二十九
痛みがあった。どこから訴え出てくるものか分からない、漠然としたものだ。
自覚はしている。それが骨なのか、臓器なのか、膚であるのか、判断はつかず、頭の中で痛覚のみが在る。不快さだけはたっぷりすり付け、しかし原因ははっきりとしない。もどかしい痛みを、漠とした心持ちで得る。
感覚がない。それ以上に、それが在るという気がしない。痛みが痛みであることを理解しても、その根拠となるものが何もない。霞か何かの、実体のない、思考のみが切り取られ、それが必死に痛みを訴えている。どこにもそんなものはないのだとしても、関係無いという風情で。
俺は今生きているらしい――霞を眺める気分で、そんなことを思った。薄く目の前に光が差し、衣擦れや金属のふれあう音が少しだけ聞こえた。完全な闇とはゆかない、薄暗い空間であっても、何かがあるという気配だけ追った。
「目が覚めたかしら」
誰かがのぞき込んでくる。女の声だった。細面の輪郭と長い髪の色合いが確認出来た。
目を閉じる。再び開ける。今度こそはっきりと見ることが出来た。霞がかった視界が開け、女の顔を間近に確認する事が出来る。
「あんたは……」
「良かった、気がついたみたいね」
雪火野で聞いた言葉の響きと、そっくり重なる心地だった。声の主を、よく見ようと調は体を起こしかける。途端にすさまじい痛みが全身を駆けた。今度は出所のはっきりした痛みだ。肋と左肩と、背中。万力で骨をひねりあげたような感覚でもって。
「じっとしておいた方がいいよ。あなた自分じゃ分からないだろうけど、全身くまなく打ちつけて、あちこちの骨が歪んでしまっている」
調はそろそろと体を戻す。横たわるとどっと脂汗が吹き出た。
「痛む? そろそろ麻酔が切れる頃だからね。でも安静にしておけば回復するはずだよ。幸いなことに、内臓に傷はついていないから」
女がこちらを振り向いた。
「久しぶりね、阿宮の子」
かつて一度だけ顔を合わせた、それだけにも関わらず、調ははっきりと覚えていた。気だるい声音と憔悴したような中年女の、化粧っ気のない素顔が。
「ミハル、っつったっけ」
「あら、覚えていてくれたんだね。一回会ったきりだから、忘れられていたかと」
ミハルの素っ気ない表に、少しだけ喜色が差した。
「なんであんた、こんなところに」
「ここ、私の診療所だからね」
「診療所とは」
そういえば以前リツカが、西北に家があると言っていたような気がする。調は首だけ傾けて、自分の置かれた状況を分析しようとした。
最初に覚えた違和感は、やけに天井が高いということだった。それが、床に直接寝かせられているためだと気づく。床の上にマットレスを敷き、その上に体を横たえている。女も床に直接座り、今はほどけた包帯を巻き直している。
首を傾けた。最初に本棚が目に映った。分厚い本が棚を埋め尽くし、反対側の棚にも同様に本が並んでいる。州都では、懐古趣味を持つものを対象にした紙媒体書籍は存在するが滅多に人の目に触れることがないものだ。木肌をむき出しにした色のない壁と天井が迫り、本棚のせいもあって圧迫感のある狭い部屋だ。
そして、部屋の隅には見覚えのある服がかけられている。雪中迷彩の軍服と、ボディスーツ。ところどころ擦り切れ、汚れてはいるが、肩に縫いつけられた記章はあせることはない。西北の防人を表す、青鷺の紋章。
「びっくりしたよ、谷底にあなたがいたのを見たときは。でもあそこに白兵が出てきたなんて聞いてなかったけど」
ミハルは包帯を木箱の中に仕舞いこんだ。
「それより、あの軍服ってよほど特殊な素材で作られているのね。ちょっと見ただけじゃ、ふつうなのに。あそこから落ちても無事なんて」
「特殊なのはスーツの方だ」
白兵の強化服ほどではないが、衝撃吸収のためのゲルを内包した内衝撃服だった。三層に仕込まれた発泡マテリアルと液状の筋肉、軟性のプラスチックで靱性を高めている。だがそれだけではない。落下しながら、どうにか頭だけは下にならぬよう努め、途中で木の枝を掴み、ブレーキをかけつつ、地面に激突するときも体勢を変えて足から着地。そこから膝、腿、腰、肩の順に接地して最後に背中で受け身を取る。それでも衝撃を殺しきれず、背中を打ちつけて気絶してしまったのだ。
首を自分の体の方に向けた。痛みは痺れに変わっていた。細かい針が全身に突き刺さるような感覚のまま、包帯だらけの体を見る。左肩が特に厳重に固められていた。
「まあ良かった。思ったほど大したことないし。でもしばらくは動けないから、安静にしていてね」
女は木箱を隅に押しやると部屋を出た。
「どれくらい経ったんだ」
「もう三日は寝込んでいたかしらね。ひどくうなされていたみたいだけど、傷のせいだけじゃないのかしら」
「それは」
ふと口の中の苦みが蘇る。不可解な歌音を叩き込まれた感触が、無理矢理に想起させられる。喉が勝手に収斂し、体の奥から酸味を帯びたものがこみ上げてきた。
「食事はまだ無理かしらね」
調が咳込むのに、女が戻ってきた。陶器の器を木のトレーに乗せ、器からは湯気が漂っている。女はトレーを枕元に置くと、匙を取り、器の中を軽くかき混ぜた。香ばしいにおいが漂い、少しだけ腹の不快感が和らいだ。
「どう? 無理そう? ちょっとでも食べておいた方がいいと思うけど。お腹空いているんじゃない」
