第40話 先生が救う命
床を蹴って飛び上がる。精一杯に伸ばした手の先に試験管が触れ、死ぬ気の思いでそれを掴む。空中でしっかりと握って着地。だが、顔を上げると、すぐ眼前に銃口が突き付けられていた。
「ブラーヴァ」
銃を握っていたエミリオが微笑みながら私の腰を抱き寄せる。すぐにでも離れたかったが、無理に離れようとすると薬と銃が危ない。結局体を強張らせたまま彼に抱き寄せられ、ピッタリと頬を胸にくっ付けたまま歯噛みして彼を見上げた。それでもエミリオは怯えるどころか余裕の表情で舌を出し唇を舐める。
「その顔はとてもそそるよ、シニョリーナ」
「エミリオ!」
残った部下のうちサングラスをかけた男がエミリオに叫ぶ。危険な彼の行動を咎めているのだろうが、当のエミリオは気にした様子もなく肩を竦めた。その拍子に腰にまわされた手に力がこもり、苦しくて呻く。その隙を突いたようにエミリオが私の手から試験管を取り上げた。
「命を賭けたスリルほど面白いものはない」
「お前はいつもそうやってギャンブルばかりだな!」
「賭け事を馬鹿にするな。湿気たものだと思っていたが、この辺りは中々楽しめる。特に第九区のな……」
二人の会話を横に、必死でこの状況を打破する方法を探る。苦しい呼吸で喘ぎながら視線を巡らせる。試験管、銃、エミリオと二人の部下、森近先生……駄目だ、思い付かない。
動くな、と張り詰めた声が聞こえた。見ると、険しい顔の東雲さんが銃を構えてエミリオを睨んでいる。
「そいつを離せ、撃つぞ」
「いいのか?」
銃を前にしてもエミリオは余裕の表情を浮かべていた。私を見下ろしニヤニヤと笑う。
「さっきみたいに盾にするかもしれないなぁ」
東雲さんは悔しそうに歯ぎしりをする。眉間に寄るしわ。悔しそうなその顔を見て申し訳なくなり、私も泣きそうになる。エミリオがそんな私達の顔を交互に見比べて高笑いを響かせた。
「どうもこの子が大切なようだ」
「……………………」
ふと、彼は優しい顔になった。外人ということもあってか、教会の神父を想起させるような笑み。けれどその口から続く言葉は悪魔の言葉だった。
「最初の実験体は彼女だ」
ひ、と引き攣った声が零れた。体が強張り、顔から血の気が引いていく。
エミリオの言った言葉が信じられない。聞き間違いだろうかと震えながら彼の顔を見あげるが、そこに冗談の色は感じ取れない。
エミリオが指示を出すとサングラスの部下が部屋から出ていこうとする。東雲さんが止めようと動きかけたが、ゆらゆらと試験管を揺らされその場に立ち尽くす。東雲さんの隣ではポカンと状況を理解できずに突っ立つネズミくんと、ネズミくんの後ろに隠れるようにしゃがんで私を見つめている仁科さんがいる。
「…………やめろ」
「やめる? 何を」
「ネコを……そいつを離してやってくれ、頼む」
「じゃあ子供達をもう一度連れて来てくれ」
ぐっと東雲さんが言葉を詰まらせる。唇を白くなるまで噛む彼に、エミリオが試験管を手にしたまま静かに言い返す。
「この子を殺したくないなら代わりに子供達を連れてくるんだな。できないなら黙って、武器を捨ててその場に膝を下ろせ。これはお願いじゃない、命令だ」
さっきと立場が逆だなぁ? と笑うエミリオに東雲さんは黙って拳を震わせた。私と彼の目が合う。怯える私の顔を見て、眉尻を下げた表情の東雲さんは目を逸らした。
抵抗すれば銃で撃たれる。上手く逃げ出せても薬が割れるかもしれない。どちらにせよ、絶望的な状況。
「薬品実験に使われた人間がどうなるか知ってるか? 全身の皮膚がずる剥けになったり、鼻血が止まらなくなったり、四十二度の高熱と三十一度の低体温が交互に続いたり、頭が二倍に腫れ上がったり、血管が以上に膨れて体中がボコボコになったりするときもあるんだぞ。気が狂うほどの苦痛の中で一ヶ月生かされたりするんだ。君には何もないといいな」
