刑務所のようだった。
イライラを隠せないあざみちゃんは足音も大きく廊下に出る。続いて部屋を出る間際に鹿の首を撫でてみると、少し硬いサラサラとした毛並みが手に伝わった。
次の部屋も探してみたが特に何も収入はない。使っていない部屋だったのかろくなものはなく、応接間と同じように窓には鉄格子が嵌められていた。廊下に出るとちょうど向かいの部屋からも冴園さん達が出てくる。どうだった、と聞かれる前に太陽くんが首を横に振って溜息を吐く。
「駄目だぁ。何にも見つからない。窓も勝手口も何だかぐるぐるに縛られてるし鉄格子で開かないしさ、そっちはどうだ?」
「鉄格子って、そっちもか。俺達も同じだったよ。お風呂場もトイレも部屋も何もない。窓も鉄格子が嵌められてる」
「二階に行ってみましょうよ。階が変われば、違う出口も見つけられるかもしれない。お宝も見つかるかもしれないしね」
あーちゃんを先導に二階へ上がる。軋む階段を上って辿り着いた二階も、作りは一階と同じだった。真っ直ぐの廊下が続き、左右に数部屋が並ぶ。しかし気になるのは廊下の先。せいぜい数メートルかそこらという距離の廊下であるに関わらず、廊下の突き当たりは何故か暗闇に吸い込まれているかのように暗く、何も見えない。
パッと見の部屋数は左に二つ右二つの合わせて四つだった。一階ほど多くはない部屋の数に、これならば皆で回った方がいいだろうと全員で同じ部屋を巡ることになる。あーちゃんがまず開けた部屋は左手前の部屋だった。
途端脳内に図書館の記憶が浮かぶ。紙の香り、インクの香り。冴園さんの身長よりも更に高い本棚がずらりと並び、隙間なく詰め込まれた本が部屋を圧迫している。まるで小さな図書館だ。恐らく書庫だろう。適当に一冊を手に取り読んでみる。
「『民族と文学』。雅楽の一つ採桑老は舞うと死ぬと言われており……あはは、何これさっぱり分からない」
難しい言葉と文章の並んだ本は少しも理解ができなかった。私が取った本は比較的最近のもののようだったが、棚に並ぶ本の中には相当古そうなものもある。なんとなく甘い香りのする古びた本を手に取って、冴園さんも首を傾げていた。
「随分と勤勉家だったようで。この中にお目当てのお宝はあるかな?」
「あるとしても、こんな何百冊もの中から探すのは面倒ね」
腰を入れた探索は後回しにして、一度廊下に出る。次はどの部屋に行こうかと言いかけたところで、太陽くんが廊下の先を見て言う。
「あっちは何があるんだろうな?」
「あ、ちょっと! 一人で行かないでよ!」
平気平気、と太陽くんは一人で歩き出す。数メートルも行かない所で止まった太陽くんはふと顔を上げ、空中の暗闇に手を伸ばす。ぐっと暗闇を掴んだ手は左右に大きく開いた。
黒が消え、赤が一面に飛び込んでくる。
「……赤い窓?」
皆で近付いて、ようやく気が付いた。廊下の先にあったのは暗闇ではなく真っ黒なカーテンだったのだ。黒色が周囲の暗さに同化し、闇に溶け込むように存在を認識できていなかっただけのようだ。
窓の向こうには何が繋がっているのだろう。ベランダだろうか。でも窓の外を確認することはできない。何故なら、窓は真っ赤だったからだ。正確にはガラスに赤いペンキのようなものをベッタリと雑に塗りたくったようで、ガラスの向こうはほとんど見えない。
悪趣味、とあーちゃんが苦い顔で呟く。本当にそうだ。どうしてわざわざ窓を赤く塗ったりするのだろう。これも教授が精神に異常をきたしてしまったからなのだろうか。鍵を開けようと窓に手を伸ばしたあーちゃんが、不思議そうな顔をして窓を撫でる。
「気のせいかしら。この窓、なんかザラザラしてる」
触ってみれば彼女の言う通り、ザラリとしたような、とっかかりのあるような感触が指に触れた。何のペンキを使っているのだろう、それとも絵の具だろうか。指を離すと、指先か僅かに赤茶色の塗料がパラリと剥げ落ちる。
鍵も外れないとあーちゃんが不服の声を上げた。鍵の部分にべったりと接着剤か何かが塗られているらしい。固まったそれは、どれだけ力を入れようがビクともしなかった。
