二十八
ハマがそう締めくくるに、後のブリーフィングは細かい指示事項を確認するだけで終わった。
会議が終わり、ヨファが引き上げようとしたときに、後ろから肩を叩かれた。
「ちょっと、いい」
エリザベスは、いつもと違う声の調子をしていた。完璧な球面が、少しだけ歪み、色合いの濃い歌音でもって訊いてくる。
「どうしたの。何だか元気ないね、ベス」
「元気ないのはお互い様じゃないかしら。ねえヨファ、何かあったの?」
そのくせこちらの意図は正確に見抜いてくる。見抜き、遠回しでありつつも直接的に触れてくる旋法を前にして、ヨファは観念して肩をすくめた。
「あんたの前じゃ、碌々隠し事も出来ないね」
「たぶん私だけじゃなくて、みんな感じていたと思うけど。あなた、随分と疲れきっていたから」
「今度から気をつけないと」
話ながらヨファは休憩所へ赴き、ベンチに腰掛けた。エリザベスが自販機からカップのコーヒーを二人分そそぎ込み、一つをヨファに寄越した。礼を述べてから、ヨファはコーヒーを口に含んだ。合成豆ではない本物の香りがした。じんわりと温い苦みが、舌先から喉へと通り過ぎ、固まった筋がほぐれるような心地になる。
「心配なのね、調が」
エリザベスはヨファの隣に腰掛けた。
「配置換えして、いきなりこれじゃあね。無事ならいいんだけど」
「そう簡単に死ぬ奴じゃないよあいつは」
一口、飲み込んでから言った。
「けどさすがにやばいかもね。今はまだ死体が見つかっていないってだけで、さすがにダメかも」
「縁起でもないこと言わないでよ」
「現状だけみるならば、絶望的だよ。あまり認めたくはないけど」
エリザベスは観察するかのようにヨファを見て、やがて口を開いた。
「彼と、何かあったの?」
歪みの度合いが強くなる。エリザベスの声が、ここまで波打っているのは珍しいことだと思った。
「やっぱり元気ない。ふつうの元気のなさじゃなくて、何というかいつものヨファじゃない感じ」
「言わなくても、私も自覚しているからさ」
「彼と何かあったの? もしかして」
「痛いところを突いてくるね」
ヨファは苦笑して言った。
「旋法に敏感すぎるのも考え物かもしれない。まあ何かって、あったにはあったんだけど」
あの一連の流れを思い出すと、ヨファは背筋がざわつくような感触におそわれる。気恥ずかしさか、あるいは単純な嫌悪であるか、そのどちらかであれば分かりやすいがこの感覚は少し違う。どこか体がむずがゆくなり、心の奥底で何かを掴まれる。それが少しだけ強くなり、感覚はそれでも長くは続かず収束してゆく。ほんの一時よぎるのみで終わる。
「調に」
ヨファはなるべく、そのことに触れないように努めた。
「何というか、まあその……喧嘩した」
「そんなのいつもじゃない」
「今回は違うよ。何というか、あいつに拒絶されたっていうのが正しい。もう二度と口も聞かない、顔も合わせない、そういう類のね」
エリザベスはヨファの声から察したようだった。互いにどう切り出せば良いのかさぐり合っているかのような沈黙が流れ、次に発したのはヨファの方だった。
「あいつ、このまま見つからなかったら」
「あまり考えたくないけどね。でも、戻ってきたからといってどうするの」
「いや、考えてないけど」
エリザベスは呆れたように嘆息した。
「調も少し良くないわね」
「どういう意味よ」
「そのままよ。調はちょっと甘えているよね。歌音が理解出来ないことを、何か特権じみたものと思っているみたいに。それだからあなたみたいに優しい人に突っかかる。この間も私、少し揉めちゃってね、彼と」
エリザベスは全く嫌みの無い声で言った。
「なんかあったの」
「大したことじゃないんだけど。ただちょっと、記事のことで。茨みたいな声で言われたよ、話しかけるなって」
その声は、ひどく残念そうに、悲しみを抱いたように、憂いを帯びた旋法は脆くて壊れやすいガラスめいた器を思わせる。
「ある程度、馴染めないこともあるかもしれないけど、旧人でも新人と同じように振る舞える人がいる。歌音に慣れるための装置もあるし、そういうものは全部ボランティアから支給されることもある。旧人だからって言い訳を振りかざすよりも、そうやってとけ込む努力をしている人たちがいるって言うのに」
「だから、どういうことよ」
「つまり……調はその辺りが分かっていないってこと」
エリザベスは端末の時刻表示を見ると何かを思い出したようだった。立ち上がり、空のカップを投げ捨てる。
「もう行かなきゃ。この後、例の歌音について対応を協議しないといけない」
「大変だね、音奏者ってのも」
「あなたたちほどじゃないわ」
エリザベスは薄く笑みをかたどった。
「大丈夫よ。きっと調は生きている。あなたと一緒に死線をくぐり抜けたんだから」
「そりゃ簡単に死ぬとは思っていないけど」
「調が戻ったら」
いたずらっぽく、エリザベスは片目をつぶって見せた。
「まずちゃんと謝らせないとね。あなたにこんな思いをさせたことを。それから彼が社会でちゃんとやっていけるようにも。あなたのためにもね」
「なんか変な誤解しているね」
「そういうことにしといてあげる」
エリザベスは楽しげな声をしていた。ふわふわとした綿毛がまとわりつき、頬をくすぐってくる。エリザベスが立ち去った後も感触が消えない。その心遣いが、いかにもエリザベスだった。誰よりも優しく、思いやる旋法。きっと誰もが彼女を好きになる。
調はそうではなかった。拒絶するために拒絶し、もはや州都そのものに対する憎しみであるかのような質量を伴う否定だった。思いやり、尊び、そうした旋法が気に食わないのならば、この州都に調のいられる場所などない。
それは調のせいなのか、それとも自分のせいなのか、分からなかった。中空をあてど無くさまようような気分だった。明確な答えがないことがもどかしく、それが故か自分の息づかいの中に群青の歌音が混じっているのに気づいた。
しばらくは消えそうにない色合いだった。