第27話 愛とは
部屋に入って来た人物を見た瞬間、思わず零れそうになった驚きの声を慌てて飲み込んだ。隣で東雲さんが軽く息を詰める気配を感じる。
「どないしんしたの、そんな思い詰めた顔をして。さあ、早く入りなさいな」
「はい…………」
部屋に入ってきたのは日雅奈さんだけじゃない。その後ろからくっ付くようにして、百合子さんが入って来た。てっきり一人で戻ってくるものとばかり思っていたから、予想外の出来事に戸惑う。
部屋の中央に向かい合うように二人は正座した。どこか落ち着かない様子でそわそわと身動ぎを繰り返す百合子さんの顔を、じっと見据えて微笑む日雅奈さん。その視線に彼女が目を逸らし、膝の上に置いた手を握りしめる。オレンジ色の明かりにとろりと照らされる穏やかな静寂の中、百合子さんだけがぎこちなく強張ったままだった。
「話があるんでありんしょう?」
日雅奈さんが静かに呟く。百合子さんがビクリと肩を震わせて、薄く唇を開く。
「あ、の」
掠れて上ずった声が、脅えるように震える。百合子さんがもう一度同じ言葉を言おうと唇を開いたが、そこから零れた声は音のない吐息となって、掠れて消えた。
自身のぎこちない声に恥じるように、彼女は幾度となく首を振った。ついには着物にしわが走るほどキツク胸を握り、興奮するようにぶるぶると俯いて震え出す。彼女を落ち着かせるように、日雅奈さんが身を乗り出して、その両肩を撫でた。
「百合子」
「ぅ、っ……あ、あ」
「百合子」
「ね、さま。ねぇ、さ」
「百合子」
「ね――――」
百合子さんの声が途切れる。明かりに照らされてできた二人分の影。その境界線が微睡むように溶けあって、一つに重なっていた。
肩の筋肉が張り詰める。零れそうになった悲鳴を押し殺して、穴から見える光景に呼吸さえ忘れてしまう。ただ高まっていく顔中の熱を感じながら、二人が唇を重ねる様子を見つめていた。無意識のうちに隣にいた東雲さんの腕を掴む。彼の反応は暗がりでは分からなかった。
日雅奈さんが百合子さんの下唇を食むように吸う。百合子さんは強張った顔のままそんな相手の行為にされるがままだ。擦り付けるように唇同士がふにふにとくっ付き、時折息継ぎのためにか離れては、また触れ合う。互いの紅が混じり合っていく。
突然、日雅奈さんがこちらに目を向けた。その動きが一瞬だけ止まり、その目がじっと私の目とかち合う。気付かれたか、とうるさく心臓が跳ねたものの、日雅奈さんは特に変わった様子も見せずにまた百合子さんへ顔を戻した。…………そうだ。こんな小さな穴、それも私達が覗いているせいで塞がっている穴、バレっこない。
「はっ……! あ、姉様、姉様っ」
荒い呼吸を繰り返す百合子さんの頬が紅色に染まる。日雅奈さんの首に縋るように両手を回し、その唇にむさぼるように食らいつく。日雅奈さんもまた、それに応えるように何度も百合子さんの名を呼びながら口付けを交わしていた。
百合子さんの簪が滑り落ち、百合の花が畳みの上に咲く。纏めていた髪がハラリとほどけて彼女の顔を覆う。日雅奈さんが横の髪ごとそれを掻き上げるように頬へと手を回し、彼女の顔を更に自分の元へ引き寄せた。
「百合子、百合子、百合子っ」
「姉様。あ、あぁ、あ、日雅奈姉様っ」
百合子さんが赤らんだ目尻から一筋の涙を零した。悲痛に歪んだその顔からは、喜びよりも悲哀の色が濃く滲んでいた。日雅奈さんの切なげなその視線が百合子さんに降り注ぐ。
執拗なまでに交わされる二人の口付けからは、快楽も興奮も窺えなかった。代わりにそこにあったのは、溢れんまでの情愛と悲しみ。何故そんなことをそんな顔でしているのか私には理解できない。
二人は長い間それ以外に何をするでもなく、ただお互いの何かを求め合うように唇を触れ合わせていた。
「百合子の唇にも笹色が移っちゃった」
それから何分が過ぎたろうか。唇を離した日雅奈さんが微笑みながらそう言った。確かに二人の口紅は混じり合い、百合子さんの唇にも玉虫色が僅かに輝いていた。百合子さんの髪を慈しむように優しく掻き上げる。