と、窓の一箇所に懐中電灯を向けた冴園さんが怪訝そうに眉根を寄せた。数秒の後、その目が大きく見開かれる。窓の塗料に触れている私とあーちゃんを見た彼は、素早く腕を引いて私達を窓から遠ざけた。
「冴園さん?」
「……あまり触らない方がいい」
「どうして? ハッキリ言いなさいよ冴園」
冴園さんは無言で一歩下がり、明かりの範囲を広げた。照らされる赤い窓。よく見れば、高い位置や低い位置、あちこちに赤色が塗られていない箇所がある。塗り残し……いや、違う。
刷毛で塗られていったのかと思い込んでいた。だが注視して見れば、刷毛ではなく何かスタンプのようなもので赤色を押されていっていることに気付く。似た形のスタンプでペタペタと、窓に赤色を塗っているんだ。
何の形のスタンプ? じっくりと目を凝らしていた私は、突然その形に気付き、顔から血の気が引いていくのを感じた。息を呑む。驚愕と恐怖に支配され、ぎこちない声で私は答えを言った。
「――――……これ全部、手の平だ」
手の平の形。
おびただしいまでの手の平が、ベタベタと、窓に赤い色を残しているのだ。何度も何度も、何人も何人も、必死で窓ガラスを叩いた様が、あちこちの手の平、あるいは拳の形としてクッキリ残っている。
赤い色――大量の血が、窓を赤く彩っていた。
「ひっ」
あざみちゃんが悲鳴を上げ、その場にしゃがみ込んでしまう。慌ててあざみちゃんの方に振り向き、その拍子にカーテンの下に隠れるように落ちていた携帯電話に気が付いた。
シンプルなデザインの携帯だ。気になって拾ってみると、ロックのかかっていなかった画面が簡単に開く。携帯の持ち主とその友人の間で行われていたメッセージのやり取りが映っていた。
『今肝試ししてんだよ! ここって出るって噂だろ、本当に幽霊出たら写真送るわ』
『暗くて本格的、超うける。彼女とツーショット!』
『皆で記念写真。これどっか本物写ってたりしないか? バイト終わったら見てみ~』
以前にここに肝試しに来た人の携帯らしい。最初こそふざけた調子の楽しげなメッセージが続く。だが段々と、様子がおかしくなっていった。
『意味分かんないんだけど。いつの間にか玄関鍵かかっててさ、出れないし』
『窓も塞いでるとか馬鹿じゃねえの住んでた奴。頭おかしいって』
『一人いない』
『え? え、おかしくないか。皆どんどん減ってる、彼女がいない』
『絶対おかしいって、変だって。こっち来て鍵開けてくれ。外からなら開くだろ、頼む』
『第六区のあの館。お願いだ、早くしてくれ』
あーちゃんが携帯を横から覗き込み、嫌そうな顔で舌を出しながら内容を音読し始める。
次第に不穏になっていく内容。何度も着信がかけられているが、友人が出た形跡はなさそうだ。
『悲鳴が聞こえる』
『怖い、嫌だ、俺しかいない、誰もいない。どうなってんだ』
『足音がすぐ近くから聞こえてきた。咄嗟に隠れたけど、知らない顔だった。あれが幽霊? 本物? こんな所来るんじゃなかった』
『二階のろうkに彼女がたおrてる』
『しnでる』
『しにたくない』
『みつkkた』
「……………………」
それ以上この携帯の持ち主がメッセージを送ることはなかった。
数時間後にようやく事態に気付いたらしい友人が慌てて電話をした形跡があるが、全て不在で終わっている。友人はその後この建物にやって来たのか『鍵開けたから探しに行く』と言葉を残していた。だがその後、今度は彼も言葉を途絶えている。
言葉も出ない私の代わりになのか、あーちゃんがずけずけと物を言う。
「これってもしかして行方不明者の末路ってやつ?」
末路、とあざみちゃんが静かに反応する。だってそうじゃない、とあーちゃんは何故か楽しそうに続けた。
「幽霊に見つかって呪い殺されたってこと? しかもこの友人って奴も、きっとこの後同じ目に遭ってるじゃない。違いない。今までこの建物で行方不明になった奴は全員、ここにいる悪霊に呪い殺されて……」
「もう嫌ぁ!」
