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第63話 大切だから

 蛍光灯の消えた白い天井は、薄暗い部屋の中で、どこか物悲しげに感じた。

 雨音が聞こえる。鈍い頭痛のする頭をゆっくりと動かして周囲を見回す。そこそこ広い部屋に並ぶベッド、仕切り用のカーテン、部屋に滲みついた薬品の臭い。病院だと理解した。

 自分の横たわるベッドの傍に丸椅子が置いてある。そこに座る人物が、かくり、かくりと眠気に頭を揺らして項垂れていた。ふわりと癖のある茶髪がその横顔を覆い隠している。その子の着ている赤襟のセーラーが暗い部屋の中でもハッキリと分かった。


「あざみちゃん」


 ぽつりと零した声は、自分でも驚くほどに掠れたか細い声だった。それでも項垂れていたあざみちゃんが弾かれたように顔を上げる。私を見る、その丸くなった目は赤く腫れ、ツンと尖った鼻先は真っ赤だった。

 和子、とあざみちゃんが茫然とした声で私を呼ぶ。弱ったその姿に頭でも撫でようかと手を伸ばしかけ、左手に走る激痛に呻いた。慌てたあざみちゃんが立ち上がって椅子を転がす。


「無理しないで。まだ、怪我治ってないんだから」


 怪我? と涙の溜まった目を瞬かせ、激痛の走った左手を見下ろす。小指に巻かれた包帯。その白い色が、じわりと滲んだ血で黒くなっていた。

 記憶がハッキリしてくるにつれ、私は目を見開いて呻いた。不安気に首を傾げるあざみちゃんに顔を上げ、問いかける。


「私、ずっと寝てたの?」

「うん。昨夜あんたが病院に運ばれたって聞いて、今まで丸一日寝てて……」

「どうして病院にいるの? 誰が運んでくれたの? 東雲さんは?」

「お、落ち着いてよ。まだ本調子じゃないんでしょ」


 あざみちゃんが興奮する私を宥めようとしてきたが、急いた気持ちを落ち着かせることなどできなかった。なおも問いかけようとする私に部屋の入口から声がかけられる。


「君を運んできたのは東雲くんだよ」


 白衣を纏った薄命先生が、ゆったりとした眼差しで私を見つめていた。ベッドまで近付いてきた先生は腕に抱えていたものをベッドの上に置く。綺麗に畳まれた深緑色のコートには見覚えがあった。もはや、忘れることができないくらいに強烈な。

 このコートは君に渡しておこう、と薄命先生が言う。そうしてあざみちゃんが差し出した椅子に腰かけた先生は、私の体に巻かれた包帯に目を向ける。


「気分は? 吐き気、眩暈、痛みはあるかな?」

「まだ痛みますけど、大丈夫です。……あの、東雲さんは」


 身を乗り出して訊ねると先生は首を振った。優しい眼差しを僅かに曇らせる。


「血相を変えた東雲くんが気絶した君を抱えてやって来たんだ。二人とも全身血まみれで、とても驚いたよ。君を治療してくれって言ってね、彼自身も随分怪我をしていたのに、治療する間もなく出ていってしまった」

「そう、ですか」

「伝言を頼まれたんだ」


 すかさず期待を込めた眼差しで先生を見る。けれど先生は少し逡巡した後に、ぽそりと呟いた。


「――……『二度と俺の前に現れるな』だそうだよ」


 掴んでいたコートにしわが寄った。申し訳なさそうに眉をしかめる先生の横で、あざみちゃんが目を見開いて片頬を痙攣させた。

 そうですか、と掠れた声でもう一度呟いた。すまなそうに頭を下げる薄命先生に首を振りつつも、気を使った返事はできなかった。しばらくは様子見も兼ねて入院してもらうよ、という言葉を残して先生は部屋を出ていく。

 思わず東雲さんのコートを抱き寄せて額に押し付けた。看護師さんが洗ってくれたのか、洗剤のいい匂いがした。けれど染み付いた血と煙草のにおいが微かに香る気がして、目にじわりと涙が浮かんできた。