「やっぱりその耳、可愛い形をしているわね」
「嫌……見ないで、姉様。恥ずかしい」
「どうして? わっちは好きよ、この耳」
そう言って日雅奈さんが百合子さんの髪の中にそっと顔を埋める。耳に口付けでもしたのだろうか、ピクッと反応した百合子さんを、微笑ましそうに見つめていた。
百合子さんが微笑む日雅奈さんを見て、決意したように唾を飲む。そして彼女の背に手回し、抱き寄せるようにして静かに告げた。
「一緒に逃げましょう」
その手に力を込めて。ゆっくりと、一言一言に意思を込めて。その目は日雅奈さんでも壁でもなく、遠い遠い場所を見据えていた。
「ねえ、一緒に逃げましょう、姉様。遠くへ行きましょう」
「……遠くって、どこに? ここを出たところで、わっち達に行き先なんてないでしょう?」
「出てから決めればいい。そうだな……田舎がいいな。明星市を出た、静かで、山と木に囲まれた田舎町。そこで死ぬまでのんびりと過ごすの。日の下で、広い空を眺めて」
「百合子。だけど、わっちは」
「姉様」
百合子さんが強くその腕に力を込める。日雅奈さんは空を仰ぐように天井を見上げ、深い溜息のような息を吐いた。応えるように、百合子さんの背に手を回す。
「百合子」
「姉様」
顔を離した百合子さんが不安気な表情を向ける。その顔に、くすくすとくすぐったそうな笑い声が返ってくる。
「そない田舎に行ったら、花を植えたいわね。わっち達の源氏名に合わせて……彼岸花と、百合の花。きっと綺麗よ」
その言葉に百合子さんがパッと顔を明るくした。何度も頷いて、涙を目尻に浮かべて同意する。
「綺麗ですよ。きっと、きっと! 皆が驚くぐらいの綺麗な花を咲かせましょう!」
「そうね……そうね」
あまり長居はできないから、と呟いて百合子さんが立ち上がる。障子を開けて去りかけた彼女を日雅奈さんが呼び止める。振り返ったその顔に、嫣然を浮かべて穏やかな声で言う。
「愛してるわ、百合子」
「私も愛してる、姉様」
百合子さんが嬉しそうに笑って姿を消す。静かな足音が遠ざかり、聞こえなくなった。
日雅奈さんはゆっくりと畳の上に手を滑らせる。細やかな指先が、百合子さんの落としていった百合の簪に触れ、それを掬い上げる。ふっくらとした唇が僅かに震え、百合の花びらの先に、掠めるような口付けを落とした。
灯りが揺れ、日雅奈さんの影をおぼろげに揺らめかせる。その揺らぎが治まったとき、彼女はゆっくりとこちらに顔を向けて告げた。
「さあ、出てきたらどうかしら?」
部屋に現れた私達を見ても、日雅奈さんは警戒も脅えた様子も見せず、ただ微笑を浮かべて座り込んでいるだけだった。逆にこちらが警戒の色を示すのを見て、彼女は肩を揺らして笑った。
「そろそろだと思ってた」
何の事だと東雲さんが問う。日雅奈さんは表情を変えずに「わっちの死に時」と語った。怪訝に顔を見合わせる私達に彼女は訥々と口を開く。
「最近楼主がわっちのことを怪しんでいたのは知ってた。あの人があなた達を雇ったのでしょう? わざわざご苦労様、殺し屋さん」
私はハッとしたように瞬きを繰り返した。目の前に座る、ターゲットである彼女は、これから殺されようとしている彼女は、私達のことを知っていたのだ。
いつから気付いていたのだろうと疑問が湧いた。私の様子を目敏く察知した日雅奈さんは、不思議な組み合わせだったもの、と笑う。
「三白眼の青年と、彼と共にいる少女。オオカミとネコ。そうでしょう? お客がそういうことも零すのよ、泥酔しきったときなんかにね」
「そういうことなら話は早い」
東雲さんが淡々と告げて、袖口から短剣を取り出した。部屋の明かりが刀身を舐めるように照らす。日雅奈さんの頬に艶が差し、僅かに紅の取れた唇が光る。妖美な空気を纏った彼女を見ていると、どうしてか、頭にモヤがかかったようにくらくらとした。