楽しげにエミリオが語る途中で部下が戻ってくる。その手に握られている注射器の中に入った、トロリと少し粘度のある透明な液体。それを投与されればどうなってしまうのだろう。彼が楽しげに語った話の内容が脳裏に鮮明に想像された。
「や、やだ、嫌……」
「これで合ってるか森近? ああ、分かった」
「離してっ、離して! やめてよ!」
「暴れるな。上手く刺せない」
「やだっ! こっちに来ないで! 嫌だぁ!」
無我夢中で暴れた。こんなの嫌だ、こんな死に方は嫌だ。苦しいのも痛いのも耐えられない。あの実験動物みたいになりたくない。
全力で暴れても彼らは許してくれそうにない。鋭い針の先端がじわりと腕に近付いてくる。心臓が破裂しそうなほど高鳴って、苦痛より先に恐怖で気が狂ってしまいそうだった。
仁科さんが血の滲む肩を押さえながら、ネズミくんにぶつぶつと何かを呟いている。東雲さんが険しい顔でエミリオに何かを叫ぼうと口を開いている。その光景全てが涙でぼやけてよく見えなくなった。
針が肌を掠める。ゾッと全身を震わせるような恐怖に目を瞑った。
「だめ――――!」
恐怖もろとも部屋に張り詰めた緊張感を裂いたのは、甲高いネズミくんの声だった。涙を零しながら目を開けると、頬を膨らませたむくれっ面のネズミくんが大股でこっちに歩いてくる。唖然とそれを見る私達の前で、私を拘束するエミリオに叱るように言う。
「ちょっとなにしてるの? おねえちゃん、ないてるじゃん!」
空気を読まずに突っかかってきたネズミくんに、この場の誰もが毒気を抜かれたようにポカンと彼を見下ろしていた。それでもネズミくんは構わず、片頬を膨らませたままエミリオに近付く。その小さな手がエミリオの服を掴んだのを見て、ようやくハッと我に返る。
「だ、駄目! ネズミくんあっち行って! こっちに来ちゃ駄目!」
「お前もこいつらの仲間だろ? 来るんじゃねえ」
髭を生やした部下も意図は違えど私と同意見でネズミくんを遠ざけようと手を伸ばす。けれどエミリオが部下の前に手を伸ばしてそれを制した。怪訝な顔の部下を無視し、彼はネズミくんをじっと見下ろす。
「バンビーノ。何か勘違いしてるようだね。オレは別に彼女に何をする気もないよ。君は静かに待っていればいい」
「ちがうよ。ないてるでしょ」
「女性の涙の意味は一つじゃないのさ」
「は? なにいってんの、おじさん。いみわかんない」
エミリオがひくりと頬を引き攣らせる。渇いた笑い声を漏らし、試験管をそっとネズミくんの鼻先にくっ付けた。黙って見ていろ、と静かに言ったエミリオは、ふと怪訝な顔をネズミくんに向けた。彼が怯える様子もなく黙っているせいだろうかと思ったが、そうではないらしい。
「どこかで……会ったことがあるか?」
「これ、のめるかな?」
「あ?」
突然だった。
エミリオの問いを無視して、ネズミくんが無邪気に笑いながらエミリオの手から試験管を取った。
あまりに緊張感もなく気楽な様子で取られたそれにエミリオは虚を突かれたように固まって、それからすぐ我に返って顔色を変える。だが、我に返るまでの僅かな間に、張り詰めていた糸は千切られた。
一瞬の間にこの場の全員が動く。試験管を取り戻そうと手を伸ばしたエミリオに、床をたった一蹴りで跳んだ仁科さんが体当たりをぶちかます。拘束が緩み、そこから逃れた私は咄嗟にエミリオが銃を持っていた右手を捻る。ほぼ同時に発砲された弾丸は、本来射程範囲にあった私の頭から逸れて壁に弾かれた。銃の引き金に指をかけた二人の部下を東雲さんが素早く撃ち、彼らの手に風穴が開いて銃が床に転がった。