「何なのよ、オオカミの奴!」


 あざみちゃんが声を荒げてサイドテーブルに拳を叩き付けた。華奢な肩が大きく震え、噛んだ唇が白くなる。

 拳を打ち震わせて、前髪を掻く。その隙間から覗く目が憤怒に燃えていた。


「自分勝手にも程がある。やっぱりオオカミはオオカミのままだったのね。人の気持ちをもてあそんで、最後は結局放り投げる、無責任で最低な奴。変わったと思ったのは気のせいだった、少しでも信用したあたしが馬鹿だった……」


 噛み締めるように言った後、あざみちゃんは私に顔を向けた。何があったの? という問いに言葉を詰まらせる。

 中々口を開かない私に痺れを切らし、彼女は私の肩を掴む。熱い手の平に力が入っていた。


「事と次第によってはオオカミを問い詰めなきゃ気が済まないわ」

「……東雲さんは悪くない」


 ようやく呟いた言葉はあざみちゃんの意にそぐわなかったようだった。眉間にしわを寄せる顔を見て、私は視線を手元に落としながら続ける。包帯に滲む血を見て、じくりと、左胸が痛んだ。


「全部私が悪いの」

「だからっ!」


 あざみちゃんが苛立ちの声を上げて肩を強く握ってくる。真剣な表情が私を射抜き、その両目が悲しそうに歪んだ。

 そこまでにしなさい、と澄んだ声が通った。扉の前に真理亜さんが立っている。彼女はあざみちゃんに咎めるような視線を向け、静かに言う。


「怪我人に無茶はさせない。こっちが興奮して、どうするの」

「……ごめんなさい」


 バツの悪そうな顔をして、あざみちゃんは素直に引き下がる。彼女の隣に立ってその肩を撫でる真理亜さんが控えめに私を見た。


「怪我の具合はどう?」

「平気です。少しだけ、痛いけど」


 薄命先生に伝えたことと同じことを言うと真理亜さんは、そう、と静かに頷いて私の額に手を当てた。ひやりとした感触が心地良い。熱もなさそうね、と安堵したように呟いてベッドから離れ、水を注いだコップを持ってきてくれる。

