0-02 選択
「それじゃあ、チュートリアル。始めよっかぁ」
泣き止み、ようやく落ち着きを取り戻したクロガネに対して、ヤタガラスが発したのはそんな一言だった。
「……チュートリアル?」
「そ。あれ? 分かるよね? クロガネくんの世界で分かりやすく言えばこの単語で合ってると思うんだけど」
間違ってはいなかった。
実際、クロガネはその単語を聞いてその意味に至るまでを理解することができている。
寧ろクロガネの困惑は、ヤタガラスがその単語を発したことに対してだった。
「ま! 『そういうこと』だと思って納得してほしいな!」
「え、あ、はい」
釈然としないが、クロガネに不利益があるわけでもないため、深くは考えないこととした。
「さて、まぁ……順を追って話すにしても、まずは結論から言わせてもらうと、クロガネくんにはこれからこの世界で生きてもらいたいんだよね」
「……この世界で」
「そ。名前は世界軸百十七番、アルトレイリア世界軸。クロガネくんの知っている原軸、もとい地球から見れば大きく外に逸れた軸だね」
いきなり聞いたこともない単語の応酬で、クロガネの顔は僅かに引き攣った。
だが、それは承知の上だったのだろう。
ヤタガラスは右手をくるりと回すと、虚空に光球が現れる。それを指で弾くと、ゆっくりとクロガネに迫った。
ヤタガラスは、クロガネに視線を送る。
聞き返す必要もなく、ヤタガラスの言わんとすることは理解できた。
光球に向かって手を伸ばすと、吸い込まれるように光球からクロガネに触れてきた。
──刹那。直前に話した単語の意味がクロガネの脳内に流れ込む。
「うわ」思わずクロガネは声を上げた。
世界軸、喩えるならそれは木。
原軸、すなわち基準である地球を幹とした時、それぞれの世界は幹から分かれた小枝だ。
ヤタガラスの言う『外に逸れた軸』はすなわち、分かれた枝が幹の向かう方向とは異なった向きに進んだ軸。
地球と離れれば離れるほど、世界は地球とは全く別の世界へと変わっていく。
例えば魔法の存在がその際たるものだ。
「“逸れた”軸と、魔法の存在……」
「そ。原軸から離れるほど、地球で言うファンタジーに寄っていく。そこで実はクロガネくんの、まぁ、俗にいう記憶喪失というのが実は都合がいいんだ」
クロガネは少しムッとした。都合がいいとはいえ、今でも過去の記憶がないこの感覚には違和感を……いや、違和感しか感じていないのだから。
「ごめんね。そのせいで怖い思いをさせたことに関しては申し訳なく思っているんだよ」
そう言いながら放たれた光球に触れる。
魔法というものは、自分自身を知覚し、そして世界と自分が一体であることを認識せねば使うことができないという。
そんな世界に、地球で過ごしたという明確な過去を持って行けば当然、その世界は『地球とは別の世界』であり、『世界と自分が一体である感覚』とは最もかけ離れた意識でしかない。
その点、今のクロガネは地球の知識はあれど自分の過去だけはきれいさっぱり忘却している。
地球とは別の世界である認識はあれど、地球で過ごしたという実感がなければ魔法への適応も時間はかからない……はず、だそうだ。
要はシュレーディンガーの猫。観測するまで物事は確定しない。
地球で生まれたかもしれないクロガネと、地球の知識だけ持った地球では生まれていないクロガネ、という不確定要素の混在は、クロガネが思っているよりも遥かに生き易さに直結するようだった。
「でも、今ので分かったと思うけど、記憶がないというアドバンテージは間違いなく君にとって有益なんだよね」
「なる、ほど」
「とは言えども。君が望むのであれば、記憶を取り戻すことだってできる」
「え」とクロガネは思わず目をまん丸と見開いた。
正直に言えば、記憶を取り戻せるならそれに越したことはないとクロガネは思っている。
