三十八
昏い最中で目を瞠った。どこまでも広がる闇だった。
城の外にリツカは出ていた。一つ、二つと、舞い散る雪を目で追った。粉のようでいて、水のような重みがあり、触れば綿のように軽く、握ればきっとゴムのような弾力を持つ。雪火野の、鉄の粉を凝縮したような氷の結晶だった。叩きつける吹雪に身を晒せば、雪は針となり、千切れる冷気が膚を焼く。猛る雪炎も、しかしも今はなりを潜め、静かなままに降りしきっている。
リツカが空を見上げた時に、闇夜に紛れるようにして双発の爆撃機が三機、連なるのを見る。墨を流した、完全な黒の中を黒い機体が横切り、翼の識別灯だけが明滅し、そこにあるべきものを表している。
あの機体は都市の軍を迎え討つために向かうのだという。雪火野から千キロ、上陸する州軍を迎撃し、また山岳に投じて侵攻を防ぐという。里を滅ぼした州軍を――
そこまで考えて、しかし少しも憎悪が沸かない。ミハルの頭上にミサイルが落ち、西北を離れてからずっとそうだった。憎もうと努め、悪態をつき、けれども感情はどこにも向かわず。まったく自分が、空っぽになってしまったように思われた。
しばらく眺めていた、その視界が何かに遮られる。振り向くと、千秋が背後に立ち、傘を差しだしていた。
「千秋、まだここにいたんだね」
短く、礼を述べてからリツカはそう言った。千秋は少しだけ目を伏せ、手に持っていた上着を差し出す。着ろ、ということなのだろう。寒さが堪える雪火野で、リツカの今の格好はあまりに無謀すぎる――一枚衣を重ね着た簡単な着物では。
リツカはコートを受け取った。膚が擦れるような固い生地だった。まるで防弾仕様であるかのように分厚く、足下まで覆い隠すようなトレンチコート。千秋がどこかの倉庫で眠っていたものを引っ張り出す姿を想像し、思わずリツカは笑ってしまう。
「ありがとう」
千秋の瞳がかすかに揺れた、ように見えた。わずかの時間、目を伏せて、元の鉄面皮を張り付けた面に戻る。その一瞬の間など、なかったかのような風情すらある。だけどそれは大した問題ではないと思われた。言葉も交わすこともなく、笑いかけることもない。だけど、リツカが何かを言う必要もない。
千秋が城の方を向いた。そろそろ戻った方がよいということだろうか。リツカは千秋の手を取った。
「まだ行かなくてもいいんじゃない?」
千秋はやんわりとその手を払いのけた。完全な拒絶ではないが、それでも拒まざるを得ないという触れ方をする。ほんの少しだけ惑うような指先が、リツカの手を握り、そうして握った手をもどかしく放す。触れた千秋の手は思いの外冷たく、ごつごつした手は膚ではない膚であった。その手の下には鋭さと尖りを内包し、血と同じ量だけの油が巡っていることなど信じられないほど、繊細な手の使いをしていた。
一瞬だけ、もう一度だけリツカは手を伸ばすとした。そのとき背後で車のエンジン音が聞こえる。何度も何度も耳にした、軍用車の唸りだ。
「まだこんなところにいたのか」
倉木が鋭い口調で言うのに、リツカはうんざりと息を吐き出した。あんなことがあった後でも、この男の調子は変わらない。それは自分も同じことだけど――もう少し何かないのだろうか。
「退避命令はもう出ているはずだ。シェルターに」
「言われなくても分かってるよ。あんたって、それしかないね」
リツカの皮肉が、果たして倉木には通じないらしく、倉木は怪訝そうな顔をするばかりだった。
「訳の分からないことを」
倉木は次に、千秋の方を見て、車の方を示した。
「千秋、そろそろ」
千秋は同意を示すでもなく車に乗り込む、その一連の動作が自動的に行われて、一種予定調和めいていて。
「早く行けよ。ここもまもなく戦場になる」
「千秋も、行くの」
驚くほど押し殺した声だった。リツカは最初、それが自分のものではないと感じるほどだった。倉木はますます怪訝顔をして、
「すでに沿岸から、州軍が上陸を始めている。白兵が投入されるのも時間の問題だ。それを防ぐのだから当然、こちらもそれなりの戦力を投じる必要がある」
「あんたはいっつもそれだ」
苛立ちが、断ち切った。強引に倉木の言を遮って、声を張り上げたリツカに対して、倉木は表情を堅くする。
「なにが言いたい」
「ミハルさんがあんなことになった後でも、あんたは戦うことしか頭にないってことだよ。少しは悲しむとか、そういうことでもない」
「お前も、悲しんでいる風でもないが」
言葉を詰まらせた。倉木の的確に抉り込む、すべて悟った物言いだった。
「悲しむ暇などありはしない。それならば連中を、ミハルを殺した奴らを叩く方が先だ。これはミハルの仇を討つことにもなる」
「綺麗事を。そんな風にしたのは、あんたのせいじゃないか」
倉木の目が剣呑な色を帯びた。