いける、と確信した。けれどその確信は一つの誤算によって踏みにじられる。髭の男が痛みに呻きながら、反射的にだろうか、近くにいたネズミくんを突き飛ばしたのだ。
ギャッと悲鳴を上げて壁にぶつかったネズミくんの手から弾みで試験管が滑り落ちる。皆から遠く離れた部屋の隅へ。咄嗟に手を伸ばしたって、あまりに遅すぎた。
床に触れた試験管にヒビが入る。パリンとガラスの割れる音がして、二つに折れた試験管から緑色の液体が床に零れ出した。
空気が凍り付き、また全員が動きを止めた。
「なんてことを……!」
森近先生が低い声で呻いた。今にも倒れてしまいそうな蒼白の顔を見て、私も足が震えてその場にへたり込んでしまう。試験管の液体が床にじわりと広がる。胸に満ちていく恐怖と喪失感。お互いに薬を奪い合った挙句の無残な結果だ。
東雲さんもエミリオも部下達も森近先生も、皆シンと言葉を潜めて沈痛な面持ちを浮かべていた。仁科さんは俯いて肩を震わせている。ネズミくんが一人キョトンと首を傾げていた。この状況が理解できていないのだろう。やっぱり子供達を出すとき、ネズミくんも一緒に逃がしておけば良かったんだ。せめてこの子だけでも助かってくれていたら。……今頃思ったところでもう全部遅い。
「どうしたの。みんな、へんなかおしてる」
「手前のせいだろ!?」
「やめてください!」
髭の男が声を荒げてネズミくんに詰め寄ろうとした。震える膝を必死に立たせ、私は二人の間に割り込んでネズミくんの前で両手を広げる。髭の男は顔を赤黒くさせ、イタリア語で泣き言のような声を響かせつつ日本語でネズミくんに罵声を浴びせた。
「なんてことしてくれたんだクソッタレ! お前のせいで、ウイルスで皆死ぬんだ!」
「ウイルス? なにそれ」
「さっき森近が言ってた話を聞いていただろう!? その試験管にはなぁ、強力な毒が仕込まれていたんだぞ!? クソッ、クソッ! 全部お前のせいだ、お前のせいだ!」
「いい加減にして! あなたがネズミくんを突き飛ばしたからでしょう!? この子のせいにしないで!」
男はギャアギャアと喚き続ける。ついには目に涙を浮かべ、顔を手で覆って天を仰いだ。床に倒れて既に死んでいる他の部下を見て、涙声で懺悔を繰り返す。
「ああ、畜生……。エミリオは気が短いって言うから、殺されないよう必死で動いたってのに結局……こんな最期ありかよ、クソォ……」
当のエミリオがすぐ傍にいるというのに男は嘆く。みっともなく嗚咽しながら俯く姿に、笑うことなどできなかった。だって皆死ぬのは怖い。誰しもが死んでしまうことを恐れていて、それはこの場の全員が…………。
思考を止めて瞬いた。背後から、押し殺すような笑い声が聞こえて振り返る。それまで俯いていた仁科さんが肩を震わせ、小さく笑い声を上げていたのだ。押し殺すような笑い声から、引き攣ったような笑いに。
「く、ふ……ふふ……っは、うひひっ…………はひひひっ」
気味の悪い笑い声だった。サングラスの男が憐れんだような声色で「可哀想に」と呟く。仁科さんがこの状況に絶望して狂ってしまったと思ったのだろう。けど私は知っている。仁科さんは恐らく、死への恐怖に狂っているわけではないだろうと。
「笑うな……」
「あははっ」
「笑うなよっ!」
男が顔を真っ赤にして怒鳴った。向けられる憤怒の目に、仁科さんはそれでも可笑しそうに顔を緩ませていた。
「それあぶなくなんてないよー?」
「それに毒なんて入ってないよ」
ネズミくんと仁科さんが同時に似た台詞を吐いた。意味が分からずキョトンとした皆の中で、仁科さんとネズミくんの二人だけがニシシと笑う。
