表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
43/164

第41話 私が救う命

「未来?」


 呟いて、森近先生を凝視した。ナイフの柄を握る手にじわりと汗が滲む。


「どういうことですか……」

「言った通りの意味だよ」

「だからっ! どういうことですか!?」


 犬歯を剥いて私は吠えた。森近先生は極度の緊張と恐怖に強張った顔を浮かべていたが、その目に少量の悲愴を漂わせた。

 私を憐れむように見つめ、静かに告げる。


「この実験によって開発される新薬は、未来さんの患う病気に対する特効薬だ。言っただろう? ウイルスの増殖を抑える薬が開発されそうだと。それが、これなんだ」


 私の目に動揺の色が走ったのを森近先生は見逃さなかった。少しでも自分を有利にしたいのか、私に酷な現実を叩き付けてくる。


「君も知っているだろう。彼女にはもう時間がない。君の前では元気に振舞っているが、本当ならいつ容体が急変してもおかしくない、一刻を争う状態なんだ。この薬が彼女にとって最後の手段だ」

「最後って、それじゃあ」

「今ここで私を殺すということは未来さんを殺すこということになる」


 心臓が捻り潰されるような痛みが走った。ナイフを取りこぼすことはなかったが、手が痙攣したように震え出す。サァッと音が聞こえそうな勢いで顔から血の気が引いていった。

 死んじゃうの? と未来に訊ねたときの、彼女の綺麗に綻んだ笑みが脳裏に浮かぶ。その笑顔に、今私の持つナイフの切っ先が向けられている。


「な、んで…………」


 前髪をぐしゃりと掻き乱し、力の入らなくなった体を俯かせる。歯の根が合わない。吐き気がする。見えない人間がぶら下がっているのではと思うほどにナイフが重かった。

 駄目だ。未来が死ぬなんて嫌だ。でも、でも、子供達が死ぬのも駄目なんだ。どっちも殺しちゃ駄目なんだ。どうすればいいの、どっちが正解なの。私は何をすべきなの。

 東雲さんはエミリオの挙動を睨み付けている。仁科さんは一仕事終えたような顔で私と森近先生の会話を眺めている。エミリオも東雲さん達を警戒しつつ私がどう出るかを観察しているようだし、森近先生は固い顔で私の反応を窺うだけ。私がここでどう出るかで、状況は決まる。

 未来か、子供達か。大好きな友達を取るか、これから犠牲になる顔も知らない子供達を取るか。

 どっちがいいかなんて、分かんないよ。


 ナイフが手から滑り落ちた。カン、と固い床の上に音を立てて転がる。茫然自失に立ち尽くす私に、森近先生はホッとしたように微笑んだ。


「未来さんを救いたいだろう? 君達が何も見なかったことにしてくれれば、彼女は助かるんだ。安心してくれ、命までは取らない。それに今後の実験に使う子供達も今までほど多くはない」


 せいぜい数人だ、と彼は言う。その言葉を耳に流しながら一歩前に出た。床に落ちたナイフを一瞥して、先生は両手を広げる。病院で会ったときと同じ優しい笑顔だった。それを見て、足がまた一歩、前に進む。

 周囲から感じていた空気の温度が、声が、緊張感が、全てが遠のいていく気がした。東雲さんが何かを言った気がする、ネズミくんがおねえちゃんと私を呼んだ気がする。でも、私は振り向かずに、今にも倒れそうな足取りで前に進んだ。

 足がもつれて転びそうになる。前に倒れかけた私の体を、森近先生の両手がそっと優しく包んでくれた。


「……ごめんなさい」


 思わず呟いた謝罪の言葉に、森近先生は細く息を吐いて、柔らかな声を紡いだ。


「心配しなくていい。未来さんは必ず、私が――……」


 途中で先生の言葉は途切れた。優しく私の肩を抱いていた手がぐっと硬直したように固まり、ぶるぶると震え出す。笑みを浮かべていた顔に吃驚が浮かんだ。先生の胸をそっと両手で突くように私が離れると、薄らいでいた周囲の空気が一瞬にして驚愕と緊張が張り詰めた。

