0-04 洗礼-②
目が覚めると、ヤタガラスが酷い顔でクロガネを見下ろしていた。
辺りは明るく、少なくとも今が夜でないことだけは確かだ。
「……ヤタ、ガラス、さん……」
「バカ!」ヤタガラスは初めて怒鳴った。「無理し過ぎよ! 一歩間違えたら──」
「……」クロガネは目を伏せて、静かに謝った。「……ごめんなさい」
その時、強烈な臭いが鼻について、クロガネはハッと昨晩のことを思い出した。
「あ、あっ、ちょ」
「もう、クロガネ、安静に……」
「い、いや、だって、俺、めちゃめちゃ臭い、し……っ」
思い出す度にクロガネの顔は青ざめていく。
記憶は随分とおぼろげだが、少なくとも性欲が暴発したことだけは間違いない。
クロガネは恐る恐る下半身を見る。
やばい。としか言えなかった。
尋常ではない状態だ。“あれ”だけじゃない。普通に失禁もしているのは確実だ。
青ざめた表情のクロガネだったが、対してヤタガラスに嫌そうな表情は微塵もなかった。
「……クロガネくん」
「……」
「大丈夫だよ、こういうのには慣れてるから」
「いやっ、そういう問題じゃ……」
ヤタガラスはクロガネを抱き起こすと、真正面から瞳を覗き込んだ。
当然クロガネもヤタガラスを真正面から見ることになるのだが、その時のヤタガラスの顔は驚くほどに真っ赤で、思わずクロガネの思考が止まった。
そして、伝染したみたいにクロガネも顔が火照る。
「……………………へ……?」
「今楽にしてあげるから……」
惜しむらくは、その後の記憶が全く無いということだろうか。
どうしてこう何度も記憶を失ってしまうのかと思わなくもない。
そして、再度目が覚めた時にはベッドの上だった。クロガネの身体は全身くまなく綺麗になっており、着替えも済んでいて──。
あと、やけに性欲が無くなってすっきりしていた。
「……? …………??」
開け放たれた窓から差し込むのは夕陽だ。間もなく夜がくる。
クロガネがベッドから起き上がろうとするのと、扉を開けてヤタガラスが戻ったのはほとんど同時だった。
「あ……」とヤタガラスは零すと、そのまま早歩きでクロガネに迫る。そして、クロガネの両肩をガッ、と掴んだ。「……クロガネくん」
「は、はい……なんでしょうか」
「その……」ヤタガラスの顔は夕陽で分かりづらかったが、真っ赤だった。「今朝のこと、全然覚えてないよね!?」
「え、あ、はい……」ヤタガラスの勢いに押されるがまま答えたものの、少し考えて「……はい?」とクロガネは首を傾げた。「えっ? なに!? 何したんです!?」
ヤタガラスはピッと手でクロガネを制した。
「覚えてないならそれでいいの!! おけ!?」
「いや……」
「大丈夫ですヤタガラスさんと言いなさい、クロガネくん」
「う、なんか、怖いです、よ……?」無言で笑顔なヤタガラスの圧に耐えきれなかった。「あ、えっと、はい……大丈夫です……ヤタガラスさん……」
釈然とはしなかったが、おおよそどんな出来事があったのかはヤタガラスの言動から推察出来てしまうのが何とも言えなかった。
クロガネをムッと睨んだ──と思われるが、正直怒りよりは可愛いが勝っていた──あと、ヤタガラスはギッコギッコと軋む音でも出すのが似合う挙動でテーブルに向かった。
クロガネに背を向けるヤタガラスの顔は真っ赤なのだろう。そう考えるクロガネの顔も真っ赤に火照って、中々治まらなかった。
「なんで?」
「……何がですか?」
食事を終え、魔力の感知を行おうとしたクロガネは途端にヤタガラスに首根っこを捕まれ、ベッドに放り投げられた。
ここまではなんの問題もない。あれだけやらかした翌日に同じことをしようとするのを止めるのは何らおかしいことではないのだ。
だが、ヤタガラスが「じゃあ失礼して……」と同じベッドに潜り込んで来た時、思わずクロガネは零した。……なんで? と。
「いや、イヤイヤイヤ……え?」
「…………クロガネくん、もしかしてえっちなこと考えてませんか」
「え!?」声が裏返った。「いや? そんなことはないですね!」最初から最後まで声が裏返っていた。
「……全然ないの?」
「“ないの”!? なんで!?」
今朝のことがあってから、クロガネはヤタガラスを直視出来ないでいた。