口の中の、苦さが消えた。嘔吐感が引くと同時に空腹感を覚えた。調は器に目を落とす。米と野菜を煮込み、肉が入った粥だった。ここが原野であることを考えれば、この肉はおそらく槽培養ではなく本物の獣肉なのだろう。
「いいのか」
「そんなに遠慮されるようなものは入っていないよ」
「そうじゃなくて。俺は敵兵で、あんたは――」
「私は軍人じゃないからね。そういうのは分からない」
ミハルは椀を差し出した。
「人が倒れていて、その人がまだ息があるとなれば放っておく訳には行かないじゃない。心配しなくても、あなたのことを密告しようとかしないから」
「そんなこと」
「信用できないって?」
ミハルが言うのに、先手を打たれた気分になる。
「信用しろって言わないけど、もし密告する気ならあなたが寝ている間にそうしたよ」
「これから先は分からないだろう」
「そう思うならば、逃げてもいいよ。でも基地の襲撃で、機甲兵たちが西北に入ってきているから。外に出て危ないのはあなたよ」
言葉に詰まっていると、ミハルが粥を匙ですくって口元につきつけた。
「まあいいから食べときなさい。その後のことはそれから考えればいい」
調はもう何も言い返す気にはなれなかった。匙を奪い取り自分で口に流し込む。培養肉よりは脂が少なく、噛みしめると結構な歯ごたえがあった。想像していたよりはずっと淡泊な味であったが、何度か噛むとそれだけ味が強くなる気がした。噛みしめるとじんわりとした甘味が染み出した。椀を取り、流し込むようにして食う。
「あまり慌てて食べると喉詰まらせるよ、いくら粥とはいえ」
ミハルは呆れたように肩をすくめた。
「それにしても、どうしてあんなところに。まさか白兵クビになったの?」
「そんなところだ。あんたこそ、なんで。あの城に詰めていたんじゃなかったのか」
「暇もらってね。今はリツカと――」
ミハルが口を開きかけたとき、外の方で物音がした。扉を叩く音、それに続いて声がする。
傷のことも忘れ、調は身構えた。
「噂をすればね」
ミハルは部屋を出て、来訪者を出迎えるべく玄関に向かう。
「ミハルさん、なんか大変なことになってるよ」
聞き覚えのある声が響く。声の主が上り込み、近づいてくる。
「通りに機甲兵が詰めていたけど、ここは平気なの?」
「心配いらないよ。それより患者がいるから静かに」
部屋の前まで来る。その瞬間、声の主と目が合う。ミハルにくっついて歩いてきた、小柄な影をみた。単純な構造の白い衣、依然みたときよりは動きやすい服装に改められている。彼女の細い骨格を覆い隠すにはやや物足りない生地の薄さ。
「……あんた」
入り江の少女が脳裏をよぎる。幻影を振り払った先にいたのは、雪火野の少女だった。
「あれ、阿宮? なんでここにいるの」
リツカは、まるで最近別れたばかりの知り合いとひょっこり会ったという風に声をかけた。
「ミハルさん、患者ってこいつのこと?」
「そうだよ。駐屯所で攻撃されたんだって」
「何であそこにいたの? もしかして白兵クビになっちゃった?」
親子そろって同じことを言うものだ。
「似たようなものだ」
「あ、そう。でもあのとき命拾って、それで今度も巻き込まれて。また命助かって? 運がいいんだか悪いんだか」
「うるさい、それよりお前の方こそどうしてこんなところに。倉木から離れていいのか」
「ミハルさんが帰るなら、私も帰るよもちろん。雪火野にいるよりは、ここにいた方がまだ安全だし。それで、阿宮は」
調の方に向き直ってリツカが言った。
「いつまでここにいるつもりなの」
「体力が戻るまではいてもらうつもりよ」
調に代わってミハルが答えた。リツカが脱いだ上着のしわを丁寧に伸ばし、ハンガーにかけてから奥に引っ込んだ。
「何かあったら呼んで頂戴。私は母屋の方にいるけど、声をかけてくれたら分かるから」
ミハルがいなくなったあと、リツカは何か悪巧みでも考えついたように口の端を持ち上げ、内緒の話でもするように顔を寄せた。
「阿宮って、ミハルさんみたいのが好みだったんだ」
「何でそういう思考に辿りつく」
調は体を横たえた。半身を起こした状態でもまだ体は痛む。
「別にいいじゃん。ミハルさん、何年か前に旦那さんに先立たれて今独り身だってよ」
自分の表が渋いものになってゆくのが分かった。この手の人間を良く知っている、いわゆる反論が無駄に終わる類の人間。こちらの意を汲むよりも心中に踏み込む方が楽であるとばかりに、遠慮なく懐に飛び込んでくる――種の違いなど問題にならぬとばかりに。
「それとも何、もう彼女はいるの」
「いるわけないだろう」
強い口調で告げた。ふと胸に去来した立像を振り払うためのものだった。自分でもどこからそんな大声が出てきたのかと驚いてしまう。
「あ、いや済まない」
「いいけど。なんか変なこと聞いちゃった?」
黙って調は首を振った。その様子を、怪訝そうにリツカは見つめ
「まあいいや。私も母屋にいるから、ともかく傷が痛んだらまずミハルさんを呼べばいいよ。あの人、腕は確かだから」
リツカは何か不可解なものでも見たという風だった。奥に引っ込み、足音が遠ざかるのを受けて、体を完全に布団に預けた。
妙な感覚だった。初めてリツカが操以外の像と重なるなどと、実体は生々しいほどに記憶に迫ってくるようだった。
「なんで」
それでも納得がゆかないのは、そのイメージだった。よりにもよって、ヨファの像を想起するなんて。あんなことがあった後で、後味の悪い別れ方をしておいて。
もう二度と会うことはないはずの姿を思うなんて。