「どういうことだ」
「あんたが全部招いたことだろう。新人拉致して、州都に攻め入って、そのせいでこんなことにいなったんだろう。そういうの全部棚に上げて、なにが仇を討つだよ、あんたが殺したも同然じゃないか」
倉木の目が、ますます鋭さを帯びた。リツカを敵と認めているかのような目つきで迫る。
「今のは聞かなかったことにしてやる。いいから早く――」
「じゃあ聞こえるまで何度でも言ってやる。あんたが下らない戦争なんか始めなきゃ、こんなことにならなかったんじゃないのかよ。連邦の、一切が敵だってあんたは言うけど、なんでそんなことしなきゃいけないんだ」
「戦争なら、すでに始まっていた」
倉木はちらりと千秋の方を見る。二人のやりとりなど、耳に入っていないのか、興味がないのか、千秋は後部座席に座ったままじっと前を向いている。
「始まっていたのは、あの西北からじゃない。連邦の保護政策から、原野の人間が千秋のように物言わぬ木偶にされたときから。あるいは新人が生み出されたときから、戦争はとっくに始まっていたんだよ」
遠くのほうで、獣のような唸り声がこだました。局地防衛用の鰐甲亀が吼えているのだと感じた。
「奴らが存在する限りは戦争だ。それが理だ。連中を殺し、そうでなければ殺されるだけだ。人が人として生き残るためには、そうするしかない」
「何で? そのためだったら、誰が死んでもいいってのかよ。あんたにとって、ミハルさんとか、里の人はそういう扱いかよ?」
倉木の目が揺らいだ。唇を噛みしめて、初めて表情らしい表情を張り付かせて言った。
「共存は出来ない、俺もお前も。初めから。共存共栄などと説いておいて、その実原野を食い潰し、旧人も新人と同じくあれと強いてくる。元が違うものを、無理に器を作り替えろと。そんなすべてからここを守るためには、殺すしかない。異なるものがあれば、どちらかが残るまで、殺すしか」
憤怒を、色濃く刻み込み、けれどその矛先がリツカだけでない何かに向いているような気がした。震える拳は、そうした激情を押し留め、せいぜい表にすることに留め、それで終わらせようという意図が透けて見える。だけどリツカは終わる気はない。終わらせる気など毛頭ない。
「下らないプライドのせいで、あんたは敵も味方も殺すんだね。都市に犠牲になったとか言っておいて、また千秋を駆り出して、利用して」
「知れたこと。千秋はここでしか生きられないし、そうしなければ生きていけない。分かるだろう? あいつの体はここでしか保つことが出来ないことを。ここが滅びれば、千秋も死ぬしかない。それが分かっているから、戦うんだろうが」
「そういう風にしたのはあんた達だろうが」
吐き捨てる。口にする、言葉にならないものでも無理やりにでも言葉に還元してすべてぶつけてやるつもりだった。倉木が怒りをため込むのならば、リツカも同じくに吐き出そうとした。
「あんたも、都市の連中も一緒だ。どっちかが死ぬまで潰しあって、殺しあって、それが正しいって主張して。口当たりの良いこと吐いて、そのために何が犠牲になっても良いって。そういうの全部無視して。あんたも都市も、旧人も新人も、どうしてそうやって縛り付けることしかしないんだよ。そんなことする意味なんかあるのかよ!」
倉木が手を振りあげた。
思わず、目を瞑った。しかしいくら待っても衝撃は襲ってこない。
恐る恐る目を開ける。
倉木の手は、振り上げたまま止まっている。いつの間にか背後に立った千秋が、倉木の手を握りしめている。機械の指が、生身の手首に食い込み、千秋は睨みを利かせているのに倉木もまた睨み返す。
「どういうつもりだ」
倉木が問うことにも、当然千秋は答えることがない。ただそのままであれば、次は腕では済まさないという気概がある。口には出さない、何か脅迫めいたことをするでもない、それでも千秋は、主たる倉木に背き、少しでも態度を違えれば刺し殺しかねない。憤怒に塗れた表情をつくる、わけでもないのに。どうしてか気迫めいたものを感じる。
しばらくにらみ合った。二人して、どちらが先に動くのか探り合っているかのようだった。膠着が続き、しかしそれも長くは続かなかった。倉木が手を振り払うのに、千秋は黙って手を離す。
「山内の第三シェルター」
倉木は背を向けながら言った。
「そこが一番近い。雪火野もすぐに臨戦態勢には入るから、二時間以内にそこに入るように」
倉木が車に乗り込むのに、千秋がそれに続いた。
リツカは手を伸ばした。千秋の腕に触れそうになった、その指先が唐突に空を掻いた。わずかに届かぬ距離を、埋めることも叶わず、凍り付く空を握り込むように、指先を丸めた。
かじかむ手を、冷たい雪欠片が撫でてくる。リツカは手を下ろした。




