三十
旧市街に、カミラはいた。
指定時間にはまだ早い、時計は十八時を示している。カミラは指定場所を端末上で確認した。ここからならもう近いはずだ。
普段ならば高速道路で素通りするこの場所に、降り立つのは初めてだった。ちょうど都心と旧市街の境界に位置する、トタン屋根の目立つ、ここは旧人たちの住処だった。
石造りの構造、鉄筋をむき出しにさせた解剖遺体じみた建設体、スチール板の内壁に囲まれた住居群がひしめきあう、この界隈。都心と旧市街の境目も曖昧になりつつある中、簡素な旧人街は増えている。郊外の暮らしとは生活の水準が数段劣る、スラムのような居住区。州府が旧人たちに新たな住処を与えなかったわけではなかった。ほとんどの旧人が新人たちと同じくに郊外に移り住み、彼らと同じ生活を送っているというのに、旧市街の人々は違う。州府が開発に着手しようとしても頑なに移住を拒み、旧市街に居座り続ける。インターフェイスを身につけてはいるが、新人たちを拒み続ける頑迷な人々の、最後の牙城だった。
「皮肉のつもりか」
カミラは一人ごちて、目的の場所に向かう。途中ですれ違う、旧人たちは必ずカミラを振り向いた。それは好奇であったり、敵意であったり、憎悪でもある。新人が近づくことがないこの場所で、カミラの存在はかなり目立った。
新人を敵視しつつも、彼らは旧人を憎んでもいる。新人に迎合し、旧市街の浄化を望んでいるのは旧人たちであり、そしてカミラがこれから会うのも、そうした新人側にいる旧人の一人だ。
裏路地を抜けたところにひっそりと佇むバーがある。入ってみると、ほとんど客はいなかった。カミラはカウンターの、指定された席に座る。
ドアベルが新たな来客を告げた。カミラの隣に、男が座るのを受け、カミラが発した。
「どうしてこんなところを?」
「なかなかいい雰囲気の店でしょう」
男はテキーラをを注文した。カミラの方に差し出す。
「いつも通っているところです。何かあれば、ここに来る。ここは最高です、ただし立地条件はあまりよろしくない」
男は帽子を取った。線の細い、金色の髪がこぼれた。柔和そうな表と、顎の細い細面、いかにも人好きしそうな笑みを浮かべる。見るからに優男だった。それゆえに、頬からこめかみに走る傷跡が痛々しく写る。
「その傷、消さないのは」
カミラはグラスに口を付けた。酒がそれほど強い質ではないが、無理に飲み込んだ。少しでも弱みを見せたくはなかった。
「旧人に対する当てつけなのか、キース」
カミラの言葉を男――キース・レグナントは微笑を浮かべて受け流す。
「何故旧人が獣と呼ばれるのか」
芝居がかった口調でキースは言う。青色に、少しだけ黄が混じって、しかしそれも気になるほどではなかった。あとは、円い。ひたすらに滑らかな表面を描いている。
「新人にとって、鳴官のないものの声は唸り声に聞こえるそうです。聴覚器官の構造は、我々と変わらないはずですが、普段から歌音に慣れている人間からすれば、ただの音の配列なんて不協和音でしかない。だから、獣」
「へえ、そう。あんたたちの記事だけかと思った、そんな表現」
苛立ちを隠さず、カミラは言う。自分の声音が少しだけ繊維質に響く。
「あんたが"イースト・レビュウ"に入ったって聞いて、驚いたよキース。昔は何だっけ、レーサーになるとか言ってなかったか」
「そんなこと言ってましたっけねえ」
キースは苦笑して、自分はコニャックの杯を傾けた。
「その傷のせいなのかい、進路を変えたのは」
「これはきっかけに過ぎませんが」
幹細胞の再生インプラントを用いれば傷の痕跡を残すことはないが、わざわざ残してあるにはよほどの理由がある。薄く刻みつけた線は、きめ細かい膚と相まって異様なほど主張してくるものだった。
「あの当時の技術じゃ、これが精一杯でした。旧人に対する再生医療がが中途半端だったので、こんな風に残ってしまって」
「その後でいくらでも消す機会はあっただろ」
「そうですね。しかしこの傷は武器になりましたよ。旧人に対する、戒めになるのですから」
キースは少しだけ遠くを見るような目をした。グラスを見つめて、傾けながら言う。
「あの事件――阿宮操とのこと、あなたはどう思いましたか」
「何、藪から棒に」
