第64話 星が瞬く夜
静かな夜だった。虫の声も風の音も、何一つ聞こえない。私はその部屋の扉に背をもたらせ、ぼうっと足元を見下ろしていた。
薄手のコートから覗く素足が青い照明に照らされる。物悲しいその色を見つめ、フードのファーに頬を埋めた。
東雲さんのマンションに訪れたとき、空はまだオレンジ色だった。今はとっくに日も暮れ、空にはたくさんの星が散りばめられている。青く静かに輝く星々が、暗い空を泳いでいた。
カン、カン、と階段を上がってくる音に顔を上げた。レインコートを着た人影が三階に上がってくる。今夜は雨など降っていないのに、そのレインコートは濡れていた。ポタリと赤い血が裾から滴り落ちている。目深に被ったフードから覗いた三白眼が、私を捉えて大きく見開かれた。
駆け寄って来た東雲さんが私の左手首を掴んだ。その力強さに一瞬息を呑んだが、すぐに平然を装って彼に微笑みを向ける。険しい形相の東雲さんが怒りに震えた声で言った。
「どうしてここにいる」
「コートを返しに」
羽織っていたコートの裾を掴んでそう言った。Tシャツとショートパンツの上に羽織った緑色のコート。微かに煙草のにおいが残る東雲さんのモッズコート。
私の返答に東雲さんは一瞬呆けた顔をしたが、すぐに眼力を鋭くして私を睨んだ。
「三日前に退院してから毎日来てるのに、東雲さんってばいつになっても留守なんですもん。良かった、今日は会えて」
「……薄命先生から伝わらなかったか。もう顔を見せるなと言ったはずだ」
「ちゃんと聞きました」
「なら今すぐ帰れ」
「嫌です」
即答する。手首を掴む手が、痛いほど力を込めてきた。ぐっと呻き声を堪え、逆に東雲さんを睨み返す。
「絶対に帰りませんから」
念を押すように告げた。右手で東雲さんの腕を掴む。ぬるりとした血が手の平に触れた。
東雲さんは視線を逸らし、大きく舌打ちをした。私の手を振りほどき、部屋の鍵を開ける。
時計が進む音。シャワーの音。そんな音を聞きながら、私はソファーに座ってぼんやりと足元に視線を落としてた。近くに置かれたゴミ箱にレインコートが無造作に捨てられている。一緒に捨てられているのは大量の煙草の吸殻と、同じく大量のコーヒーの空き缶。分別もされておらずぐちゃぐちゃになっていた。
手早くシャワーを浴びた東雲さんは、乱暴に髪を乾かしながら部屋に戻ってくると同時にベッドに腰かけ、煙草を咥えて火を付けた。漂う紫煙が部屋に満ちる。耐え切れず、軽く咳き込んでしまうと、東雲さんが冷ややかな笑みを浮かべた。
「ああ、すまない。お前は煙草が苦手だったな。早く出ていった方がいいんじゃないか?」
露骨な態度に拳を握りしめる。無言で彼の顔に視線を向けた。
一週間ぶりに彼を見た。そんなに日が経っているわけじゃないのに、東雲さんは酷くやつれていた。下瞼のクマは濃く、青白い顔には疲労が滲んでいる。今にでも倒れてしまいそうだ。昨日も今日も、彼が何をやっていたのかは分からないが、いつものような仕事だけじゃないのだろう。
そんな彼を見て胸に込み上げてくる衝動があった。喉が震え、目が熱くなる。落ち着けと自分に言い聞かせ、静かに煙草の煙を纏う空気を吸って鼓動を宥め、口を開く。
「ごめんなさい」
「……何で謝る」
こちらに見向きもせずに東雲さんが言う。彼の口元でくゆる紫煙を見ながら私は言った。
「前に言ってくれたじゃないですか。謝るときは、一番最初に謝罪の言葉を述べるべきだって。……私、東雲さんに酷いことを言っちゃったから」
「あのときみたいに許されるとでも思ってるのか。次はないと、言ったはずだ」
東雲さんの声は固く冷たかった。煙草の灰を灰皿に落とす。灰皿の上には私が来たときから既に吸殻が小山になっていた。
冷たい静寂が満ちる。張り詰めた空気の中、私は唇を薄く開き、淡々と言葉を零した。