あざみちゃんが拳で床を叩いた。古びた廊下が大きく軋んだ音を立てる。顔中をぐしゃぐしゃにしたあざみちゃんは、涙に濡れた真っ赤な目で私達を睨みながら、叫んだ。
「どうするのよ! 玄関は開かない、窓も勝手口も閉じられてる、こんな閉じ込められた所からどうやって脱出すればいいの!?」
「だ、大丈夫だよ。外の誰かに連絡すれば……」
「間に合わなかったらどうするの! 生きてる人間ならまだしも、幽霊なんて敵うわけないじゃない!」
普段ならばあざみちゃんはきっと、幽霊だなんて馬鹿馬鹿しい、なんて青い顔をしながらも鼻で笑い飛ばすのだろう。だけど今の追い詰められた状態で、彼女の精神はとっくに限界間近に違いない。
年相応に泣く彼女。なんと声をかければいいのだろう。絶対に大丈夫、だなんて根拠のない言葉を告げても納得してはくれないだろうし。私がそんなことを逡巡していると、太陽くんがあざみちゃんの傍に膝を突いた。ドン、と拳で自分の胸を叩き、彼は元気に声を張り上げる。
「心配すんなって!」
「この状況で不安にならない方がおかしいわよ!」
「幽霊が出たところで、ぶっとばせばいいだけだ。手に塩でも振っとけば効果はあるかもしれないぞ?」
「そんな簡単に…………」
あざみちゃんの言葉が途切れる。太陽くんの顔が、少し不安気なことに気が付いたのだろう。すぐ傍の私にも彼の顔はよく見えた。
太陽くんは私達を無理矢理こんな場所に連れてきてしまったという罪悪感があるのかもしれない。それとも、出口がない上幽霊が襲ってくるかもしれないという状況に不安があるのか。けれどこんな状況に陥ることを一体誰が予想できただろう。太陽くんだって、この建物の行方不明事件を半信半疑にしか考えていなかっただろうし、肝試し自体学生時代の思い出の一つにしか考えていなかったはずだ。
それでも太陽くんは不安を表に出さなかった。今もこうして明るい笑顔を浮かべ、あざみちゃんに手を差し伸べる。
「幽霊が来ても俺が守ってやるよ。だから、怖がらなくていい。安心してくれ!」
あざみちゃんはしばし濡れた目で太陽くんを見上げていたが、決心したように目を拭ってその手を取る。そうね、と呟いて、震えの薄れた声でハッキリと言った。
「じっとしていても出れるわけじゃないから」
「そうそう。他の所も見れば、脱出方法が見つかるかもしれないぜ!」
探すぞー、とテンションを上げて言う太陽くんに、あざみちゃんは呆れた視線を向ける。心なしか少しだけほっと安堵したような色を含めて。格好良い子だな、と二人の様子を見ていた冴園さんが微笑ましそうに呟いた。
二階の奥の部屋二つは鍵がかかっていて開かなかった。先程見た書庫の反対側にある部屋に入ってみると、そこは教授の寝室として使われていた部屋だったらしい。大きなベッドと机、小さな本棚もあったもののこちらは書庫と違い数冊程度しか本は入っていない。寝室ならお目当ての物が隠されているかも、とあーちゃんと太陽くんが意気込んであちこち探し回るが、期待の表情は段々曇っていった。
「これだけ探して何もないってどういうことー?」
盛大に悪態を付きながら、あーちゃんがベッドに飛び乗る。苛立ちを隠すように枕をボスボスと乱暴に殴り、舞い上がった埃に咳き込んでいた。その様子に笑いながら、冴園さんも首を傾げる。
「結局、噂は噂ってことかな。そもそもどこでどんな研究成果を残してたんだろうな、その教授は?」
「俺も詳しいところまでは知らないんだよなー。昔から変な人だって言われてたからあまり関わろうとはしなかったし、去年の春に精神病院に入ったって聞いたのが最後だし」
「去年? 案外最近なんだ、もっと昔から入院してたと思ってた」
「うん。それで……ああそうだ思い出した。あの教授が勤めてたところ。確か大学だったなぁ」
太陽くんが口にした大学の名前に冴園さんが反応する。もしかしてこの人かな、と彼が口にした教員の名前に、太陽くんはパッと顔を明るくして首を縦に振った。
「あー! そうそれ! 思い出した思い出した。確かそんな名前の人だった!」