 受け取って口を付けた。水が乾いた唇を濡らす。口内の傷に少し沁みたが、喉を鳴らして一気に飲み干した。冷たくて、美味しい。空になったコップを持ってほうと息を吐く。


「如月から何があったのか聞いたわ」

「……如月さんが?」


 何故如月さんの名が出てきたんだろうと思った。昨夜のことを知っているのは私と東雲さんだけだと思っていたのに。

 真理亜さんはそんな私の疑問を悟ったように微笑を浮かべる。


「情報屋よ? 全部知ってた。あなたが攫われたことも、相手の狙いが東雲であったことも、それを知って東雲があなたを探していたことも」

「え…………」

「ま、待って。攫われた? 狙いがオオカミ? それってどういう……」


 あざみちゃんは驚いた様子で私達を交互に見つめたが、ハッとしたように目を丸くして呟いた。


「最近オオカミの懸賞金が吊り上げられたって聞いたけれど、もしかしてそういうことなの?」

「流石頭の回転が速いわね」


 あざみちゃんが重い溜息を吐いて頭を振った。


「やっぱりオオカミのせいなんじゃない!」

「そういうことかしら」


 真理亜さんとあざみちゃんが静かに目を伏せる。二人の間に漂う重苦しい空気に、私は無言で窓の外を眺めた。

 しばらく沈黙が続く。雨の音だけが響く部屋。段々と雨足は強くなって、窓ガラスに叩き付けられた雨粒が幾重もの流れを作っていく。


「もう東雲と関わらない方がいい」


 静寂を破ったのは真理亜さんのそんな言葉だった。


「今回のことで身をもって知ったでしょう。東雲と関わると、ろくなことにならない。傍にいるだけであなたが危険な目に遭う」

「真理亜さん……」

「こんなにされてもまだあいつのことを好きでいる気? いい加減に目を覚ましなさい。どれだけ好きになっても、最後はあなたが傷付くだけなのよ」


 あざみちゃんがそっと私の腕に触れる。私を見つめる彼女の目が、小さく揺れているのがハッキリと分かる。


「癪だけど、オオカミ自身も和子のことを突き放してるんだから、いっそその通りにしちゃえばいいじゃない。……もう諦めましょうよ。ね?」


 二人の目が私を見据える。ぐっと喉を詰まらせ、私は唇を噛んだ。

 分かっている。二人とも私のことを考えて言ってくれているのは分かっているんだ。それでも、頷くことができない思いがある。

 震える手の平でシーツを掴む。綺麗に整っていたそれに、ぐしゃりとしわが寄る。



 廊下から足音が聞こえてきた。パタパタと急ぎ足のその音に、私達は廊下の方へ顔を向ける。

 それは段々と近付いてきた。真理亜さんとあざみちゃんが警戒を浮かべてそっと構える。とうとうその足音の主は、部屋に飛び込んできた。


「和子ちゃん!」


 深い青色の髪が靡く。息を切らして部屋に飛び込んできたその人と私の目が合った。


「……冴園さん?」


 冴園さんは目を丸くする私の傍に駆け寄って来た。一度は私の姿を見てほっと吐かれた安堵の色は、巻かれた包帯を見て苦しそうに歪められる。

 労わるように彼の手が私の頬を撫でた。いつも温かな冴園さんの手は、酷く冷え切っている。頬に張り付いた青髪から水滴が垂れ、ぐっしょりと濡れたワイシャツが肌に張り付いている。


「知り合い?」


 警戒心を含んだあざみちゃんの言葉に、冴園さんが二人の顔を見る。複雑な思いを滾らせていた顔を緩め、人懐っこい笑顔を滲ませた。


「初めまして。和子ちゃんの友人の、冴園佑です」


 よろしく、と冴園さんは自然な動きであざみちゃんの手を取った。続けて真理亜さんの手を握ろうとするも、彼女は一歩身を引いてそれを避ける。冴園さんは笑顔を浮かべたまま素直に手を引いた。

 掴まれた自分の手をにぎにぎと見つめてから、あざみちゃんは私と冴園さんを交互に見て首を傾げる。私へと身を傾け、こっそりと耳元で囁く。


「……あんたってこういう人とも知り合いなのね。どういう人?」

「冴園さんは東雲さんの親友なんだよ」


 私が説明すると、あざみちゃんはオオカミの? と声を低くして呟いた。露骨な警戒がその顔に浮かぶ。

 

「東雲の友人……にしては、大分タイプが違うわね」

「あはは。よく言われる」


 冴園さんが笑い、濡れた髪を掻き撫でる。金のピアスが耳元で光った。

 真理亜さんが窓際によりかかり、じっと冴園さんの全身を眺める。長いまつ毛の下の目が鋭く光る。そんな視線に冴園さんは怖じることもなく、微笑みを浮かべたまま真理亜さんを見つめ返した。


「あなたは普通の人?」

「それはどういう意味かな」

「言葉通りよ。この病院を知っているということは、私達と同じなの? それともホスピスにご家族の誰かがいたりするのかしら」


 表向きはホスピスとして、裏では私達のような人間を治療してくれる病院として建っているこの青空ホスピス。ここが犯罪者御用達の病院であることを知っている人間は、決まって自身も犯罪に手を染めている人だけだ。

 冴園さんは真理亜さんの問いに肩を竦めた。


「生憎俺は殺し屋ではないよ。でも、伊達に咲の親友を名乗るわけじゃない。知ってるさ、殺し屋のことも、裏の世界のことも」


 すっと空気が冷えていくような気がした。真理亜さんとあざみちゃんの冷たい視線が冴園さんを射抜く。

 私は唾を呑み、不穏な空気を引き裂こうと声を飛ばした。


「さ、冴園さん。ここに来たってことは、東雲さんから何か聞いたんですか?」


 冴園さんが最初からこの場所を知っていたとは思えない。仮に知っていたとしても、私が病院にいることまでは分からなかったはずだ。ここに来たということは、東雲さんに聞いたとしか考えられなかった。