 先生の来ていた白衣、その腹部がじゅわりと赤く染まっていく。中心に深く突き立てられたナイフが先生の呼吸に合わせて小さく上下した。


「持ってるのは一本だけじゃないんです」


 彼に抱き留められながら、その腕の中で隠すように取り出した予備のナイフ。普段よりは一回り小ぶりだけれど、刺すのには十分なそれ。

 森近先生が表情を崩していく。苦痛と、そして悲しみに満ちた顔で私を見つめてきた。薄い呼気を吐き出す唇が、どうして、と蠢いた。


「仕事だから」


 唇を震わせて。頬に雫を伝わせながら、私は熱い息を吐いた。

 納得できない、という森近先生の顔を見ながら、その腹部から生えた柄を握る。


「仕事だから、これが依頼だから。しょうがないじゃないですか」


 言いながら思いっ切り柄を引き抜いた。脂肪と血と肉にぬめりながら、ズッとナイフの刃が引き抜かれる。一拍置いて、そこから噴き出した血の噴水が私の服にもかかってしまう。噎せ返るような濃厚な血の臭いに、無性に悲しみが込み上げる。ゴボッと水っぽい音がして、森近先生の口から大量の血が吐き出された。膝を突いて前のめりに俯く先生から一歩離れた途端、銃声が聞こえて先生の頭部に穴が開いた。一度大きく痙攣した後、森近先生はその場に顔面から崩れ落ちて動かなくなる。血肉の臭いを伴った湯気が鼻孔に届く。


 私達は仕事でここにやって来たのだから。子供達を救ってくれって、依頼されたから。優先すべきは子供達の安全だから。そのためには、これ以上被害が出ないよう、元凶をなくさなくちゃいけないから。だから、だから、だから。だから、許して。

 決められなかった、選べなかった。だから自分自信の納得できる言い訳を探していた。私達は殺し屋だから。依頼を果たさなきゃいけないんだ。これは仕事だからしょうがないんだ。


 慣れて……麻痺してきたんだ。皮膚を引き裂く感触も、肉を抉る感触も、温かな血が冷たく冷えていく温度も。人を傷付ける感覚は私の手に馴染んできた。

 それでも森近先生を刺したとき、まるで私の方が絶叫したいような耐え難い苦痛と恐怖に苛まれた。絶望と悲しみが私の心を彩っていく。森近先生の顔が未来と重なった。それを、私のナイフが引き裂いた。

 ごめんなさい。

 ごめんなさい、森近先生。

 ごめんなさい、未来。



「人殺しめ」


 その言葉にハッと顔を上げた。壁にもたれかかったままのエミリオが、ニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべて私を見つめていた。咄嗟に顔を下げて彼の視線から逃れようとしたが、今度は床に広がっていく森近先生の血を凝視してしまい、ぐっと喉を詰まらせた。


「これで君はこれから救われるはずだった多くの命を握り潰した。シリアル・キラーだ」

「ちが……」

「確かにこの場合は少し違うかな。シリアル・キラーというよりは……そうだな……」


 軽快な口調で独り言ちる言葉が胸に深く突き刺さる。叫び出したいような激情を必死に堪えていると、突然肩に誰かの手が置かれた。驚きながら横を見れば、東雲さんがそこに立っていた。彼は一瞬私に力強い視線を向けてから、鋭い睨みを効かせてエミリオを見る。


「目的は何だ」


 目的? と肩を竦めて微笑むエミリオに東雲さんが銃を向ける。


「ただの研究員じゃないだろ。外国支部の協力者か? 新薬開発にお前らが携わっていた目的は。お前らは何者だ」

「当ててごらん」

「ふざけるな」


 鼻にしわを寄せて威嚇する東雲さん。彼の隣でビクビク怯えながらも、私も同じようにエミリオを睨んだ。私達の視線に肩を竦めながら、エミリオは微笑んで答える。


「マフィアさ」

「マフィア?」


 キョトンと単語を繰り返すと、彼は大仰に頷いた。しばし呆けたようにその単語を反芻していた私だが、次第に脳裏に焦りが過る。マフィアって、あの映画でよく見る、麻薬とか銃器を密輸してるあれ? ドンとかカポとか、カポ・レジームとかコンシリエーレとか、よく分からないけど色々な立場に分かれていて、葉巻を吹かしているような……。彼の表情を見れば、恐らくそれは本当のことだ。

 勝手な想像に冷や汗を流す。けれどマフィアというその単語に恐怖を抱いているのは私だけのようだ。仁科さんは表情一つ変えていないし、ネズミくんは意味が分かっていない顔をしている、東雲さんはそんなこと関係ないと言いたげに牙を剥いていた。


