0-05 洗礼/Nirvāṇa
クロガネにとっての性的欲求とはなんだろうか。
それは果たして、一般的な認識である肉体的欲望と同一なのだろうか。
クロガネが望むのは本当に快楽なのだろうか。
それは大きな岩塊だ。
性的欲求というものを現す岩塊を、砕いていく。
叩き、割り、粉砕し、中心を探す。『コア』を探す。
クロガネが望むものはなんなのか。
そうして砕き進めた先にあったのは、小さな宝石。
クロガネはそれを優しく包み込む。
クロガネを『クロガネ』たらしめる最小単位。
「……そっか、それが……君の見る世界なんだね」“それ”は寂しそうに微笑んだ。
記憶を失う。
それが例えば事故などによる記憶喪失だと言うなら、それは厳密には失ったと言うより、見つけられなくなったと呼ぶほうが的確だろう。
だがクロガネは違う。
意図的に、そして一切の断片も残さずにクロガネの『過去』は消失している。
クロガネの『過去』を証明することが不可能であるほどに。
そうして一人、この世界に“産み落とされた”クロガネが本質的に望んだのはなんだろうか。
今のクロガネの内に刻まれた、最初の記憶はなんだろうか。
──ごめんなさい。
──ありがとう。
そう言って涙を流す女性の姿だ。
記憶を喪失した時点であっても、クロガネの心と身体が成長している事実は喪失していない。
それ故に、その女性の姿を見てすぐにそれが自分に向けられたものであることを悟った。
そして、その言葉と表情に、クロガネに対する深い愛情にも似た優しい感情が乗せられていることも。
深層意識に刻み込まれた“慈愛の記憶”──それがクロガネの最小単位。
「……愛情、かぁ」“それ”はため息混じりにクロガネから身体を離した。「なるほどねぇ。他者への愛情は、必然的に自分以外がいなければ成り立たない。故に他者を求める、という意味では確かに大枠で見れば性欲ではあるのかもね」
そこでようやく、クロガネは咳き込みながらも声を出すことが出来ると気が付いた。
同時に、クロガネの周囲を囲んでいた重圧のようなものが霧散した感覚もあった。目の前の“それ”が、クロガネに対して何らかの方法で自由を奪っていたのだとようやく理解する。
「そか。どうりで性欲発散させようとしても一向に上手くいかないわけだ。ちぇ。君みたいなレアケース、上手く導けないとは思っていたけどこうも大失敗だと、なんかこう、むかつく」
「……よく、分かんないですけど……まず、あなたは誰なんですか」
「ん? 私? 私は、まぁ……なんだろうな」
“それ”は人差し指を唇に当てて暫しの思考の末、こう答えた。
「まぁいっか。私はね、ヤタガラスの本体」
「本体……?」
「そ。言い方を変えるなら、ヤタガラスは私の分体なんだよね」
少し、というか結構驚いて、クロガネは“それ”をまじまじと見た。
確かにヤタガラスに似ているとは思っていたものの、その認識は全くの逆で、ヤタガラスが“それ”に似ていると形容するのが正しいということだろう。
「私自身に固有名詞はないんだけど、うーん、まぁとりあえずあの子が八咫烏と言うなら、それに関わりのあるアマテラスとでも呼んで」
「アマテラス……」クロガネはその名前を何度か反芻した。「似合わないですね……」
「……クロガネくん。そういうこと言わない方がモテるよ。言ってて自覚はあるんだけど」
「あっ、す……すいません……」
「分かる。分かるよ。クロガネくんが何を考えているのか。お前はどちらかと言うとエロースの方が的確だろって顔に書いてある」
図星だった。
申し訳なさそうに俯いたクロガネに“それ”──もといアマテラスは近付いて、「まぁいいや。顔上げて」と言った。
言われた通りに顔を上げると、丁度クロガネと同じ目線の高さにアマテラスはいた。
ドキ、とクロガネの心臓が鳴った。
白いまつ毛と真っ赤な瞳のコントラストに思わず視線を奪われたのと、アマテラスの手がクロガネに触れたのは同時だった。