記憶は無いとはいえ、“何か”があったということだけは確信があるだけに、クロガネの純粋な気持ちは揺さぶられ続けているのだ。
秘匿されているほどに妄想は大きく膨れ上がる。
ましてや昨晩、性欲の暴発とはいえ予期せぬ形でそれを知ってしまったクロガネにとっては、いささかヤタガラスの存在は危険すぎると言わざる得ない。
唯一の自分以外の存在であると同時に、ヤタガラスの容姿はクロガネの知る美女・美少女の基準を遥かに上回っている。
そんな“女性”が同じ布団の中に居る。
クロガネの心臓は今にも飛び跳ねて、どこかに飛んで行ってしまいそうですらあった。
ヤタガラスはぐい、とクロガネの襟元を引っ張り、無理矢理に頭を枕に押し付けた。
対してクロガネはといえば、視線は真上に固定し、横を振り向きはしない。
なぜならすぐ横にヤタガラスの顔があることは間違いないからだ。
「……こっちは向いてくれないんだ」
ヤタガラスは少し寂しそうに言った。
「…………いや……その……流石に……」
と返す言葉に、ヤタガラスはどんな表情をしているのか気にならない訳ではない。
だが、視線を向けるには心臓があまりにうるさすぎて、耐えられる予感がしない。
一体どういうつもりなのか。クロガネはふとそんなことを考えて、気を紛らわそうとする。
覚えてないよねと突き放してみたり、かといえばこうして引き寄せてみたり、その行動の意図がどうにもクロガネの理解を超えている。
「……私の考えてること、知りたい?」まるで、クロガネの思考を読んだかのようにヤタガラスは言った。
「……ま、まぁ……その、はい」
「じゃあ、こっち向いて」
唇がやけに乾燥した。
何がどうなったらこういう状況になるのか。
意を決して、ゆっくりとクロガネは横を向く。
そのとき。
「あだ」クロガネの額にぺしっと、衝撃。「……え?」
「そろそろ気が付いた方がいいよって、伝えたいんだよ。クロガネくん」
世界 / が / 砕ける / 音 / 。
そこにヤタガラスはいなかった。
いや、そもそもクロガネはベッドに横になっていたのだろうか。
真っ暗な空間にクロガネは立っている。
辺りを見渡せど、闇、闇、闇。
そんな空間に、唯一の光源が舞い降りる。
ヤタガラスのような容姿。真っ白な見た目と、明確に違うのは頭上に光る三重の光輪。
“それ”は音もなくクロガネの前に降り立つと、クロガネの両頬に手を添えて、ぐにゃりと笑った。
「どうだった? いい夢は見れた?」
「……」
「クロガネくんが望んでいそうな夢に仕立てたつもりだけど」
声が出ない。出せないのか、出ないのか、分からない。だがとにかく、クロガネは声を出すことが出来なかった。
見た目は頭上の光輪を除けばほとんどヤタガラスと同じだ。
だが確実に言い切れるのは、クロガネの知っているヤタガラスではないということ。
「ほんとは性行為の快楽も教えてあげたかったんだけど、そこまでは君の深層意識が許してくれなかったの。残念だなぁ」
「……っ、……、……」
「あ、そだ、クロガネくんの魂に直接快楽を刻み込んであげようか? すっごく気持ちいいよ?」
「……っ!? っ!?」クロガネが大袈裟に顔を左右に振った。
「え、いらない? そっかぁ……まぁ、深層意識に弾かれてるし、そういうことなんだろねぇ」
“それ”は少し物足りなさそうに肩を落とした。なおもクロガネの頬からは両手を外すことはなく、じぃ、とクロガネを覗き込む。
「でも、気持ちよかったでしょ? 『性欲』」
“それ”の手がようやくクロガネの頬から離れたのも束の間、その指先は首筋、鎖骨を辿って、クロガネの胸部を弄った。
「魔力を感知しようとする上で、どうしても浮かび上がる欲求はね。その人が心から望んでいるものなの」
胸部を通り過ぎ、脇腹をくすぐり、背中に回る。
当然、“それ”はクロガネに抱き着くようなかたちになり、豊満な胸が押し当てられる。
「クロガネくんはどうしたい? いいよ、好きにして」
“それ”の艶かしい目がクロガネに向けられた。
刹那、クロガネの根源的な感情がぶわりと湧き上がった。
クロガネを形作る物質を細分化し、取捨選択し続けた先に残る、最後のひとつのピース──。
クロガネの最小単位。