「私達がいることにも気付いていたんですね」
私が掠れた声で問うと、彼女は小さく頷いた。
「わっちがこの部屋にいつからいると思う? 今までこの部屋を使った子達は気付かなかったようだけど、わっちをそこまで馬鹿にしないでほしいわ」
「百合子さんも?」
「あの子は何も知らない」
ピシッと切り捨てるように日雅奈さんが答え、それから小声で、百合子には手を出さないでね、と呟いた。薄闇で光るその顔が、瞬き一回分の時間だけ、酷く悲しそうに歪んだのを私は見逃さなかった。
ああ……仕事のときはいつだってそうだ。依頼されたといえど、ターゲットを殺すときに胸底から湧き上がる罪悪感と同情。私は本当に、この人を殺せるのだろうか。
「いいのか? あの女に嘘をついて」
東雲さんがそう訊いた。気のせいか、その台詞には微かな感情が込められているように感じ、驚嘆した。仕事に冷酷非情な彼がターゲットにそんなことを訊くのは初めてだったと思う。
日雅奈さんは東雲さんの問いに笑った。おどけるような声で、いたずらが成功した子供のように無邪気な表情を浮かべる。
「一体わっちが、いつあの子の言葉に同意した? 花を植えたら綺麗だろうねと、そう言ってみただけじゃない」
そうだったろうか、と先程の会話を思い出そうとする。二人の口付けにばかり目がいって細かな台詞までは覚えていなかった。
けれどそれ以上考えることはできなかった。思い出すより前に、日雅奈さんがゆっくりと立ち上がったからだ。彼女はそのまま数歩後退り、棚から埃を被った黒く短い筒を取った。彼女が片手を捻ると、そこから鞘に収まった短刀が彼女の手に滑り落ちた。私達が身構えるのを見て、日雅奈さんは目を伏せる。それからふと思い立ったように顔を上げ、私に微笑んだ。
「あなたみたいな子供が殺し屋だなんて信じられない」
「…………ごめんなさい」
「この世界はほんに生きづらいわね。楼主も、あなた達も、わっちも、百合子も。皆上手く生きていくことなんてできないんだから」
返事をしていいのかどうか迷い、私は唇を軽く噛んだ。
「ねえ、愛って何だと思う?」
日雅奈さんが唐突にそう言った。戸惑う私とその横に無言で立つ東雲さんを交互に見つめ、目を細める。目尻の赤い化粧が小さく震えた。
愛とは何か。そんなことを急に聞かれても、答えられるわけがなかった。声を詰めるように黙っていると、日雅奈さんは答えを言うかのように淡々と語る。
「誰かを好きになって、その人と一緒にいたいって思う愛がある。相手を想い、自分も想う愛がある。愛していたからこそ別れを告げられて殺意を向けてしまう恋がある。愛しくて愛しくて愛しすぎて傷付けたい愛がある。その人を一生守りたいって思う愛がある。恋愛でも思慕でも友愛でも家族愛でも自己愛でも……どんなことでもどんな形でもどんな人でも、誰かを想う愛がある。でもね、それが相手に伝わるかどうかはまた別物なの」
日雅奈さんが鞘を滑らせるように畳に落とし、短刀の柄をしっかりと握る。持ち上げて腕を真っ直ぐに伸ばした。向けられる切っ先に否応でも体を強張らせてしまう。
彼女はにっこりと笑顔を浮かべ、またあの子と会う日を楽しみにしているわ、と呟いた。
「わっちの悲願があの子に伝わりんすように」
日雅奈さんがそう言って手を大きく降り上げた。そして瞬間、くるりと彼女の手の内で半回転した短刀が、彼女の胸に突き立てられた。その微笑みが崩れ、苦痛の色に覆われる。
突拍子もない彼女の行動に唖然とした。けれどすぐに我に返り、覚めていく意識の中でハッキリと彼女の胸に突き刺さる短刀を見つめた。赤い着物がより一層赤い色で染まっていく。と、日雅奈さんが震える手で刀を力任せに引き抜いた。ぶちゅりと、空気の混じった大量の血が噴き出す。それを大きく目を見開いて見下ろした日雅奈さんは、また短刀を胸に振り下ろす。何度も、何度も。