「それがどうしてこんな所に? ボスか?」

「生憎オレはただのレジームさ。この工場は昔から何かとオレ達の組織と関わっているからね。こうして出向くことがよくある」

「関わるって……麻薬をカプセルに入れてでもしてるのかよ」

「その手もあるな」


 東雲さんの皮肉にエミリオは楽しそうに笑った。そうしながら壁からゆっくりと離れ、こちらに近付いてくる。東雲さんが銃を持つ手に力を入れた。思わず私は半身を引く。


「ボスの命令だ」

「止まれ、撃つぞ」

「近頃オレ達の企業に横槍を入れてくる組織がいてね。そいつらを壊滅させたいんだそうだ」

「止まれと言っている」

「ここは薬品工場だろ? 研究にかこつけて危険なウイルスを使用できる。それに、大量の実験動物がいる」

「止まれ!」

「――実際に見せてやろうか」


 警告を無視してエミリオがぐっと顔を近付けてきた瞬間、東雲さんが引き金を引いた。至近距離で響いた発砲音に悲鳴を上げる私の目の前で、エミリオの肩が抉れる。けれど弾丸によって飛び散る自分の血肉など気にならないように、目をぎらつかせた彼はそのまま飛びかかってきた。私がナイフを振り抜く手を肘で受け止めながら、エミリオは鋭く突き出した足で東雲さんの胸を蹴り飛ばした。


「ぐっ!」

「東雲さん!」


 大きくよろめく東雲さんに気を取られたその僅かな間に、エミリオが部屋から逃げ出した。直後に扉に鍵がかけられる。ドアノブに手をかけて思いっ切り回すが、当然開くはずがない。体当たりをしてみたところで扉は軋みもしなかった。


「蹴破るぞ! 白ウサギ、手伝え」


 痛む胸を押さえながら東雲さんが言う。仁科さんは面倒そうな顔をしながらも命じられるまま扉に近付いた。私はネズミくんの手を取って扉から離れる。扉の前に立った東雲さんと仁科さんは互いの顔を見合わせ、一度小さく頷いた。


「せーのっ!」


 かけ声に合わせて二人の足が強烈に扉に叩き付けられた。バゴン、と凄まじく重い破壊音に私とネズミくんが跳び上がる。蝶番が折れ曲がった引き扉は、悲鳴のような轢音を鳴らして縦に倒れていった。金属か何かでできた扉の真ん中は少しへこんでいる。

 扉を踏み付けて廊下に出たものの、エミリオの姿はとっくに見えなくなっている。道は左右どちらかしかない。右は私達が通ってきた方向でもあり、地下室の出口だ。左は何があるのか見当も付かない。しかし迷う暇もなく、右側の通路から喧騒と慌ただしい足音が聞こえてきた。異常事態にようやく研究員達が気付いたらしい。足音からするに一人や二人といった人数ではないだろう。私達は足音から逃げるように左へと駆ける。

 角をいくつか曲がる。こっちの通路にもあるのは同じようなガラス張りの部屋だった。けれど、その室内を覗き込んで、私はギョッと目を見開く。そこにある光景に思考が停止した。

 その部屋にあったのは薬じゃない。実験動物だ。()()、だがそれはラットや兎のような小動物じゃない。

 子供だ。



 十人程度の子供達が、壁も床も真っ白な部屋に詰め込まれている。ガラス越しに見えるその子達は、一見して尋常な様子じゃなかった。

 部屋の中央にいる男の子は禿げた頭部が二倍に膨れ上がり、浮き出た血管をドクドク脈打たせながら苦痛に呻いている。その隣で体中を薄黒く変色させぴくぴくと痙攣する少年がいる。その少年の肉を一心不乱に口に運ぶ女の子がいる。ボロボロになったワンピースを着て部屋中を狂ったように踊り回る少女の口からダラダラと涎が垂れている。幻覚でも見ているのか空を見つめ恍惚の表情を浮かべた男子が、悲鳴を上げて手足をバタつかせる幼児の顔の肉を削ぎ落とす。クスクスと微笑みながら互いの裸体を弄る年端もいかぬ幼い男女がいる。