「皆がお見舞いに来てくれたんです」
短くなった吸殻を捨て、二本目を咥えようとしていた東雲さんが動きを止める。それを見ながら私は続けた。
「真理亜さんとかあざみちゃんとか、冴園さんとか。皆心配してくれて、嬉しかったんですよ」
「……黙れ」
「太陽くんがプレゼントだってヒマワリをいっぱい持ってきてくれて。どこで買ったのって聞いたら、庭にあったのを持ってきたんだって。次の日も来てくれたんですけど、お母さんと妹ちゃんに怒られたって言うから笑っちゃって」
「静かにしろ」
「仁科さんとネズミくんも、検査ついでにって来てくれたんです。籠いっぱいのリンゴを抱えて。でも二人ともリンゴ剥くの下手で、血が出ちゃいそうで焦ったなぁ」
「黙れって」
「……それから他にも、」
「うるさい!」
東雲さんが叫ぶ。前髪をぐしゃりと掴んで、その顔を苦しそうに歪めた。
「お前には……お前にはっ、他にもいるだろう? 大事に思ってくれる奴が他にもたくさんいるだろう!? どうして俺なんだ、どうして俺に執着するんだ!」
何故、どうして。彼の疑問が私に次々とぶつけられる。
私はその疑問に答えるべく口を開いた。
「それは東雲さんもでしょう?」
立ち上がり、彼の前に立つ。その手から火の付いていない煙草を抜き取り、灰皿に捨ててその顔を見下ろした。
意味が分かっていないようにぼんやりとした目。一瞬唇を噛み、言葉に力を入れて言う。
「最初に私をこの世界に誘ったのは誰ですか。ここまで連れてきたのも、育ててきたのも、全部東雲さんじゃないですか」
私が彼に執着している? ふざけたことを言わないでくれ。そうさせたのは、東雲さん自身じゃないか。
強くなるまで鍛えてくれた。勉強を教えてくれたし、風邪を引いたときは看病までしてくれた。他にもまだまだ語り尽くせない、東雲さんが私にしてくれたたくさんの思い出。今まで私をずっと自分の傍に置いてきたのは東雲さんだ。ここまでされて、あっさり捨てられて、納得できるわけがない。
「私は皆が大好きです。大切な仲間で、友達で……。でも」
あざみちゃん、真理亜さん、冴園さん、太陽くん、如月さん、仁科さん、ネズミくん……。他にもたくさんの人が私の周りにいてくれる。いつの間にか増えた大切な人達。大好きな人達。
だけどいくら増えたところで、愛しているのはたった一人。
「あなたがいないと、駄目なんです」
東雲さんが息を呑む気配が伝わってきた。見開かれた目をじっと見つめ返す。
今の私はどんな顔をしていることだろう。心臓は今にも張り裂けてしまいそうに早鐘を打ち、緊張で喉がカラカラに乾いている。握り締めた拳が酷く汗ばんでいた。
「……せめて、理由を教えてください」
理由、と東雲さんが気の抜けた声で繰り返す。
「初めて会ったとき、あなたが私を殺さなかった理由です。それを聞かなきゃ帰ろうにも帰れません」
「……一人で仕事をすることが辛くなってきたから、パートナーを、」
「違うでしょう?」
彼が言葉を詰まらせる。戸惑ったように向けられた視線に、首を振った。
「今まで何度も不思議に思っていたんです。はぐらかさないでください」
「はぐらかしてなんかいない」
「仮にパートナーが欲しかったとして、素人を選ぶ理由がどこにあるんです。東雲さんは腕の立つ殺し屋でしょう? そんな人が、自分の命を預ける相手に、私みたいな人間を選ぶはずがない。一から育てるのにも時間と手間がかかる。だったら、経験者を雇った方がずっといい」
反論はなかった。今私が言ったことを、誰よりも理解しているのは東雲さん本人だろう。どうして私だったのか。それが知りたい。
ベッドに落とした彼の拳が、シーツを強く握りしめる。
「それからもう一つ、聞きたいことがあるんです」