「あなたはあの兄妹の味方だったから何も感じないのでしょうけど、私は子供心にショックでした。あの家にいる子供たちは、皆周りの大人たちを見て育ち、先生たちと同じようにしようとしていたのに、あの兄妹はそうではなかった。私からすれば、新人たちの情緒溢れる社会に早く出たいという気が、あのころからあったのですが」
「情緒があるかどうか知らないけど」
入り江の家でどのような教育が施されていたのか、知る術はない。新人の持つ旋法の意味を理解させ、慣れさせるための訓練プログラムが行われていたことぐらいしか――そのプログラムは施設がなくなった今も、民間のボランティアに引き継がれている。
「けれど、どうしても操のような人間が出てきてしまう。新人たちにとけ込めない、旧人が。この傷はそんな事実を確認させるのには十分でした。あの家を出た後、どうしたら旧人が新人にとけ込めるのかと。考えて、そのための手段として"イースト・レビュウ"を選んだ……」
「その傷のせいか、つまり」
テキーラを煽った。喉がひりつくような感覚を無理矢理にでも味わった。そうでなければ目の前の男が発する――薄荷の味に耐えられそうになかった。甘ったるく、しかし刺激してくる旋法に。
「その傷の恨みを晴らそうと、あんたは調を的にかけて」
「物騒なこと言わないでくださいよ。私は恨みを抱くことなんてありません」
それが真実であることを告げる、青白い声音でキースは言った。
「ただ、彼らのような、頑なに新人との交わりを拒む旧人がいることが社会にとって有益なのかどうか。それが正義にかなうのか。我々が新人と共存するためには、原野の民やここに居座る一部の保守派の価値観は過去のものとしなければならない。それを、誰よりも旧人自身の手によって示さなければならない。そう感じただけです」
キースは完璧な旋法を操っている。話し方だけ見れば、完全な新人であった。ただし、彼の耳に装着されてある回路を除けば。
「"ピアス"をつけているのか」
カミラはめざとくそれを見つけた。旧人が旧人であることを告げる、堂々とそれが回路であることを露呈させる機器を、キースは弄びながら言う。
「私は、自分が旧人であることを隠したくはありませんから」
回路は、装飾品に模したものでもない。いかにも機械然としている。調のものと同じタイプだった。
「今はもう、昔と違います。自分が旧人であることを恥じることはないし、誇ることだって出来る。我々はもっと旧人であることを示しても良いのです。ただし、それは旧人たちが節度ある態度をとれば。獣のような振る舞いを続ける限りは、この機械も隠さなければならないでしょう。我々は永久にこの都市で肩身の狭い思いをするか、もしくは原野にでも行くしかなくなる」
熱がこもる、キースの声に朱が差してくる。それでも冷静さを臨み、淡い色合いと綺麗な球面を残したままの、静かな激昂と言えた。
「我々の振る舞いが、変わらなければならない。原野で過去にしがみつき、徒に衝突するあの兄妹のような人間の振る舞いを、今一度しっかりと正す必要がある。私はそう思います。それが、我々のためになるのですから。私や――」
キースは空のグラスを脇に押しやった。
「あなたのような人間に。本来ならばそれは、あなたの。旧人の努めです。持って生まれた習性を正すために、導いてやるべきだったのでは」
キースは紙幣を二枚カウンターに乗せた。旧市街ではまだ出回っている、旧型の貨幣。
「それとも」
キースは立ち上がり、帽子をかぶり直した。
「あなたも論理を欠いた獣でしかないということですか」
キースの声に、不快感はない。新人のそれと同じ、完璧な旋法だった。柔い球面、いくつも生まれ、包み込むような感触。罵倒ではない、本気で同情していることが分かる声だった。
「もし彼が戻ってきたら」
キースは背中合わせで発した。淡い白に、濃い緑の旋法が差した旋法だった。
「自らを省みるようであれば、私はそれで良い。私の願いを、あなたは理解してくださると信じています」
ドアベルが鳴り、キースが去ったことを告げた。見送ることなく、カミラはグラスの表面を見つめた。キースの言葉を反芻し、それでもかみ砕くことの出来ないもののすべてを抱く心地だった。