 今までに連れてこられた子供達なのか。その異常な空間はまるで悪趣味な映画でも見ているような感覚で現実味がない。心臓が痛いくらい大きく痙攣して、叫びそうになった。



 私はまた必死で走り出した。走り疲れて息苦しくなっても、口内が乾いて痛いくらいになっても、目から訳もなく涙が溢れて視界をぼやけさせても。あの光景から逃げるように。背後に迫ってくる重苦しい重圧に捕まらないように。

 ようやく辿り着いた通路の最奥の部屋、その扉が開いていた。他に身を隠せるような場所もない。警戒しながらその部屋に飛び込んだ私達は、その内装に困惑を浮かべた。四方を壁で囲まれたその部屋は他と変わりない。ただ中央に設置されたエレベーターを除いて。外枠は鉄格子造りになっている。この部屋自体が地下だというのに、エレベーターのボタンは下向きのものしかない。

 罠かもしれない。けれど籠は下に下りてしまっているし、いるのだとしたらエミリオはきっとその下にいる。ボタンを殴り付けるように押して上がってきた箱はよく見る箱状ではなく、同じく鉄格子造りの蛇腹式だった。まるで檻だ。私達はそこに乗り込んで、下へと向かう。


「ここって……」


 剥き出しになった太いパイプ、辺りに漂う悪臭、足元に散らばるゴミの山。そこは下水道だった。四方に通路が広がるその空間はそれなりに広く、ホールみたいだ。

 そしてその隅にエミリオがいた。赤錆び小さな扉の傍で、下りてきた私達に手を叩く。


「わざわざ待っててくれたんですか」

「イタリア人は紳士だからね」


 私の皮肉に彼は微笑む。舌打ちをしたい気分になりながらも私の思考に浮かんでいたのはこの場所への疑問だった。どうしてこんな所にエレベーターが通じている? 一体何のために。考えが表情に現れたのだろうか、エミリオは聞いてもいないのに口を開いて語り出した。


「地下室と下水道が繋がっている建物ってのはよくあるもんだ。だがな、この工場がここに繋がっている理由はちゃんとある。実験に使われた人間や動物はほとんどが死ぬし、そうでなくとも口封じのために殺す。毎日大量の死体が出るんだ、その処分にも困る。まさかわざわざ一体一体ドラム缶に入れて海に捨てるわけにもいかないだろう? だから、その処理のためにここがある」

「意味が分からないんですけど……」

「幸い大量の劇薬を入手したところで、薬品工場ってだけにそこまで怪しまれることはない。骨肉を溶かす威力の薬品だってな。だから、毎日出る死体を劇薬でドロドロにしてから、バケツいっぱいのそれを下水道に流すんだ。……オレも何度か見たことがあるが、面白いぞ? 薬品と腐肉の反応のせいか知らんが、水が綺麗なエメラルドグリーンやパリスピンクになる。この工場近くの排水にも少し色が混じってるかもしれないな」


 うっと胸に吐き気が込み上げてくる。惨悽たる光景を想像してしまい、酷く不愉快な気分になった。そのとき。ドン、と音が聞こえて不快な気分が払拭される。けれど胸には同時に吃驚が広がった。エミリオのすぐ頭の横の壁、そこにある小さな扉が、内側から何かがぶつかっているように大きく軋んだのだ。両面開きの扉の手すりに差したつっかえ棒が、中から出てこようとするそれを食い止める。


「実験動物をちょっと拝借したんだ」


 エミリオがそう口を切った。すぐ隣で軋んだ音を立てる扉など気にせずに、軽い口調だった。


「ネズミは繁殖力が旺盛だ。数を増やすにはもってこいだったよ。さて、大量に増えたネズミに細菌を埋め込んで解き放つと、どうなると思う?」

「……バイオテロか!」


 東雲さんが険しい感情を押し殺した声で言った。正解、とエミリオが笑う。

 動物を媒体としてウイルスをばらまき、混乱を招くテロリズム。歴史上それによって大きな事件が巻き起こったこともある。ただ無差別な攻撃によるので収束には手間がかかるが、敵対する組織を壊滅したいといった完全破壊目的ならば効果は絶大だ。


「残念ながらまだウイルスは注入していなんだがな……でも元々不潔な動物なんだ、ペストくらいは持っているかもしれないな」


 彼がつっかえ棒を取る。途端、扉が勢い良く開き、そこからボロボロと数匹のネズミが転がり落ちてきた。ひくひくと鼻を引くつかせながらチチッと鳴き声を上げる。たったそれだけの数で足が竦みそうになるが、扉の奥の空間、その暗闇で大量の生物が蠢く気配がした。ゾッと背筋を震わせた瞬間。そこから、おびただしい大量のネズミが一斉に飛び出してくる。