もう一つ、という言葉に反応した彼が目を瞬かせる。何なんだ、と疲れたように言葉を吐き出して私の質問を待っていた。
教えてください、と彼に乞う。
ほんの少し声が波打った。
「あなたは一体、私を通して、誰を見ているんですか?」
凍り付いたように私を凝視する東雲さんの視線に、ぐっと頬肉を噛んだ。
彼の顔が一層蒼白になっていく。何のことだ、と誤魔化そうとする声は、私の声より遥かに震えていた。
「気付いてませんか? 東雲さん、たまにぼんやりと私を見るときがあるんですよ。私じゃない誰かを見ているみたいに、悲しそうな目をして」
言いながら、遠い目をした東雲さんの顔を思い返していた。
武器屋から買ってきたチョーカー、そこに揺れる星を見たときの遠くを見るような目。東雲さんが眠れなかった夜、綺麗な星空を見て呟いた言葉。
あのときも東雲さんは、すぐ傍に私がいたのに、私を見てくれてはいなかった。
「分かるんですよ、そういうのって」
なおも誤魔化そうと口を開きかけた彼に強く言った。彼は躊躇うように半開きにした口を閉じ、くしゃりと顔を歪めた。
教えてください、ともう一度言ったとき、東雲さんに腕を掴まれ引っ張られた。咄嗟のことで反応できず、ベッドの上に尻餅を付く形になる。無造作に放られていたシャツ数枚が崩れる。
「え、あの、東雲さん?」
「少し待ってろ」
東雲さんは立ち上がり、クローゼットを開けた。しばらくその奥を漁り、大きな本を持って戻ってくる。
「……アルバム?」
「ああ」
ベッドにまた腰かけた東雲さん。私も隣に座り直し、彼の手元を覗き込む。大きな本だと思ったそれは和風の表紙に包まれたアルバムだった。
彼が表紙を開く。幼い頃から順に撮られたアルバムは、赤ちゃんの東雲さんの写真から始まっていた。顔をくしゃくしゃにして笑う赤ちゃんに、思わず私の顔も綻ぶ。
「あ、こっちの写真、東雲さん泣いてる。可愛い」
「……あんまり見るな」
「東雲さんが見せてきたくせに」
少し微笑みながらアルバムを見続ける。両親だ、と示された写真には、若い男女の姿が写っていた。優しそうな顔で笑う、まだ三十にもいっていないだろう二人。女性のお腹は大きく膨らみ、男性の手がそんな彼女を労わるようにそっと肩に乗せられている。ご両親の写真は他にも数枚あったが、赤ちゃんと写っている写真は一枚もなかった。
着物姿の幼い東雲さんと、その横に立つおばあさんの写真があった。七五三だろう。今にも泣きそうな顔でおばあさんの着物を掴む東雲さんと、凛とした佇まいのおばあさん。簪でまとめた白髪、涼やかな顔立ち。これが、東雲さんを育ててくれたというおばあさんか。
このアルバムの大半を撮ったのも彼女だろう。何枚か一緒に写っている写真もあった。楽しそうに笑う東雲さんの隣で、彼女もまた静かな笑みを浮かべている。
小学校、中学校、高校と写真の中の年月が経っていく。日に焼けた顔で泳ぐ写真、制服を着て冴園さんと校門の前に立つ入学式の写真、こたつに入って寝ている写真……。
「……………………」
写真の中の東雲さんは、とても楽しそうだった。おばあさんの隣で、冴園さんの隣で。彼は心底幸せそうな笑顔を浮かべていた。
ページを捲っていく。と、高校の写真が並ぶページで東雲さんが手を止めた。
一枚の写真に目が留まる。制服姿の三人が夕方の教室で微笑む写真だった。はにかむ東雲さんとまだ髪の黒い冴園さんと、その中央で微笑む、見知らぬ女の子の姿。長い金髪を靡かせて柔らかく笑みを綻ばせた、綺麗な人だった。
ふと、隣に座る東雲さんを見る。彼はどこか寂しそうな目で写真を見つめ、ぐっと唇を噛んでいた。
「この人は?」
「星空美輝」
彼女の名を告げた東雲さんは、静かに息を吐いた。
僅かに震えた声が言う。
「俺が昔、好きだった人だ」