彼女の自殺をただ見る中で、ふとその顔に目を向けた私は息を詰めた。先程までの日雅奈さんの、どこか余裕めいた笑みは消え、ギラギラと光る目と食いしばる歯が光に照らされていた。そのしわのよった口角は、引き攣らんばかりに上がっている。狂気的な笑顔を浮かべて日雅奈さんは何度も自身の胸を刻んでいた。
彼女が声を上げる。肩を揺らし、心底楽しそうに可笑しそうに笑い声を上げる。部屋に響く笑い声は、静かな雰囲気を纏っていた彼女が発しているとは思えない程、艶やかで高らかで不思議な笑い声だった。
笑い声に空気が混じる。おびただしい血が手や顔にかかり、噎せ返るような鉄の臭いが部屋に充満する。よろめいた日雅奈さんが刀を胸から引き抜いたとき、ぬめる血で滑ったのだろう、真っ赤な手から短刀が床に滑り落ちた。それを合図としたかのように、日雅奈さんがその場に力なく倒れ込む。赤い海と血で染まった着物の中で、彼女の血の気ない白い顔が目立った。髪が解れ、血の海の中で彼岸花が転がった。
「あぁ…………」
溜息のような言葉を零しながら、日雅奈さんがゆっくりと横に手を伸ばす。その指先に触れたのは、彼女が落とした百合の簪。花びらが潰れそうなほど強くそれを握りしめ、日雅奈さんは何度も彼女の名を呼んだ。
「百合子……百合子、百合子」
嗚咽のように掠れて潤んだ声だったが、日雅奈さんの瞳から滴が零れることはなかった。ただ酷く辛そうに眉根を寄せて、白くなった顔からか細い吐息を吐き出すだけだった。倒れる日雅奈さん、その周りの畳に沁み込むようにじわじわと四方に広がっていく血液は、まるで彼女を中心として花が咲き誇っているようにも見える気がした。
百合の花が力の抜けた手から転がり落ちる。血の上に転がり、白い花弁を赤く染めたそれを見て、私は喉が詰まっていくような思いに駆られた。日雅奈さんを見れば、既にその顔から色は完全に失われ、唇の紅だけが色付いていた。
「本当に、ありがとうございました」
元の服に着替えた私達が廊下を歩いていると、どこからともなくやって来たオミツさんが深々と頭を下げてきた。
「私達は何もしてませんよ」
気の抜けた声で答えて彼女の横を通り過ぎる。一度も振り返らずに店から出ようとしたが、出口の近くで背後から呼び止められ、振り向いた。
「お帰りですか? 出口までお見送りさせていただきます!」
トントンと足音を立てて駆け寄って来たのは百合子さんだった。彼女は振り向いたの私と目が合うと、途端に人懐っこそうな笑みを浮かべる。本来なら私も笑みを返したかったのだが、今の私はむしろ彼女から僅かに目を逸らす。
それに気付かぬ様子で彼女は私達へ体を向け、先を歩こうとする。簪がなくなり顔に垂れた髪が邪魔なのか、自然な手付きで髪を耳にかけようとする。指の隙間から覗いた、初めて見る彼女の耳に、ふと私は呟いた。
「百合子さん、その耳」
「え? ……ああ、すみません。簪を落としちゃったみたいで」彼女は照れたように苦笑し、耳に触れた。「変な形をしているでしょう? 物心付いたときからはもうこんなだったので、きっと生まれ付きなんでしょうね」
笑う百合子さんに、見送りはいい、と有無を言わさぬ口調で東雲さんが言った。素直にかしこまってその場に留まり、腰を折る百合子さんに、最後に私は言ってみた。
「百合子さんの耳の形……オミツさんと似てますね」
私の言葉に同意するように頷いて、不思議ですよね、と笑った百合子さん。
その耳たぶは切込みが入ったように二つに分かれていた。
店を出た途端、そこは元の明星市の通りだった。洋服を着た人達が賑やかに街を歩いている。ぼんやりとそれを眺めながら、隣に立つ東雲さんに問いかけた。
「愛って何なんですか」
東雲さんは何も言わなかった。だから私もそれ以上は何も言わず、寒さに震える肩を擦っていた。
店の前から立ち去ろうとしたとき、遠くの方から聞こえた泣き声は、幻聴だったのだろうか。その確信も持てないまま、私と東雲さんは歩き出す。しばらく歩いてから振り返ってみても、既に店は見えなかった。




