エピローグ: 偽りの賢者が遺したものと、真実の足跡
辺境の村に、心地よい水音が響いていた。
アリアは川岸に立ち、ゆっくりと回転する小さな水車を見つめていた。
それは、かつて自らを「賢者ゼノン」と名乗った男が描かせようとした、巨大で美しい円形の水車ではない。不格好で、泥臭く、あちこちに補修の跡がある小さな木組みだ。しかし、ドノバンをはじめとする村の男たちが、獣の脂を塗り、何度も木を削り直し、試行錯誤の末に自らの手で完成させた「本物」だった。
汲み上げられた水は細い水路を通り、枯れかけていた畑へと確かに命を運んでいる。
「アリア、ぼんやりしてどうしたんだい?」
背後から声がかかり、振り返ると、すっかり顔色の良くなった弟のティムが立っていた。あの『赤斑の病』は、結局のところ、村の薬草師が調合した伝統的な煎じ薬と、村人たちが互いに看病し合うことでなんとか峠を越えていた。ティムを死の淵まで追いやったあの異臭を放つ泥水は、今思い返してもただの毒でしかなかった。
「ううん、なんでもないの。ただ……少しだけ、あの奇妙な格好をした男の人のことを思い出してね」
アリアの言葉に、ティムは顔をしかめた。
「ゼノンのこと? あんな大嘘つきの詐欺師、思い出すだけ無駄だよ。村長の奥さんだって、あいつのせいで……」
「そうね。彼は嘘つきで、臆病で、責任から逃げてばかりの卑怯な人だったわ」
アリアは静かに頷き、再び水車へと視線を向けた。
「でもね、あの人が残していった『言葉』だけは、時々頭をよぎるの。三圃式農業とか、ペニシリンとか、PDCAサイクルとか……。意味は全く分からなかったけれど、彼が語る時、まるで本当に魔法の力を持っているみたいに聞こえた」
アリアは、ゼノンが初めて村に来た時の得意げな顔を思い出した。あの時、彼は確かにこの村を救う救世主に見えた。だが、彼には言葉だけで、それを形にするための「手」を持っていなかったのだ。
「どんなに立派な理想や知識があっても、泥にまみれて汗を流す覚悟がなければ、何も生み出すことはできない。……私たちは、あの愚かな男から、その一番大切な『真実』を学んだのかもしれないわ」
「なんだよそれ。あいつが聞いたら、また変な言葉を使って偉そうに威張るぜ」
「ふふっ、そうね。きっと顔を真っ赤にして怒るわね」
アリアは小さく笑い、ティムと手を繋いで村へと歩き出した。
村の広場では、今日も村人たちが協力し合い、土を耕し、屋根を修理し、貧しいながらも力強く生きている。誰も、安全な場所から見下ろして指示を出すだけの「賢者」など必要としていない。
自分たちの足で立ち、自分たちの手で未来を切り拓く。その一歩一歩の重みこそが、空虚な知識などよりも遥かに尊いものだと、彼らはもう知っていた。
冴木誠という一人の男が異世界に遺したものは、彼が望んだような富や名声でも、崇拝でもなかった。
それは「口先だけの虚飾がいかに無価値であるか」という、残酷なまでの反面教師としての教訓だけだった。
空に浮かぶ異世界の二つの月は、そんな人間の営みを、今日も静かに見下ろしている。
(エピローグ・完)