 誰からともなく私達は同時に駆け出した。ネズミ達を背に一本の通路に入り込む。背後から聞こえてくる密集した鳴き声に追われながら必死に足を動かした。不幸中の幸いというべきかここの下水道は広く、外国の映画に出てきそうな広さだ、体をつっかえて走れなくなることはない。

 一匹に噛まれただけでもそこから病気に感染してしまうかも。そうでなくとも、あれだけの量のネズミに襲われたら体中がズタズタに引き裂かれてしまう。百匹、千匹……いや、一万、もっとかもしれない。まるでネズミの濁流だ。


「どうすれば、いいんですか!」


 切れ切れの息の中に叫ぶ。これだけ大量のネズミを倒す術はない。ナイフや銃でいくら殺したところできりがない。かといってこのまま逃げ続けていてもこちらの体力が尽きる方が早いだろうし、下水道の道順など分からないから行き止まりに当たってしまうかもしれない。駄目だ、どうする、考えろ。

 胸が張り裂けそうだ。走り続けたせいで足がガクガクと震えている。ネズミくんを抱えて走る東雲さんも、苦しげな呼吸を繰り返す仁科さんも、もう限界だった。

 先頭を走る東雲さんが呻いた。見ると、通路の先の道が左右に分かれている。どちらかが行き止まりか、もしくは両方とも行き止まりか。ここの選択肢で私達の運命は大きく変わるかもしれない。間違っていたらそこで終了だ。

 本当に駄目かもしれない。絶望が心を支配しかけた、そのときだった。


「こっち!」


 東雲さんに抱きかかえられていたネズミくんが右を指差した。東雲さんは怪訝な顔をしたが、尋ねる余裕もなく素直に右へ曲がる。私達も続いて右を曲がる。曲がり切れなかったネズミが何匹か壁にぶち当たる音がして思わず振り返ると、真後ろの通路、つまり左への通路の先はすぐ行き止まりになっていた。左に曲がっていたら危なかったかもしれない。

 だがすぐに続く不幸がやってくる。また通路が分かれていた、それも三つに。しかし今度もネズミくんが一番左の道を差して叫んだ。


「こんどはそっち!」

「何でだ!?」

「いいから!」


 困惑を浮かべながらも私達はネズミくんの言葉に従って通路を進んでいく。偶然か運命か、行き止まりに当たることは一度もない。

 ふとネズミくんと最初に会ったときのことを思い出した。東雲さんの推測と薄命先生の話、そしてその後のネズミくん本人の話によれば彼は下水道で母親と生活していたって……。

 ハッとした。まさか、ネズミくんは、こんな道を何度も通ったことがあるのか。


「次はどっちだ!」


 同じ考えに思い至ったのか、東雲さんが鋭くネズミくんの指示を仰ぐ。ネズミくんは考える間も置かず、指を差して進路を叫ぶ。走って、走って、走り続ける。だがそうしていてもネズミ達を撒くことはできない。

 と、仁科さんが突然「水の音がする」と呟いた。眉根を潜めながらも私も耳を澄ましてみる。それまでも辺りでチョロチョロと少量の水音は聞こえていたけれど、確かにどこかから濁流の音が聞こえてきた。激しい流れの、ゴウゴウという音。

 角を曲がると突然目の前が開けた。トンネルのように広い空間に道が繋がって、そして川によって途切れている。水道が集結する場所なのか、大量の汚水が川となって流れていた。いつの間にか外で豪雨でも降り出したのか、流れは恐ろしく早い。迂闊に飛び込んだら流されてしまうそうだ。

 行く先はその川しかない。他に進行方向はなく、退路はネズミで断たれている。止まろうにも足を止めることはできない。


「とんで!」


 ネズミくんが叫ぶ。瞬間、私達は全力で地面を蹴って宙を跳んでいた。ぐっと体を前に逸らす。体の下でゴウゴウと濁流が叫ぶ。頬を切る風を感じながら、足を前に突き出した。ダンッと靴底が向かいの岸である地面にぶつかる。後ろによろけてしまいそうになるのを必死で手を振り回して堪え、汚れた地面に横倒しに倒れ込んだ。痛みに呻きながら横を見れば、東雲さんと仁科さんも息を切らしながらその場に座り込んでいる。ネズミくんは東雲さんの腕から降りたって、一仕事終えたような満足気な顔で、掻いていない汗を拭っていた。