「へぇ、あの人か。俺も大学時代に名前くらいは聞いたことがあるよ。他大学の教授とは言え随分立派な人だったって。そうかぁ、今入院しちゃってるのか……」
一度講義を聞いてみたかったんだけど、と残念そうに呟く冴園さん。そう言えば彼は名門大学に通っていたのだと東雲さんが言っていたことを思い出す。
ふと、あーちゃんがキョトンと首を傾げて彼に言った。
「でも冴園。確か大学中退したって言ってなかったっけ?」
「え?」
こらっ、と冴園さんが苦い顔をあーちゃんに向ける。目を丸くする私に気が付いた冴園さんは、困ったような顔で頬を掻きながら説明する。
「あはは……いやぁ、人間関係とか学費とか、ちょっと色々あってね……」
「まぁ今時中退くらい珍しいものでもないんじゃない? わたしだって高校中退してるし」
「学校中の不良に喧嘩売ったんだっけ?」
笑いながら言った冴園さんの顔にあーちゃんが枕を投げつける。違うから、と頬を引くつかせるあーちゃんに笑いながら赤くなった鼻を擦っていた冴園さんだったが、ふと枕を触って怪訝な顔をする。
突然冴園さんは床に枕を置いた。どうしたのか尋ねる前に、彼は突然枕カバーを引き裂いた。唖然とする私達の前で冴園さんはその中に手を突っ込み、何かを取り出す。
一冊の厚い大学ノートだ。冴園さんが表紙を開き、中を読む。横からあーちゃんが目を輝かせてノートを覗き込んだ。そしてすぐ、落胆したように肩を落とす。
「なぁんだ。ただの日記じゃない」
日記ですか、と私も冴園さんの手元を覗き込んだ。綺麗な字が日々の調べものの結果や日常の愚痴を書き残している。確かにこれは、教授が日記として使っていたのだろう。こんな所に隠していたのは誰かに見られるのが恥ずかしかったからだろうか。
冴園さんがページを捲っていき、皆で日記を覗き込む。最初の行に日付が書かれた日記は、一日おきだったり一ヶ月おきだったり、疎らな頻度ながらも続いていた。
『五月三日。論文を完成させる前に一度講義用のプリントを作成しなければならない。まったく忙しい。しかし未来ある学生達のため、疎かにしてはならないな』
『六月十五日。今までの人生全てを投じる研究だ。この論文を発表することができれば、私の人生も大きく変わってくれるだろう』
『九月二十日。高熱を出してしまった。体調を崩し研究ができなくなるとは、本末転倒だ、情けない。妻が来てくれなければこれほど早く体調が回復することもなかっただろう』
『九月二十一日。研究に専念したいからと無理を言ってこの家を建てて数年、思えばろくに妻の顔を見に会いに行くこともなかった。自分は平気だと笑ってくれるものの、どれだけ寂しい思いをさせていたのだろう。今度休みを作って、どこか食事にでも連れて行こうと思う』
奥さんがいたんだ、と太陽くんが言った。文面からするに教授は研究に専念するため、妻とは別居していたようだ。
日記はぽつぽつと続いていた。だがある日を境に、段々と文字が荒々しく書かれ、内容も不穏な雰囲気が漂い始める。
『三月六日。妻が知らない男と口付けを交わしているのを目撃してしまった』
『五月三十日。今まで集めた証拠を妻に叩き付けた。最初は言い訳を繰り返していた妻は、最終的には私を罵ってきた。長い間研究にしか目のない陰気な男に、どんな女が寄り添い続けるのかと』
『六月一日。妻と別れることになった。私なりの彼女への愛は、まるで届いていなかったらしい。寂しい思いをさせたことは申し訳ないが仕方のないことだとは思っている。完全に一人になれば、更に研究に専念できるだろう。……私は間違っていたのだろうか』
『六月十七日。論文のデータがない』
『六月十八日。一日中探した。けれどどこにもない。バックアップも丸ごと消えている。落ち着け、落ち着け。そうだ、妻に渡した書類の中に紛れてしまっているのでは? 少々気まずいが、直接会いに行こう』
『六月二十日。やってしまった』
やってしまった? とあーちゃんが首を傾げる。次の行に目を通した冴園さんは、酷く不愉快そうに眉根を寄せた。