 彼は私を横目で見て顎を引いた。何て言ってました? と問うと、冴園さんはゆっくりと言った。


「電話があったんだ。和子ちゃんが怪我を負ってこの病院にいること、と無事かどうかを確認してほしいってことを」

「今、東雲さんは?」

「それっきり連絡が取れなくなってる。家にも行ってみたけど、留守でいないんだ」

「連絡が取れないって……」

「咲が今どこにいるのか、誰も知らない」


 沈黙が下りる。冴園さん自身、不甲斐ない思いに駆られているのかもしれない。悔しそうな顔を浮かべていた。


 東雲さんは今どこで、何をしているのだろう。自分の命が狙われている最中。どこかに身を隠しているのならまだいい。けれどもしかして、捕まってしまったのではないだろうか。東雲さんに限ってそれはないと信じたい。けれど、不安に胸が押し潰されそうだった。

 そこまで考えたところでふと卑屈な笑みが浮かんだ。私がいくら考えたところで居場所も分からない彼のために何もできやしない。そもそもあんなにハッキリと拒絶されたというのに、どうしようと言うのか。

 拒絶されたことが酷く心に刺さっていた。前にも一度、東雲さんが私を退けたことはあった。あざみちゃんと初めて出会った夜も似たような会話をした気がする。けれど、あのときと今とではまるで違う。私と東雲さんが過ごした月日も、彼の拒絶の本気も。



「和子ちゃんはどうしたい?」


 思いを見透かされたような言葉にハッとする。気が付けば、冴園さんが真剣な眼差しで私を見つめていた。


「どうしたいって……?」

「君がこれからしたいことは何? 咲の居場所を探って追いかけること? それとも二度と顔も見たくないって逃げること? どんなことでもいい。和子ちゃんがしたいことは、何?」

「ちょっと!」


 あざみちゃんが冴園さんの肩を掴んで止める。唇を尖らせ、牽制するように声を張った。


「初対面でキツイことは言いたくないけど、あんた何様? こっちの事情も知らないぽっと出の一般人が、あたし達の何を知ってるわけ?」


 尖った言葉が病室に響く。あざみちゃんは大仰な身振りで言葉を紡いだ。


「裏の世界を知ってる? 笑わせないで。知ってるだけで、踏み込んでるわけじゃないでしょう。そんな人間が口出ししないでくれる。あんたの言葉に従って和子がどうなるかも考えないで、無責任なこと言わないで」

「私もそう思うわ。あなたが今、この子に何を言ったところで、責任のない言葉にしかならない」


 真理亜さんまでもが冴園さんに冷たく言い放つ。冴園さんはそんな二人に向けて真っ直ぐな視線を投げかけた。


「でも咲も和子ちゃんも、俺にとっては家族みたいな存在なんだ。俺は二人の意思を尊重したい。だから……」

「家族?」


 あざみちゃんが鼻で笑う。肩にかかっていた髪を払いながら、冴園さんを睨んだ。


「家族だなんて甘ったるいこと本気で言ってるの? 誰かに情を抱くことはこの世界じゃ死ぬのと同じことなのよ。……ああ、そんな基本的なこと、平和な毎日をのんびり過ごしてるあんたに分かるわけないか」

