四十
辺りは、静寂だった。
西北の、独特の水分を含んだ重い雪ばかりが降る。原野にぽつねんと設営されたキャンプの、簡易フェンスを埋もれさせ、軽いアルミ壁にもたれかかっている。音という音を吸い込ませるような白い氷晶に積もり、埋もれ、その中に押し込められている。
断熱材の壁越しに、ヨファは外を見ていた。白兵たちが眠りについたことを示すように、最後の灯りが消える。縦列に並んだ簡易ハウスは、兵たちの居住スペースであり、それ以外のユニットハウスはせいぜい格納庫代わりにしか使わない。その一つにヨファはいた。
ロッカーを開けると、強化スーツが吊り下がっている。ヨファは注意深く下着をはぎ取ると、一体型になったスーツに足を突っ込んだ。生化学素材が素肌にぴったりと張り付き、馴染んでゆく感覚がした。
胸と肩を包み込み、背中をすっかり覆い隠したスーツ内から、空気がすべて排出された。人工筋肉で満ちたゲルの感触が密着し、体の線を浮き彫りにさせる。シルエットだけみれば裸体を晒しているかのように見えてしまう。素早くヨファは雪中迷彩を着込み、最後に銃を手にした。ケースレス弾を込め、誘導弾を身につけ、部屋を出る。
「この雪の中を一人で行くつもり?」
いきなり背後から呼び止められる。身構えた先に、エリザベス・ウィードリーの笑みがあった。
「脅かさないでよ、ベス」
ヨファは銃を下ろした。
「もう少しで引き金引くところだった」
「引いた方が良かったんじゃない? 私がこのこと、上に報告したらあなたは軍法会議ものだからね」
「別に構わないよ」
自分でも信じられないほど冷静な旋法を描いている。そんなことになれば、軍人としては終わりといっても過言ではないのに関わらず。
「訴え出るなら、そうしてもらっても。どのみちここにはもう戻れないし」
「彼のために、そうまでするの?」
エリザベスは、少々納得がいかないという風情だった。
「昼間の歌音は、調のものなんでしょう。不協和手前の酷い音、私も聴いてみて驚いたわ。あんな気持ち悪い旋法は、どんなに悪い見本であっても聴いたことない。素人が鳴盤を操って、無理矢理形だけ手がかりにしたような」
「まさしくそれだよ、あいつの音ってのは」
あまり長いこと話していれば、本当にエリザベスが通報を挙げるなり何かするかもしれない。そう思ったが、エリザベスの声はいつも通りの青い球面だった。焦りの色や恐れの味を得るわけでもない。音奏者として訓練を受けたもの特有なのか、あるいはエリザベスという人間がそうであるのか、慈悲や同情を内包した音色をしていた。
「分かっているわ。本当は調のことが気になるんだよね。あんたは彼のことを」
エリザベスの声に揺らぎが生まれた。綺麗な水面に投げ込まれ、波紋が生まれる、そんな歪みを表した歌音だった。
「やっぱりあなたは彼のことを」
「そういうのじゃないよ」
自分で発した棘が自分に返ってきたが、そんなことは構わない。私がこういう声になるのもあいつが悪いんだ、この納得のできない気分というものは。
「ただ、このままじゃすっきりしないというか、寝覚めが悪いからね」
「救援に向かうなら、州軍に任せればいいんじゃない」
「そうすれば、あいつの口から本当のこと聞くことなんて二度となくなる」
あいつはそういう奴だから。自分が漏らした声音はやや歪な球面だった。エリザベスとは違う、完璧で慈悲深い音奏者とは違う。
「本当のところなんて。彼はあなたを拒絶して、この街を拒んで。精一杯、譲歩して、手を伸ばしてもその手を叩き落とす人よ? 個人の考え方だけど、本当もなにもないんじゃない」
「そう思う?」
ヨファが問うことを、エリザベスは理解仕切れていないようだった。完璧な球面が揺らぎに揺らいで、その揺らぎの意味も理解できない。そんな歌音をまき散らす目の前の音奏者が少しおかしくなり、ヨファは思わず笑ってしまう。
「あなたは、まあ多分他の連中にも分からない。回路を備えている人間は、他人の心が分からないなんてあってはいけないことだって分かるけど」
「あってはいけない、とは思わないけど……でもそれ以上のことなんて」
エリザベスはかぶりを振った。
「あなたも彼も不思議ね。ちょっと分からないわ」
「無理に分からなくてもいいんじゃない? あなたも、私も。他人のことが何でもかんでも分からなきゃ気が済まない、分からないことが極端に怖いって思うけど」
「だってそうでしょ? 歌音は相手のことを理解するためにあるんだから。もし分からないのならば、それは不幸なことじゃない?」
「そんな風に、私も思っていたよ」
ヨファは、自分でも驚くほど冷めた声をしていることに気づいた。冷めていて、しかし球面はそのままで
「あいつのこと、昔から理解しようと努めていたけどいつの間にかもうどうでもよくなっちゃって。やたらと私に突っかかるくせに、こちらから手を伸ばせば避けてしまう。どうしてそうなのか、って考えてもあいつは教えてくれない。じゃあもうそのままでいいやって、そんな感じできちゃったからね。今まで」
「ますますよく分からない」
「そうだろうね。人の情を知ることが何よりで、深いところまで理解することが、きっと大事だって思っていたから」
調の声が、それでもと、いつまでも縛り付けていた。痛みを恐れるから、他人に痛みを与えないだけだと。あいつが痛みを覚えるのならば、等しく私も痛みを得なければならない。
「分からないなら、無理矢理分かろうとしない。そうやって、今までやってきた。だからあいつのことなんて分からなくてもいいって」
自分でも、何を言いたいのかだんだんまとまらなくなってきた。それでも構わないとも思った。言葉にしても、どうせ自分自身ですら分からない。
「でもね、反発したり拒絶したりじゃなく、あいつの方から手を伸ばすことなんて今まで無かった。一度目のときは、単なる義務として。でもニ度目はきっと、あいつの意志で。多分、初めてだよ。あいつが求めてきたのは」
まだ不可解そうな顔をしていたが、エリザベスはやがてすべてあきらめたかのように嘆息した。
「それで、あなた自らが行くの?」
「止めるなら、それでもいいよ。あなたには危害を加えるつもりはないけど、どうしてもというならば自力でここから出る」
「止める気なんてないよ。止めてもどうせ無駄だろうし、私なんかがあなたを止められるわけがない」
エリザベスが何かを差し出してきた。青緑のカードの表面に黄色いラインが走り、セキュリティを示す灰色の認証面が浮かび上がっている。
「徒歩で行くわけじゃないでしょ? 保管倉庫に行けばモービルがあるから、それを使ったらいいわ」
「それはどうも、というよりもあなたこんなことして大丈夫なの?」
「私は軍属だし。まあ責任は追求されるけど、白兵に脅されたと言えば何とでもなるわ」
「音奏者って嘘はつけないんじゃないの」
「音を作ることにかけては、負ける気はないよ」
エリザベスは発笛を掲げて見せた。白兵のものに比べると、鍵の数が多いように見える。
「悪い女だね」
「お互い様よ」
ヨファはエリザベスからカードキーを受け取ると、背を向けた。
「ねえ」
その背中に向けて、エリザベスが声をかけた。
「本当は違うんでしょう?」
「どうしてそう思う?」
答えず、エリザベスは黙している。何人たりとも触れることを許さないかのような、綺麗な球面を維持したままの声音だった。
「嘘が下手ね、あなたも」
「お互い様だよ」
ヨファは一度も振り向くことなく、立ち去った。