「──ひゃ」クロガネの口から女のような声が漏れる。思わず自分で口を塞いで、まん丸の目でアマテラスを見た。「…………、は、え? なんで……?」
アマテラスの指がクロガネの胸部、その中でも二点しかない突起をカリッと弾いたのだ。
びくんとクロガネの身体が一度だけ跳ねる。
その様子を見て、アマテラスはにやりと笑った
「仕返し」
「……すいません」
肩を落とすクロガネを見て満足したのだろうか、アマテラスはふぅ、と息を吐いてから静かに口を開いた。
「まぁとにかく、これで魔力を感知することは出来た。そうでしょ?」
「……はい」
クロガネは少しだけ目を閉じる。そうすると、クロガネの体の周りを飛び交う何かをしっかり感じ取れた。
この感覚は少し前からクロガネが感じ取れていたものと同一のものだ。
その時点からクロガネは魔力を魔力と知らないまま何となく認識はしていたのだろう。
だが今ならしっかり分かる。それこそが魔力であるということを。
「クロガネくんは、どういうふうに感じてる?」
「薄い、膜……のような感じです。身体の周りを包み込んでくれているような」
「■■■みたいなものかな」
「……なんて?」クロガネには聞き取れない言語だった。だがそれは意図的で、そして失礼なことを言われている気がした。
「クロガネくんらしくて可愛い表現だねって言っただけ」
「む……」
はぐらかされた。
「それじゃあ、そろそろ起きる時間だね」
「……はい」
「ところで、クロガネくんはどこからどこまでが夢だったか分かる?」
「…………へ?」
“とこから”、“どこまで”?
そう言われた時初めて、クロガネは己の記憶に違和感を感じた。
だが、その違和感の原因までは分からず、クロガネは首を捻った。
「ふふ。やっぱり初々しい子は可愛いなぁ。大丈夫だよ、起きれば全部答え合わせができるから」
途端、クロガネとアマテラスの居た空間が光に包まれる。
眩しい。と、思わず目を細める。
狭まった視界の中で、アマテラスは笑顔で手を振っていた。口元が動いているのは分かる。だが今回は言語の問題ではなく、激しい耳鳴りで聞き取ることが出来なかった。
だが何となく、「またね」と言われているような気がした。
だから。
「あのっ──」クロガネは出来うる限りの声で、言った。「その、ありがとう、ございました」
結構照れくさかったが、最後にアマテラスが見せた満面の笑みに送られて、クロガネの意識は現実へと浮上した。
──。
────。
「あ、起きた」
目の前にヤタガラスがいた。というか目の前にヤタガラスの胸があり、膝枕されているのだと理解した。
「おはよう、クロガネくん」柔らかく笑うヤタガラスを見て、やけに安心する。
「……おはよう、ございます」
目が覚めた。ということはつまり、逆説的にクロガネは寝ていたということだ。
そして、夢を見ていた時の記憶はある。
アマテラスのことも、……後から悶々としそうなことも。
となれば、引っ掛かるのはアマテラスの言っていたあの言葉。
すなわち、『どこからどこまでが夢だったのか』だ。
「今っては……」
「あ、やっぱり遊ばれたね?」ヤタガラスは意地悪そうに笑った。
「え? それって」
「ふふ。今はいつだと思う? あ、言い方があれか。クロガネくんが目を覚ましてから何日経った?」
クロガネの頭の中に、まさか、が生まれる。
アマテラスの干渉は、クロガネが思っているより遥かに――。
「今日で、九日目……ぐらい」
「わ、それは大変だったね」ヤタガラスはどこか心配するような表情で答え合わせを行った。「クロガネくんは昨日、目が覚めたばっかりだよ」
「……………………うそぉ」
「でも、間違いなく為にはなったと思うよ」
それは確かに間違いなかった。
夢だったとはいえ、現実と然程変わらない空間で過ごした感覚はクロガネの中に確かに残っている。
だがこれは……。
「完全に、あれだね……洗礼を受けたね」
「ほんとだね」と笑ったヤタガラスに釣られて、クロガネも大声で笑った。