「あざみちゃん! 言い過ぎだよ!」

「ここまで言わなきゃ伝わらないわよ」


 でも、と反論しようとした私を冴園さんが止める。微笑んで首を振った彼は、それからふと笑みを消してあざみちゃんと真理亜さんを見た。


「確かに俺は君達とは相容れない人間かもしれない」


 そうよ、とあざみちゃんが頷きかける。けれどそれを制するように彼はこう言った。


「でもさっきの言葉は君達も同じだろう?」


 二人が目を細める。どういうこと、と呟く真理亜さんに答えるように冴園さんは続ける。


「情を抱くことは死ぬことと同じ。そうかもしれない。誰も信用できないこんな世界だ、情を持った時点で命取りになる」

「分かってるなら、何を……」

「じゃあどうしてここにいる? 和子ちゃんの病室にいる理由は、寝首を掻こうってわけじゃないだろう。何故彼女を心配してお見舞いに来ているんだ?」


 二人が言葉を詰まらせる。確かにそうだ、と私は静かに思った。

 他人を信用してはいけない。親しみを込めて抱擁した相手が首の後ろに回した手に、鋭いナイフを握っているかもしれない。愛を育んだと思った相手とキスしたときに、口に毒薬を注がれるかもしれない。ここはそういう世界だと何度も教えられた。誰かを信じれば自分が死ぬのだと。

 けれどそれを教えてくれたのは皆だ。東雲さんも、真理亜さんも、あざみちゃんも……他にも色んな人が私に殺し屋の世界の生き方を教えてくれた。親切に、丁寧に。

 真理亜さんとあざみちゃんとは一緒にいることも多かった。女同士ということもあってか一緒に仕事をすることもあり、休日に会って遊んだりしたこともあった。そのときの彼女達の笑顔が偽物だとは思えない。とても楽しそうで、幸せそうな笑顔には、警戒心や敵意などは微塵も含まれていなかった。


「本当は君達も情を求めているはずだ。こんな世界……いいや、むしろこんな世界だからこそ、人との繋がりを渇望するものだと俺は思うけどね。友達が欲しい、恋人が欲しい、誰かと親しくなりたい。そう思ってるんだろう?」


 有無を言わさぬ口調で冴園さんが叩き付ける。けれどそんな口調でなくとも、二人は反論などしなかっただろう。口を閉ざして神妙な顔で俯いているのが証明だった。


「和子ちゃんはいい子だ。素直で、いつも笑っていて、誰にだって優しい。そんな子は裏の世界じゃほとんどいないだろう。最初から荒んだ心の持ち主ばかりだ。だからこの子の周りには人が集まる。荒れた心も、彼女の傍にいれば癒される。温かいんだ。俺は和子ちゃんが好きだよ。君達二人もそうだろう? だからこそ、今この場にいるんだろ?」

「それは…………」


 あざみちゃんが口を開きかけたが、結局言葉は出てこなかった。ちらりと私に向けられた目が揺らぎ、長い溜息と共に額を手で覆う。真理亜さんも静かに口を閉ざして天井を仰ぎ見ていた。

 私はかぶりを振って冴園さんの言葉に反論した。


「買いかぶりすぎです、冴園さん。私はそんなにいい人間じゃない、皆に好かれるような人間じゃない」

「そんなことはないよ。和子ちゃんは優しくて……」

「違うっ!」


 衝動的に声を張り上げた。両手で前髪を掴み、首を振る。


「違う、違うんです。私はそんな子じゃない。いい子じゃない!」


 冴園さんは私を誤解している。その誤解を解こうと、半ば叫ぶように言う。


「生きているのが嫌になって、自殺しようとした先で東雲さんに会っていなければ、こんな世界は知りもしなかった。流されるように殺し屋になって、皆と知り合って、この世界が好きになった。皆と笑うのが楽しかった、どんどん強くなっていくのが嬉しかった。ああ、私は変われたんだなって、そう思ってました。でも違った。……殺したいって思ってしまったんです。私をいじめてくる子達や、嫌いな子達を殺せるって、そう考えてしまった」


 それは強くなったとは言わない。そんな東雲さんの言葉を思い出し、思わず拳を握った。小指の血がまた包帯に滲む。

 息が荒くなる。見開いた目に溜まった涙が、シーツに数滴のしみを作った。


「東雲さんにも酷いことを言ってしまった。怪我をしたのは私のせいだし、彼はそんな私を助けてくれようとしていただけなのに。全部、全部私が悪いんです。私があんなこと考えなければ良かったんだ。あんなこと、言わなきゃよかったんだ!」