「ね、マスターいってたもんね。あれ、ただのみずだから、もってこいって、ね!」
「うん。下水道通って来たとき服に滲み込んだ水を垂らしただけだから、毒なんかじゃないって」
ねー、と顔を見合わせてクスクス笑う二人に、髭の男が困惑した顔を向けた。声を裏返しながら問う。
「はぁ? だってお前、あれ、薬品室からって……」
「勝手にそっちが言っただけでしょ? おれ一言も、それが毒とか言ってないんだけど」
ポカンと男は呆けた顔をした。けれどその表情になっているのは私や東雲さんも同じで、どうやらこの場にいる中でそれを知っていたのは仁科さんとネズミくんだけのようだった。
敵を騙すには味方から、とは言ったものだが、きっと仁科さんはそんな意図で私達に教えてくれなかったわけじゃない。多分、聞かれなかったから、とかそういう理由なんだろう。
「……だ、騙しやがったな手前!」
「うるさいな、静かにしてよ。頭に響く」
眠いんだから、と欠伸混じりに仁科さんが言う。その言動は完全に男の神経を逆撫でしたらしい。一瞬で般若のような顔になった男が、サングラスをした部下の手から注射器を乱暴に奪い取る。そしてそれを止める間もなく、仁科さんの元へ駆け寄った。避けようと思えば避けれたろうに、細い手首を掴まれても仁科さんはキョトンとした顔で男を見つめているだけだった。
「眠い眠いうるっせえんだよ! そんなに眠いんだったら寝かせてやる、永遠にな!」
男が叫びながら注射器を仁科さんの腕に突き刺した。プツッと皮膚を破く音。見開いた私の目に、彼の腕に刺さった注射器と、中の液体がじわりと減っていく光景が映る。当の仁科さんは焦った様子もなくそれを呆けた顔で眺めていた。中身が空になって、注射器が床に転がって。
「仁科さん!」
そこでようやく私は叫んだ。
パチパチと瞬きをしながら、小さな血の球が浮かぶ注射痕を観察していた仁科さんの薄い胸板を、髭の男が蹴り付ける。外国語で愚痴を言いながら、その場に倒れる細い体を容赦なく蹴りまくる。仁科さんは苦痛に呻きつつもろくに抵抗はせず、男をぼんやりと他人事のように見上げていた。耐え切れず、私は走って男に抱き付くようにタックルをした。仁科さんは私を見てゆっくりと立ち上がろうとして、
「あ」
小さな声を零し、膝を震わせてその場に崩れ落ちた。ぐしゃっと肩から転がった彼の顔色はいつも以上に血色が悪く、手が小刻みに震えていた。鼻からつぅっと伝う血を見て、私は愕然とする。薬の効果が現れたのか。
「森近先生! 解毒剤は!?」
先生に向かって言ってみるが、先生は首を振る。悔しさと焦燥に唇を噛んだ。仁科さんは寒さに震えるように肩を抱いて、微睡んだような顔で浅い呼吸を繰り返していた。
左手首の切り傷が示す、彼の薄い生への執着。仁科さんは死ぬことを恐れない。だからこそ怪我や痛みを気にせず殺意に立ち向かうことができる。
けれどそれは逆に、向けられる殺意を受け入れているようなものだから、いざというときに反応が遅れてしまうこともあるのだ。
「東雲」
「何だ」
それまでエミリオ達が何かをしないよう、銃を構えたまま黙って見張っていた東雲さんは仁科さんの言葉に視線も寄越さず問う。喘ぐ呼吸の中に、切迫感も何もない、ふわりと軽い声で仁科さんは言った。
「おれが死んだら、銀行のお金使っていいよ」
どうせあまり使わないから、と。その言葉に東雲さんはただ眉間にしわを深く刻むだけだ。
薬の苦痛に呻きながら目を閉じる仁科さん。そのまま本当に永遠の眠りに付いてしまうんじゃないかと思ったとき、ネズミくんが近寄ってペチペチとその頬を叩く。
「マスター。しぬの?」
「…………うん」
「やだ」
ネズミくんがムッと顔を歪めて首を振る。肩を掴み、大きく揺り動かす。仁科さんが面倒そうに目を細く開いた。