 私達を追っていたネズミたちは、同じように跳んだり走って川に飛び込んでいったが、濁流に耐えきれるはずも、こちらに届くはずもなく水に飲み込まれていった。ボチャボチャと水に落ちていく音を聞きながら、深呼吸をして悲鳴を上げる心臓を落ち着かせた。



 エミリオを探していた私達だったが、彼は意外にも川を隔てた向こう岸から歩いてきた。私達の無事な様子を見て驚いたように目を丸くする。


「生きてたのか」

「……おかげさまでな」


 東雲さんが毒を吐きながら銃を構えた。


「お前が目的を果たす前に殺してやる」

「こっちの台詞さ」


 エミリオもまた銃を構えた。今日何度も感じた緊迫感に包まれる。気のせいか、周囲の空気までが僅かに震度しているような気がした。無意識にパーカーの裾を握りながら考える。下手だからと銃を持っていない私だが、ナイフを投げることはできるだろうか。いや、私の腕力では向こう側にまで届くかどうか不安だし、外れてしまったらエミリオの武器になってしまう。いっそもう一度向こうに跳んでそのままナイフで襲いかかった方がいいだろうか。

 そんな風に逡巡していると、不意にネズミくんが東雲さんの前に出てエミリオを見つめた。皆が怪訝な視線を彼に向けた。危ないから、とその肩を引こうとした私は、ネズミくんの顔を覗きこんでギクリとする。じっとエミリオを見つめているネズミくん。だが、その瞳にそれまでに見たことのない威圧感が込められているように感じた。


「ママがいってた」


 ポツリとネズミくんが呟く。小さな声のはずだが、妙にその声は響いた。何をだ、と苦笑しながら聞き返すエミリオにネズミくんは淡々と続ける。


「ここにはね、たまにドドドッてたくさんくることがあるの。あめがふったときとか、でもそうじゃないときもたまに。そうなるとあぶないからちかづいちゃだめって、ママいってた」


 曖昧な説明に疑問符を浮かべる。エミリオだけでなく私も東雲さんも、ぼんやりとしたネズミくんの言葉を理解できずに困惑していた。ただ一人、仁科さんがふっと顔を上げて横に視線を向けていた。水の流れてくる方向、上流へと。


「おとがしたらいそいでにげなきゃだめなの」


 濁流の音が強まった気がした。ゴウゴウという音の中に、ドッドッと空気を震わすような振動が聞こえてくる。音は次第に大きくなり、壁や床が震え出した。地震だろうか。

 突然、仁科さんがパッと踵を返して近くの横通路に駆け込んだ。驚きながらも、耐え難いような不安が胸に染み出してくるのを私も感じていた。しかめっ面のエミリオがネズミくんに銃口を向ける。それでもネズミくんはじっとその目を見つめ返していた。


「何の話だ?」

「にげなきゃだめなんだよ」

「だから何……」


 苛立ったように眉間にしわを寄せたエミリオが一歩前に踏み出す。そのときだった。

 ドォッと轟音が響き渡り、川の上流の水が大きく膨れ上がった。膨大な量の水が物凄い勢いで私達に襲いかかってくる。

 鉄砲水だ。

 咄嗟に地面を蹴って、ネズミくんの手を引きながら仁科さんの隠れた通路に潜り込む。ほぼ同時にネズミくんが立っていた足元の地面に弾丸が弾かれた。すぐ後に東雲さんが続いて飛び込んでくる。


「は」


 振り返ったときに見たものは、茫然とした顔のエミリオが、銃を構えた格好のまま鉄砲水に飲み込まれる瞬間だった。隣にいたネズミくんも、その光景を直視してしまった。

 足元にまで水が流れ込んでくる。仁科さんと東雲さんに肩を引かれて立ち上がり、私達はその場から逃げ出した。東雲さんの肩に上ったネズミくんは、唇を引き締めて静かにエミリオが飲み込まれてしまった濁流を見つめていた。


 青空を吸い込んだような、綺麗なアクアブルーの瞳で。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