『六月二十一日。私は悪くない、全て妻が悪いのだ。大切なデータを盗んだりなど、ましてや売り飛ばそうとするから。私は怒りに任せて少し小突いてしまっただけだ。妻の後ろが不運にも階段だったことが悪いのだ。私は悪くない。私の研究成果は上手くいけば金になるだろうからと笑った妻が悪い。今まで支えてくれたのは、私の金が目的だったのだろうか。……すまない、すまない、殺す気なんてなかったんだ」
『七月一日。妻の浮気相手だった男から連絡が来た。近々こちらに来るらしい。怪しまれているのだろう。どうすればいい、部屋にいる妻を見られたら駄目だ。ここは素直に応接間に通して、お帰り願うしかない』
『七月十一日。クソクソクソッ! あの男も妻と同じか。目を離した隙にデータを盗もうとした挙句、二階にいた妻を見られてしまった。警察を呼ばれそうになって慌てて殴ってしまい、動かなくなった。私は悪者ではない。私の研究データを奪おうとした妻と、この男が悪いのだ。私の人生を奪わせてなるものか』
『八月二日。研究を進めなければ』
『一月三日。まとめた研究成果を書籍にして妻に渡した。妻は大層喜んでいたようだ。腐臭がする。あれほど欲しがっていた物を手に入れることができたのだ、さぞ嬉しいだろう。虫が湧く。丁寧に保管した妻の肌はまだ滑らかだ。腐臭がする。腐臭がする。妻が笑う』
『五月十八日。白い天国だった、白い天使が私の周りで語り合っていた! だが私はまだ召されるわけにはいかない! まだ成すべきことがあるのだ、守らねばならぬのだ。渡さない、決して、誰にも!』
『七月二十九日。お客様だおもてなしだ。久しぶりのお客様は私の部屋で丁重にもてなそう。すぐ帰るなど勿体ない。しっかりと私の家を堪能していただこうと思ったのだが、喜んでくれただろうか』
『九月四日。最近お客様が多かったが、ここ最近はパッタリ来なくなってしまった。残念だ』
『七月二十八日。お客様がやって来た。今度こそじっくりおもてなししよう』
『八月一日。お客様だろうと私の研究を盗むことは許さない。キッチンの下にご案内しよう』
日記はそこで終わっていた。一通り眺めた後、私達は顔を見合わせてしばらく沈黙する。最初に口を開いたのはあざみちゃんだ。
「意味分かんない。完璧に頭おかしかったのねこの人」
「あざみちゃん、そんな直接的に言っちゃ駄目だよ」
和子も同じこと思ってるでしょ、と言うあざみちゃんに苦笑する。長々と書かれた日記を読んだが教授の身に何が起こったのかはぼんやりと理解した。私達と同じように教授の研究成果を狙っていた奥さんを誤って殺してしまい、その浮気相手だった男性も殺してしまった。
けれどその後の内容はさっぱり意味が分からない。二人も殺して精神が完全におかしくなってしまったのだろうか。
「幽霊って、この死んだ奥さんと男の人なのかしら」
あざみちゃんが不安そうに呟いて身震いする。確かにこの家に住む教授に殺されたのだとしたら、この家に取り付く悪霊となっていても不思議ではない。
本格的に幽霊に対する恐怖を覚えたとき、太陽くんが胸を張って言う。
「大丈夫だって言ってるだろ! 幽霊なんて俺がパンチすれば一発だぜ!」
「手に塩でも振りかけて?」
皮肉交じりに笑うあざみちゃんだったが、太陽くんは皮肉に気付くことなく大きく頷き、塩は大事なんだと言った。
「キッチンに行こう! 塩だったらそこにあるだろ」
「調理用の塩って効果あるの……?」
まあまあ、と部屋を出て一階に向かって下りていく太陽くん。全員でついて行ってキッチンへとやって来たところで、太陽くんは調味料の並んだ棚の上から青い蓋の塩を取り、手に振りかける。本当にやってる、とあーちゃんが笑う横であざみちゃんは恥ずかしそうな呆れたような目で太陽くんを見つめていた。
私も皆を見て小さく笑い、勝手口のロープにもう一度挑戦してみようかと思い至る。早速テーブルの上に放置していた包丁を取り、勝手口の方へ歩き、床下収納を踏み。
バキンと音がして、足元の感覚がなくなった。
「え?」
思わず間抜けな声が出た。
足元の床が抜け、私の体は勢い良く落下し始める。