「だめ。マスター、しぬのとかだめだかんね」
「どうして」
「ママみたいになるでしょ」
「いいじゃん」
「よくないっ!」
ネズミくんの声が空気を震わせる。顔を真っ赤にして僅かに目を潤ませながら、仁科さんの肩を思いっ切りガクガク揺さ振る。
「あのねーっ! そしたらぼく、おこるからね! マスターとあえないのはやなの!」
「なんで」
「なんでも! マスターはぼくとあえなくなってもいいの!?」
仁科さんがか細い息を吐く。しばし考えるように視線を横に流し、ポツリと呟く。
「正直……どっちでも」
「マスターのバカ!」
ネズミくんがぎゃんぎゃん喚いて仁科さんの頬を叩く。流石に鬱陶しくなったのだろう、エミリオが自らネズミくんに近寄って引き剥がそうと手を伸ばす。それに気づいたネズミくんは露骨にそれを睨み、倒れる仁科さんに縋るように抱き付いた。
「しんだらだめなの! ねるなら、かえってねるの! おふとんのほうがあったかいの! ねえ、おきて、おきてよマスター!」
ネズミくんが叫びながら涙を零した。その水滴を頬に受け、仁科さんはじっと目を伏せる。
人が泣くのは、それも幼い子供が泣く様子は酷く感情を揺さ振られる光景だと思う。けれど、そんな風に感じているのはこの場で恐らく私だけ、少なくとも仁科さんは心を揺すられることなどないだろう。ネズミくんが泣いても叫んでも怒っても、彼の気持ちが一ミリたりとも揺らぐことはない。
他人の感情が仁科さんを動かすことなどない。
エミリオが無理にでも引き剥がそうとネズミくんの襟首に手をかけた。
その手が、仁科さんの骨ばった手によって力強く掴まれた。
「っ!?」
「うるさいなぁ」
エミリオが咄嗟に手を引こうとする。けれどそれを掴む仁科さんの手は血管が浮き出るほど強く掴んでいて。咄嗟にエミリオがその顔を殴り付けても、仁科さんはよろけはすれど手を離さない。不気味な物を見るように顔を歪める彼に、前髪の隙間から覗くゾッと怖気を放つような赤黒い瞳を覗かせた。
「……こんなうるさい場所で眠るのは、やだなぁ」
他人の感情が仁科さんを動かすことなどない。
だけど、自分自身の感情だったら仁科さんは動くのかもしれない。
『うるさい場所で眠りたくない』という、あまりにも呑気で、自分勝手な理由でも。
仁科さんがエミリオの横っ面を殴り付けた。女の私と同じかそれ以上に細く骨ばった手だというのに、その拳の威力は凄まじかった。顎の骨が砕けたのではと思うほどの重い音が響き、エミリオの体が横にぶれる。それを見て部下の二人が顔色を変えて雄叫びを上げた。彼らが迫ってくる前に仁科さんが先に動く。
表情に現れない怒りの感情を代わりに表現するような強い蹴り。床のコンクリートを抉るようにそこを蹴り付ける。そして爆発的な跳躍で宙を跳んだ仁科さんは、その勢いを髭の男の顔面に膝蹴りとして食らわせた。異常な跳躍に驚いていた男は防御する間もなく露骨に顔面へのダメージを許してしまう。その隣で同じくギョッとしていたサングラスの男は、それでももう一人よりは反応早く拳を振った。
ゴウッ、と空気を裂くように飛んできた拳を仁科さんは肩で受け止めた。大きくふら付いた仁科さんだが、それを利用しくるりと体を回転させて横から男の腰を蹴り付ける。強力なバネを弾き飛ばしたような蹴りに、男が低く呻き、前のめる。その顔に仁科さんがアッパーを突き上げた。
だがその間に立て直した髭の男が仁科さんを後ろから羽交い絞めにする。それを振りほどくより先に、前からサングラスの男が至近距離で顔を殴打した。筋肉の詰まった腕から襲いくる一発一発が重い拳に、仁科さんの口から血が垂れた。