このもやもやとしたものを心の内に秘めてこの先を生きることを考えると、心晴れやかであるとは言い難いはずだからだ。
「なら……」
「やっぱり、記憶を取り戻したい?」ヤタガラスは少し困ったように笑った。「だよね、クロガネくんならそう言うと思った」
「……?」
「だからこそこれを準備したんだろうし、これを読んでからでも遅くはないと思うよ」
そう言ってヤタガラスが差し出したのは、しわがれた紙だった。
「これは?」
「手紙、というか、言伝というか」なんとも煮え切らない返しだった。「まぁ、読めばわかるよ。クロガネくんならね」
クロガネは訝しげにその紙を開く。
そうして確かに、一目見てヤタガラスの言っていたことは理解できた。
「俺の文字……」
はっきり言って、それを綺麗だとは到底呼べない乱雑な文字の羅列。ヤタガラスにはこれを読解することは出来なかったはずだ。だからこそ煮え切らない返しをしたことも納得だった。
そしてそこに書いてあったのは、クロガネの心を大きく揺さぶるにはあまりに必要十分だった。
“記憶を無くすのは自分の意志です”
“みんな死んじゃいました”
“お母さんと妹も、学校の友達も、みんな死んじゃいました”
“地震とか、津波とか、とにかくいろいろあって”
“みんな死んじゃったのに、俺だけ無様に生き延びちゃいました”
メモ用紙にいくつもあった水滴の跡が、涙の跡だと理解した。
“でも俺だけで生きるのは嫌で、死のうと思いました”
“そしたら、何故かこの世界に来てしまって”
“そこでヤタガラスと会いました”
“ヤタガラスには本当にお世話になりました”
“こんな手紙を残せるぐらいに立ち直れたのは全部、ヤタガラスのおかげです”
“おかげで、この世界で第二の人生を歩んでいきたいとまで思っていました”
“これは本当です、嘘じゃない”
“でも、地球での記憶を持った自分では、この世界を一人で生きていくことは出来ないのだと、理解してしまいました”
“魔法が使えないことによる不利益は、記憶のない君にはきっと想像もできないほどに大きなものです”
“ヤタガラスにはもう迷惑をかけたくなかったんです”
“そして、ヤタガラスに対して、俺はもう一人で生きていけるよって、胸を張って言い切ってあげたかったんです”
“でもそれは、記憶を残した俺にはどうしてもできないことで……”
“だから、新しい俺にお願いです”
“過去の記憶や、辛い思い出は俺が持っていきます”
“生きてください。思うがままに”
“そしてヤタガラスに、恩返しをお願いします”
“これは俺にしか頼めないことです”
「……」
手紙を読み終えてからしばらく、クロガネは黙り込んだ。
あまりにも自己中心的だと思った。いくらこれが自分だとはいえ、記憶を無くして後はよろしく──これを身勝手と言わずしてなんと呼ぶべきか。
正直言って、このお願いを聞く義理はない。
だが。
「ヤタガラスさん」
「ん?」
「記憶を無くす前の俺が……ヤタガラスに救われた、って」
「……そう。私はちゃんと、救えていたんだね」
ヤタガラスは静かに、「……よかった」と一瞬だけ、とても柔らかく笑った。
それが過去の「クロガネ」に向けられたものであることは明らかだ。
ヤタガラスも、過去の「クロガネ」も、誰も嘘はついていないということは間違いないのだろう。
ずるい。
クロガネは素直にそう思った。
「これじゃあお願い、聞くしかないじゃん」
「え?」
「前言撤回です。記憶は取り戻さない方向で」
「……そっか。後悔はしない?」
「うん。……過去の俺が言ってましたよ。ヤタガラスさんには胸を張って言いたかったって。『俺はもう1人で生きていけるよ』……って」
「──」
ヤタガラスの眉が大きく動いた。
「これは俺にしか出来ないことだから」
そう言って笑顔を向けたクロガネを見て、ヤタガラスも優しく笑った。「……ありがとう、クロガネくん」