 語気を荒げて言った直後、目の前が白い物に覆われた。濡れたシャツが頬に張り付く。

 昂ぶった感情に震える私の体を、正面から冴園さんが抱きしめていた。大きな手の平が私の背を優しく撫でる。


「和子ちゃんはいい子だよ」

「どこがですか? こんなことを考える私の、どこがいい子なんですか!」

「誰だって考えるさ。自分を傷付けてきた人を殺してやりたいって、見返してやりたいって。そう思わない人は一人もいないよ」

「……冴園さんも?」


 体を離して冴園さんを見上げた。涙でぐしゃぐしゃになった視界の中で、冴園さんは微かな微笑みを浮かべる。

 大丈夫、と優しい声で冴園さんが囁いた。静かに心に染み入るような、不思議な声だった。


「そんなところも含めて、君は優しい人間だ。咲だって絶対に和子ちゃんのことを嫌いになってなんかいない」

「でも……でも、私、東雲さんに酷いこと…………」

「和子ちゃんが考えているよりもずっと、咲は君のことが好きなんだよ。あいつだけじゃない。咲も俺も和子ちゃんのことが好きだ、いつまでも大好きだ」

「冴園さん」

「俺達は、そんな優しい君の傍にいたいんだよ」

「冴園、さん」


 散々涙を流した目がまた潤む。私は冴園さんの胸に縋り付き、大声を上げて泣いた。そんな私を包み込むように、彼は黙って、優しく背を撫でてくれる。

 涙も出なくなったころ、引き攣るような嗚咽を残し、泣き腫らした目を擦る私に冴園さんが言った。


「俺は咲も、和子ちゃんも、二人とも大好きだよ。だからこそ、正しかろうが間違ってようがどっちでもいい。自分の気持ちを押し殺して、後悔してほしくはないんだ」


 冴園さんの顔をじっと見つめた。痛切な思いを込めた真剣な表情が私を貫く。汗なのか、水滴なのか、頬を一粒の雫が伝う。

 長い溜息が沈黙を破った。あざみちゃんが腕を組んで俯き、静かに首を振る。私が声をかけるまえに、彼女の鋭い視線が私達に向けられた。


「ええ、そうよ、その通り。あたしだってたまには誰かと関わりたいと思ってる。真理亜のことも、和子のことも、信用してる。あたしにとってはこの二人が大事な人よ」


 でもね、とあざみちゃんは続けた。


「大事だから傷付いてほしくないの。危険な目に遭ってほしくないの。そう思うのは悪いこと? 大切だからこそ危険なことをしてほしくないの!」


 あざみちゃんは顔を真っ赤にして私を凝視していた。ひたむきな彼女の思いに胸を突かれる。滅多に自分の気持ちを素直に言わない彼女の言葉だからこそ、それは強く胸を打った。

 耐え切れなくなったのかあざみちゃんは顔を逸らしてしまう。そんな彼女を静かに見守っていた真理亜さんは、寂しそうに冴園さんへ顔を向ける。


「私達は決してあなたのことを馬鹿にしてるわけじゃない。あなたはあなたなりに和子のために言ってるんでしょう。だけど私達も私達なりに、この子のことを思っているだけなの」

「……勿論、分かってる」


 キツイことを言ってごめんなさい、と冴園さんに謝った真理亜さんは、私へ視線を向けて言った。


「皆あなたのことを想ってる。でも結局、動くのはあなただから。私達が何を言っても、最後に決めるのはあなた自身よ」

「ちゃんと考えてよ。生半可な気持ちで決めようとはしないで」


 三人の視線が私に向けられる。握った拳へ視線を落とし、私は静かに目を伏せた。


「私は…………」



 満月に照らされた東雲さんの姿を思い出す。血に濡れた拳を、牙のような歯を、蛇島の頭部を蹴り砕いた足を。

 恐ろしかった。いや、今でも恐ろしい。こうして思い出すだけで、体が震え、血の気が引いていく。

 あの獣のような彼の姿を忘れることができない。彼の差し伸ばした手が、私の体を引き裂くイメージがいつまでも脳から離れていかない。



 私は息を吸い、答えた。


「私は、」

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