「仁科さ……っ」
「行くな」
私も加勢しようと駆け出しかけた瞬間、東雲さんに肩を掴んで止められた。当惑した顔で見つめ返すと、彼は首を振って言う。
「あいつの邪魔になるだけだ」
どういうこと、と私が一層怪訝な思いを募らせたそのときだった。バキッと固い物を砕く音がして顔を向ける。仁科さんが大きく顔を仰け反らせていた。殴打していた男の拳に血が付いている。けれど仁科さんが顔を戻したとき、殴っていた彼だけではなくそれを見ていた私までもがギョッと目を見開いた。
殴られた衝撃だろうか、仁科さんが泣いていた。だけど普通の涙じゃない。右目からこそは透き通るような透明な涙が流れているものの、ボサボサに乱れた前髪の隙間から覗く赤い左目から、血のように赤い異常な色の涙が流れていたのだ。
思わず固まる男達に向かって仁科さんが笑い出す。子供のように無邪気に甘ったるい顔で、楽しそうに笑いながら泣く。そしてそのまま怯える背後の男を突き飛ばし、手を伸ばしてサングラスの男の首を締め上げる。
「あいつの目がああなったのは五年ほど前のことだ」
仁科さんの暴力を背景に、東雲さんが語り出す。
髭の男が仁科さんを止めようと後頭部に殴りかかる。仁科さんは首を捻ってそれを避け、拳は首を絞められ酸欠にパクパクと口を開閉していた男の顔に叩き込まれる。
「あいつがまだ仕事をしていて、俺がまだ殺し屋になったばかりのときだ。俺が仕事でミスをしたんだ。依頼主とターゲットがグルだった。俺は普段単独で仕事をする、そのときもそうだった。対して相手は大人数だ。怪我をして気絶して、目が覚めたときには捕まっていた」
壁際で腰を屈め、森近先生はガチガチと歯の根が合わぬ様子で震えていた。頬を腫れあがらせたエミリオはその隣にしゃがみながら、じっと仁科さん達が戦う様を観察していた。手を出さず何かを吟味するようなそのギラついた目に背筋が凍る。彼らが戦い始めたときから私の元に戻って服の裾を握っていたネズミくんも、じっと仁科さんを神妙な顔で見つめていた。震えもせず、涙も止めて。
「殺し屋側の情報が欲しかったらしい。死ぬ寸前まで拷問を受けて、それでも初心者の俺がろくな情報を知ってるわけもなくて、もう駄目だと諦めていた。だけど、そこに仁科がやって来たんだ」
「仁科さんが……」
「ちょうど近くで仕事をしていて、物音に気付いてやって来たらしい。あいつはその場にいた敵十人以上を、たった一人でぶっ殺した。一人でだぞ?」
ボギン、と骨の折れる音がした。絶叫が轟く。
「だけど、仁科の顔を文字通り潰そうとした奴がいたんだ。指が滑ったのかワザとなのかは分からない。そいつの指は仁科の左目を突き刺した。……あのときの、固い寒天を握り潰したような音が、今でも忘れられない」
その映像を思い返したのか、東雲さんは少し顔を青くした。私もその音を想像してしまい、ゾクゾクと背筋を震わせる。
「それでも、痛がらなかった」
「え?」
「仁科は絶叫なんてしなかったんだ。痛そうな顔はしていたけれど、それもたった一瞬だ。すぐに何事もなかったように平然とした顔で男の首を捻り上げた、潰れた眼球からダラダラ血を流しながらな。その後薄命先生の所へ連れて行って治療させたが、今でもあの目は弱視状態だ。……あんな風に潰れて視力が戻っただけでも素晴らしいがな」
痛がらないんだ、と東雲さんがもう一度呟いた。痛がらない、と私も同じ言葉を繰り返した。
「痛がらないから刃物や銃を恐れない。苦痛に耐性があるからズタボロの死に体でも本当に死ぬまで倒れない。常に怠惰と死を望んでいるあいつは誰よりも強いんだ」
部下達の手に銃はない。けれど他に刃物などの武器を隠し持っているかもしれない。エミリオと森近先生が咄嗟に攻撃することだってあるかもしれないのに。丸腰の仁科さんは、そんな可能性などどうでもいいと思っていそうな気がするほどに容赦なく戦っていた。
「誰よりも怠け者で、だけど本気を出せばきっと殺し屋の誰よりも強い」
彼はただ戦う。血の気など一切ない淡々とした、冷徹ささえ感じるほどにぼんやりとした顔のまま、殴って蹴ってまた殴る。高く跳び上がって膝蹴りを男の顔に繰り出す。
「それが仁科浩介だ」
東雲さんが言い切ったとき。甲高い発砲音が二回轟いた。部屋中に反射してキィンと鼓膜を痛めるような音に肩を竦めながら顔を上げると、仰向けに倒れた仁科さんが、男達が落とした二丁の拳銃を両手に真っ直ぐ構えていた。銃口からはそれぞれ細く白煙が立ち昇っている。
二人の部下は一瞬電撃に撃たれたように痙攣し、足から力が抜けたように崩れ落ちる。横になったままの仁科さんの上にぐしゃりと倒れたとき、すでに二人の息がないことを私は悟った。
体の上に倒れてきた死体を嫌そうに払い、仁科さんがその場にすくっと立ち上がる。暴れたせいで体温が上がったのか赤みの差した頬を見て、ふと疑問に思う。
「仁科さん」
「何?」
「薬は?」
「んぅ…………あれ? ……痛くない」
恐らく激しく痛んでいたのであろう左胸にペタペタと手を当てながら仁科さんがキョトンと顔を呆ける。いつの間にか鼻血も止まっていて、仁科さんが拭った痕だけがこびり付いている。
まさか。
「ファンタスティコ!」
突然感極まったような歓声が聞こえて跳び上がる。ドキドキと心臓のうるさい音を聞きながら目を向けたそこに、満面の笑みで両手を広げるエミリオがいた。彼は四人の部下の死体に見向きもせず目を輝かせる。
「見たか森近! 成功だ! 死んでいないぞ! 喜べ、これでお望みの新薬ができる。どうする? もう一度くらいガキ共を誘拐して不具合がないか試してみるか?」
「あ、ああ…………」
バンバンと肩を叩かれる森近先生は、死体に酷く吐き気を催した顔に、どこか歓喜の色を滲ませていた。
成功って、仁科さんに投与された薬が? 確かに彼は酷く辛そうではあったものの、死んではいない。それが成功の証なのだろう。
二人は私の目の前で会話する。あと何人の子供が必要か、最終テストをいつにするか、などといった内容だった。ぼんやりとしていた私も我に返って、エミリオ達を睨んだ。
「ちょ、ちょっと待ってください。私達がいること忘れてませんか? そんな薬認められるわけないでしょ!」
仁科さんに投与された薬。それが森近先生の切望していた新薬に限りなく近い物として認められるのだろう。けれどこれまでの犠牲を考えるとそんな薬を私は認めるわけにいかない。それにこれ以上また新たな子供達を犠牲にするというのなら、今ここで彼らを始末する必要がある。
だが、ナイフを握る私に、森近先生が青ざめつつもしっかりと力強い言葉をぶつけてきた。
「私をここで殺したら患者が救えないのだぞ」
「これ以上子供達が死ぬこともなくなります」
即座に言い返した私に先生が苦い顔をした。それでも彼は続ける。
「だが結果的に多くの人間が救われることになる。せめて新薬が患者に使われるまで待ってくれないか」
「その薬が患者に使われるようになるまで、これ以上まだ一人でも無残な犠牲が出ると言うのなら、認められません」
「…………君は、この新薬がどんな病人に使われることになるか知ってるか?」
それまでと森近先生の声色が変わったことに気付く。怒りを滲ませた、けれどそれ以上に悲しそうな色を含ませた声に。
何故か一抹の不安が胸によぎった。
森近先生が半ば叫ぶように私に告げた。
「この新薬は、未来さんを救うことになる薬なんだぞ!?」




